島嶼へ 10
腹の底から力が湧く。
それ故か、ただでさえロブには軽すぎる軍刀がまるで重さを感じなかった。
試しに振ってみると空の握りこぶしを振るよりも軽やかだ。
むしろ理解よりも先に腕が行動を終えており自身の視認が遅れている気さえした。
「おいおいおい……まさかロブ、お前よ、それが重要機密ってやつか?」
興奮を抑えきれないクランツが目と歯を剥き出した。
余りの高揚に声が上ずっている。
しかしロブには傍から見た自身がどのようになっているか理解出来ていなかった。
それよりもロブにはクランツの刃を避ける直前に感じた何者かの気配のほうが気がかりだった。
目を合わせたかのような気配が一つと、背後から抱きすくめられるような気配が一つ。
眼前の気配はすぐに消えたが身を這い回る得体の知れない何かは明確にロブを捉えたままとなっていた。
だがクランツにはそんな事は分からない。
その異常がロブが盗み出したという重要機密なのだと確信した狂人が考えることは一つだった。
「それさぁ、ずいぶんおもしれぇじゃねぇかよおっ!」
クランツがロブに踊りかかった。
直線の疾走から鎌のように振るわれる腕。
屈んで避けた頭上で風を切る轟音が響き、息をつく間もなく回転からの下段後ろ蹴りがロブの顔面を襲う。
後方に飛びのいたロブに遠心力を伴い驚異的な破壊力を秘めた右腕が落ちてくる。
しかしその渾身の一撃は囮であり、背中いっぱいに引きつけた左腕の突きが銃弾の速さで得物の喉に飛びついた。
常人では避けられない速さだ。
しかも一撃一撃が攻城兵器のような質量を伴っている。
観戦するしかない官憲たちは風圧でさえ気圧された。
だがその圧倒的暴力に晒されているロブは涼しい顔をしていた。
どういうわけだろう。
遅い。
遅く感じる。
クランツの動きの軌道が手に取るように分かった。
やはり化身装甲に比べると動きが遅いからであろうとロブは納得した。
肩周りから腕の部位だけを強化しても軸となる腰や足が生身の人間のままでは限界もたかが知れているようだった。
ただ、義肢に振り回されることなく腰や足の腱がねじり切れないだけクランツも充分に化け物といえる。
流石は同じ泥沼の戦線を生き延びた上司なだけあるとロブは心の中でクランツに敬意を贈った。
勇敢なる兵士には心からの対応をしなくてはならない。
防戦し後ずさっていたロブはクランツの左の大振りを見極めて斜め下に飛び込むと左肘に軍刀を叩きつけた。
軍刀は根元から折れ、勢いづいていたクランツの上半身が大きく回転した。
刹那、クランツの口からこもった苦痛が漏れた。
ロブが押したことによってクランツの腰が可動域を少し超えてしまったのだ。
クランツは足の踏ん張りも利かず慣性に倣い大きく地面に倒れ伏した。
「いっっっ……ってぇぇぇえ! ロブてめぇふざけんなよ……!」
足元で騒ぐクランツは放っておき、ロブは髭の官憲を見た。
呆気に取られていた巡査部長はようやくロブが自分を見ている事に気づき慌てた。
「ロブ・ハースト……君はいったいどれだけ罪を重ねる気だ? 同胞を傷つけて何とも思わないのか?」
震える声で絞り出した部長にロブは答えた。
「罪を数える行為は意味がないからとうに止めている。何とも思わないわけがないから未だ生きている」
柄だけになった軍刀を足元に放る行為でさえ官憲たちの恐怖を煽るには充分だった。
帝都の最新兵器を装備した元最前線勤務の特務曹長さえ適わない手合いに対し、市井の小競り合いにも手こずる地方官憲たちは無力だった。
もはや誰の戦意もないことを確認したロブはソール爺を捕える官憲にまっすぐ歩いて行く。
黒く揺らめく炎のようなものを纏って向かってくる様子は官憲の目にはさながら死神のように映った。
逃げて良いのか、ソールを捕える任務を完遂すべきか。
狼狽する官憲は緊張に耐えきれず痙攣しながら昏倒してしまった。
「ロブ……お前さん」
「迷惑をかけた。俺は出ていくよ。幸いにも、何故かよく見えるようになった」
そしてロブは再び官憲全員に向き直り叫んだ。
「俺は町を出ていく。これ以上の争いはこの町で不要だ。だからイネスを解放しろ。そしてお前たちも出ていけ。だが聞け。俺は再びこの町に戻ってくる。命の恩人であるイネスとソールに会いに戻ってくる。だからテロートの官憲よ、マノラの町の者どもよ。俺の言葉を忘れるな。万が一この二人にお前たち由来の不幸があった時には俺はお前たちを許さない。顔も名前も知らないからと安心するな。俺はその気になれば平和に呆けた町の一つや二つ、俺だけで滅ぼすことが出来るぞ。いいな」
凍りついたような空気の中、ロブは町の出口に向かって歩き出した。
「まて、ロブ!」
その背中にソールの声がかかった。
「イネスには何も言わずに行くのか」
「…………」
「恩人なんだろう? 薄情じゃないか。あいつは……」
「ソール、言っただろう。また会いに戻ってくる。別れじゃないんだ」
「…………」
振り向きもしないロブにソールは黙るしかなかった。
黙って、落ちていた自身の銛を拾いロブに届けた。
「持って行け。なまくらだが、ないよりはましだろ」
「施しは結構だ」
「いいから」
少しだけソールへ顔を向けたロブは何も言わずに銛を受け取ると再び歩み出した。
それはあまりにも唐突で淡泊な別れであった。
だが、僅かな時間しか共にいなかったとはいえソールはロブが情緒に富んだ人間であることに気づいていた。
戦いは器用なのに感情表現は不器用な男にはこれが精一杯の思いやりだったのだ。
「……またな」
もう戻ってこないであろう男の後ろ姿が小さくなる。
官憲を振り払い駆けてくるイネスがソールの許へ辿りつく頃にはその姿は見えなくなっていた。
町を出る頃にはロブの体から立ち込める揺らぎは消えていた。
同時に何者かの気配も薄れ消えていた。
思う所があったロブは試しに銛を振ってみる。
大型海獣を仕留めることも出来るであろう大柄の銛は確かにずしりとした重さを感じさせた。
意味不明だがあの気配に助けられたといっても過言ではなさそうだ。
流石にロブが剛腕の持ち主とはいえ軍刀が一撃で折れる程の打撃を振るうことなど難しい。
超常の類は信じていないロブであったが、精霊を崇める少女の事を思い浮かべるとなくはない話かもしれないなと何となく思えるのだった。
気配が消えた後も目は不思議と周囲を認識出来ている。
だがこの状態がいつまで続くのかは未知数なので行ける所まで急がねばならないとロブは思った。
目下の目標は合流することの出来なかったアナイの少女の安否を確認することだが、あの賢明な少女に悪い結果が伴っているとは考えにくい。
一方で少女はともかく赤ん坊は乳もなく生きていられるはずがなく、三日、四日も経ってしまった今は彼女は赤ん坊の体調を優先して既にこの大陸にいない可能性のほうが高い。
「俺も行くか……島嶼へ」
まずはゴドリック帝国と国交を断絶し緊張状態にある島嶼部への渡し船を探さないことには話が進まないのだが、おそらく指名手配されているであろう自分がそれを探すのは困難を極めるだろう。
当てがないわけではないがあまり頼りたくない当てだった。
それを思うと憂鬱だが、何もかも失ったロブにはその道か、未踏の地で隠遁する道かの二択しか残されていないのだ。
ならば道は一つしかないだろう。
思い出したかのように疼き始めた目と腕の負傷を軽く揉んで深呼吸すると、ロブはゆっくりと歩き出すのだった。
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