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四杯目 ルナリア・ジス・アガペル

「なんだ、臭うな、ここは」

「そりゃあ、下水が近いからな」


 この手元のツボを買った時に比べ、周囲の様子はだいぶ異なる。

 まずもって、人通りがない。しかも、どこかすすけた裏路地はあまりに狭く、夕日が足元まで届かない。道の端に座った浮浪者が、暗い瞳でこちらを見上げる。

 その左手に、聖刻はない。


「まさか、ここまで違うとは」

「そりゃ、そうだよ。この辺は《ジス》の掃き溜めなんだから」

「そんなものか」

「こんなものだよ」


 時折すり抜けてくる日光が、ユーリカの徽章を照らす。その輝きが浮浪者や、時折すれ違うならずものの目を引いていることに、彼女は気付かない。そこそこ顔の通った俺がいなければ、何が起こるか分かったものではない。

 それだというのに、ユーリカは気付かない。

 貴族だから、その手の視線にさらされたことがないのかもしれない。しれないのだが、最大の理由はもっと単純だ。

 彼女は、この街並みも楽しんでしまっているのだ。


 ここに入る前から、予想はできていた。

 いや別に、ユーリカがここのような下の下の生活を見て悦に入るような下種と言っているのではない。彼女はあの行商だけでなく、さまざまの店や建物に興味を示していたのだ。

 見るもの聞くもの、すべてが珍しい。それはあの時の彼女のことを言うのだろう。顔に素直に出るわけでもないのだが、そうでなきゃあ、あんな活力があってたまるか。

 おかげで、俺の足は今にも棒にならんとしている。


「それで、ダスクの家まではどのくらいだ?」

「もうすぐだよ」


 ユーリカは誰が置いていったのかも知らない木箱に興味を示しながら、俺はそんなユーリカを眺めながら角を抜ける。その先には、視界の大半を覆ってしまうほどの石の壁。魔獣から街を守るための、冷徹な境界線。

 その足元に、俺の家はあった。

 壁に寄りかかるようにして建った木切れの数々。そのうちの一つが俺の家なのだ。


「ふむ、これまた見たことのない家だ」

「嫌味?」

「嫌味? ダスク、私はそんな陰湿なことはしない」

「だろうね」


 微笑んだ俺に、ユーリカは眉をひそめて首をかしげる。見た目に反して愛らしいその仕草は、結構ぐっとくるものだ。

 しばらく眺めていたいものだが、彼女はすぐに目を険しくして、全部同じような豆腐型の家の一つをにらむ。


「……何やら、騒がしいようだが」

「気にするなって、いつものことだ。ちなみに、あれが俺の家」


 指さすのは、まさに男のが鳴り声が聞こえる一つ。


「……ん? それは、それは大丈夫なのか?」

「気にするなって。いつものことだ」


 別に驚くことでもないだろう。つったかつったか歩く俺に、ユーリカが追いすがる。さっきまで逆だったものだから、なんだか気分がいい。

 だんだんと近づく、開け放たれた戸口。だみ声が聞こえてくる。


「てめぇ、調子に乗りやがって!」

「おい、危ないんじゃ--!」

「あぁ、危ないな」


 飛び出そうとするユーリカを抱き留めて、戸口から離れる。

 --おっ、意外と……。


「ぶへぇっ!」


 情けない悲鳴とともに、大の大人が二転、三転。汚い衣服をみすぼらしくびしょびしょに。大の字に倒れて染みを作る。


「どう? その汚らしい服も少しはマシになったでしょ?」

「ひ、ひぃぃ!」


 ユーリカが目を丸くする中、男が無様に走り去る。それを追うように歩み出てきたのは一人の少女。

 俺とおんなじ亜麻色のポニーテールを揺らす彼女。その身長は俺の胸までしかない。手の上で淡光を発する球を弾ませているのは、不機嫌の表れだ。


「まったく、懲りないのねぇ」

「お前もな。水系の神威カムイは掃除が大変だからって言ってるじゃないか」

「えっ? --お兄ちゃん! 帰ってたの?」


 少女が玄関脇の俺を見つめ、文字通り小さく跳ねる。球を両手で胸に寄せ、愛らしい顔いっぱいに愛らしい笑みを咲かせた。

 彼女こそ俺の妹、ルナリア・ジス・アガペルだ。

 その頭を撫でてやれば、向こうから手触りの良い髪を擦りつけてきてくれる。


「もうっ、帰ってたなら言ってくれればよかったのにぃ」

「だって取り込み中だったみたいだから」

「気づいてたのなら助けてよ⁈」

「ルナなら大丈夫じゃないか」


 ひどい、鬼、鬼いちゃんと、妹は楽しげに罵倒する。ほほえましいこと限りないこの光景、これもまた、長続きしてくれない。


「ダスク、このお嬢さんがもしや」

「あぁ、こいつが--」

「お兄ちゃん、何で」


 妹の動きが止まったのが、頭を撫でる手を通してわかる。絶対零度の声色。

 妹の鋭い視線。それが向かうのは、隣のユーリカの、その襟元。

 冷や汗が頬を伝った。


「いや、違うん--」

「なんで貴族なんかと一緒にいるの……?」

「いや、貴族だけど--」

「言い訳が聞きたいんじゃないの」


 妹が俺を押しやる。不意を突かれ、思わずよろめく。

 妹はと言えば、きれいな投球フォームを取っていた。


「ちょ、おま--」

「お兄ちゃんのこと、信じてたのにぃ!」


 球が胸板にぶつかる。瞬間、光が強まって。


「うわぁぁぁ!」


 俺の妹は可愛い奴だ。

 留守を守ってくれて、俺のことが大好きで。

 そしてなにより、貴族が嫌い。

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