漁村より 8
「アナイの民って聞いたことない? 土地を持たない精霊信仰の少数民族だよ。島嶼部を転々として生活していてさ、そのくせ馬の扱いに長けていて良い馬を育てるので有名な民族なんだ。特定の国に帰属しないから好き勝手に国境を越えてくるんだけど、精霊信仰の聖地ジウには一定の恭順姿勢を見せていることでも知られているね」
「その民族がヘイデン少佐の娘さんを攫ったのですか? 何故?」
「うーん、少数民族が関わっているとなると……去年ブロキス帝が即位に伴って植民地の主権を認めない宣言をしたことがそもそもの原因かもしれない。島嶼部の小国は主権の維持を約束に先帝と起請文を交わして帝国傘下に加わっていたわけだけど、陛下がそれを一方的に破棄したから今の状況になっている。声明が出ないことには憶測でしか言えないけど、これはジウを筆頭にした島嶼部諸国の計略かもね」
「壮大だな! よう、じいさん。ずいぶん話が飛躍するじゃんよ」
茶々を入れるバルトスにアシンダルは人差し指を立てた。
「そうでもないよ。アナイの民はそもそも先帝と起請文を交わしていないんだ。ブロキス帝も無視していた存在だし。だから彼らには帝国に仇なす動機がないはずなんだ。いずれ自由が奪われるかもって不安を覚えて今回の行動を起こしたって可能性もなくはないだろうけど、線としては弱い。ヘイデン少佐の娘さんの居場所を突き止められるような情報集積力だって彼らにあるとは思えない。アナイの民が動くとしたらそれはジウの大賢老の差し金と考えたほうが自然なんだよ」
「あるいはそう思わせたい誰かの差し金か……」
今度はセロが静かに呟き、アシンダルは頷いた。
「そうかもね。いずれにしても現状は判断材料が少なすぎる。ただ内陸に逃げたってことは近くに味方がいなかったのかもしれないね。バエシュ領の方面軍は陛下に非協力的だけど今回は意欲的に動いている。陛下側の失態だから貸しを作ろうとしているんだろう。ここで他の管轄の人間が横やりを入れたら嬉々として動かなくなるだろうから見守るしかない。まぁ、失態を犯して糾弾されないよう最低限の働きはしてのらりくらりとやってる連中だからある意味で頼りにはなるよ。とりあえずは捕まえられずとも国外に逃げられる恐れはないだろう」
「なるほど、てえことはこっち側としては先に軍曹に真実を吐かせてバエシュの連中の鼻も折っておきたいってわけか。けっ、いぼじじいの考えか禿げじじいの考えか知らんけど、愛する娘ちゃんが攫われたことさえ利用するってのが何かむかつくよな」
「意外と優しい、バルトス……」
「ああっ? 意外とってなんだよ?」
「政の話はよく分かりませんが、どんな理由があろうと人の子を誘拐して脅迫をしかけるなどしてはならないことです。そんな計画に軍曹が荷担していたなんて……」
「とりあえず死体でもいいから見つけないとね。現物があれば利用価値もあるだろうし」
「セロよう、お前は見た目の通り姑息で嫌らしい考え方をするよな」
「注進! サネス少尉はいらっしゃいますか?」
再び検査室の扉が開き地図を手にした兵士が入ってきた。
それは入口に立っていたもう一人の兵士ではなかった。
赤い耳の印が入っている帽子を目深に被っている。
ヘイデン独立大隊の諜報部隊の兵士だった。
「私です。何ですか?」
エイファが反応すると兵士は大股で眼前まで迫ってきた。
勢いにのけぞり気味になるエイファだったが、兵士はお構いなしに話し出した。
「ヘイデン少佐から命を預かりました。潮流を試算した結果、ハースト軍曹は件の崖から北部ミティアン岬までのヴリーク湾域内に打ち上げられる可能性が高いとのことです。少尉は早速ジメイネス伍長、ディライジャ上等兵と共に現地に調査に向かってください。同地にはテロートという町がありますのでそこが基点となります。宿の情報はこの地図に記載済みですし、お金も払っておきますので自由に使ってください。現地では階級で呼び合うのは禁止とします。装備も置いていってください。馬は支給します。時勢も弁えずに避暑地に逗留に来た頭の弱い放蕩娘とその友人といった感じで過ごすと良いでしょう。その中で本分を忘れずに一刻も早く軍曹を見つけてください。以上」
「ずいぶん注文が多いな」
「装備を置いていくんですか? ええと……」
「避暑……」
「私も時々ヘイデン少佐の指令を伝えに宿に顔を出しますので質問があればその時にどうぞ。今は質問は受け付けません。とっとと行ってください。ちなみに放蕩娘のくだりは私の個人的助言です。それが一番しっくりくる顔をしていましたので」
「はあ。……えっ?」
「ああ、紹介が遅れました、エリス・ウリック特務曹長と申します。以後お見知りおきを。さあ行動を開始してください。サネス一等兵は自力で便所に行けるようになったらすぐに送り込みます。以上」
「…………」
「なんだこいつ口が悪いぞ。どういう教育受けたんだよ!?」
「人のこと言えない、バルトス……」
「はいはい、ヘイデン君にはすぐに出立したと伝えてね」
唖然とするサネスの代わりにアシンダルが答えた。
エリスと名乗った兵士はエイファの答えを聞かずに敬礼もせずにそのまま帰ってしまった。
「ヘイデン君の配下って結構変わった人が多いけど、これはまたずいぶん癖の強いのが担当になったね」
「どうでもいいけど早く向かわないと煩せぇだろうな」
「聞き分けの良い、バルトス……」
瞬く間にやらねばならないことが決まってしまった。
しかしそれはゴドリック帝国の躍進のための重要な任務だった。
軍曹には何がなんでも生きていて貰わねばならない。
どういう経緯でそのような凶事に手を染めてしまったのか、エイファはどうしても確認したかった。
嵐の過ぎ去った浜辺に一人の男が流れ着いていた。
日が昇り次第に暑くなってきているせいか辺りは漂流物で異臭が漂っていた。
男は大怪我を負っていた。
両目は潰れ、左腕は大きく裂傷していた。
たかっていた蠅が霧散し男に影が覆いかぶさる。
誰かが男を覗き込んでいた。
男の耳のしたの頸動脈に白い手が添えられる。
弱々しくも確かな鼓動が指の先に伝わっていた。




