新年の挨拶
1月1日。天気は見事な日本晴れ。雪も降らず、例年と同じく過ごしやすい新年となった。
「明けましておめでとうございます」
元旦の朝、十時を回った頃合いのこと。
近くの神社で簡単な初詣を済ませた僕は、普段からよくお世話になる吉野家に、道すがら顔を出しておこうと思い、寒空の下営業中ののぼりを掲げた『お弁当・お惣菜のよしの』の暖簾をくぐった。年末年始こそお弁当屋の本領発揮、というおばさんの意向で元旦も休まず営業中の店内は暖かく、お弁当のいい香りが充満している。
「あらタダアツくんじゃない。明けましておめでとう」
暖簾をくぐった途端に少し曇ったメガネを素早く拭いてかけ直すと、店内の販売カウンターに立っていたのはいつもいる『吉野のおばさん』でも幼馴染の調でもなく、僕より三つ年上の女性だった。
「詩織さん、帰ってらしたんですね」
吉野詩織さん。吉野家長女であり、調の姉であり――そしてある面では僕の目標であり、師匠のような位置づけの人物だ。
確か今は県外の大学で歯科衛生士の勉強をしているとかどうとか。年末年始のお休みを利用して帰省しているのだろう。
「26日にねー。タダアツくんは初詣の帰りかな?」
「分かりますか」
「そうねー。匂いでなんとなく」
匂い? 初詣に何か特有の匂いがあるのだろうか? 自分の袖を嗅いでみるが、 特に変わった匂いはしない。
では、匂いというのはある種の近く情報の集合体の比喩と言うことなのでは――などと考え込んでいた僕を尻目に、詩織さんはおっとりとした様子で「ちょっと待ってねー」と言い置いて、住居区画の二階につながる階段を覗き込んだ。
「調ー、タダアツくん来たよー」
「はぁっ!?」
ガッタンと一つ、何か重めのものを倒した様な音がして、すぐにバタバタと騒々しい足音が二階から駆け下りて来たかと思うと、
バスンっ! 「っとぉっ!?」ドタン!
……出口間近から物騒な音と奇声が聞こえて来て、足音が止む。音が鳴った瞬間、一部始終を見ていたであろう詩織さんが首をすくめて、痛々しそうに「ちょっと大丈夫?」と声をかけている事から見て、多分何かに足を引っ掛けたとかそんな所だろう。いつもは別に何か置いてある場所ではないし、お正月飾りを置くような場所でもないので、多分厨房からはみ出したお弁当関連の何かということになる。食材や食品に触れる物を無造作に置くとは思えないから、多分毎年おせちセットに添える十二支の置物か何かを入れた段ボール辺りか。
「階段を走ったら危ないぞ、調」
調の場合、言っても無駄な確率が高いけれど、念のためそう声をかけておく。
「……誰のせいだと思ってるのよ」
この段になってようやく顔を出した調はスウェットのパーカーとパンツの上下セット、とお正月らしさや色気とは完全な対極にある普段着姿だった。まあ、同じくいつも通りのダッフルコート姿の僕に言える事じゃないけど。
「いや、もし僕のせいだと言いたいなら、それはさすがに理不尽だと思う」
別に急かしたわけじゃないし、僕に調の暴走を止める手立てがあったとも思えない。高校生に向けて、何の脈絡もなく「転ぶと危ないから階段はゆっくり歩いて来る方がいいよ」とでもいえばよかったのだろうか。
「……それで、新年早々何か用なの?」
怒ったような、訝しがるような顔で、眉根を寄せてそう聞いて来る調。正直に言うと調本人にと言うよりは吉野家に用事があったんだけれど……と思いながら、「新年のご挨拶にね」と端的に応える。
「べ、別にそんなのメールで良かったのに。何でわざわざ……」
来ない方がよかったと言う事だろうか。でも、いつもお世話になってるおばさんにも挨拶しないと失礼だし、やっぱり挨拶なら直接来るのが正解だとは思う。
あるいはもしかしたら、メールでの挨拶がしたかったと言う事だろうか? あえてそうする理由には特に思い至らないけれど、よく分からない流行が重視される風潮の昨今だ。ありえないとは言い切れない。
「じゃあ、後でメールも入れておこうか?」
「はい!? えっ!? どうしてっ!?」
「いや、必要ないなら良いんだ」
調の反応を見て考え過ぎかと思い提案を取り下げようとした途端、調が「あ、いや、ちょっと待って」と慌てたように食い下がる。
「いや、送ってくれるなら、受け取ってあげようかなって。……折角だし」
正直に言えば、この場で口頭で済ませてしまった方が手っ取り早いんだけどな。……まあ、大した手間と言うわけでもなし、と言う事で適当に頷いておく。
「そう言えばおばさんは?」
「お母さん?配達に出てる」
「そうか。じゃあまあ、おばさんへの挨拶はまた次の機会にしようかな」
新年初の配達か。どのくらいかかるかは分からないけど、折角のお正月に僕が待たせてもらうのも悪い。こうして一度は来ている訳だし、お正月中も何度か会う機会はあるだろうから、ここで一度帰ってしまっても失礼には当たらないだろう。
そんな風に、このまま帰宅する方向で話を考えていた僕を前に、調が「あ」と口を開く。
「もしかしてこれから初詣? 私もまだだし、その……どうせなら一緒行かない?」
……むしろ今ちょうど行って来た帰りだ。
元旦に二度参ったところで初詣は最初の一度だけだし問題無いとは思うけど、今日は家に帰って読みかけの本を読みきってしまいたいという私事情もある。
そんなこんなであれこれと迷っていると、調が不安そうにこちらを覗き込んで来た。
「……どうせいつもの神宮さんでしょ? それなら支度も適当に、すぐ済ませるからさ」
「調がすぐって言ってすぐ済んだ試しもないけどね」
また理不尽に殴られるって言うね。あいかわらずどういう原理で動いているのかよく分からない幼馴染だ。もう慣れたけど。
「……それでどうなのよ。ちょっとくらい待ってくれるの?」
「そうだなぁ……」
この段に至っても読みさしの本と調を天秤にかけて迷っていると、さっきからカウンターで黙っていた詩織さんが「ゴメンね、タダアツくん」と口を挟んでくる。
「私もお母さんもお店の方忙しくって三が日中には連れていけないもんだからさ。もし都合さえ悪く無ければ、付き合ってあげてくれないかな?」
「えっ、お姉ちゃん!?」
詩織さんはさらに「一人で出すには不安な子だから」と一言付け加えて、調に怒られている。……まあでも、実際誰かしらとトラブルを抱える未来は想像にかたくない。去年などもマナーの悪い通行人と真正面からぶつかって、仲裁に入った自警団の人々から迎えに来てくれと電話があったレベルだ。
「はぁ、まあ、そういう事なら……」
詩織さんの言葉で、天秤は傾き切ったも同然だった。
「じゃあ、待ってるから支度して来てくれるかな」
僕の言葉に、調は待っててと言い残して、また騒々しく階段を登っていく。
「タダアツくん、上がってて。あんまりおもてなしは出来ないけど、ウチのおせちくらいはご馳走してあげるから」
「あ、お構いなく。さっき炊き出しいただいてきたので」
お弁当の山の中から一箱取ってカウンターを回り込もうとした詩織さんを制止して、僕は居住区画の玄関に回る。四つほど積まれたなにやら加工会社のロゴが入ったダンボールの脇を通って階段を登る。積まれたダンボールの一つには、案の定、蹴ったらしい凹みができていた。
「勝手に上がらせてもらいますね」
「どーぞー」
本当は神社で炊き出しなどやっていなかったけれど、別に今はお腹も空いていないし、第一売り物をいただくわけにもいかないだろう。
そんな事を思いながら階段を上り、僕は見慣れた吉野家の茶の間に上がる。先に上っていた調がなぜかまだ茶の間で右往左往していて、上がって来た僕を見るなりコタツの上の急須を手に取る。
「お、お茶を」
「良いから調は着替えて来なよ。お茶くらい飲みたかったら自分で用意させてもらうから」
「あ、そうよね。うん」
調は大人しく急須を置いて、詩織さんが下宿に出てからは実質一人部屋となっている姉妹の部屋の襖を開ける。
「コタツ入ってて。あったかいから」
「お構いなく」
あわて気味に襖が閉まった。
僕はする事もなく、手持ち無沙汰に急須でお茶を淹れ、拝借した来客用の湯のみに注ぐ。
そのまま、一旦コタツに入っておすそ分けをもらいながら、室内を適当に見回す。
「普通にくつろいでただけ、かな」
「何?何か言った?」
独り言が聞こえたらしく、襖の向こう側から声が聞こえてくる。
「いや別に。独り言」
「なら良いけど」
部屋の中を見渡せば、僕が来るまでの調の行動がおおよそ見えてくる。
古く日焼けしたカーペットに落ちた何か――多分お煎餅のかけら。コタツの天板に残る何かを拭き取った跡。一方に偏ったコタツ布団の不自然な跡。片付け損ねたらしくポツンと転がっている付箋。
多分、コタツに入ったまま寝転がって雑誌をチェックしていて、そこに僕が来たと聞いて、あわてて降りようとしてコタツを蹴り、その際に溢れたお茶はつい今さっきティッシュで拭いて捨てた、という所かな。これ以上は、よほど家探しでもしないと手掛かりは見つからないだろう。
再び手持ち無沙汰になった僕は、台所から適当に台拭きを拝借して来てお茶の拭き残しをキレイにし、手近にあったコロコロで食べこぼしを掃除する。コタツ布団の偏りを直してよれを整え、付箋は電話台のメモ帳のそばに置いておいた。
そこまでを終え、コタツに戻って温くなったお茶を飲み干した頃、ようやく調が自分の部屋から姿を現した。
上から下までニットの落ち着いた感じで統一していて、ゆったりとしたプルオーバーと膝下丈のフレアスカート。頭にはキャスケットを被り、肩には小さめのメッセンジャーバッグを斜めに掛けていた。いつもの活動的な服装とはちょっと違った方向でのコーディネートのようだ。
「お、お待たせ……っ!」
「ん。まあ、想定の範囲内だったから」
準備に要した時間、約20分。いつもと比べれば、まあ早い方だろう。
「じゃあ、お昼食い込んでもなんだし、行けるなら行こうか?」
今出れば、多少込んでいたとしてもお昼までには帰ってこれるはずだ。
「え。あ、うん……そうだね」
「?」
調の若干気乗りしない空気に、僕は出入り口に向かって歩み出そうとした足を止めて振り返る。
「あんまり急ぎたくない? それなら向こうに出てた屋台で適当に食べながら回るようにしようか?」
「別にいい。それより早くいこ……」
どこかため息でも吐いたように言い捨てて、調はトン、トン、と若干力なく、階段を下りていく。
「それじゃあお姉ちゃん、行ってくるね」
「行ってらっしゃーい。お昼までに帰らなくてもいいから、ゆっくり楽しんで来るといーよ」
「ありがと。明日は私も手伝うって、お母さんに伝えといてくれる?」
「かしこまー」
結局、こちらを一目も見ることなくカウンターの詩織さんと一言二言会話を交わし、そのままお店の入り口から外に出ていってしまう。
「それじゃあ、行ってきますね」
「タダアツくん、ちょっと」
一言挨拶をして、そのまま調について行こうとした僕を、詩織さんが小さく手招きをして呼び止める。怪訝に思いながらもカウンターに近づくと、詩織さんが口許に右手を添えて内緒話の恰好を取った。
「妹をよろしくね、タダアツくん」
求められるまま耳を寄せた僕に、彼女の言った一言がそれ。さらに言えば、耳を傾けた拍子に、お店の入り口の隅っこからこちらを盗み見ていた調と目が合った。調は慌てて目を逸らしたものの、その後もものすごく不機嫌そうに眉根を寄せている。
「まあ、いつもの事ですし」
「あらら……」
あらら? あららって、一体どういう意味だろうか。詩織さんの方に向き直ると、若干困ったように苦笑している。調と違って理不尽な感じはないが、やはり姉妹だからか理解ができない反応が時々見られる。
「ホントはこういうの良くないんだけどね?」
「こういうの……?」
「ちょっとしたヒント」
詩織さんはいたずらっぽい笑みを見せて、もう一度内緒話の体勢を取った。僕もすぐに耳を貸す。
「あの子、あの服初めて着たの。私のクリスマスプレゼント」
「はぁ……?」
脈絡がなさ過ぎてやっぱり分からなかった。
「ちょっと! 早くしてよ寒いんだから!」
出入り口から、不機嫌な声が飛んできた。お姉さんはお姉さんでまたアラアラと笑いながら「怒られる前にタダアツくんを離してあげないとね」とこれまたよく分からないことを言って笑っている。目下怒っている最中だと思うのだけれど、その辺りは見解の相違なのだろうか……?
「なに話してたのよ」
神社へ向かう道すがら、ご機嫌斜めなままの調がそう尋ねてきた。
「何だかよく分からなかった」
調の質問に端的に答える。
「ヒントだとか、調の事をよろしくとか」
「な!?」
「あとその服がクリスマスプレゼントだとか」
「お姉ぇ……」
調はもう見えない吉野家の方を振り返り、何やらもの言いたげな顔を見せる。どうやら調にはちゃんと意図する所が通じているようだ。流石に姉妹というべきなのか……僕としては取り残されたような釈然としない気分が残る。自分の見落としていることを周りだけが知っている、という気持ち悪さだ。
「それで、どういう意味だったんだ?」
「バカ。知らない」
脈絡をもっと大事に……。
まあ、答えが得られないなら考えるだけの話だろう。今年二度目の参拝に行く道すがらの暇つぶしができたと思えば、満更でもない気がしてくる。
「しかし、あれだな。その服」
詩織さんの言葉を反芻している最中に、調の服装を見て最初に思った感想を指摘しておこうと、口を開いた。
「な……なによ」
さっきからこちらに目線を向けようともしなかった調が、不機嫌顔のまま半分ほど振り返った。その目線は探るようで、真正面から反応するのは癪だけれどそれでも聞きたくてしょうがない、という様子に見えた。
この反応には、思い当たる仮説が一つ思いつく。ただ、その仮説にそのまま乗っかるのは、なぜか若干癪だ。この感情だけはホントに何に由来するものか自分でもホントに分からない。だけど、素直に乗っかる気にはなれないのだ。
「その服、さすが詩織さんが選んだだけあって、センスはすごくいいんだけど……」
急に調の表情が一変した。さっきの不機嫌顔はどこへやら、虚を突かれたというか毒気を抜かれたというか、とにかく感心とも驚きともつかない表情で歩みが止まる。
「どうしたの?」
むしろこちらが驚いて、話を中断して聞いてしまう。
「あ、ごめ……センスいい? ホントに?」
我に返ったように歩みを再開して、調は僕に聞き直して来る。どうでもいいけど、謝るか聞くかまずどっちか統一しようね。
「まあ、全体のバランスは取れてるんじゃない? 僕は結構好きだよ、そういうセンス」
調が少し表情を和らげて、「そっか」と満足げに一人ごちた。
「もしかして、調が選んだとか?」
「ま、まあそんな感じかな。お姉ちゃんにアドバイスはしてもらったけど」
緩む口元を抑えられない、と言った様子ではにかむ調に、僕は先ほどの仮説を確信する。要するに新しい服を褒めて欲しかったのだろう。
「それなら余計に指摘しておきたいことあるんだけどさ」
「? なになに?」
さっきまでの不機嫌顔とは一転してご機嫌に反応してくる彼女に、僕は内心胸をなでおろしながら先を続ける。
「詩織さんが着るんならともかく、調が着るにはちょっと大人っぽ過ぎるかもし――」
僕が最後まで言い終わるより早く、調のメッセンジャーバッグが後頭部を直撃した。
追記:2月7日、記す。
後日談と言うか、雑な伏線回収のお話。
結局、調はその後あの服を着ることは無くなった。これまでの所、同じような傾向の服を買っている様子もなし、調自身ああいう服が似合わないという認識は元から持っていたのかもしれない。
更に今日(2/7)、萩瀬乙葉さんから聞いた話では、この日(1/1)帰宅後に打った新年の挨拶メールを、調はご丁寧にお気に入りに登録して保存しているらしい。それほど重要な情報を書き込んだという事はないため、考えられる理由としては、写真がわりに思い出としてとってあるものと類推する。一日の出来事は調にとってそれなりに印象的な分類として残っているという事なのではないだろうか。
そろそろ作者死亡説でも出てないかなと妄想を膨らませた結果、お正月のまとまった時間を使って書いたリハビリ作品になります。(一応筆を執ってないわけではないのですが)
本編ではヒロイン視点なので、普段描かない主人公の主観がどうなっているのか手探りしてみた結果の一作品です。
とりあえず書いてみた感じ、キャラクターデザインの一環とはいえ、主人公と周りとの話のかみ合わなさがひどいですね。本編(いつ出すかは全く分からないですけど)の方では外面ばかり描かれるので、ここまでひどいことにはならないと思いますw
まあ、空回りするヒロインを生暖かい目で見ていただければ、幸いかなと。
今後は、練習もかねて短編を時折出していけれたらと思います。それでは、またの機会に。(2017/01/02現在)