ジウにて 9
飛んできた軍鳩の書簡を読んだプロツェット中尉はすぐさま自隊に召集をかけた。
書簡の内容は端的だった。
「ラーヴァリエに停戦を交渉す。各々撤退の支度にかかるべし」
中尉はすぐに下知した。
「とのことだ。すぐに逃げるぞ」
兵士たちはざわついた。
「逃げるって……」
「ここまで粘っといて」
「撤退の支度であって、まだ撤退命令が出されたわけではないのでは?」
口々に湧き起こる兵士たちの疑問の声に対し中佐は書簡を持ち指を刺した。
「いいや、撤退開始だ。事態は一刻を争うのだ。見よ、陛下の印が入っていない。アロチェット大将の印でさえもだ。あるのはハイムマン少佐の印のみ。つまりこの決定は恐らくハイムマン少佐の独断だ」
兵士たちは顔を見合わせた。
「どういう意味です?」
「上は承諾していない?」
「な、ならば勝手な撤退は余計不味いのでは?」
中尉は頭を振る。
貴族出の若いこの中尉は勘が鋭く洞察力に優れていた。
「恐らく、恐らくだが大将が命令を下せない事が起きた。きっと数日前のあの地震だ。あれで後方に大きな損害が出た。周囲に隠し立てが出来ないほどの大きな損害がな。そんな状況で本国に指示を仰いでいれば手遅れになる。しかし無断撤退は軍令違反だ。だからこれは少佐の苦肉の策だろう」
「手遅れ……とは?」
「好機と見た敵方が包囲殲滅に転じるということだ!」
中尉は机に紙を叩きつけた。
「恐れながら中尉殿、撤退はしなくてもいいじゃねぇですか。停戦交渉中に攻めてきたらそれこそ国際法違反だ」
古参兵の進言に中尉は頷いた。
「ああ、普通なら世論の非難は免れないであろうな」
「だったら……」
「普通ならな。だが島嶼の者共の性質を考えよ」
「あっ」
望遠鏡の兵士が気づいた。
他の兵士たちも一様に気づいた。
「そういうことだ。ラーヴァリエは諸国に書をしたためるだけでいい。我らが停戦交渉を持ちかけてきたとな。奴らは蜂起するぞ。主権を取り戻すのだと、救援を求めてきた分際で、同盟国の我らに向かってな!」
中尉の手に力がこもり書簡が握りこぶしで丸められる。
その手は屈辱と恐怖と無念に震えていた。
「ハイムマン……あの女狐め、我らを時間稼ぎの囮にする腹積もりだ。こんな曖昧な書を送ってきたのは我らに敵の目を惹きつけて貰わないと困るからだ。いくら待てども撤退開始の書簡は届くまいよ」
兵士たちも次第に事の深刻さに気付いてきた。
当然行軍速度よりも書の伝達速度の方が早い。
今この瞬間に撤退を開始しても書に先回りをされ、蜂起した島嶼連合軍に退路を断たれる可能性がある。
ある意味自分たちは既に包囲されており、後は殲滅までの余命を過ごしているに過ぎないのだ。
中尉が叫んだ。
「撤退準備せよ! 俺は大尉に報告してくる! 解体の必要なものは打ち壊せ! 船に収容する時間も惜しい! 砲手班は照準壊し尾栓抜き塩水かけておけ! 置き土産は残すな! それ以外の者は出航準備に取りかかるのだ!」
兵士たちは一斉に行動を開始した。
前線部隊はイムリントへ向かった交渉使節を待たずして撤退した。
中尉の進言は大尉から各軍へとすぐに伝達され、各軍は我先にと逃げ出した。
指揮系統など最早なかった。
隊列も何もなく西進する船団からは帝国軍の威光は微塵も感じられなかった。
プロツェット中尉の読み通り船はすぐに襲われた。
二日後、元同盟軍であったはずの島嶼諸国家にである。
それは空が白じみ始めた明け方だった。
島の影から現れた小舟の集団は瞬く間に帝国の帆船を囲み火矢を放った。
追い風により運航の殆どを人力で賄っていた帝国軍は寝不足と疲労で対処が遅れた。
船団は瞬く間に瓦解した。
密集し過ぎて砲撃が出来ず無力化し敵の火矢の餌食になる隊、隊同士で進路を誤り衝突転覆してしまう隊、味方を置き去りにして逃げ行く隊。
そしてプロツェット隊もまた船の吃水の低さを過信して岩礁に迷い込み座礁してしまう。
本国ゴドリックはまだ遠く先であった。
プロツェット隊は数日間、密林をさまよい続けた。
泥にまみれ、髪は赤茶け、汗と老廃物で体中が痒くて堪らない。
時折反乱軍の奇襲も受けたがこれは追い返した。
腐っても前線部隊の精鋭であるが、それ以上に敵は短期殲滅を狙わずじっくりと帝国軍の消耗を待っていた。
撤退開始より四日後、ウェードミット諸島いずれかの島にて。
プロツェット隊54名は既に半数近い23名が犠牲となっていた。
戦闘による直接的な死者こそなかったが部隊は全滅の危機にあった。
「いったい何時まで続くんだろうねぇこの密林は」
蔦を軍刀で掻き分けながら中年兵士がぼやいた。
「生き残るまでですよ」
同じく隣で先頭を行く槍の兵士が言葉を返した。
比較的体力があったのはこの二名のみであとの者たちは幽鬼のように後に続くばかりである。
今朝もまた奇襲にあったばかりで皆疲労困憊だった。
「船だったらもう本国に帰れてる頃だぜ」
「まだでしょう。それに……たらればの話はやめましょうよ」
「ひっ……ひっ……ひひっ……ひっ……」
突如後方から聞こえてきた笑い声に二人は振り向いた。
行軍が止まる。
「おい、しっかりせぇ」
その声は他の兵士に肩を貸してもらい歩いていた兵士からだった。
兵士は嬉しくて笑っていたわけではない。
気が触れたわけでもなかった。
体が痙攣し勝手に声が出てしまうのだ。
その様子を見ていた中尉が命令を下した。
「破傷風の症状が出たな。もう助からん。捨て置け」
「……了解。おっしゃ、おめぇの形見はちゃんと届けっぞ」
肩を貸していた兵士は破傷風になった兵士を木に寄りかからせ、首にかけられていた望遠鏡を預かった。
すると古参兵も呟いた。
「中尉殿ぉ、俺もここに残りますわぁ」
おぶっていた中尉は鼻で笑いあしらった。
「馬鹿者、お前はまだ意識もしっかりしているであろう」
「足もげてんのは俺だけですぜ。俺が降りりゃあ中尉殿ももう少し早く歩けますでしょ……」
「お前など軽いわ。戯言を言うな」
「あいつもこんなとこで一人で死にたくねぇでしょうよ。俺が残ってやりますんで爆薬一つだけください」
「自決する気か」
「へぇ。もちろんすぐには死にませんよ。敵さんが来たら巻き添えにしてやりますわ。暫くしても来なかったら勝手にお暇させていただきます。そうすりゃ敵さんの目を欺けるでしょ」
「ならん」
「満足ですわ。お世話になりました」
中尉は目を真っ赤にして唇を噛んだ。
噛み過ぎて血が滲むのも気づかないほどに噛んだ。
しかし踵を返すと破傷風で痙攣する兵士の横に古参兵を降ろした。
隊の者たちも口を真一文字に結び、誰一人として声を発する者はいなかった。
「ありがとうございます」
「誰か爆薬よこせ」
「ああ、これだけ宜しくお願いしますわ。爺ちゃん頑張ったよーってね」
懐から取出したお守りを愛おしげに見つめ古参兵は朗らかに笑った。
中尉はそれを受け取ると軍服の内に仕舞い、古参兵の頬を両手でしっかりと触れて頷いた。
小隊は破傷風の兵士の肩を抱き手を振る古参兵に見送られながら再び進軍を開始した。
暫くしてはるか後方で爆発音が聞こえた。
僅かな間、古参兵は何を思っていたのだろうか。
すすり泣く声は誰ともなく発せられ、隊は堰を切ったように悲しみに飲まれた。




