第一章・2 「僕とイツキ」
真下には一面に森が広がっていた。木よりも高い場所にいるのだと理解したとき、丸い月を眺めながら死を覚悟した。
これは俗にいう走馬灯だろうか。様々な映像が脳裏に現れては過ぎ去っていく。膨大な量のそれを思い起こしながら目を閉じて、口の端を吊り上げた。
きっと、この世に生きるほとんどの人間はこう嘆いたことがあるだろう。
なぜ神は試練ばかりを与え、幸福から遠ざけるのか。どうして人生を複雑にし、楽にしてくれないのか。
これに答えてくれる人間も多いはずだ。
試練がなければ、それが幸せであると気づけない。不幸があるからこそ幸福を実感できるのだ、と。
この世の大半は反対になるようにできあがっている。
光と闇、真実と嘘、愛情と憎しみ、平和と戦争、そして生と死。これらは世に善と悪を放ち、一方は良いことで、一方は悪いことだと決めた。しかしそれはまやかしであると僕は考えている。
反対になるように作ったところで、全ては曖昧な領域であり決めつけることはできないのだ。
このような基準を作り上げた人間は、曖昧な世界から抜け出すために「普通」をこよなく愛する生き物へと進化し、様々な言葉を生み出しては自ら葛藤する生き方を選んだ。
暴力や権力の前に言葉に支配されていることに気づかず、目に見えているものが全てではないと知りながらも、同じ過ちを繰り返しては嘆くのだ。
神様――と。
別にすがることを悪いと言っているわけではない。ただ、人間は賢い生き物だ。
神の助けが得られないとわかると、人間最大の武器ともいえる知恵をいかし、強くあるために新たな言葉を生み出していった。それは「差別」だ。曖昧な領域に住む目立つ者達のことを指しているが、次第に弱者として見たり、力で押さえつけることで自分を保つようになった。
そのような行為にはまた新たな名がつけられたが、総称すると差別になるだろう。
僕は常に弾かれてきた。
人間には話すことのできない言葉、獣語を口にし、他にはみられない体質がある。ただそれだけの理由でだ。そんな愚かな人間を心底嫌いになり、感情を捨て、気が遠くなる道のりは避けるようになった。受け入れてほしいなんて――。
「愚かな考えだ……」
弾かれるとわかっていながら感情を剥き出しにするなんて、そんなの疲れるだけだ。
身体に太い枝が直撃した。人形を投げたみたいに手足がバラバラに動いて、何方向にも回転した。
飛びかける意識を必死に繋ぎ止め、くる衝撃に身を構える。そして、地面と背中が触れたとき、全身に痛みが伝い口から出た少量の血が宙を舞った。
しばらく横になったまま空を見上げていた。重なるように伸びた枝は多くの葉を従え、僅かな月明かりの侵入を許している。周囲を照らすには不十分だが、今はそれでも良いと思えた。
風の音がやけに大きく聞こえるのは、他になんの音もないからだろう。
ゆっくりと起き上がり、まだ痛む体に顔が歪んだのがわかった。幸いにも、手足は軽傷ですんだが、生きていることがまず奇跡だ。そして、立ち上がったときようやく現実と直面した。
「……ここはどこだ?」
なんで僕はこんな所にいるのだろうか。記憶を辿るも、あまりにも急で納得する答えが見つからない。――いや、見つかるはずがない。
歩きながら、一本の木に額を寄せた。乾いた笑いは森に吸い込まれ、涙の代わりに口の右端を血が流れる。口内に溜まった血を吐き捨てると、目の前が揺れて吐き気を感じた。
僕が額を寄せた木は見たこともない巨樹で、それは至る所に生えており逞しく成長していた。どれだけ考え悩もうとも、僕はこの場所を知らないし帰り方もわからない。どうしようもない状況に体から力が抜けていった。
そこへ唯一の友達が姿を現した。
僕を見下ろした友達は、嫌味たらっしくこう言った。
「部屋にいるのは誰だと、あの両親に小言を吐かれることはなくなりそうだな」
言いながら、友達は僕の額に人差し指をめり込ませた。痛みはない。ただ少しだけ違和感を抱く程度だ。
なにをしているかというと、記憶を覗いているのだ。こいつはかなり人とは違う。なにもかも。
友達は僕の名を呼んだ。
「ユズキ、これはお前が考えている以上に厄介だぞ」
僕も友達の名を呼んだ。
「キト、どういう意味か簡潔に説明しろ」
僕とキトにどんな繋がりがあるのかって? それは後にわかることだろう。
キトは言った。ここは先程いた世界とは全く別の場所であり、さらには僕の年齢が若返っていると。指摘されるまで知るよしもなかったが、自分の両手を広げて愕然とした。キトが見るに、八歳くらいなんだそうだ。
こんな小さな体でよく生きていられたな――と、自嘲気味に笑ってしまう。
僕を薄暗い森に置いて、キトは偵察に行ってしまった。
すると、どこからか子どもの泣き声が聞こえてきた。誰かに叱られているのか、ごめんなさい――と何度も繰り返し口にしている。森で聞いた初めての音に、無意識に体は動いていた。
不安定な足元のせいでかなり体力を奪われたが、声を頼りに茂みをかき分けながら進むと、そこには男の子の姿があった。野良着のような服を着ており、見えている両足は小刻みに震えている。
「大丈夫か?」
話しかければ、躊躇なく抱きつかれた。思わず突き飛ばしてしまったが、男の子はまたすぐに抱きついてきた。そして、消えそうな声でこう言った。
「神様……」
よく見ると、僕よりも重傷を負っていた。
顔や腕にある内出血の痕や剥がれかけている爪。両足は切り傷だらけで血が滲んでいる。地面を手で撫でると、何ヵ所かにある靴の跡を確認できた。
男の子は素足なので他にも誰かがいたということになるが、なんの気配も感じない。
「お前、名前は?」
「ば……けも……の……」
「名前を聞いたんだが、まあいい……」
聞けば、家はこの近くにあるようで、どんな時間帯でもこいつと一緒であるなら周りはなにも言ってこないそうだ。半信半疑であるものの放っておくわけにもいかず、僕の体が限界に近いこともあり、とにかくこいつの家に向かうことにした。と、その時。
茂みが大きく揺れ、松明を手にした男が現れた。僕の顔を見て一瞬目を見開き、自分の後ろへと無理矢理追いやる。その行動は僕を守っているかのようにも感じるが、問題なのは、いったいなにから守ろうとしているのか。
「おい、化け物……。動くなと言ったよな?」
その問いに答えた男の子は、惨めな薄笑いを強張らせる。直後、生ぬるい風がどこからともなく吹いてきた。松明の灯りが消え、暗闇と化した森に男の子からさらなる闇が放たれ月明かりを消してしまった。
そんななか、僕が感じたのは驚異や恐怖ではなく、胸の奥底からじんわり暖かみを感じるほどの安らかなものだった。この妙な感覚に疑問を抱いていると、顔に生暖かいものが飛んできた。まさか――とは思ったが、この場には僕を含め三人しかいない。
「お家に……帰ろ……」
濃い闇は男の子の体内に吸い込まれるようにして消え、何事もなかったかのように歩き始めた。
再び月明かりが森を照らした。振り返るとそこには腹にぽっかりと穴の開いた男が横たわっていた。まだ幼い彼の右腕には大量の血液がこびりついている。誰が殺したのか探る必要はなさそうだ。
両手と同じくらい伸びた尖鋭な爪を引っ込め、こいつの後について行った。
後ろ姿を見て、先ほどの出来事を思い出す。体中にある傷跡とあの男を見たときの表情から、簡単に想像できてしまった一つの仮説。あの男に殴られ、他人にも伝わるくらい怯えていたのになぜ殺せたのだろうか。
ふと、視線に気づいた男の子がこちらを振り返って微笑んだ。
「おかえり」
その声は彼のものではなかった。
しばらく歩くと、森を出て広大な草原地に足を踏み入れた。少し先には開いた大きな門があり、門を中心に何本もの巨木で壁が造られていて、それは左右に長くある。
どこだか尋ねると、イツキは「北闇の国」だと答えた。
時間帯を考えれば子どもがこんな真夜中に出歩いているはずがないのに、門にいた受付係のような人はなにも咎めなかった。こいつの言う通り、一緒にいれば注意は受けないようだ。その代わりに飛んできた言葉は、化け物。
背中を強打したあの瞬間から色んなことが一気に起こり、あまりにも急な展開に身を任せるしかなかったが――。
辿り着いた場所を見て、ようやくいつもの思考が戻ってきた。
「……お前、年はいくつだ?」
「八歳……」
ため息が漏れたのは、表札にある名が一人だけだからだ。
「青空イツキ、か」
これが僕とイツキの出会いだった。
まだ幼いというのにどうして一人暮らしなのだろうか。――いや、考える必要などない。出会った瞬間からの出来事を振り返れば恐らく理由は一つだ。
それは、化け物。
道を挟んで並んで建つ民家や、すぐ隣の武家屋敷にも見える豪邸に比べて、イツキの家は小屋だった。
中に入ると、そこには必要最低限の物しかなく、台所や風呂にトイレ、他にはタンスとベッドが置かれているだけで全く色がないが、そこに疑問を感じてならなかった。
なぜ小屋にこんな設備が整っているのだろうか。
それから、僕は数日の間イツキの家に泊めてもらうことになり、気分転換に何度か北闇の国を案内してもらった。まさか後悔するなんて思ってもいなかったが。
化け物と呼ばれ嫌われていることはなんとなく察していたけど、驚くことに大勢から嫌われていたのだ。イツキが一人で出掛けた日は夕方を過ぎても帰ってこず、心配になり探しに行くと、公園でイジメられている所を発見した。砂場にいた男の子達はその光景を黙って眺めているだけだ。
近くにいた子に、なぜ助けに行かないのかと尋ねれば――。
「あの人たち上級生なんだ。もう少しで僕たちも学校に行くんだけど、仮に卒業できたとして同じ隊になったらイヤだもん……」
なんて言われてしまった。その直後、イツキは上級生たちに石を投げられていた。慌てて止めに入った。しばらくもしないうちに、イツキは黙って帰ろうとした。名前を呼んでも振り返ってはくれなかった。
初めはイツキ自身に問題があるのだと思っていた。僕が知らないだけで、過去に国中の人々を激怒させるなにかがあったのではないかと推測もしたが、年齢はまだ八歳。
だが、こいつは僕の目の前で人を殺した。音もなく、戸惑う様子すら見せず、右腕だけで殺してしまった。体に受けた傷の仕返しだったのか、それとも他に理由があるのか定かではないが、この扱いに関係がないとは考えられなかった。
かと思えば、国の人々からの嫌がらせを黙って受け入れ、罵声を浴びせる大人やイジメっ子にただひたすら謝るだけときた。
かなり面倒な奴の家に上がり込んでしまったと後悔しても、もう遅い。しだいに腹が立ち、ついに怒鳴ってしまった。
「お前は馬鹿なのか!? 状況を変える気がないなら謝るな!!」
ここ数日で、謝ったら済むと思って謝罪を口にしているわけではなく、謝れば笑ってくれるから「ごめんなさい」と言っているのだとわかった。しかし、向けられた笑みは侮辱をこめて蔑み笑っているだけのもの。イツキはそれに全く気づいていない。
深夜の森でどんな目にあったのか忘れてしまったのだろうか。
部屋の隅に逃げたイツキは、慄然とし動かなくなってしまった。その姿になぜか圧迫されたような胸の痛みを感じた。
異質な目で見られる苦しさは嫌というほど理解できる。目だけで突き放され、隅に追いやられる気持ちになるのだ。存在を疎ましく思われると目だけでは済まなくなり、ついには暴力や暴言を一身に浴びることとなる。
イツキの隣に腰を下ろした僕は、なぜ化け物と呼ばれるのか尋ねてみた。すると意外な答えが返ってくる。
「わからない」
そう言い、嗚咽しながらうずくまってしまい、何度名前を呼んでも顔を上げてはくれなかった。嫌な予感がした。背筋になにか冷たいものが流れ、静かに唾を飲み込む。試しに化け物と呼んでみると、イツキはようやくこちらを向いてくれた。
イツキは自分の名前を覚えていなかった。化け物と呼ばれすぎて、それが自分の名前だと思い込んでいたのだ。多分、今よりも幼い頃からそう呼ばれてきたのだろう。
僕はイツキを抱きしめられずにはいられなかった。小動物を扱うようにソッと包み込み、溢れ出そうになる涙を必死にこらえる。
「神様……」
「やめろ、神なんて存在しない」
これが試練で、幸福を得るための不幸だといえるだろうか。
「お前は誰にも……謝る必要はないんだ……」
それから、イツキは目に涙をためながらこの家に居てくれと頼んできた。初めは断った。人間と同じ空間を過ごすだなんて考えられなかったからだ。
出会ったときは、こいつは僕の爪に気づかなかったようだが、しかしそれも時間の問題だ。
イツキにはきっとなにかがある。あの男のときのような暗闇と殺気を肌に感じたら、僕は身を守るために指の先から飛び出てくる鋭利なそれをイツキの首にあてがうことになるのだ。
だが、そうはしたくない。だから断った。でもイツキは諦めなかった。先に折れたのは僕のほうだ。あまりのしつこさに頷いてしまった。
いや、違う。僕と似た生き物を見つけてしまったからだ。
「化け物と呼ばれるのは嫌か?」
「イヤだ」
「別にいいじゃないか」
「また殴られる!! みんなと同じがいい!!」
「みんなと同じなら、お前は幸せなのか?」
「遊んでくれる!!」
「あんな人間になりたいのか? みんなと同じになるとは、お前を傷つける者たちと同じになるということだ。それでもお前は幸せなのか?」
「違う、アレはイヤだ!」
「ならば、化け物でもいいじゃないか。お前はこんなにも優しい。見ず知らずの僕に「ここにいてもいい」と言ってくれた。僕が知っている化け物は、優しい男の子だ」
「ほんとに?」
「ああ、本当だ。僕も化け物みたいなものだからな。お前と同じということになる。僕たちは「特別」だな。みんなと違うのだから」
顔をクシャリとさせたイツキは、大声で泣き叫んだ。そして、ごめんなさいと何度も口にした。
化け物がなにを意味するのかその理由はわからずとも、大きな事情があることは察している。いずれその理由を知る日がくるのだろうけど、どんな理由であれ、扱いは目を背けていられるものではない。
なにか手を打たなければ。
「ユズキ」
「え?」
「僕の名だ。教えてなかっただろう?」
黙って頷いたイツキは、鼻を何度もすすった。
「もう一回、俺の名前を呼んで……」
「一度といわず、何度でも呼んでやる。イツキ」
その日の夜、イツキは眠ることなく話していた。
言葉の並べ方が下手くそなイツキとの会話は苦労ばかりだった。そして、イツキのおかげでこの世界の仕組みについてなんとなくわかってきた僕は、終始頭を抱える羽目になった。
とんでもない世界に飛ばされてしまったと、その後の会話が耳に入らないほどに焦りを感じられずにはいられなかった。




