第一章・1 「僕と異世界」
あの頃の僕は、どこにでもあるような構造をした一軒家に住んでいて、今時珍しくもない父と母と僕の三人家族であった。
近所で、絵に描いたような幸せな家族だと評判を得ていたのはほんの数年。僕が大きくなり始めてから、この一家にはある噂がされるようになった。
そしてその噂の原因は僕にあり、何年も我慢してきた両親に、ついに我慢の限界が訪れた。
両親に冷ややかな視線を向けながら、またか――と肩を落とす。
ふと窓の外に目をやった。時刻は昼過ぎ。室内を明るくする西日は、母親の歪んだ表情を照らしていた。
「もうやめなさい! どうして私たちを困らせるの!?」
そう言って、まるでドラマのワンシーンのように泣き崩れてしまった母親は、気が狂いそうだと頭を抱えた。外では子どもたちが元気に走り回っているというのに、ここだけが真逆の世界だ。
愛する妻を見て、父親は僕の肩を強く掴んだ。
「これ以上、外で意味のわからない言葉を喋るんじゃない! 親戚や近所の人にどんな目で見られているかわかっているだろう!? これだけじゃない!! 玄関から通さずに、いったい誰を部屋に招いているんだ?!」
その言葉に、無数のシワが眉間を襲う。
肩に置かれていた手を叩き落とすと、その瞬間、僕の漆黒の長い髪が小さく横に揺れたのを感じた。それすらも彼らにとっては不気味に思えてしまうようで、目をそらしている。
もう会話にならないだろうと判断した僕は、なにも言わずに二階にある自室へと戻った。
部屋に入りドアを閉める。そのままドアに背中を預けて、鼻で息を漏らした。
それから、異質な者を見ているかのような両親の目を記憶から消し去るように頭を横に振った。
「意味がわからない、か……」
無理もない。
僕の言葉は、人語しか喋れない彼らにとっては理解できないものであるのだから。
いつからだろうか。気がつけば、僕は動物と会話ができていた。これが「獣語」という言葉だと教えてくれたのは、唯一の友達だ。
しかし、どこでそんな言葉を知ったのか、僕にはその記憶がなかった。
思い出したくもない過去を何度振り返えろうとも、自然と口にしていたという結果にしかならなかった。
でもそれは、とてもおかしなことだった。
僕の頭のなかは記憶で溢れかえっていて、その容量は枠を超えるほどにあるのだが、獣語を除いて全て覚えているのだ。では、この特別な言葉を教えてくれたのはいったい誰なのか。
ここには、優れた電子機器とあらゆる情報を簡単に検索できるネットワークが存在する。それを使い、獣語について検索してみたが納得がいく情報を得ることはできなかった。他にも、僕の体質について気になる点はいくつかあるが、それはひとまず置いておこう。
一階にいる彼らの「普通」にわざわざ付き合ってやる必要もない。そう思って、僕は僕らしく今日までを過ごしてきた。
なんて、自分に言い聞かせる。受け入れてほしいとまでは言わない。だが、せめて――。
そんなことを考えていると、芝生を踏む音が聞こえてきた。
カーテンを少しだけ開けて窓越しに下を見ると、またあいつが侵入していた。一人でぼそぼそと呟きながら、まるで泥棒のように動き回っている。
そいつは、小学生の男の子だった。
「……本当にここが幽霊の家なのか? どこにいるんだよ……」
何度目かの挑戦だ。度々こうやって不法侵入をしては、先に帰ろうとする友達を追って慌てて出て行く。そして、今日も。
「置いていくな! 死ね!」
「早く来いよー!」
カーテンから手を離して静かに笑った。
僕の存在は、理解できない言葉と、伸びきった黒い髪の毛のせいで気味悪がられていた。近所でも、学校でも、どこでもだ。こうして人間が仕立て上げた噂のなかで僕は幽霊に位置づけられたわけだが、だからと言って、両親以外の人間に直で非難されたことは一度もなかった。
せめて、両親の心にもあの子どものように好奇心があれば、少しは違ったのかもしれない。僕を見る目も変わっていたかもしれない。
この時の僕は、全てを諦めていた。好かれる努力もせず、ましてや泣いてでも訴えようなんて考えてもいなかった。
そうして二年がすぎていき、あの子どもは気づけば来なくなっていた。
カレンダーには、明日の日付に何重にも赤丸がされていた。その日は18歳の誕生日であり人生の最終日を示すものでもある。
息を吐きながらベッドに腰かけた。神様はなんて意地悪なんだと、そう思ったのだ。
「いつまでこんなゲームをやらせるつもりだ……」
同じ言葉を話せる者が存在しないなら、もう二度と「産まれたくない」のに。何度も何度も、まるで罰を与えるかのように気がつくと産声をあげている。
また息を吐いて、僕は最後の散歩に出かけた。
夜道、人気のないコンクリートの一本道は心地よさを感じさせた。僕を避ける人間は一人としておらず、そのためか足は休むことなく前へ出続けた。
その奥に、あいつは立っていた。不法侵入を繰り返していたあの子どもだ。点滅する街灯に照らされながら立ち尽くす彼を見て、親心のようなものがくすぶった。背は伸びていて、顔は少年の面影が消えかかっており、身体は痩せ細っている。
大きくなったようだが、ちゃんと食べているのだろうか。声をかけてみようと、そう思った。
しかし、その一歩を踏み出すことはできなかった。突然、体に妙な違和感を覚えたのも束の間、ピクリとも動かなくなってしまったのだ。
焦った僕が友達を呼ぼうとしても声はでず、この状況を見ているはずなのに現れないということは、この場にいないのだと考えつく。あの子もこちらに気づく様子はなかった。
しだいに、身体中が焼かれているみたいにヒリヒリと痛み始めた。ついには立っていられないほどの激痛となり、その瞬間、僕は夜空を見上げていた。
なんとか首を回してあの子を捜した。なにが起きたのか、耳を塞ぎながら僕と同じく倒れていた。
身体をうつ伏せにして、冷たいコンクリートを這いつくばる。しかし、彼にたどり着くよりも早く、僕は意識を手放した。
懐かしいニオイが鼻の奥を漂った。目を開けると真っ暗であった。自分の身体が立っているのかどうかもわからない、妙な感覚のなかをしばらく過ごしていると、どこからか声が聞こえてきた。
『虎雨のもとへ行け。……の森に……』
その声はあまりにも小さくて、途切れていて。だが、突然として聞こえてきた声に驚くことはなかった。それよりも、声が獣語であることに意識が持っていかれたのだ。
声が聞こえなくなったのと同時に、感じたことのない浮遊感に襲われた。落下しているのがわかる。そして、急に視界が明るくなった。
いや、ここよりは若干明るい程度だ。夜には変わりなかった。




