第一章・8 「走流野家の秘密」
卒業試験を間近に控え、今までにない緊張感が溢れる教室内には、これまでとはひと味違った生徒の顔が黒板に向けられていた。
今日は試験内容が発表される日と同時に、担任から同意書が配られる日でもある。
毎年、試験では死者が出ているそうだ。
そうでなくても、初の外壁訓練で数名がハンターに喰われるなんて体験をしているし、今日に至るまでにその事件以外でも死傷者が出ている。
訓練を思い出したのか、教室には緊迫した空気が張り詰めていた。かくして俺も同じ心境だった。
手短に説明すると、同意書とは「死んでも自己責任」という内容である。こんな大事な日にユズキの姿はなく、彼女の同意書はイツキに手渡されていた。
配り終えると、先生は試験内容を説明し始めた。
「試験内容は、正門からスタートし山を一つ越えて、折り返し地点から元来たルートを通り正門まで戻ってくるという長距離走になっている。その間、獣・妖・ハンター、どの種に出くわしても自分で対処する他ないが、時間制限はないため生還出来れば合格だ。卒業試験はパスする事も可能だ。しかし、もしそうした場合、また一年間学校に通わなければならない」
その運命を握る同意書と死を覚悟する卒業試験内容に、俺は強く手を握りしめた。
一通りの説明を終えた担任は、俺とヒロトを呼び一旦家に帰るように言った。そこで父さんが待っているらしく、大切な話があるそうだ。
いったい何の話なのか、言いようのない不安を感じた俺たちは足早で家に帰った。
家に戻ると、リビングで待つ父さんの背中が見え、机を挟んだ向かい側にはきちんと並べられた椅子が用意されていた。いつもご飯を食べている場所なのに、なぜだか重苦しく別の空間のように感じる。
試験内容を聞かされた時よりも緊張する俺たちは、静かに椅子に腰を下ろした。
「大切な日にすまないな。同意書を貰い、卒業試験を控える今、お前たち二人には話さなきゃいけない事がある。命にも関わる問題だからよく聞くんだ。いいね?」
頷いた俺たちを確認した父さんは、一息置いて話し始めた。
「走流野家に生まれた子どもは、父さんも含めてこの薄紫色の瞳を持っている。とは言っても、走流野家の歴史は浅く、おじいちゃんと父さんとお前たち二人の四人だけだ。父さんは任務で何度も国外に出向いているけど、同じ瞳の色をした人に出会ったことはない。おそらく、これは走流野家だけの特質だろう」
じいちゃんは、よくこんな事を言っていたそうだ。薄紫色の瞳を持つ者は必ず命を狙われる、と。その事は母さんも知っていて、父さんよりもよく聞かされていたらしい。
父さんは、こんな世の中だからあえてそんな言い方をしたのだと思っていた。恐怖感を抱かせ、早くから身を守る事を意識させるためなんじゃないか、と。
だが、嫁いできた母さんには関係のない話だ。その事に気づいた父さんが、じいちゃんの言葉の意味を理解したのは俺たちが生まれてからだった。
「なにかあったのか?」
ヒロトの問いに父さんは目を伏せた。
「ヒロト、お前は一歳の時に誘拐されているんだ。その時、父さんは任務で国外に出向いていたが、代わってお前を救出に向かったのは母さんだ」
「ナオトは!? こいつは無事だったのか!?」
「ナオトは三歳まで本部で育ったからね。タモン様や闇影隊も近くに居るから、身に危険が及ぶ事はなかった。……でも、あいつはまたやって来た。二人が八歳の頃だ。国内に侵入する前に阻止されたが、一度ある事は二度あるというが、もしかすると三度目もあり得るかもしれない」
薄紫色の瞳をもつ者は必ず命を狙われる――。
じいちゃんがなぜこんな話をしたのか、またこの瞳に何があるのか。父さんの推測では、身体能力も関係しているとのことだ。
先生はよく、「さすがセメルさんの息子だ」って褒めてくれた。どれだけの戦果を残したんだろうって少しだけプレッシャーでもあったけど、俺はとんだ勘違いをしていたようだ。
父さんが訓練校時代に残した成績は混血者ですら超える者はおらず、最近になってようやくイツキが並んだと先生から聞かされた。イツキの速さは知っているし、授業中に強さも目の当たりにしている。
そのイツキと父さんが同じレベルなのは、この瞳に力が宿っているからなんだそうだ。
「自己暗示のようなもので、もっと速く、もっと遠くへ……。そう強く思えば思うほど足は軽くなり、記録は勝手に伸びていく。だけど、父さんは人間だ。混血者よりも体への負担は大きく、燃えたように熱くなった体のせいで死にかけた事もある……」
身に覚えのあるその現象に、俺の頭にはある出来事が過ぎった。柚姫の凍りつきそうな目を見た、あの日の事を――。
ヒロトを元に戻さなければと思い俺は一気に下山した。下りだからスピードも速いのだろうと、それくらいにしか考えていなかったが、今思い返せば下山する前に体は熱くなっていた。
「(あれって……俺が怒ってたからじゃなかったんだ……)」
ヒロトにも身に覚えがあるのか、拳は膝の上で強く握られていた。
一息おいて、父さんはまた話を続けた。
「暗示をかけられるのは自分にのみで、他の人には全く効果がない。……ただし、発症には個人差があるため時期は定かではないが、俺たちには「言霊」と呼ばれる能力がある。言霊は、暗示と違って他人にのみ効果があり、発動させるには強い念が必要だ。しかしそれは、時に最悪な結果を招く事もある」
「ちょっと待てよ、親父。話しが大きすぎてすぐに理解するのは無理だ。それって今話さなきゃいけねぇ事なのか?」
「卒業試験を控える今だからこそだ」
いつもよりも低い声でそう言った父さんは、俺たちの目を見て口を開く。
「例えば、絶対に人を死に追いやるような言葉を口にしてはいけない……。言霊は使い方を間違えると簡単に人を殺してしまう。相手に対して少しでも哀れみや同情といった感情があれば別だが、もし仮に本気で死んでほしいと口にした時……。相手は灰となり、この世から跡形もなく消え去る……」
俺たちの命を狙っている奴はきっとこの事を知っている。そしてそいつには、何か大きな企みがあるのではないか。
過去にヒロトが誘拐され、もう一度北闇に来た事から、父さんはずっとそう考えているらしく俺たち二人の闇影隊の入隊に関して何度も検討を重ねたそうだ。そして、ここで最も重要な点が一つ。
言霊には命を再生する力はない。
「これから先、二人は言葉を選んで生きなきゃならない。大切な人を守るためにも、今話した事は絶対に忘れちゃだめだ。いいね?」
こうして、話が終わりまた学校に戻ってきた俺たちだが、その後の授業内容は全く頭に入ってこなかった。
父さんは心配しているのだ。ビビリな俺や短気なヒロトが咄嗟に変な言葉を口にしないか、怒り任せに何かしら言ってしまうんじゃないか、と。
俺たちは二人揃って口が悪い。もしかすると、最悪な結果もあり得るかもしれない。そう考えると、卒業試験に合格した先の事がさらに怖くなってきた。
その日の夜中、喉が渇いた俺は、自室からリビングに水を飲みに行った。そこにはまだ起きている父さんがいて、顎の下で両手を組みながら一点を見つめている。声をかけると、気づいていなかったのか驚かれてしまった。
コップに水を入れ、父さんの真向かいに座った俺は、卒業試験が怖くて眠れない事を話した。コップを握る手は小さく震え、卒業以前に死ぬんじゃないかと恐ろしくなる。
すると、そんな俺に父さんはある人の話をしてくれた。それは授業でも聞かされた「青島ゲンイチロウ」の事だ。
「なんだ、知っていたのか。……あの人の通り名は聞いた?」
「ううん、どんな名前なの?」
「不死身のゲンさんって呼ばれている。あの戦争がきっかけではあるけど、彼は本当に凄い人だ。強靱な肉体に強い精神力、それと熱い性格。それだけでもインパクトのある人だが、残した戦果は数知れず、救われた闇影隊も大勢いる。でもね、彼が凄いのはそこじゃないんだ」
「先生は、その人みたいになれって言ってたけど……。青島ゲンイチロウみたいに活躍してくれって」
「そう願うのはナオトたちを送り出す側だからだ。人間には限界がある。だからこそ、彼のように強くなってほしいのかもしれないね」
「無理だよ……。鬼みたいな獣と戦うだなんて俺には到底真似できない。それに、あまり前線に出すぎると混血者の戦いに巻き込まれるんだろ? そんなんで死にたくないし……」
すると、父さんはそれは勘違いだと言い放った。人間には限界があるからこそ多くの負傷者が出るだけで、混血者には各々の能力があるから身を守れるのだと言う。
「その能力のせいで彼らは常に前線を行かされるんだ。誰よりも真っ先に三種と戦い、その中で身の守り方を覚えていく。ただそれだけだ」
「……父さんを迎えに行った時に人間だけが怪我してたのを見たんだ。だから俺……」
「そうだね。そこが力の差なのかもしれない。だけど、混血者がいるおかげで国は平和でいられるんだ。恐れられる存在ではあるが、父さんは尊敬している」
確かにそうだと思わされた。先生の話を別の見方で考えると、あれは混血者に対する褒め言葉でもある。
「話を戻すけど、父さんが彼を凄いと言うのは、彼の自分の背中を押す強さの事だ。そこには、自己暗示とはまた別の、誤魔化しなどない確かな自信がある。青島さんは幼い頃「臆病者」だと呼ばれていたけど、それを糧に自分を変えた人なんだ」
そう言って、父さんは恐怖心の拭い方は人それぞれだと言葉を紡いだ。俺には俺なりのやり方があり、それはいずれ見つかると教えてくれた。
それにしても、父さんは青島ゲンイチロウの事をよく知っている気がする。
「会った事があるの?」
「彼とは同期だよ。命を救われた事もある」
「え、マジで!? もっと聞かせて!!」
それから俺は、卒業試験が来るその日まで毎晩のように青島ゲンイチロウの武勇伝を聞いた。その度に興奮し、ヒロトにも半ば強引に話を聞かせ、二人で彼みたいになろうと持ちかけた事もある。
しかし、ヒロトは「暑苦しい奴は無理」と言い放ち、俺の案を冷たく流した。熱い性格の奴を隊長に持つと面倒だから、という単純な理由からだ。
こうしてあっという間に数日がたち、明日はいよいよ卒業試験だ。この間に、俺なりの恐怖心の拭い方を見つける事は出来なかったが、嫌でもその日はやって来る。
早めに毛布に潜り込んだ俺は、深い眠りに落ちた。