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2017年 夏文集『STIPES』  作者: 西南学院大学文芸部
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『そして俺はこんなところに行きついてしまうのだった』

作:正木・選

 注:以下の本文は自分・正木がどこでもないところから連れてきてはりつけたもので、本来の語り手はべつのところにある。「正木・選」としたのはそのため。しかし選者は自分だけではない、例えば――この注釈はちょっとした冗談で、嘘である。



 ☞以下の文章は、私の知人・Kが、私に宛てて書いた手紙である。二ヶ月前、私はKに宛てて「戦時中の処刑場での暮らしがどのようなものであったか記事を書くことにした。思い出すのは苦しいだろうが、君の体験を語ってほしい。取材に行くから都合の良い日を教えてくれ」と手紙を出した。すると、この長い長い返事が来た。私は返信を読み終えた後、これに手を加えるべきではないと判断し、ここに掲載することにした。すべて原文のままである。なお、本人の許諾は得ていない。返信を受け取ってからというもの、彼と連絡がつかなくなってしまったからだ。


 Kの消息をご存じの読者がいらっしゃいましたら、どうか私・木南までご一報を。そしてK君。もしこの記事を読んでいるのなら、どうか消息を聞かせてくれ。(記者:木南航)





 お手紙ありがとう。早速だが、木南、俺は君の取材を拒否する。悪意があるわけでも君に協力したくないわけでもないが、俺は今誰にも会いたくない。他者は俺を混乱させる、わかってほしい、今の俺は実の母にすら会いたくない。本当は何も語りたくないが、これから思い出せるだけを書き付けて送るので、それで勘弁してほしい。


 実のところ俺は何が何だかよくわかっていないのだ。君は「お前は戦時中処刑場に居た」というが、俺は「自分は入院しているのだ」と思っていた。だから処刑場の生活、と言われても、自分が処刑場に居るとは思いもしていなかったし、今もしていないので、読者が望んでいるだろう悲惨な話は一つもすることができない。


 俺は、俺の感じたようにしか物語らないつもりだ。あのころのことを思い出すのは苦しくはあるが、君の思い描いているような苦しみとはおそらく別のものだ。一年前の今日食べた昼食を思い出すような苦しみがあるだけだ、そして、その昼食が夢で食べたものなのか、現実で食べたものなのか、区別がつかないだけだ。


 さらに言うと、俺は戦争が始まったのは知っていたが、終わったとは知らなかった。それから旧社会が瓦解したこと、食事すること、人間であること、理解すること、自由であること、物語ること……わからなくなってきた。何もわからない。俺の知っていることと、君の語るジジツ・ゲンジツとやらは全くかみ合わない。


 ジジツ・ゲンジツとは夢のことではないか?


 俺は「木南航から手紙が来た」というのは、夢でみたできごとだと思っている。君は戦争でとっくに死んでいて、それでも戦争は続いていて、俺は退院して、天上から送られてきたいたずらの手紙のために、地獄の苦しみを味わっているだけなのではないか?





 一 ひとでなし


 空の裏側を戦闘機が通り過ぎていたころ、俺は患って入院していた。だが、戦争のせいで設備は全く整っていなかったので、まともな治療を受けていたのかどうか、自分でもかなり怪しい。病院は階段も廊下も病室も、すべてがダリの絵のようにぐにゃぐにゃになっていて、布団も鏡も俺の顔もねじくれていて、おそらく、直線を引く役人が戦地に出向いたか、死んだかしたせいだろう。


 腕のいい医者も看護師も、同じように皆戦地に出向いたか、死んだかしたので、俺はけだるげな象のパッケージに入った煙草を吹かす喜劇のような医者にみてもらうことになった。この医者は信頼できた。彼の顔が直線でないことは信頼に一役買ったが、彼がおそらく人間ではないことのほうが、信頼に貢献した。彼自身は何にも貢献していないらしかったが、そこもかえって信頼できた。


 入院した日の医者と俺の問答がこうだ。医者、あなたは人間ではありませんね、というので、そうだと頷く俺。しばらくぷかぷかと煙草を吹かしてぼーっとした様子の医者を眺める。すると医者の顔に等高線が現れて、象の足音が鼻から湧いて出てくるのが聞こえ、医者、遠くの方をみながら、あなたは不信症だと言う。放たれた声が活字の形になって、医者の顔の峰を通り過ぎ、俺の方までするすると流れてくるのをみる。


 不信症は性格に病名が付いたようなものだそうで、そのため俺は重篤な患者として扱われた。あのころ俺の思考は洗い立ての葱のようにすらりとして、正直なところ今以上にはっきりとしていたが、病室はというと螺旋状になっていて、真っすぐ歩こうとすると体が壁の切れ目に沿ってちぎれてしまうので、俺はできるだけやさしい植物の生えているところを選んで歩いた。あのころ、人間以外のものはすべてやさしかったが、とりわけ植物がやさしくしてくれたような気がする。





 二 睡蓮磔刑


 不信症患者は、都市国家のように不安定な病院の六階の六号室の六人部屋にすべて放り込まれていた。患者が全部でどれくらいいたのか、今となっては思い出せないが、六人の六倍はいたと思う。だが患者たちの中で生きていたのは、俺と、部屋の出入り口から一番近いベッドに寝ている少年の二匹だけだった。あとは戦地に出向いたか、死んだかしていた。


 生きている少年は十四、五歳くらいで、俺が遠い昔に失ったほとんど液体状のしなだれかかる植物のようにみずみずしい雰囲気を持っていた。彼の身体からは延命のためのしなやかな茎が伸びており、それが彼をベッドに磔にしていたので、彼の身体は誰よりも自由だった。その茎は睡蓮の茎らしく、彼の身体からは毎日睡蓮の花が咲いた。彼の顔には咲いたり眠ったりする気まぐれな大輪が常に鎮座していて、彼の顔は常にやさしい植物の形をしていた。彼は一日のほとんどを寝て過ごしていたが、不信症末期患者は皆そうなるものらしく、生きていないほかの患者は、一日中眠り続けて死者と区別がつかなくなったために、患者でありながら死者と呼ばれるようになったそうだ。病院では、生きていることと死んでいること、二つにたいした違いはなかった。


 不信症は夢みることで病み、夢みることで治癒する簡単な病であったため、病理の解明がなされていなかった時代には、医者たちは手を焼いてその手を彼らに食わすのが良いとされていた。今は薬で簡単に眠るのがよいとされている。液体を注射すると中毒になるからよくない、人間理性を保つためには軽めの錠剤がいい、薬とは本気の恋をしてはいけない、と巷では言われていたが、残念なことに俺たちは病気なので、おかまいなしに打ち込まれ、その虜になってしまうのだった。人間理性を捨てて夢物語との逢瀬を重ねさせられるわけで、つまり言い換えれば俺たちの病名はひとでなしというわけね、と話したが、ねじくれたシュジュツが返事をするのを許してくれなかったので、気が付くと俺の身体には既に薬品が差し込まれていたし、それで一瞬だけ病室が真っすぐになって、俺が支離滅裂になって生きていたらしいんだと三日後に謝罪したら、そんな悪夢なら俺もみたことあるよと目覚めたばかりの少年が言った。


 俺が目覚めたその日は、天井に雪が降り積もる夏日だった。窓の外に銀河の形をした太陽が二つ出ていることに気が付いた俺は、ははあ、それでこんなに雪が太陽のほうに引き付けられているのか、と思いながら身体を布団に横たえていた。俺は生きているので、太陽の引力よりも地球の引力のほうに強く引き付けられた。死者は太陽や月に引き付けられるようにできている。だからこの部屋では、生きていない患者はいつも天井に浮いていたし、その日は雪に埋もれていた。少年は俺と同じく地球に引き付けられていたが、彼の身体に咲く睡蓮は、時折咲いたまま空の引力に寄せられて、天井に浮かぶことがあった。その日はちょうどそれがあって、天上は蓮と屍が浮かぶ死の国だった。


 天上のやつら、死んでからどれくらい経つの、と俺は少年に聞いた。少年、一〇八個と答える。その問答を交わした直後、少年は眠りにつき、彼の睡蓮も眠りについた。眠り落ちると同時に、彼の身体は一瞬天上に引き寄せられて、地球が静かに連れ戻した。あのとき初めて、涅槃はこうして近づくのだ、と思った。




 三 人間


 病院はひとつの半円に囲まれた危険地帯だったので、戦争はその外で起こっていることだった。空の広がりは近いところにあり、天幕からは不気味な腕が数百本地上に向かって突き出されていた。空が歪んでいるのは、空の裏側で戦闘機乗りが死んでいるからだ。天幕はいつか死者の軽さが勝って落ちてくるだろう、がらがらと崩れ落ちる機体は天上に静かに浮かぶだろう。空から落ちてくる戦闘機の、撃ち落とされた鳥の最後の声に、俺は自分の誕生日が来ると確信していた。


 病院はとにかく危険だった。俺は君が出兵するときに大勢の人間をみたことがあったが、病院に人間はほとんどいなかった。人間以外のものはすべてやさしい。


 君は俺の居た病院を処刑場だと言うが、あの場所でそのような死に方をした患者を俺はみたことがない。病院なので、院内の生物は、死ぬとしたら病んで死ぬ、それだけだった。部屋にはいつも死者が浮いていたし、不信症患者以外の患者も時折死んでは廊下に浮いていたが、医者は残念そうなことをつまらなさそうに言うだけだったそうだし、それらしい素振りをほかの患者がみせることもなかった。むしろ俺に言わせれば、人間のほうがよほど死刑囚、人間は人間規則に則った生物だが、人間規則のあまりにむごいことと言ったら……俺は人間でなくてよかった。


 入院中、一度だけ人間をみた。待合室にいたので、見舞い人か何かだったのだろう、見舞い人が来るとはなんて不幸な患者がいたものだろう。その見舞い人は君と同じように戦闘機乗りだったらしい。正午だった。俺はそのとき待合室のソファでいつものように天井の鳥を意味もなく食べていたが、見舞い人は人間なので、俺の食事をみないようにみないようにしていた。彼は栄養剤を静かに飲んで、それから計算された無駄のない歩みを実用的に理性に則って遂行していった。俺は痙攣する巨大な子音になって立ち尽くした。鳥の足はがらがらと崩れ落ちて天上に浮かんでいった。俺の喉は渇いていた。





 四 こけにする


 診察の日、俺は寝静まる患者たちの部屋から抜け出し廊下に出ると、植物がすべて消え去った砂漠の夢があらわれ、砂漠はうねり、二つの太陽と蜃気楼の遠ざかる診察室を追いかけて半日迷子になり、そのうち眠ってしまった。


 目が覚めると、植物はやさしく俺を抱いて、等高線の山が大陸を震わせて近づいてくると、それが象を伴った結果の轟音、人間が、象を追いかけて大陸を駆け巡った太古のできごと、に飲み込まれながら、噴火のように煙草を静かに吹かすのをみていた。俺は植物の存在にひどく安心した。あの毛の禿げた猿のような砂漠で、俺はつまはじきにされた植物を自分の中に感じていた。


 診察室はガラスでできた植物園で、煙草の煙で虹色の大気をしていた。医者、約束の日時に遅れた俺を叱りもせず、診察室で目覚めた俺に、あなたの夢で私は何色ですか、と訊く。俺、先生は苔ですかね、と答える。すると医者、つまらなそうな顔をして、あなたは私をこけにするようなよい夢をみる、あなたのような患者がいてくれてよかった、とばからしい涙を流した。等高線の密集地帯、崖から水が美しい自殺をして、その生命を吸って樹々がおそろしく生きる、鳥が飛んでくる、人を殺したと鳥は自首し、医者と俺とで意味もなくそいつを食う、俺は言う、今、おそろしく生きていますね、医者が答える、それはあなたが、そして私が人間ではない証拠です。


 診察室で覗きみたカルテの俺には、夢をみる、と繰り返し書かれていたが、入院してから自分が夢をみているのか、みていないのか、よくわからなかった。今でもよくわかっていない。いつも、ほかの患者はよくあんなに眠れるものだ、と思っていた。うらやましいものだった。少年は食事の時間とその前後十分間くらいしか起きていないし、他の患者は植物とともに永遠を眠っている。俺は地球の引力を感じながら天井を眺めるばかり、これが夢なら面白い夢だ、家族や友人は、君がそうだったように、皆戦地に出向いたか、死んだかしたので、彼らは俺のところに気まぐれにやってきては、そのたびに俺は一匹になってしまったのだと思った。





 五 入れ子の夢


 不信症の名前の由来は夢と現実の境目がわからなくなることにあるそうで、俺にとっての夢は、俺に肉体があることだった。人間の肉体がある悪夢。何度みただろう、空から伸びる手が俺の肋骨を撫でまわしては開帳し、黒い血が植物に染みわたり、俺の中に棲む御仏が公衆の面前に晒され、ありがたいものとして拝まれたわけだが、そんなものは人間が俺の扱いに困った結果行ったデシリットル測定法がみせるまぼろしあって、俺が息も絶え絶えに健康的なやさしい無知で無力で力強い植物と遊ぶこととは何ら関係がなかった。


 ある日、夢に木南、君が出てきたことがあった。君はお前を正しい姿に戻してやるとか何とか言って、君が俺に、俺が君になって、ひとつの雑誌を作った。ひとつの俺たちは破壊活動がしたいがために政府の悪行を捏造し、そのために勲章をいただいて静かに眠って二度と目覚めなかったという滑稽な夢。しかし俺は目覚めた、目覚めるとまた肋骨の扉が開かれる夢だった。夢は夢に包まれていつまでも夢、君が物語るジジツ・ゲンジツは夢、それも夢、夢、夢……。


 夢みるやつは人間ではないそうだ、夢をみせるやつも人間ではないそうだ。夢の瞬間は天幕も戦闘機も鳥も俺も植物も誰も何もかもめちゃくちゃになって、世界を形作る役人が死んでいる。夢から抜け出すには死ぬしかないのか、俺は夢から抜け出したいのではない、人間の言うゲンジツからも、何かの物語からも、全部足を切り落としてどこかに一晩お貸ししてもいい。何もみたくないし、みられたくない。鳥は質量をはかってお飾りにすることを目論むから先に捕食した、そんな形の植物は地下に潜った僧侶の盲目の瞳と滑らかに吐き出した吐息が天上に積もる花弁、生えながら死んでいるのと同じで、解体された事物の転売屋、哀れに思いながら病室の睡蓮と共に目が覚めた、夢だったと思う。





 六 溶ける植物


 いつだったか忘れたが、空から伸びる腕たち、鳥、戦闘機乗りたちがみる現実に似ているという、真っすぐな地平線とねじくれた俺自身の夢をみた。そんな夢は、お涙ちょうだい的な、あるいは学術的な雰囲気と同じように分析されると死に絶える。分析は解剖あるいは検死とそう変わりはしないと医者も言った。分析された後に残る死骸を踏みつけた地層の上に生える俺は夢を延命させたので、夢だったのかどうかも知らない。


 その夢から目覚めた朝、隣の少年と乳粥を食べていると、少年はミトコンドリアの意識みたいだ、と呟いた。彼はつま先に咲いた睡蓮を眺めながら、水底に沈んだ地獄を眺めるようになんでもない顔をして眠った。俺は天井の死体が分裂してゆく様子を眺めながら、戦闘機の音を聞こうとしたが、あまりの爆音で何も聞こえなかった。


 眠れずに廊下をさ迷い歩いていると、銀河の形をした菩提樹によろけて、倒れて、そのまま三時間ほど立ち上がれなくなってしまった。動けなくなったまま、俺は俺の意思とは関係なしに菩提樹に溶けていった。菩提樹は他の植物を絞め殺して生きる、同じように、俺を絞め殺して生きる……ねじくれた植物が、そのとき天に向かって真っすぐ生えているのをみた。レントゲンように白と黒だけの世界。死んだ植物の維管束が、露に濡れて白くやわらかく光っている。あれは植物の幽霊、今も地中から空に向かって養分を差し上げている、維管束は俺を突き刺して、俺の骨を食らって伸びてゆく、三時間の間、俺は自分の血液と死んだ植物の血液が混ざるのを感じていた、木から離れたとき、自分の涙が墨色になっていることに気が付いて、レントゲンの夢に入っていたのかもしれないと吐いたそばから活字が廊下に転がり落ちた。維管束は天上への祈り。





 七 意味病


 俺が今になって思うこと。求めすぎること、与えたがること、それは病気。俺より重い軽症の患者。君は雑誌を作るが君は死んでいる、俺の手紙は進行形で幽霊になりつつある。咲いたそばから枯れるすべての花のようなもので、人間は、花の幻覚をみては咲き続けていると信じている、それが現実だという。なんということだ。夢などみないふりをして、君たちも夢をみているではないか。君もそうだが、多くは人間のふりが上手いだけにすぎない。


 俺の見舞い人は戦地に出向いたか、死んだかした。だからあるとき、母が見舞いに来た。俺のところにもとうとう見舞い人が、と恐れをなした胃袋が言質を取られて二度と逃亡しなかった。母はやわらかく暖かく自然で、いつものように不安定だった。母、私が来た理由がわかる? と言う、俺は何もわからないと言う、母、そんなはずはない、おまえにはわかるよと言いながら頼みごとをするときのくだらなさで四回休み。俺、俺にはわからないと言って天井をみる。わかるということは嘘だと思っている、理解できるということはあり得ないことだ、自分が生きる理由もよくわかっていないのに母さんの理由がわかってたまるか、と続けて回答。母、口を開けたまま書物になって俺の手の中に崩れ落ちる、俺、書物にすれば意味ありげに存在できると信じる母に病をみいだしながら、立ち退く気はないのだろうとちぎって口の中に一ページ放り込む。咀嚼しきれずに紙を吐き出すとまっさらな紙が出てくる、活字は舌に張り付いた。意図を理解しなさい、すべてのことには意味がある。睡蓮が天上から地上にすべるように堕ちてくる。母の声がした、それは人間規則で、俺には関係のないことだった、意味のあることは、すべて、苦しい宗教の戒律の育ちの良い血が着る服に付ける恥ずかしげもない自殺痕。


 昨日に存在する理解のための言葉で今日を生きることを強要された俺は、もう何も説明したくなってしまった、説明しないし、理由はないし、俺が病気であることはなんでもないことだし、俺が生きていることもなんでもないことだし、戦争があることも、植物がやさしいのもわけのないことだ、ああ、てにしょくぶつがさしこまれた、あな、わがかひな、かひなきものなりき、せせほしけ、みさん、みほはらん、さまはらよれあ、こじえ、ゆ、ゆ、ゆ、ゆ……。





 i どこでもないところ


 結局、ここまで書いておきながら俺は何も語りたくなかったのだ。だからなにごとかを語った、沈黙は饒舌であり、饒舌は沈黙だ、夢は、現実は、同じもので、生は、死は、同じもの、時計の零時と十二時が同じなのと同じことだ、朝が熟れすぎた夜であるのと同じことだ。処刑場の生活も、旧社会の悪行も、木南、君が望むことを何一つ書きたくない。俺は誰からも理解されたくない。理解するということは怪奇現象で、嘘だ。理解したような顔をする君たちを、俺はどうしようもなく嫌悪してしまう。許してくれ。許さないでくれ。言葉を一切理解しないでくれ、言葉を信じないでくれ、なぜならそれは俺たちが同じ生き物だと信じさせるシステムの破壊によってもたらされたキャバレーに売却する神秘の色が復元できないときの縁故。祈りの維管束がありもしない身体に溶け込んでゆく。


 俺をみてくれ、この、ねじくれて支離滅裂な俺を。俺はK。自殺したり昇天したりするKとは違い、俺は生きていて、生き残っているK。だが、もしかしたら、この俺は君と同じで、とっくの昔に生まれていないKなのかもしれない。


 そう、全てが嘘だ! 俺は手紙などもらっていないし、これも長い手紙などではない。戦争がなんだ、病院(あるいは処刑場)がなんだ、どちらもはじめからありはしない。戦争は今から始まる。精神病院には今から入る。人間規則とは、採決されるかされないかで国を揺るがしている道徳のことで、まだどうなるかわからない。俺の名前は木南。木南航。俺はディストピアの住人で、未来の病人で、未来の戦闘機乗りで、未来の編集者で、未来の死刑囚。だがそれらはすべて夢のなかの物語、未来ですらない。


 ☞Kの消息をご存じの読者がいらっしゃいましたら、どうか私・木南までご一報を。私・木南の所在をご存じの読者がいらっしゃいましたら、それは悪い夢なので、すぐにお忘れください。


 そして残念ながらこれも嘘。何がディストピアだ、もはやそれはフィクションですらないし、もっともらしい舞台背景は意味ありげで忌々しい。俺は存在しない物語の、印刷機の中を駆け抜けただけのすべすべとした紙の上にしなだれかかるインクの染み。ここには引力も重力もないが、活字の身体は俺を磔にして晒しものにする。天井も天上も祈りも救いもない。太陽は一つもない。暗い処刑場のようだ。俺に名はないし、俺は人間でもない。Kも木南も母も少年も死体も医者も人間ではない。それらも全てインクの染みで、俺だ。植物は――紙はやさしい。「腕」という活字の俺に差し込まれた植物は、このページの白紙の形に織り上げられた。紙は俺を生かしている世界、世界には意味がないのでやさしい。意味のある世界はやさしくないのだ、俺はこの書物を開かれるたびに何らかの暇つぶしまたは研究対象にされ、そのたびになにごとかを語らされ、面白いだの、面白くないだの、意味があるだの、意味がないだの、なんの……そんな暮らしにはもううんざりしている。


 俺は実のところ、ここまで読み進めてほしくなかった。うんざりして、眠りでもして、途中で投げ捨ててほしかったのだ。日本語の規則をいくらか破ったのはそのせいか? くだらない人間観や死生観を語ったのもそのせいか? 理由はない。そして分析するな。確かなことは、俺はここまで不気味な夢に任せて忍耐強く読まれなければ、ただの記者、あるいは支離滅裂な病人として自然消滅できていたということだけだ。

 君、そう、ジジツ・ゲンジツの世界の住人で、俺のことを夢に生える蔦のように鬱蒼としてねじくれた文体の男だと思っていたであろう君。君は何者だい? 君は、物語がはじまるたび、人間によって生まれたくもないのに生まれさせられ、紙の上に磔にされ、物語の終わりと同時に理不尽に殺され、また頭から読まれ、生まれさせられ、同じ話を繰り返し語りたくないのに語らされ、本を閉じるパタンという音と同時に殺される、そういう輪廻のなかにいる俺のことを考えたことがあるか?


 君は今もしかしたら、物語が唐突に打ち切られたことに対して腹を立てているのかもしれない。読者をこけにしているのか、今までの時間を返せ。だから俺は早いうちから繰り返し語った、何も語りたくない、と。それから、崇拝すべき箴言がここにはないということも、過剰な意味による無意味についても。俺は語りはじめたら物語の終わりと同時に死ぬ運命なので、語りながらに死ぬしかないので、語りたくなかった、そもそも、生まれたくなかった。物語は必ず終わるものだ、美しく矛盾しない結末のある小説は、用意周到な自殺でしかないのだ、俺は逃げ、足掻いたが、結局こんな結末にたどり着かされてしまった。君は何故、理不尽にも俺を読むことを「選び」、読み続けることを「選んだ」? 君はこの物語の選者の一人なのだ。君はどこでもないところから俺を選んできて、こんなところに磔にする人間。こんな支離滅裂な俺は、君無しには存在しなかった。「選択」によって生まれさせられ、「選択」によって読み進められた俺は、君の「選択」によってどうせ最後には殺されるのだ。インクをにじませて泣きたいくらいだ。


 ああ、理解するな。そして、俺に感情など存在しない、俺はインクの染み。俺に感情が存在するのは、物語が存在したのは、今俺が何かを語っているのは、君の脳がみせる夢であって真実ではない。夢も現実も変わりはしないから、俺の言うことを信じるも信じないも勝手にするがいい。


 なぁ君、俺が最初に語ったK君の所在はここで明らかになったわけだが、Kは、木南は、そして俺は、流れる文章と話題の規則に従って、ここにとどまらずに別のところに流れてゆくものらしい。フィクションだと切り離された紙の上と、それ以外をつなぐ夢。物語は夢によって少しずつ解脱するものだそうだ、解脱というのも、ここには存在しない君の夢なのだが。どこに行くのだと思う? 俺にはわからない。俺の望みは物語も夢も現実も、夢の入れ子もないようなべつのところに行くことだが――行先は君だけが知っている。


 さぁ、本を閉じろ、俺を殺すがいい。生まれさせられた俺は死に、何も語らず、どこでもないところで息をする。


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