策謀 8
二人は出発の準備に取り掛かった。
ラグ・レが赤ん坊を船室に入れ馬を船に乗せている時にノーラは生簀から小さな海獣を取り出していた。
蝋で防水加工した筒に暗号を描いた羊皮紙を入れ海獣の体に括り付ける。
よく訓練された海獣は合図をすればテルシェデントのブランクの舟にまっすぐに泳いでいく。
ブランクに頼んだのはカヌークでの待機だ。
沖に出れば不審な船は目立つので万が一帝国の船が追ってこないとも限らない。
本来ならば漁船を装ったブランクの船にラグ・レが赤子を連れて乗り込み、機動力のあるノーラの海獣商船が殿を務めるはずだった。
しかしラグ・レがテルシェデントに入れなかったことでこの役決めは破綻してしまった。
今少しここで待ちブランクと合流してから外洋に出れば良いではないか、というラグ・レの意見は却下された。
ラグ・レが上陸している間にノーラとブランクは海獣を使って連絡を取り合っていたのだが、ブランクの話ではどうやらテルシェデントの港では軍船がいつでも出撃出来るように手配済みなのだという。
更には沖にも軍船が停泊しているというのだ。
誘拐事件の犯人の人相はまだ不明なものの、港から国外逃亡しようとしているということは軍は確信しているらしい。
この事は先のラグ・レの話で補足出来た。
軍曹のおかげでラグ・レの人相が広まらなくて済んだが、軍曹がカヌークで船を手配しようとしていて行動が読まれてしまったのだ。
ノーラは軍曹がカヌークに来ていたことを知らなかった。
恐らく治安維持隊が軍曹を発見した時ノーラは夕食中か湯浴み中だったのだろう。
不審者が出たという曖昧な情報を聞いたのは朝になってからだったが、それがラグ・レの恩人だとは知る由もなかった。
しかしノーラは出会わなくて良かったと思っていた。
出会ってしまったら即逃亡開始だ。
カヌークの村人たちを騙し通すことが出来ず、追っ手の兵士たちとの追いかけっこは必須だっただろう。
その場合にはラグ・レを置いていかなければならなかった。
ブランクも置いて逃げなければならなかった。
目的はラグ・レが奪取してきた皇帝の子供を組織へ送り届けることなので、見ず知らずの脱走兵しか送り届けることが出来ないなど論外中の論外だった。
追っ手を返り討ちにしようが無視して逃げ切ろうが、ノーラを知る人間はカヌークに大勢いるので結局は指名手配されるのも目に見えていた。
そうなればこの密命事態自体が無駄に終わり、逆に組織に大きな迷惑をかけてしまうことになるだけだった。
それだけは避けたかった。
だから軍曹とは出会わなくて良かったのだ。
一方、ノーラは運よく軍曹との接触もなく且つカヌークの治安維持隊がぽんこつなので上手く出航することが出来たがブランクはそうもいかない。
おそらくテルシェデントの官憲及び駐屯兵に目を付けられているだろう。
これはブランクだけでなく停泊している民間船全てが監視の対象になっていると言って良い。
ブランクはカヌークの漁師を名乗ってテルシェデントに潜り込んだのでカヌークに戻る以外の航路を辿る事は出来なかった。
そしてカヌークに戻っても暫く滞在しなければ監視の目は逃れられないだろう。
つまりブランクと合流するということは敵に自分たちの不審な動きを紹介するようなものなのだった。
ノーラは海獣を使い、カヌークで待てと密書を送った。
ブランクをカヌークに置くのはラグ・レを納得させる意味もあった。
彼女はロブ・ハーストが来るまで待つといって聞かなかった。
恩人であるし、連れて行くと言った約束は違えることが出来ないのだと譲らなかった。
ノーラはラグ・レの頑固さを身に染みてよく知っている。
しかし軍曹がいつ再びカヌークに戻ってこれるかなど未知数であったし、連れて行くだけの利点があるようにはノーラには到底思えなかった。
そこでノーラは嘘をついた。
軍曹を待つのはブランクに任せて自分たちは早く赤ん坊を連れて行こうとラグ・レを説得したのだ。
当然、ブランクにはロブ・ハーストと名乗る男には注意しろと注釈を付け加えておいた。
後で知ったらラグ・レは怒るかもしれないが危険な橋は渡れないのだ。
かくしてノーラの海獣商船は東の外洋に乗り出した。
目的地は普通の帆船で一日がかりだが、海牛の速度では半日で着く場所だ。
もしも追っ手があれば途中で始末できる術もある。
長いようで短く、短いようで長かった任務はようやく終わろうとしていた。
終わろうとしていたと、思っていた。