六杯目 月光
「何よそれ! そっちが勝手につけた名前を、今度は取ってやる⁈ ふざけるのもいい加減にしなさいよ!」
「すまない、謝ってどうにもなるものでは--」
「そうよ! 謝ってどうにもなるわけないじゃない!」
すっかり輝きを失って。木の玉と成り果てた神威が床を撥ねる。
憤りを床にたたきつけ、泣き声交じりにルナは訴えていた。その小さな体を精一杯に震わして、爆発する心の破片を絞り出す。ユーリカはひるまず、目を背けず、その激情を受け止めていた。
「だから嫌いなのよ貴族なんて! なんでこんなところに来たの! なんでお兄ちゃんと仲良くしてるの! なんで、なんで……!」
声には次第に嗚咽が混じる。「なんで、なんで……」と壊れた古時計のように繰り返す妹を、ただ見ていることなどできなかった。
ゆっくりと椅子から立ち上がり、ユーリカとの間に割り込むように、ルナリアをやさしく抱き留める。
もう、声に威勢は残っていない。ただのか弱い子供が、俺の耳元で泣いている。
「なんで、おにいちゃんまで、つれていっちゃうのよ……」
「……」
彼女が泣くことなんて、それこそいくらでもあった。四年、二人だけで生きてきたのだ。なだめ方だって心得ている、つもりだった。つもりだったのに、俺の言葉は続かない。背に回された妹の小さな手が、俺の心までも鷲掴みにしているようだった。
「ユーリカ」
「……何だ?」
「ごめん。この話は、また今度にしよう」
「あぁ、すまなかった」
背中越しに、ユーリカが立ち上がったのが分かった。床を軋ませて、彼女がこの場を去っていく。ちらりと横目に見たその背中は、先ほどまでと同じ彼女の背中には思えなくて。ぱたんと閉まるドアに俺は声をかけずにいられなかった。
「ごめん……」
机の上、未だ湯気を立てるカップの隣には、淡く輝く神威が拾い上げられていた。
草木も眠る……とはいかない夜。妹の情操教育上よろしくない声が聞こえてきたりするが、俺もルナも、もう慣れたものだ。
昼は温かくとも、夜は冷え込むこの時分。明かり一つない家の中、申し訳程度に広げた布の上、俺とルナは体を寄せ合う。中古屋で買ったせんべい布団では、今の季節には力不足であった。
「お兄ちゃん」
「どうした?」
「……行っちゃうの?」
「どうだろうな」
妹が俺の胸に顔をうずめる。その髪をすくように撫でてやりながら、俺は考える。
《ジス》は忌み名。聖刻を与えられず、人の尊厳を認められない。それはつまり、奴隷狩りにつかまってしまえば、奴隷に身を落とす以外に道がなくなることを示していた。金持ちに可愛がられるのならいいのだが、戦争中のガラスク国とゴラム国では兵士として、いや、駒として使い捨てられるのが奴隷だ。
であれば、妹のことを考えて依頼を受けるのが良いのだろう。そんな論理に、愛情が滑り込む。
「わたし、お兄ちゃんが一緒にいる方がいいよ」
「……お父さんの本が読みたいって、言ってたじゃないか」
「お兄ちゃんに読んでもらうもん」
消え入りそうな、縋る声色。寒さとは違う別の理由で、彼女の身体は震えていた。
『おかあさーん、つまんないー』
『あらあら、甘えん坊さんね』
心の中に、暖かな風景が蘇る。妹がこうやってべったりとする相手は、本当は俺じゃなかった。
ルナは小物を編む母さんの膝に座るのが好きだった。ルナは聖術で氷の馬を作るあいつが好きだった。六歳の彼女は、もう少しで私もお父さんと同じに聖刻がもらえると、無邪気に喜んでいた。
それをぶち壊したあいつに、プラム・ジス・アガペルに、やはり俺はなってはいけない。
「痛いよぉ……」
「おっと、って、もう寝てるのか」
気づかぬうちに、手に力がこもっていたらしい。目元を赤くはらしたルナの寝言でそれに気づく。
「痛いよぉ、お父さん……」
「--っ」
妹は幸せそうに笑っていて。俺は静かに、布団を抜け出していた。抜き足、差し足と玄関に向かい、夜風を迎える。半月がの明かりがさし込んで、目が眩む。
「ダスクか、夜更かしは体にさわるぞ」
「……そっくりそのまま、お返しするよ」
思考を重くする眠気がなければ、騒がしく声をあげたに違いなかった。戸を開けて外に出て、玄関脇に立ち尽くしていたのは、ユーリカ・フォン・フラウリッヒ、その人であった。
「妹殿は寝たのかな」
「あぁ、泣き疲れてな」
ルナを起こさないようにゆっくりと扉を閉め、その場にどっかりと座り込む。ユーリカは手で口を隠して、小さなあくびをかみ殺していた。
「それで、ユーリカは何を?」
「今度とは言われたが、いつとは言われなかったからな。仕方なく、ここで待っていた」
「……へ?」
「なんだ、おかしいか?」
小首をかしげるユーリカを見上げて、思わず吹き出す。つられてユーリカも照れくさそうに微笑むのだが、華やぐようなその笑みは、すぐになりをひそめてしまう。
「--やはり、私はおかしいのだな」
「……」
きっと今のことではない。だからと言って何を言っていいかもわからず、俺は次の言葉を待つ。
「貴族の世界など、本当に狭いものだったのだな。私には、知らないことが多すぎる」
「そんなのは、誰だって一緒さ。俺は逆に貴族の世界を知らない」
「そんなもの知っていたって、妹殿を怒らせたのは私で、なだめたのがダスクであることは変わらない」
あそこにユーリカが直接の原因である部分が少なかったように思うが、そんなことを言ったって、月を見上げるユーリカにはきっと意味がないのだ。俺は月に照らされて不可思議な魅力を放つ彼女を、ただ眺めることしかできない。
彼女が手慰みに左手の上で緑の淡光を灯す。数刻とたたずできたものを月にかざし、自嘲的に笑う。それは雄々しく前足を振り上げる、氷の馬。
『道を示すばかりが、導きではないよ』
思い出したくもない声が、頭の中に響いた。
「ユーリカは、どうしたいんだ」
「……え?」
「知らないことが多いんだろ。それで、ユーリカはどうしたいんだ」
虚を突かれた、そんな言葉が今のユーリカにはふさわしい。
我ながら、脈絡の良くわからないことを言ったものだ。何より、あいつの言葉に従う自分が気に食わない。
けれども、先ほどと打って変わって考え込むユーリカを見ると、あながち間違っていなかったのだろうか。
「……そうだな。ダスクの妹殿と、仲直りしたい……のだろうか」
「王命はいいのか?」
「君はどうせ、妹が反対する限り首を縦に振らないのだろう?」
「--よく知ってるじゃないか」
冗談めかした一言に、軽口を返す。ユーリカは俺の隣に腰を下ろして、続ける。
「今日の君とのひと時は楽しかったし、あの純粋な怒りを受けるのは悲しかったのだ」
「そうかい」
「そうだ。国の命を受けながら、不謹慎ではあるのだがな」
そう言うなり、彼女は襟元の徽章を外して、俺に差し出した。
「これは?」
「私の覚悟だ」
「と、言うと」
「これは私の誇りだ。私が妹殿と仲直りを果たした時に、返してくれ」
返事も待たず、強引に俺の手を取って握り込ませてくる。その手も、徽章も、驚くほどに冷たかった。
「まったく、変に大げさで生真面目なんだな、ユーリカは」
「それを言うなら、ダスクはあまりに、お節介だ」
ただ月だけに、見守られ。二人の歓談は、夜通し続いた。




