漁村より 9
月明かりの森の中。
草陰に隠れ走る自分。
飛び出し捉えた小柄な背中。
振り返った少女と交わし合う視線。
認め合った刹那の出会い。
少女から語られた真実。
必ず守り抜くと誓った少女。
生きて会おうと誓った戦士。
嵐に狂う森の中。
赤子を隠し、去る背中。
瞬時に迫る鉄の塊。
気配から伝わる殺意と狂喜。
巨大な影に追い詰められた。
無骨な輪郭が闇夜に濡れて光る。
化身装甲だ。
まさか自分が相対するとは思わなかった。
その斬撃は人の目では追えない。
姿の見えぬ凶器に遅れて風と音が身体を震わせた。
だが経験の差で勝った。
操者の攻撃は単調だった。
質量を伴った攻撃ほど軌道は正直になる。
そして隙も大きかった。
いわば化身装甲は甲冑と同じだ。
人が着る以上、必ず脆い部分があった。
そこを突いた。
勝ったと思った。
それは果たして慢心だったのか。
確かに化身装甲は稼働限界になったはずだった。
そうなった姿は何度も見ているから見間違いではない。
しかし彼女は動いた。
不慮の事態に動揺してしまった。
動けるはずのないものが動き、動けたはずの己が動けなかった。
痛みを通り越した熱さと消える視界。
僅かな浮遊感。
突如全身を包み込む水。
海に落ちたとすらその時は意識できなかった。
天地を不明にする八方からの容赦ない流れ。
その流れが蠢き巻きついてくる。
ゆっくりと這うように。
熱を帯びて。
これは一体なんだ。
何かが傍で渦巻いている。
憎悪に燻る何かが。
その何者かに気づかれた時、鋭い牙が襲い掛かってきた。
柔らかな風に頬をくすぐられロブ・ハーストは目を覚ました。
具体的な記憶から抽象的な概念へと映像が移り変わりその情景が夢であることは気付いていた。
天候は不明だが小鳥のさえずりが悪くない天気であることを告げる。
寝転んだまま顔を撫ぜると厚めに撒かれた包帯が指の腹に引っかかった。
鈍い痛みが顔面を覆っている。
これは夢ではなかったのか。
気が付けば左腕も固定され治療されているようだ。
そして感覚がなかった。
誰が治療してくれたのだろう。
ここは何処だろうか。
あの少女は無事だろうか。
赤ん坊はどうなっただろうか。
考えても分かるはずもない事ばかり脳裏によぎってしまう。
何もわからない。
唯一分かる事と言えば自分が何もかも失ってしまったということだけだった。
ゴドリック帝国陸軍に入隊して二十余年。
除隊と召集を繰り返してがむしゃらに働き、気が付けばある程度名が知られるまでになっていた。
仲間にも恵まれ環境にも恵まれていた。
あの少女と出会うまでは。
全てを擲とうとしたから天罰が下ったのだろうか。
全てを賭ける価値は、あったのだろうか。
「目が……覚めたのね? 良かった……」
同じ空間に誰かが入ってくる気配がしたので思案をやめる。
扉を開ける音がしなかった。
扉は開け放たれていたのかそれとも元々ないのか。
声の主は落ち着いた雰囲気の女性だった。
「あなたは? ここは何処だ?」
発した己の声のしわがれ振りにロブは驚いた。
風邪でもひいたかのような酷い声だ。
それが暫く発声していなかったことを物語っていた。
自分はいったいどれくらい気を失っていたのだろう。
「私はイネス。ここはマノラ。ゴドリック最北端の町。御存知ない?」
マノラ。聞いたことがなかった。
ゴドリック帝国で北側にある町といえば貿易港であり貴族の保養地になっているテロートくらいしか分からない。
ロブは地理に疎かった。
帝都と自宅以外は戦場でしかなく、名前など考えた事もなかった。
それにしても最北端とはずいぶんと遠くまで来てしまったのではないか。
目的地は東の港町であるテルシェデントだった。
ここからどれくらいの距離があるか分からないが少女の安全が絶望的だと思いロブは天を仰いだ。
「どうしたの?」
「すまない……聞いたことがない」
「なんの取り柄もない小さな港町ですもの。知らないのも無理はないわ」
傍に女性がやってくる。殺気や不穏な動きは感じない。
少し起こしますよ、と後ろ頭を抱えられるとふわりと良い香りがした。
「枕の位置を変えますね。水は飲めますか? 檸檬をしぼった水があるの」
「いただこう」
容器を唇に当てて貰い、少しずつ水を飲む。
清涼感あふれる柑橘の味わいが口いっぱいに広がり胃の底に落ちていくのを感じた。
溜息が出るほど美味しかった。
海水を飲んでしまい脱水気味だったのだろう。
「ありがとう。美味しかった。ずいぶんと病人の扱いに慣れているな。医療従事者か?」
「いいえ。昔祖母の介護を少し。貴方、三日も寝ていたんですよ。ずっと高熱にうなされていて。その間ずっとお世話していたんですから、そりゃあ感覚くらい思い出すわ」
そういうと女はころころと笑った。
なんというのどかな会話だろう。
痛みと疼きは治まらないものの、夢で張りつめていた緊張は容易くほぐれていく。
そんな愛らしい笑い声であった。




