第一章・5 「狂い始めた日常」
訓練校に入学して、三年目。
今年で最後の学校生活は卒業試験が控える一年でもあり、今まで以上にビビっている俺がいる。それでもこうして学校に通い続けるのには理由があった。
同じクラスにいる五桐カナデ――。彼女の存在が近くにあるからだ。
透き通るような声に、色白な肌にスラッと伸びる手足、綺麗な水色の長髪をなびかせて歩く姿。俺にとって彼女は完璧で一目惚れだった。
前の世界では恋愛なんてした事がないし、ましてや中学校に通っていたのも最初だけだ。引きこもっていた俺に出会いはなく、これが恋なんだとわかった時は激しく悶え苦しんだ。
しかし、一目惚れをしたその瞬間に大きな壁に直面してしまった。カナデは幼くして嫁いで来た身だと聞いたのだ。それを知った時、俺の中のカナデの姿はガラスにヒビが入ったかのように音を立てて崩れていった。
北闇の旧家で、リーダーになる宿命にある子の婚約者だなんて聞かされたのだから、仕方がない。そう自分に言い聞かせるも、目は自然とカナデを追ってしまう。
もしかすると婚約は白紙になるかも――、なんて淡い期待を抱きながら、今日も俺は彼女を見つめていいた。
俺の一日は、登校してきたカナデを見て穏やかにスタートするのだ。
ところが、今日の教室内はいつも以上に騒がしかった。どうやら転校生が来るらしく、みんなソワソワしていて落ち着きがない。そして、そいつは担任と一緒に教室に入ってきた。
「え……、あの子……」
その子の姿を見て、後ろの奴と喋るヒロトの肩を叩いた。前に向き直ったヒロトは俺と同じく驚いた様子で口をポカンと開けている。
「ユズキだ。よろしく頼む」
一礼し、銀と紫の髪を掻き上げながら上体を起こして黄金の瞳で教室内に目を配る。誰かを探しているのだろうか。それはともかく、その子は公園で大きな声を出していたあの女の子で、俺たちが探していた子だった。
女子が来たと男子が騒ぐなか、驚きを隠せずにいる俺たちよりも更に驚いている奴がいた。椅子からひっくり返り、全員から注目を浴びたイツキは、急いで立ち上がると人目など気にもせず柚姫に飛びつく。
それから、何度も「お帰り」と呟いていた。
学校からの帰り道。いつもなら、隣にヒロトがいるのに今日はいない。一人寂しく歩いて、静まりかえる我が家に帰ってきた。玄関に一歩足を踏み入れ、小さな声で「ただいま」って言えば、誰も居ないはずの家から返事が返ってきた。
「お帰り、ナオト」
玄関に顔を覗かせたのは父さんだ。
「任務じゃないの?」
「今日は休みだよ」
父さんの声を聞いて急に気持ちが軽くなる。ずっと休みだったらいいのにと、そう願ってしまう。前の世界じゃないとわかっていても、俺がそう考えてしまうのには訳があった。
あの夢だ――。
今でもたまに夢に出てきて、その度に俺は眠れぬ夜を過ごしていた。ヒロトの部屋に行って寝ている姿を確認し、父さんが任務の時は居間で帰ってくるのを待って、俺は一人じゃないと確かめられずにはいられないのだ。
「……浮かない顔をしているな。学校で何かあったのか?」
全部顔に出ていたのか、父さんは優しく俺の頭を撫でてくれた。唇を噛み締め、溢れ出そうになる涙を堪えながら俺は少しずつ言葉を紡いだ。
「……イツキってさ、学校では仮面をつけてるみたいに笑うんだ。生まれた時から両親がいないって話を聞いたことがあって、それなのになんで笑えるのかなって……。見てたらイライラしてきて……」
そんなイツキとヒロトは今日も一緒にいる。ユズキともあっという間に仲良くなって三人で学校に残っているのだ。
どうしてイツキは笑えるんだろう。寂しいとか一人はイヤだとか、そんな気持ちはないのだろうか。何を比べているのか、とにかく俺は作り笑いを貼り付けながら過ごすイツキが大嫌いだった。
俺の支離滅裂な話を聞き終え、父さんは薄らと笑みを浮かべた。
「そうか、ナオトは兄ちゃんを取られて寂しかったんだな」
「……え? ち、違うよ! ち……がう……」
ぽろぽろと頬を伝う涙は、床にいくつものシミを作った。どれだけ歯を食いしばっても、俺の心は「そうだ」と答えている。握りしめた拳はやがて震えはじめ、何度も肩が跳ね上がった。
ヒロトが二人を探し始めたあの日から、俺は疎外感を抱いていた。また消えてしまう――。そんな思いが頭を埋め尽くしていたのだ。
母さんもいなくて、数年前からじいちゃんもいなくなった。旅に出たらしいけど、そう話してくれた時の父さんの顔は今でも覚えている。震える笑顔で何度も深呼吸し、そして話題を変えた。
それ以上の事を聞く気にはならず、次は誰だろう――。そう思った矢先、ヒロトとイツキが親しくなった。
両親がいないイツキの気持ちはわかるけど、あんな思いは二度とごめんだ。もう何も失いたくない。
その日の夜、帰ってきたヒロトはずっと二人の話をしていた。
一緒に授業をサボってるのにイツキは優秀だとか、ユズキは体術が物凄く強いだとか、興奮気味に語っている。正直、そんな話はどうでもよかった。
変わってしまった日常にこの場から消えたくなった俺は、全身を布団で覆い隠しそのまま眠りについた――。