宝の山
一日中の雨にうんざりして、午後の少しの晴れ間に窓を開けて風を通した。
黴が生えそうだった。机の前から一歩として動いていないのだ。コップは乾いて久しい。
蒸した風でも無いよりはいいなと、椅子にもたれながら思った。時々、近所の高等学校から部活動に励む幼さの抜けきれない声が、一緒になって入ってくるのも、いい。ヘッドホンからは、お気に入りの曲も流れてくる。
今日もなにもしていないのに、そうしていると、いつの間にか瞼を下ろすこと以外の凡てがどうでもよくなった。
耳に残ったのは、中学生が押す車輪の音と、郵便配達のバイクの排気音だ。
誓って言おう。夢は見ていない。
どうして私は、追いかけているのだろう。
あなたは罰当たりにも、墓石に腰かけて待っている。そして少し、ふてくされた表情をしている。
「昔はもっと。そんなじゃなかったよ」
あなたが、追いついた私にそう言った。私は息を切らして、腰に手を当てて、背中を向けた。
不自然が自然になった類いの深い杉林が、見渡すことのできる全てを覆っている。木立を巡る鳥のさえずりは稀で、波音のような山のざわめきがほとんどだった。
「私は昔から、こんなだったよ」
あなたが首を横に振ったのは、わかっている。
「ねえ、あれはなにかな」
私が指さした先では、おむつを履いた赤ん坊が、杉の皮を毟っていた。靴も上着も、ズボンも無いらしい。とても自然なことに思えた。
「なにって、杉の皮を毟ってる赤ん坊さ」
「なあんだ、やっぱりそうか」
あなたは隣まで来て、私の顔を覗いた。
「そんなことまで忘れちゃったの?」
あなたはからかうように訊ねた。私は強く、口をつぐんだ。
しばらくすると、赤ん坊は樹の向こう側に行ってしまった。足が痛くはないだろうか、風邪は引かないだろうか、と後になって案じた。
「どおれ」
悪戯っぽい声と共に、不意に、背に触れるものを感じた。あなたが、掌を押し当てているらしい。小枝のような小指から、次に中指、薬指、人差し指、そして親指と、熱が根を張るように広がる。左手だ。突き飛ばすつもりはないようで、私は直立不動でいる。
「ふふん」
得意げに鼻を鳴らすのが聞こえた。振り返ると、あなたはまだ腕を伸ばし、右掌を大きく広げていた。
「どう?」
「間違った」
私は正直に答えた。あなたは首をひねる。
「そうでもないんじゃないかな」
腕を下ろして、不憫そうに微笑んだ。
林道を登っている。
舗装された道は無く、地図の上の等高線をなぞるように、延々続いている杉の葉と朽ち木の路だ。そこで肩を並べて歩いている。方角は切り替わりすぎて、もうよくわからない。
打たれて転がった枝がときどき靴にまとわりつくと、あなたは嬌声をあげた。「さっきのは大きかったね」と、いかにも愉快そうに笑うのだ。
私には少し、鬱陶しかった。
「ねえ、次はもっと大きいかもしれないね」
「――――うん」
見晴らしのいいところに出た。周囲も山が続いていることと、ここが山頂じゃないことと、天気が頗るいいことだけがわかった。
頭上ではトンビがくるくる回っている。時々響く声が、滑稽だった。ぴーひゅるる、ぴゅーるるる。
「へたっぴだ」
あなたは切り株に腰かけている。そしていやらしい笑みを浮かべながら、見上げるのだ。鼻の穴を覗かれているような気がして、私は口元に手を遣った。
「やってみたらいいよ」
あなたは頷いて、両瞳を閉じた。
少しすぼめた口先から、はじめにか弱い息が漏れる。それは少しの間も置かずに、高く鋭い音に変わる。笛の音とも、トンビの声ともとれないそれは、確かに下手な響きだった。
それはしばらく続いた。はじめ、あんまり長いから、何か曲を演奏しているつもりなのかと思った。でもあなたが知っている曲は私も知っているから、それは無いのだろう。聞いたことのない旋律だ。それは無茶苦茶な、リズムだ。
トンビがいなくなってから、それは止んだ。いやに満足げだね。
「下手くそだ」
「下手だよ。でも、あなたの音だ」
下手だって良いんだよ。
少し日暮れてきた山頂には、様々なものが捨てられていた。トンビが運んできたとは思えない代物も、山ほどある。ゴミの山だ。もう価値がなくなってしまったものの山だ。
砕けたアンモナイトの化石。
ひしゃげた山登り用のピッケル。
破れた青色のツナギ。
先の割れた万年筆。
脚の折れたグランドピアノ。
萎びたスケッチブック。
黒く腐った木刀。
とか、とか。
「たからものの山だ」
あなたは、目を細めている。それで、愛おしそうに、一つ一つに触れていく。
アンモナイトを元の形に並べた。
ピッケルを可能な限りまっすぐにした。
ツナギを正しく折りたたんだ。
万年筆の先は入れ替えて、しっかり握った。
グランドピアノを持ち上げて、折れた脚の下に適度な大きさの石を敷いた。
スケッチブックを乾かそうと両手で振った。
木刀を正眼に構えて、幾度か振った。
それを終えたころには、あなたはほこりに塗れていた。
胸を張って、そこに立っていた。
私は踏んでしまったウルトラマンの指人形から、思わず足を退けた。指の入るところには、土が詰まっている。これはそういう充実では、駄目だろうか。
すると、全てもそう思えてくる。たちまち、旧に戻したくなる。
「どうしてそうまで、するのかな」
あなたは拳を握る。けれど、しっかりとこちらを見ることはしない。知っている、見られないのだろ。
「それが、自然だと見せられてきたからだ」
「ばかみたいだ」
憎々しげな言葉でも、あなたから漏れるのは惻隠の色をした吐息ばかりだ。
「他では平気なくせに、こういうときのあなたは、どうしてそんなに往生際が良いんだろうね」
あなたは、肩を落としている。でもまだ何も、諦めていないようだね。だってそうだ、私は、一歩も動けずにいる。
そうしているうちに、もう空は朱に染まっている。アブラゼミの声が小さくなっている。これ以上の長居は無用だった。
「変わらなくちゃいけないんだ」
アンモナイトの破片を掴んだ。助走をつけて、向こうの山まで投げた。小学生の頃に磨いたことを、身体が覚えていた。だから信じられないほど痛かった。
無理やり旧に戻されたピッケルを反対方向に曲げた。ひしゃげていた部分がぱっと錆を散らして、節くれと穴を作った。力任せにひねると、もう取り返しのつかない様子になった。手に刷り込まれた匂う焦げ茶色は、一生手から離れないものに思われた。
ツナギは、繊維の弱い所を狙って引き裂いた。青い布きれは風にさらわれて、夕景でコウモリのように舞い踊った。細かな埃が散って、鼻に入って噎せた。
石を抱えて、グランドピアノの脚を打つ、打つ、打つ。脚が短くなった。病人のように傾いたピアノの鍵を踏みつけて、線に手を掛けた。狭い線と線の間に指をねじ込むと、どこかが切れて血が滴った。涙が出てきた。
乾き始めていたスケッチブックに、泣きながら掌を押し付けた。おまけに涙でもう一度、くたくたにさせてやった。紙を引きちぎって、ばら撒いた。そこに描かれているどこかで見たことのある気のするキャラクターや風景は、もうどうでもいいものだ。
木刀は踏みつけて粉々にした。手垢のついた柄から白アリが出てきて、それが無性に腹立たしかった。
私はあなたを睨む。あなたは怯えることなく、毅然として、滂沱するものを止めようとせずに、私を睨み返した。
「渡してくれ」
「だめ」
あなたはきっぱりと言った。
「もう持っていても仕方のないものなんだ」
擦れた掌が痛かった。指先の傷口が鼓動を素直に反響していた。足にはまだ、破壊の余韻が残っていた。だから小鼻がじんとして、ずっと情けない顔をしていなくちゃならない。
「これだけは、持っていようよ」
「いらないものだ」
「そんなことないんだよ、ほんとは大事なものなんだ」
「いらないんだよ」
「大事なものは、必要なんだ」
「そうとは限らないだろ」
「でもまだ―――」
あなたは、もう言葉を紡がない。なぜなら、あなたが言おうとしていることは全部、私にもわかるから。
「誰かが―――かな」
私は少し言葉を濁した。いや、口が回らなかったよ。もしかしたらあなたもそうだったのかな。
「換えたばかりなんだ」
あなたは顔をくしゃくしゃにしながら、片手を私の差し出した手に柔らかく添えて、空いた手からそれを手渡した。
しばらく握られていたそれは、温かくなっている。
「ねえ、それは、いつでも換えられるんだ」
あなたは続ける。
「駄目になっても、ほんとは全部大丈夫だったかもしれないんだ。けど、抱えきれないなら、旧のようにしておくのも大事なのかもね」
けれどね。
「全部はさびしいよ」
晴れた瞼で笑うなよ。
開けっ放しの引き出しにぶつかりながら、居間のテレビの囁きを聞いた。首が痛い。
顎を水滴がなぞるので、急いで口元を拭った。でもそこに源流は無くて、最も被害の大きかったのは頬だった。湧き出していたのは少し上だ。
西の空が、見たことのない色を残して今、全てを夜陰に浸しはじめている。
ヒグラシのしゃくりあげるような鳴き声が、胸に痛い。
心臓のけたたましい拍動は、緩まない。
思い出せない名前も出来事も、閉じかけた出窓の網戸で絡まって、死んだコバエと一緒にまた有耶無耶になった。
音を立てて開いても、別なところで同じ音がして、鬱陶しく混ざった。
ただ暮れなずむ晩夏の夕景が絶叫している。
どこにもない。どこにもいない。知らない。知るわけない。
これは僕の記憶でない。
じゃあ一体これは?じゃあこの吐き気は?
皆そうだと思うのですけれど、捨ててきたものとかあるじゃないですか。欲張りな人間なので、持った夢はずっとどこかで引きずっていて、何かチャンスがあったら頑張りたいなって思うんです。それが素敵なはずなんですけど、うまくいかないんですよね。むつかしいんだ。なぜなら器用ではないから。不器用なのに欲張りだってのは、致命的です。でも命を落としかねないくらい強く残って離れがたいのが、夢だったんだと思います。私はあなたに、ただ、少しだけ欲張りながら、でもひとつなにか誰かが「――」かなと思って、許したくて書きました。抽象的で面白くないと言われても仕方ないかもしれません。でも、そのうえで、もし読んでくださった方がいたならお礼を言いたいと思います。本当にありがとうございました。
また、もしよければ、「やなぎなぎ」さんというアーティストの「深遠」という曲を聴いてみてください。この短い短い小説が、あなたに何か残すものがあったとしたなら、こちらの曲はずっとあなたに寄り添ってくれるはずです。