策謀
ランテヴィア大陸東部バエシュ領、テルシェデントの港より内陸部。
時はロブ・ハーストがサネス一等兵と交戦して深手を負い海に消えた夜の翌日に遡る。
ゴドリック帝国には広大な東部平原がある。
そして沿岸のテルシェデントと平原の間にはさほど高くない山の連なりがあった。
その山中には小さな村がある。
村に名前はなかった。
そこは幾人かの炭焼き職人が集まって生活している小さな集落だった。
うち一軒に住むヒルダは赤ん坊の泣き声で目を覚ました。
家は部屋の区切りなどなく狭いので見渡せる。
隣では夫のハリエが腹の剛毛を掻きながら大いびきを掻いていた。
足元に転がった息子たちは子猫のように寝息を立てている。
哭いているのは籠に吊るしておいた一番年下の子供だ。
ヒルダは首を鳴らして溜息をつくと裸のまま立ち上がった。
かけていた布は夫のために直してやりはせず、布を引っ張られて一糸まとわなくなったハリエのいびきが止まった。
ヒルダは年少の息子を抱きかかえて薪に座り乳をくれた。
朝は早くから木づくりを行い、日中は煤と泥にまみれて炭を焼き、夜は夫や子供の相手をし、合間に飯をつくり洗濯をする。もちろん合間の授乳は欠かせない。
休まる事のない人生はおそらく一生続くのだがヒルダは無心だった。
深夜の授乳中の、子が乳を飲む音くらいしか聞こえない静けさにあって天井を見上げている時間が何より安堵できる時間だった。
そのヒルダの耳に赤子の声が聞こえてきた。
隣の家の子が泣いているのだろうか。
よくあることなのだがその日は違った。
赤子の泣き声がだんだんと近づいてくるのだ。
声は家の前まで来た。
いよいよヒルダは訝しんだ。
こんな夜更けにいったいどういうことだろう。
まさか怪奇の類ではないか。
子が満足し乳を飲むのをやめたのでヒルダは夫を起こそうかと思ったが寝起きのハリエは赤子より愚図つくのでたちが悪い。
考えているうちに小さく戸を叩く音さえ聞こえてきたのでヒルダは意を決した。
再び眠りについた息子を籠に戻し、脱穀用の棒を握りしめて戸口に立つ。
戸の向こうには何者かの気配がした。
「だれかそこにいるのかい?」
戸を挟んで外に声をかけてみる。
けたたましい赤子の泣き声はすぐそこだ。
その中で微かだが声が聞こえた。
それは少女の声だった。
僅かに戸を開けてみるとそこには小柄な少女がぐしゃぐしゃに泣き腫らした目で立っていた。
「乳くれ」
腕には赤子が抱えられていた。