策謀 9
ノーラたちはランテヴィア大陸を離れ東を目指した。
大海原に出れば沖を監視する帝国の兵にも気づかれるだろうが既に追いつかれる心配はなかった。
波穏やかに視界良好なのが帝国側に有利とはいえ海牛の牽引する商船の航速に敵う船などいない。
あとはどの方角を目指したかが帝国に知られなければ良いだけの話だった。
ノーラは海牛にとある場所を目指すよう指示を出していた。
大陸の真東にその島はあった。
島嶼と大陸のほぼ中央に位置するその小島は交通の要衝として古くから緩衝地帯として何処の領土にもなっていない島だった。
経由地の島、名をサロマ島といった。
ノーラは念のため船首にて周囲を索敵する。
海風に長髪が赤くなびいていた。
海獣船で浴びる風は最高だ。
普通の船では味わうことの出来ない航速の爽快さがあった。
船室から出てきたラグ・レは日差しに目を細める。
赤ん坊の世話をしていた僅かな時間にずいぶん遠くまで来たものだ。
行きは闇夜に紛れていたため速さがいまいち分からなかったが流石は海獣である。
日を跨ぐ前に余裕を持って帰ることが出来そうだった。
「ラグ・レ、赤ん坊の様子はどう?」
少女に気づいたノーラが声をかける。
「ああ、ぐっすりだ。なかなかおむつを替えてやることも出来なかったからな。清潔になって安心したんだろう。今は死んだように寝ているぞ」
「可哀そうに……さぞ気持ち悪かっただろうな」
「固形物をほとんど食っていなかったのが不幸中の幸いだった」
ラグ・レはノーラの隣に来て縄を掴みながら船の縁に腰を掛けた。
「サロマには寄港するのか?」
「するよ。あいつらをどうにかしないと進路がばれちゃうからね」
遥か後ろの水平線には胡麻粒のようなものが見える。
それらはテルシェデントの沖で警戒中だった帝国の軍船だ。
高速船を出して来たのだろうがそれでもだいぶ差をつけてしまった。
しかし向こうが見えていると言う事は向こうもこちらが見えているということで、いくら差をつけようが完全に見失わさせなければ意味はなかった。
「サロマで始末するのか」
「ここまではゴドリックの水域。あそこは不可侵の水域。あそこでの戦闘は奴らにとっても口外出来ないってわけさ」
「わかった。準備しておこう」
神妙に頷くラグ・レの顔を見てノーラは笑った。
「あんたは今回は出番はないよ」
そして不敵にしたり顔をする。
「軍船が何隻来ようが、海であたしに勝てる奴なんかいないさ」
サロマ島は放置されて一年が経とうとしていた。
かつては取り決めにより島での他国との物々交換を含む通商は禁じられていたが、各方面への最後の休息所として栄えていた島だった。
北はアルマーナ、南と東にウェードミット、そして西はゴドリックの三つの勢力圏の玄関口である。
ウェードミットの諸国と帝国の関係が悪化してからは余計な火種になりかねないと放棄されていたのだ。
ノーラ達は数日前にも闇夜に紛れて島を訪れたが、その時は暗くて接岸は危険だったためただの目印として寄っただけだった。
今回の来訪は昼間なので島の全貌がよく見えたが誰かが上陸した痕跡はなかった。
皆しっかりと取り決めを守っているようだ。
第三者がいないということもこの海域で戦闘行為をする重要な条件だった。
島の北側の崖の隙間で船は錨を降ろしていた。
甲板には誰もいない。
海牛の牽引していた縄は力なく船嘴の真下に垂れ下がっている。
船室ではラグ・レが赤ん坊をあやしていた。
窓の外を眺めていた猫のトトの耳がぴくりと動いた。
「来たね」
ノーラは一人、先を見据えて呟いた。
そこは島から少し離れた海の上だった。
彼女は大海原に立っていた。
西の海上では帝国の軍船がようやくサロマの海域に入ってきていた。
様子からして彼らもノーラ達がこの島で迎え撃とうとしているのは分かっているようだ。
軍船は大きく散開し島を囲おうとしていた。
全船が行動に移り一隻の後方待機もない。
旗艦が存在しないとは何とも舐められたものだ。
流石はバエシュ領の方面軍である。
充実した練度で机上の律義さを見せつけてくれるようだ。
そろそろ敵の望遠鏡に発見されてしまうかもしれない。
ノーラは海に腹ばいになった。
とりあえず全部沈めよう。
彼女の足元には水面ぎりぎりに浮かぶ海牛の姿があった。
今回の特命にノーラが選ばれたのはこの時の為だった。
目撃者を消すのが彼女の役目だった。
海牛の体に巻かれた縄をしっかりと掴む。
そしてノーラは人間には聞こえない音で海牛に進撃の号令をかけた。