My dear mummy
――――駆け上がる。どこにも足掛かりのない産道を。あの、無限に広がる新世界を目指して。
羊水に阻まれる力は、容赦を知らないプレス機に挟まれているかのようだ。子宮を蹴る爆音は、血に飢えたスパルタの進軍のようだ。
羊水は次第にマグマの如き熱を帯び、翼を求めた私たちに最後の試練を課す。
聖母の清らかな膜を破り、私たちは広大な新世界で小さな羽を広げる。
私たちは生まれて初めて、母の姿をその目に焼き付ける。そして、その美しさに思わず産声を上げてしまうのだ。
初めて『母の愛』を授かった彼がそうであったように。
現代から創生の時まで、私たちは今、全てを目の前にしている。
この不可視の色彩で満たされた宙から羊水を湛える青翡翠の地へと続く全てを。
私たちは此処に生きている――――
座席に就き、各種機器の点検をしながら目にしたモニター越しの大地は、既に遠く感じられた。
それは物悲しくある一方で、「独立」なんていう嘴の黄色いヒヨッコが抱きそうな抑え難い『冒険心』も多分に含まれていた。
模型を作ることで満たしていたあの頃のように。
しかし、たった今、模型では得られない『本物』を、私は満たそうとしている。
厳しい訓練を耐え抜いたご褒美は、「感動」という言葉では表しきれない。
私もまた、先駆者である彼に倣って、愛おしい『母』を自分の目で見て、自分の言葉で形容できるかと思うだけで胸が一杯になる。
「恋人への最後の挨拶は済ませたか?」
「バカ言え。これから最っ高の女神とご対面なんだぜ?そんなことしちまったら口喧しい女の所になんか二度と帰らねぇよ。」
「あら、それなら私がその『女』の代わりになってあげましょうか?」
不謹慎なジョークを飛ばし合い、優秀な私たちはこの興奮を紛らわせている。
『パイロット諸君、せめて口喧しいママの所には帰ってやるように。』
管制塔からの指示で、私たちはとうとう、運命のスイッチを入れる。
駆動音と共に、船に巡る血がこれを、鉄の人工物に姿を借りた隼へと成長させ、翼からは『太陽の神』に恥じない『無限の可能性』を宿した光で私たちを宇宙へと導いてくれる。
巻き上げる噴煙はウェディングドレスの豪奢なフリルのように地面に広がり、宇宙の神に処女を告げる。
発射の瞬間、それを脱ぎ捨てる瞬間がまさに「最高」だった。
それまで権威や社交だとか、『犠牲』を強いられてきた『全て』を、言葉通り「脱ぎ捨てた」ような生まれたての自分に孵ったような感じがした。
快感が感覚を鋭敏にさせているのか。訓練で受けたよりも、重力の産道は私に辛く当たっていたように感じられた。
グングンと、新世界が近付いてくる。
景色は走馬灯のように、私が経験してきた中で最高の速度で流れていくのに、心は羽化したばかりの蝶が羽を伸ばすように、時間をかけてユックリと体感していく。
私は、新世界へと生まれ落ちる『新生児の誕生』を自覚していた。様々な『感動』が私の中で咲き乱れる全ての瞬間を感じ取っていた。
飛ぶ、飛ぶ、飛ぶ。
純黒の宇宙の、その最果てまで、私たちは止まらない。
そうして私たちは遂に、古巣から顔を覗かせる。
『……どうだい、そこからの眺めは。手を振っている私たちの姿がみえるかい?』
「そうだな。その皺だらけの顔さえ見えなけりゃ最高の光景だよ。」
そんなことはない。この場にいたなら、その脂だらけの額にだってキスをしたに違いない。
「……生きていて良かった。」
そんな言葉しか出てこない。もう、何もかも忘れてしまった。
心の成長は時間の流れに遵守しないことを私は知った。新世界では私は何もかもが『赤ん坊』なのだ。
この20数年で身に付けたことが全部、ただの『お飯事』のように思えた。
けれども、たった一言の感謝の言葉を覚えていただけでも、はち切れんばかりの『幸せ』を感じることができた。
そして、彼の言葉が正しかったことを実感する。
「青い……。」
彼女は、腕の中を走り回る子どもたちを愛おしそうに抱き締め、青く、輝いている。
「生きていて、良かった。」
私はもう一度、産んでくれた地球への感謝を言葉にした。
※My dear mummy=大好きなお母ちゃんへ
※太陽の神=エジプト神話の主神「ラー」のことです。体は人、頭はハヤブサという姿をしています。「闇より生まれし光」とも呼ばれたり、原初の神「アトゥム」と同化して宇宙の起源神「アトゥム・ラー」と呼ばれたりしているそうですが、今回の話に特に深く関わる訳ではないので、注釈はこのくらいにしておきます。
※遵守=法律や規則、マナーなどに従い、守ること。
※宇宙飛行士はどんな状況に陥ってもパニックにならない訓練を受けているそうなので、実際は発射時にここまで感動に身を躍らせる詩人チックな精神状態にはならないかもしれません。彼女のように初飛行ならなおさらですね。