策謀 10
海牛は勢いよく海中に潜っていった。
水中の視界は良好だ。
あっという間にノーラは軍船の真下の海底に辿りつく。
そのまま暫く待機して様子を窺ってみた。
頭上の軍船では櫂が荒く波を掻き分けている。
海底から見上げる海面は太陽の光が乱反射して実に美しかった。
この光景は当然海上では見ることが出来ない。
そして海上からは海底を見ることは出来なかった。
軍船は足元にノーラがいるとは露ほども知らずに前進する。
海獣船の速度を嫌というほど知ったので、上陸していると見せかけて逃げられることを恐れているのかもしれない。
あるいは島に仲間が他にいることを懸念して準備や連携をさせまいとしているのか。
どちらにせよ前進の判断は見当外れだった。
ノーラが一番恐れていたのはゴドリック領の海域で粛々と監視されることだ。
そうなれば井戸水もないこの小さな島では籠城など出来ず敵に降伏するか進路を教えて逃げるしかなかっただろう。
やはり敵は恐れるに足らない。
計略も然ることながら速度を重視して吃水の浅い船ばかりで追いかけてくるとは。
ノーラは凶悪な笑みを浮かべた。
全て沈めてしまおうじゃないか。
ノーラが喉を鳴らすと海牛が反応し、再び勢いよく泳ぎだす。
海牛は一気に浮上して側面から船底を斜め上に突きあげた。
大きな音がして舟底が破れ、衝撃で均衡を失った船が面白いように横倒しになった。
流石は頭突きで鯨の骨を折る海獣である。
勢いに乗った海牛はそのまま全ての船をひっくり返した。
それはあっという間の出来事だった。
気配を察知したラグ・レが弓と布を持って甲板へ出ると、ずぶ濡れになったノーラが調度梯子を昇り終え船に戻ってきたところだった。
「もう終わったのか」
あまりの速さにラグ・レは目を丸くして驚いた。
「終わったよー。全部沈めてやったさ」
ラグ・レから布を受け取ったノーラは衣服を脱ぎ取ると豪快に髪を拭きながら得意げな面を見せた。
「みんな殺したのか?」
「死んだのもいるかもだけどたぶん殆ど生きてるよ」
「なんだ殺してないのか」
「皆殺しは余計な禍根を生むかもしれないからね。なるべく生かす方針で船だけ沈めてきたんだよ。沈没に巻き込まれて溺れ死んだ奴もいるかもしれないけどさ、それは間抜けだったってことで」
「じゃあ今は追っ手の連中は海に投げ出された状態か」
「そ。運よく板っ切れとか掴めてるといいね。まぁそんな感じだからこの島に泳ぎ着くのも時間がかかるだろうし、泳ぎ着いてもここを発見することは不可能だな。その前に夜になる」
「おお、それで出航か」
「そ。あいつらは夜目も効かない。でもあたしは効く。あとはロタウまでひとっ走りってわけだ」
ノーラはその気になれば皆殺しも出来た。
しかしそれはただ帝国を挑発する行為でしかないのでしなかっただけだ。
「でもそれまでこの船持つのか? さっきから両脇の崖にがんがん当たってるぞ」
「まさか、ずっとここにいるわけじゃないよ。ここに入れたのは万が一回り込まれてしまった場合を想定したからさ。もうそんな心配はないから島からちょっと離れて停泊し直すよ」
「わかった」
ノーラは海牛を労い、ラグ・レは必要ないのに見張りに付いた。
結局追っ手は島に上陸出来たのかも分からないほど何の反応もなく、海獣商船は夜の闇に紛れてサロマ島を後にした。
「船団が全滅したぁ?」
ゴドリック帝国、帝都ゾア。
不審船追跡失敗の報は日を跨いだ夕刻に速報として皇帝の耳に届いた。
本来ならば今少し早く伝えられたであろうがしがらみが色々ある。
哀れにもテルシェデントから軍鳩の書簡を得た報告の兵士は滝のように汗を流しながら震える声でようやく報告を絞り出した。
だが皇帝ブロキスは表情を変えずにじっと兵士を見降ろしていただけだった。
大きな反応があったのはブロキス帝の側近であるヘイデン少佐のほうだった。
少佐は苦虫を噛み潰した顔で皇帝を見たが皇帝の涼しげな顔に苦笑して兵士に声をかけた。
「それで、乗組員の安否は」
「い、未だ不明のようです……」
「経緯報告」
「はっ。昨日正午過ぎ、不審船が沖に出ているのを発見した巡視船団がこれを追跡。しかし一団が日没を迎えても戻らなかったので安全面を考慮し、日が昇ってから確認の後続船を派遣。すると全ての巡視船がサロマ沖で転覆しているのを発見。現在はサロマに流れ着いていた生存者に人数や安否の確認を取っているとのことです。しかしこれは速報ですので……逐一情報が入り次第報告いたします」
「あー、報告はまとまってからで良い。レイトリフ大将殿にはこう伝えろ。死傷者には補償を尽くせ。あと、報告はサロマ沖じゃなくてゴドリック帝国領海内とすること。ここは特に大事だぞ。それと原因が分かるまでは対外的には……そうだな、領海ぎりぎりを軍事演習の航海中に季節外れの海獣の大移動に遭遇してしまって起きた事故だと広報しておくようにと伝えろ」
「はっ」
特に自分に御咎めがないと知った兵士は生きかえったかのような顔でふらつく足を鼓舞しながら下がっていった。
皇帝は当事者でなければ罰を与えたりはしないのだが、どうも周囲には誤解されているようだった。
兵士が退室すると一時的に無言の空間が生まれる。
しかし突如それを破りヘイデン少佐は皇帝に詰め寄った。
「おいおいおい、この大事な時期になんて出費だ……! なんで全隻で突っ込む? 全隻って何隻だ? 追跡した全隻か? それとも……本当に全隻なのか!?」
「落ち着けショズ。貴様らしくない。目標は達成した。出費などいくらでも何とかなる」
吹き出物だらけで紫に染まった醜悪な顔に反して涼やかな声で皇帝はヘイデンを宥める。
ヘイデン少佐は大きく深呼吸をすると眉根を寄せて腕組みをした。
「言ったな、何とかしろよ。じゃあもうそれはいいとして。だが……どういうことだ? 軍船を一気に全滅させる力なんか連中にあるのか?」
「分からん。俺も何も感じなかったということは兵器の類かもしれんな」
「あいつらが兵器を? まさか。……いや、まさか」
一蹴したヘイデン少佐は思い直した。
その様子を見て皇帝は頷いた。
「ああ、アルマーナにはそんな開発力はない。ラーヴァリエの連中がいたのかもしれんな」
「大丈夫なのか?」
「問題ないさ」
皇帝は目を瞑り感覚を研ぎ澄ませる。
我が子は確かに目的の場所にいるようだった。
「これでいいんだ。計画通りだ」
皇帝が笑うと流石のヘイデン少佐も背筋が凍る思いがした。
我が子を敵の手中に収めさせることが計画通りなど、なんと冷酷なことだろう。
しかしその非道はまだ序章ですらない。
ブロキス帝が布石を打った策謀が少しずつ繋がり物語が始まろうとしていた。
登場人物、オリジナル設定が多い小説です。
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