希望の子 10
嵐が過ぎ去った次の日の朝、ゴドリック帝国東部。
バエシュ領はテルシェデントの港を見降ろす丘に一頭の馬がいた。
昨夜とは打って変わり清らかに白じむ空の下には瑞々しい青草が生い茂っている。
馬は朝露を浴びてのんびりと草を食んでいた。
小柄だが足の太い立派な栗毛だ。
その背中には鞍が備え付けられていた。
鞍には風変りな刺繍が施されている。
それは風の精霊を象った刺繍だった。
風の精霊はアナイの民が信仰する神々の一柱である。
教えによれば、風の精霊を象った刺繍を鞍に施せば馬は風のように走ると信じられていた。
アナイの民は島嶼に広く存在する定住地を持たない少数民族だ。
島嶼という平野の狭い地域で馬と行動を共にする彼らにとって鞍は必需品ではあるが嵩張って邪魔な道具でもあった。
そのため鞍自体も一風変わっており馬の横腹に当たる部分には穴が開いていた。
それは袖を通す穴であり、アナイの民は防具を兼ねて予備の鞍を着る風習があった。
馬から少し離れた木の下で馬の主が休んでいた。
嵐の中で一晩を過ごしたのか焚火などはない。
代わりに伝統的な長丈の外套が幕屋を兼ねており、裾に付いた牙狼の犬歯を地面に穿つことによって空気を遮断し夜の寒さを凌いでいた。
背中にまとった替えの鞍は背中と尻を覆い、座って寝ても左右にふらついたり節々を傷めたりしないような工夫がされていた。
その者は夜通し起きていたのか微睡みの中にあった。
しかし朝焼けを感じ顔を上げた。
首の隙間から手を出し冷たい頬を撫で温める。
初夏とはいえ風雨にさらされる夜は流石に堪えた様子だった。
頭巾を払い頭を晒す。
大きく息を吐くと耳輪が揺れて煌めいた。
その者は女だった。
年若く、まだ少女と呼べる幼さが残っていた。
黒髪は肩口で揃えられ後ろに撫でつけられた前髪は額巻きで押さえている。
鼻筋が通った美貌ではあったが独特な化粧をしていた。
眉はなく代わりに赤い塗料で線を入れ、左右の口角には黒丸の刺青を入れていた。
それはアナイの民が神々に純潔を誓い戦士となった時に施す名誉の印だ。
少女はアナイの戦士であり、名をラグ・レといった。
ラグ・レは立ち上がると外套を開けた。
そこには首から提げられた子守帯に包まれるように赤ん坊が眠っていた。
外気に触れて顔をしかめる赤子を揺らしてあやし、ラグ・レはゆっくりと周囲を見渡した。
食事する馬の他には鳥の気配しか感じない。
誰かが来る気配も、いた痕跡も感じられなかった。
ラグ・レは目を曇らせた。
待ち人はついに現れなかったようだ。
陽動を担ったその者が生き残る可能性は低いとは思っていた。
例え生きていたとしても、追っ手を撒くことが出来なかったのであれば待ち合わせ場所であるその丘に来ることも出来ない事になっていた。
最強の軍人との評判だったがやはり多勢に無勢だったのか。
こうなってしまっては少女は一人で残りの道程を踏破しなくてはならなかった。
対岸は遠く海の先だ。
その先に赤ん坊を無事に送り届けることが少女の使命だった。
少女は意を決したように赤ん坊を高く掲げた。
差し込んだ朝日が二人の顔を照らした。
「泣くな、呪われた子よ。惑うている暇などない」
愚図る赤ん坊にラグ・レは優しく声をかける。
それは己に言い聞かせているようにも聞こえた。
「苦難の定めにある。しかし朝日を運ぶアケノーキナに誓うのだ。人々を救えるのはお前しかいない。邪悪なる闇を打ち払えるのは、お前しかいないのだ」
瞼を開けた幼子の視界には少女の背に宿る人々の祈りが見えただろうか。
それとも少女の瞳に映った自分自身に宿命を見ただろうか。
哭き声が空に消え、一日が始まった。
登場人物、オリジナル設定が多い小説です。
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