『極彩色の教室』
作:茎麻呂
夏は嫌いだ。
汗が気持ち悪いし、虫に刺されるし、食欲がなくなる。男の視線が嫌らしく感じるのも夏である。
何よりも鬱陶しいのは、「目がちかちかする」ことだ。
この季節、セミの鳴き声が嫌でも耳に入る。そのたびに、私の視界は赤色に染まる。
我ながら詩的な表現だと思う。しかし、比喩表現でないのがつらいところだ。
通学途中はウォークマンで音楽を聞けばいいものの、学校ではそうはいかない。校則違反で没収されてしまう。覚悟を決めて耳栓をはずすと、セミの大合唱が私の目を貫いた。
ため息を一つ吐き、教室の扉を開けると、セミの鳴き声と似たり寄ったりの五月蝿さが追い打ちをかける。急いで自分の机に向かう。教室の一番後ろ、右から二番目。ここが私にとっての聖域だ。体になじんだ椅子に座り、机に突っ伏す。目をつぶると完全の闇。これこそ至福のひと時だ。机に頬をひっつけて、少しだけ涼をとる。
「七瀬、お前、いっつも寝てんのな」
私のクールタイムを邪魔しないでほしい。顔を上げなくても分かる。右隣の席の一条だ。小学生のころから十年の付き合いになる。
「何の用?」
「冷たいな、心配してやってんのに」
目線だけ送ると、彼の周りが黄色く光っている。
「嘘吐き。面白がってるでしょ」
一条は「ばれたか」と苦笑いした。
小学生のころ、私はちょっとした虐めにあっていた。持ち物を隠されたり、集団シカトされたり。今となっては「無視すればいいじゃん」と割り切れるほどの、些細なものだった。しかし、人生の経験値があまりにも少なすぎた私の心は脆くも崩れ去り、人の感情に人一倍敏感になっていた。
その結果、私には、ある特殊能力が身についた。人の感情が「見える」ようになったのだ。興奮の赤、冷静の青、好奇心の黄、落ち着きの緑。少しずつ、色の意味することが分かってきた。どうやら、感情が色に表れているらしいのだ。
世の中には、共感覚という知覚現象が存在するらしい。私もその一人なんだろうか。そう考えると少しだけ高揚感が生まれた。私は他の人と違う存在なんだとわくわくしたものだ。一条に自慢すると、そのことは隠したほうがいいといわれた。また孤立するぞ、と。そんなドラマみたいなことが起こるもんだろうかとも思ったけど、彼の言葉が紫色だったので信じることにした。興奮の赤と冷静の青が入り混じった美しい色。邪な気持ちのない、心からの心配だった。以来、この能力を知っているのは地球上で一条ただ一人である。
「やっぱり夏はきつい?」
「六月はよかったよ。雨の音で大体掻き消されるから」
感情がない音は私にとって天恵である。
「まぁ、九月までの辛抱だから」
「九月は九月で鈴虫の情熱的な赤色が目に痛い」
「……苦労するな」
分かり切ったことだ。
「あと、今日は机に突っ伏さないほうがいいよ」
「……何で」
「汗で制服が透けてる」
「……」
一条の周りに見えた青色がさらに苛立ちを生む。
明日はキャミソールを下に着ようと決心しながら、リュックサックを背負う。再び机の冷たさを得るため、闇の中へと意識を溶かせた。
三時間後。何とか一日の中間ポイントを迎えた。昼食を食べて午後に備えなくてはいけない。みんな食堂へ行ったのか、この階に残っている人はかなり少ない。この教室に至っては森下という地味なクラスメートしかいない。私は音が耳に入ってこないこの時間帯が非常に好きだ。一度だけ、食堂に行ってみたことがあるが、吐き気を催すほどの地獄を味わった。
この後はどうしようか。仮眠をとって目を休ませるか、図書館でさらなる静寂を求めるか。校舎裏でウォークマンを聞くのもいいだろう。
そう思っていた矢先、
「ねぇ、何こっち見てんの」
視界の中に異色が混ざった。
能力の発現時に嫌というほど見た、暗みがかった黄色。子供が虫を殺すような、悪意の混ざった好奇心。
森下の前に誰か立っている。あれは水島だ。プライドが高く、自分が一番じゃないと満足できない人。彼女が苦手という人は多い。
森下は、水島に何やら因縁をつけられているみたいだ。不幸なことに水島の前の席になってしまった森下は、かっこうのいじめられ役だ。元いじめられっ子だった私は、何やらシンパシーを感じる。森下からは不安の灰色がにじみ出ていた。
「何か私に言いたいことでもあるわけ」
「えっと、その……」
「授業中も目の前にいて目障りだしさ、ほかの人と変わってくれない?」
「おい、何してんだ」
そこへやってきた一条が間に入った。
「何よ、あんたには関係ないでしょ」
「水島の席は俺の席の前だろ。いつもちょっかいだしてたのはお前の方じゃんか」
そう。奇跡的に、席順が「森下」、「水島」、「一条」の順番になっていた。そして一条の隣に私の席。教室の端に固まっていた。森下がいじられていたのも何度か目にしていたのだろう。
「何だと――」
「目障りなのはどっちだろうな」
「今はあんたが目障りなんだけど」
「別に、気にしてませんから」
急に森下が口を開いた。声は微かに震えていた。
「いや、でもさ」
「大丈夫ですから」
そう言って、彼女は教室から出ていった。それをみて、 ふん、と鼻で笑った後、水島も消えた。
「怖いもの知らずだね」
「俺もあいつらにはいらいらしてたからな」
「私へのいじめを止めてくれたのも、一条だったしさ。見ててハラハラするよ」
小学生時代を思いだす。いじめを止めたのが原因で、今度は一条がいじめのターゲットになったけど、彼は決してあきらめなかった。上履きにはゴキブリのおもちゃを仕掛けたり、シカトされると反応が帰ってくるまでしつこく話しかけた。いじめっこを疲れさせるという暴挙で、いじめを根本的になくすという偉業を達成したのだ。
でも、ここは高校だ。そう簡単にはいかない。
私たちは少しだけ、大人になっている。
探していたのが財布だったことを知ったのが、ホームルームの時だった。
ホームルーム。別名、学級裁判。
誰かの訴えがあれば、誰一人として帰ることを許されず、犯人が見つかるまで永遠に教室に監禁される。そして、犯人であろうとなかろうと、疑いを持たれた人はその後の学園生活に大きな支障を来すことになる。
そこに、「盗難事件」という新たな議題が持ちこまれ、クラスには自然と緊張が張りつめる。
「今から、一人づつ、鞄と机の中を確認します」
えー、という悲鳴にも似た藍色の不満の声を上げる。何人か灰色もいる。先生に見つかってはいけないものをこっそり持ってきているのだろう。
「別に誰も疑ってないから。私のクラスで盗難騒ぎなんてするわけないもの」
そう言って、先生は一人づつ点検し始めた。この調子だと、一条が最後になるだろう……そう思い、なんとなく彼の方を向いて、思わず目を疑った。
一条からは限りなく黒に近い灰色が見える。いや、見るまでもなく彼の顔色は悪かった。
まさか。
私の視線に気づき、小声で話しかけてきた。
「どうしよう、俺の机の中、なんか見覚えのない財布入ってるんだけど」
うわぁ。
私の顔を見て必死に首を横に振った。
「違う、違うって。俺が盗んだわけじゃなくて。中に入ってたんだよ」
「……まぁ、そうだろうね」
一条が人のものを盗む人ではないということは長い付き合いから分かっている。
ただ、うわぁ、と思わずにはいられなかった。これは厄介なことになった。
「そうだ、お前の能力で犯人が分からないか? 悪人には黒色が混じるんだろ?」
「いや、悪いことをしてる人が多すぎて、まったく判別できない」
校則違反してる人多すぎるだろ、とツッコみたくなるぐらい、暗い色ばかりだ。
クラスを見渡せば、いろんな人がいる。
この状況を楽しんでいる黄色の彼。犯人が見つかることを望んでいる白色の彼女。争いが起きなければいいけどという橙の彼。
……ん?
私は一人の生徒に目が釘付けになった。
「私がもし一条を庇えたら、ラーメン奢ってくれる?」
「もしかして、犯人分かったのか?」
「確証はない。でも、予想はついた」
「……分かった。任せる」
さて。
先生は教室の半分まで来ている。この調子だと、五分後にはここに到着するだろう。
私は目を閉じる。私の世界から、色が消えていく。
私だけの世界。私だけの時間。これで集中できる。
確か森下は学食のパンを買っていた。つまり、その時には確実に財布があったはずだ。五時間目と六時間目は移動教室ではなかった。森下はずっと席に着いていた用に思える。財布を盗むことができたのは、その後の掃除の時間のみ。財布を盗むことができる「教室掃除」担当の人は……。
「一条、こっちに財布貸して」
「え? お、おう」
渡された財布はずっしりと重い。私はそれを握りしめ、じっと待つ。彼女の番を。
「じゃあ、水島さん、鞄開けて」
「どうぞ」
先生はゆっくり、鞄を確認していく。もし、私の予想が正しければ。
「……ありがとう。はい、次」
先生が水島の机から離れた時、私は確信した。
私は財布を、上に掲げた。
「森下さん、もしかして、これ?」
彼女は目を見開いた。戸惑ったように、こく、と頷く。瞬間、疑惑の目が一斉にこちらを向いた。
「七瀬、それをどこで?」
「教室掃除の時に見かけて、後で皆に聞こうと取っておいたんです」
何だ、という安堵の緑色が教室いっぱいに広がった。
「じゃあ、ホームルーム終わったら返しといてくれ」
先生の一言で、殺伐とした空気はなくなり、学級裁判は無事に閉廷。一条だけが不満そうだった。大したこともしてないのにラーメンを奢る羽目になったことがそんなに嫌か。けち臭い男だ。
でも、私にはもう一つ、やることがある。
ホームルームが終わり、全員がばらばらと帰りだす。森下が、おずおずと近づいてきた。
「余計なお世話かもしれないけどさ」
「……」
「自分を無くすような行動は、止めたほうがいいと思う」
財布を受け取った森下は驚愕の表情を浮かべたが、すぐに深々と頭を下げ、逃げ出していった。
「結局俺の机に財布を隠したのは誰だったんだよ?」
ラーメンを啜りながら、一条が聞く。私は口の中のメンマを飲みこむと、「それは分からない」と答えた。
「たぶん、森下さんは自分の財布を水島さんの机に隠そうとしたんだ。水島さんへの風当たりが強くなれ
ば、自分へのいじめが軽減すると考えたんだと思う。水島さんは廊下掃除、森下さんは教室掃除だから、真後ろの席にこっそり財布を忍ばせるのは簡単だっただろうね」
でも、アクシデントが起きた。
掃除の過程ですべての机を教室の前に移動するときに、財布が落ちてしまったのだ。森下の机の後ろに一条の机がある。だから、落ちた財布の上に一条の机が移動した。それを見た誰かが、一条君の財布が落ちていると勘違いして、彼の机に入れてしまったのだ。
「でも、証拠はないだろ? どうやって推理したんだ?」
「……森下さんの色、黄色だった」
「好奇心、か」
「そう。それも、暗い黄色」
財布が盗まれるという状況で、そんな感情が生まれるはずがないのだ。
しかも、水島の机から何も出なかったと知った時、彼女の色がすぐに黒みがかった灰色に変わった。強い、強い、不安の色。そこで確信したのだ。水島の机に自分の財布が入っていると確信していた、と。
「なんでそんな、自分を貶めるようなことを。誰かに相談すればこんなことをしなくても――」
「誰もが一条みたいに強い人間じゃないよ。私だってそう。いじめられても、一条が助けてくれるまでなにもできなかった。もし一条君がいなければ、森下さんみたいに、悪事を犯してしまったかもしれない」
いじめだけじゃない。責任感に押しつぶされる人、未来に不安を感じる人、我慢をため込んでしまう人……。全てを受け止めるには、一人のキャンバスは小さすぎる。最初は薄い色でも、様々な色が重なれば重なるほど、濃く、暗い色になっていく。その前に、誰かがキャンバスを分けてあげなければいけないのに、誰も気づかず、誰にも気づかせず、時間は過ぎていく。
「仕方なかったんだよ」
私には、それしか言うことができなかった。
「まぁ、森下さんを助けられて良かったんじゃない? 七瀬さんの力のおかげだ」
「お気楽だね。こっちはいろいろと思うところがあるってのに」
「そういった時こそ、俺に言えばいいじゃんか」
「……麺、伸びるよ」
私の一言で食事は静かに再開する。
窓には、すりガラス越しに蝉の鳴き声が赤く光る。
だから夏は嫌いなんだ。
私は誰に言うでもなく、ぼそりと呟いた。




