策謀 2
ヒルダは少女を家に招き入れむずかる夫を叩き起こした。
普段のハリエなら罠にかかった猪のように寝台から出るのを嫌がるのだが、戸口にいる訪問者に気づくと飛び起きて初々しい少女のように掛け布を胸元に手繰り寄せた。
夫はすっかり目が覚めたらしく強張った顔でヒルダに寄るがそこで再び仰天する。
妻が抱いていたのは自分の末子ではなく見知らぬ赤子だったからだ。
「どういうことなんだよっ」
ハリエは小声で叫ぶが狭い家の中だ、内緒話にもならない。
ヒルダは肩をすくめただけで答えることをせず薪に座り、ためらいなく赤子に乳を飲ませ始めた。
赤子はよほど腹を空かせていたのか一心不乱に喉を鳴らした。
それを見て安堵したヒルダは未だ少女が戸口で所在なさ気にしているのに気付いた。
「ああ、狭くて汚い家だろ? 適当に何処へでも腰を下ろしておくれ。悪いけどそれ以上の歓迎は出来ないけどね」
少女はじっと様子を窺っているハリエを見つめ返しつつ壁伝いに窓の斜め下の薪割り台に座り込んだ。
空はまだ白じみもせず闇の帳を降ろしている。
星明りと蝋燭の灯りで照らされた空間は微妙な空気が流れていた。
「あんた、名前は?」
「ラグ・レ」
「ラグ……?」
「ラグ、レ」
「そう……あたしはヒルダ。こっちの毛むくじゃらは旦那のハリエだ。あと、まるで起きないそいつらは息子たち。四人ともまだ七歳になってないからね。名前はつけてない」
ハリエは落ち着きなく胸や脇を掻いては手の臭いを嗅ぐふりをしてちらちらと少女を見ていた。
対して少女は腫れた顔で何も語らず干し肉を腰の巾着から取り出して齧り始めた。
おそらくは非常食だろうが今の時間に非常食を齧らねばならないということは昼間に何も出来なかったということだろう。
その原因は当然赤子のお守りであるに違いなかった。
それにしても不思議だった。
少女は赤子の扱いがいまいちよく分かっていないようなのだ。
すると姉妹ではないのだろう。
ならばいったいどういう関係で一緒になりこのような所に来てしまったのか。
ヒルダは少女を観察してみた。
少女はあきらかにゴドリック帝国の人間ではなかった。
一番奇妙なのは眉がなく、代わりに赤い刺青を横一線に施していることだった。
そして唇の両端には大きな黒子のような黒丸が付いている。
出で立ちはまるで未開の地に住む少数民族のようだ。
細かい出自までは分からないがきっと島嶼に暮らす部族の出であるに違いない。
しかし戦争で島嶼との国交は断絶したと聞いている。
いずれにせよ夜更けの辺鄙な山の中に少女が赤子を連れてふらりと現れるというのは異常以外のなにものでもなかった。
「さぁ、満足したみたいね」
泣き続けて疲れていたからか、赤子は乳を飲みながら寝てしまったようだ。
少女は残った干し肉を一気に頬張るとヒルダから赤子を大事そうに受け取った。
「助かった。礼をしたいが手持ちがない。これで勘弁してくれ」
そういうと少女が差し出してきたのは牙狼の牙か何かで作られたお守りだった。
ヒルダは頭を振った。
「御礼なんていいさ。赤ん坊の一人や二人分の乳なんか、漏れるほどあるからね」
幸いにも食では困窮しないのが山間生活の良い所である。
乳の礼などいらない。
だから変なお守りは丁重に断った。
扱いに困るし、本当にいらなかった。
何かの加護があるんだがな、と少女はぼやいたが聞きなれない言葉だったので耳が単語を拾うことが出来ず何の加護なのかはよく分からなかった。
それにしても少女はこの国の者ではないということを隠す気すらないようだった。
「お母さんは一緒じゃないのかい?」
「お母さん? どっちのだ? いずれにせよ両方死んでる。母親はいない」
実に正直な返答でやはり二人は姉妹ではないことが分かった。
ならば一層、誰が今まで赤子の面倒を見ていたのか気になるというものだ。
「そうかい。だったら尚更、赤ん坊は母乳が出る人間の元から離しちゃいけないよ」
「もう一歳は過ぎているんだ。だから大丈夫なはずだったんだ」
尤もなヒルダの説教にラグ・レは口を尖らせて力なく反論した。
「大丈夫って?」
「一歳を過ぎればもう乳は必要ないだろう。最初は大丈夫だった。でもすぐに何も食べなくなった。やはり乳が必要なのかと思った。でも乳など持っているわけなかった。私も出そうと頑張ったが出なかった」
「そりゃ出ないでしょうよ。まぁ子供はそれぞれだからねえ。うちの長男なんか六歳だってのに乳をねだるもんね」
「六歳でも乳が必要なのか?」
「いやいや、一番下の餓鬼ばっか構われて嫉妬しているんでしょ。環境の変化ってやつさ。だから……きっとその子も環境が変わって不安になっているのかもしれないね」
「そういうものか」
「そういうもんだよ。あんた家出だろ? 早く帰るべきところに帰ってやんな」
ヒルダはあえてとぼけてやることにした。
少女は断交中のはずの島嶼から来ていて、赤ん坊は血縁でもない無関係の子である。
となれば赤ん坊は何処かから攫ってきたのだろうということは学のないヒルダでも察することが出来る。
普通ならば通報案件なのだろうがヒルダにはかざす正義感などなかった。
そもそも通報すれば官憲たちによって色々と尋問され暫く拘束されるのが目に見えていた。
炭の値さえ渋るテルシェデントの官憲たちが通報の報奨金など出す信用もないし、そうなれは仕事にも生活にも支障が出る。
それにヒルダには娘ほどの少女を密告しようなどと考える事さえ卑劣に思えてしまうのだった。
これは夏の夜の浅い眠りに見た夢。そう思うのが一番だ。
だから深入りはしない。
そうすることが正しい事だと何故か思えて仕方がなかった。
「ここは余所者なんか殆ど来やしない辺鄙な炭焼きの集落さ。知らない奴がいればすぐに皆に知れ渡っちまう。他の連中にあんたの事を詮索されるのは面倒だよ。だからゆっくり休んで、昼前にはここをこっそり出てお行き」
「昼前? いや、見つかりたくないのは私も同じだ。もう出ていく」
「炭焼きの朝は早いよ。だけど昼前くらいには窯にかかりきりになって周りなんか気にしなくなる。その子だって今出るよりも何度か乳を飲ませてやれば暫くは持つだろ。だから一晩泊まっていきな」
「ありがたい提案だが」
「今出てったらきっとまたすぐにその子は泣き出すよ。あんただってへろへろじゃないか。昼までならあたしが見といてやるから、少しでもちゃんと休むんだ」
「むむ……」
「お節介かもしれないけどさ、大人の言う事は聞いておくもんだよ」
「……わかった。感謝する」
流石に本当に体力の限界だったのか、再び赤ん坊が泣きだす可能性が高いという脅しが聞いたのか、少女は意外にもすんなりとヒルダに従った。




