第二章・20 「兄」
次の日も、またその次の日も。父さんに家族のことを問いかけてみた。しかし、記憶に問題があるのか、全く思い出せない時もあれば微かに思い出すこともあって、差は極端に激しくその度に父さんは混乱状態に陥った。
極めつけは、カナデから聞き知ったあの集会のことだ。
覚えていないのではないかという不安を押し殺して、勇気を振り絞って出産や集会について尋ねてみたのだけれど、不安は見事に的中してしまった。
父さんの様子は明らかにおかしかった。
一度は俺自身の記憶を疑った。念のために走流野家の事情をよく知る赤坂隊長に確認してみたが、やはり母さんは存在したし、じいちゃんは旅に出たと言っていた。
そうして、今日。
さらに不可解な出来事が俺と父さんを待ち構えていた。
重度に殺されてしまったヒロトの遺体は、数日に渡り本部で念入りな検死が行われていた。ようやくそれが終わり二人で引き取りに行ったのだが。
長い時間をかけて検死されたのには、不可思議な現象が起きていたためであった。
医療隊の女性に通された一室に、全身を白い布で覆われたヒロトが眠っていた。目の裏に熱いものがこみ上げてくる。
兄を挟んで真向かいに立った女は、ひとつお辞儀をして事務的に発した。もう慣れているのだろう。
「彼で間違いないか、ご確認を」
顔を見合わせた俺と父さん。てっきり、検死報告から始まると思っていたのだ。
「仰っている意味が理解できないのですが……」
父さんの苦悩めいた表情に、女が上から布をめくってヒロトの顔が見えるようにしてくれた。俺と父さんの肩がピクリと揺れる。
「……父さん、この子、誰?」
そこに眠っていたのはヒロトではなかった。息子の前で酷なことはやめてくれと父さんが声を硬くして言った。しかし、女はいたって撃実であった。
「申し訳ございません。タモン様に反応を窺うようにと命令を受けていましたので。その様子からみると、あなた方も知らなかったようですね」
「この子はヒロトなんですか?」
女が深く頷いて、ヒロトの髪を触りながら説明した。
「ここに運ばれてきたときは黒髪でしたが、染色していることが判明し、もとは金色であるとわかりました。ですが、二日目の毛髪検査では、髪は完全なる黒に変化しており、三日目には顔つきまでもが……。誰かがすり替えた事も考えられます。そこで、彼には身体のどこかに生まれつきのような特徴などありませんでしたか?」
俺たちは一卵性双生児として誕生した。それなのに、ヒロトの顔は全く俺に似ていなくて、まるで別人そのものだった。
記憶が混乱している父さんには答えられない問いに、俺が代わって返答した。
「下唇にピアスの穴が三つあります」
あるわけがない、そう思った。
「確認できました。ご協力感謝します。お手数をおかけしますが遺体の引き取りは後日でも構わないでしょうか?」
父さんが力なく点頭した。
本部を出て階段を下りると、そこにはレンが立っていた。行ってきなさいと悲しげな表情で言われて、父さんは一人で帰っていく。
なんの言葉もかけてあげることができなかった。
レンに連れられて旧家の敷地へ足を踏み入れた。家に招く前に寄りたいところがあるらしく、立ち寄った場所はなにも目にとまる物がないただのT字路だった。
背を向けたままレンが話し始めた。
「試験の時、帰ってから話そうって言ったけど、色々あったから……」
「ごめん、忘れてた」
「だよね。……ヒロトの遺体を確認してきたんでしょ?」
「――っ、ああ。見てきた……」
レンが振り返る。
「祭りの時、ナオトに言ったあの言葉、覚えてる?」
――「弟君はさ、いつもヒロトの背中ばっか見てるじゃん。だからヒロトがどんな顔で前に立ってるか知らないよね、きっと」――
忘れもしない、あの日の出来事。
「覚えているけど、それが……どうしたって……」
上手く言葉にならなかった。ダイチとの会話が邪魔をしたからだ。
――「うーん、実はよぉ、レンが言ってたことはさっぱりわからねぇんだ。ヒロトがどんな顔でおめぇの前に立ってるかだなんて言ってたけど、おめぇの前に立ってるときは、誰も近寄るなって顔で、まるで自分のテリトリーを汚されてキレちまった獣のように威嚇してるぐれぇだ。それはおめぇにも想像がつくだろ?」――
レンの顔を食い入るように凝視した。
「知ってたのか?!」
「うん。ヒロトの本来の姿はナオトが見たあの姿だよ……」
人をからかい、怒らせるのが大好きで、誰にだって暴言を吐き、半獣化すると班員の安否すら頭にないあのレンが、涙を溢した。
レンは声を絞り出すようにして過去を紡いだ。
じいちゃんとヒロトが謝罪に来た、あの日。ソウジに一喝されて頭を冷やすために夜道を歩いていたレンは、この場所で二人と鉢合わせた。
しわしわの顔でしっとりとした笑みを見せたじいちゃんを、レンはよく覚えているという。
ヒロトは嫌々ながらに頭を下げた。すまなかったと、吐き出すように言ったそうだ。するとそこへソウジを抱えた賊とかち合った。
口の端から血を流し、気絶しているソウジを見て、レンは恐れ戦いたそうだ。じいちゃんはあの状況でも笑みを貼り付けたままで賊にソウジを返すよう求めた。しかし、賊は近寄るなと、ソウジの喉元に刃物をあてがった。
ぷつりと食い込んだ刃先を血が伝った。それを目にした瞬間、ヒロトの様子に変化が起きた。
カッと肌が赤く染まって、足もとから空気を当ててるかのように金髪がふわり、ふわりと浮いた。そして、妙なことを口にした。
――「我らの血を受け継ぎし哀れな種族に対し、これ以上の仕打ちは許せぬ行為。小さな平穏すらも脅かす貴様には死をもって償ってもらおう」――
その声は相手に圧力をかけるよな、冷たくて重みのある声だった。顔を覗くと、知らない誰かであった。気がつけば、じいちゃんの顔から笑みが綺麗さっぱりと消えていた。
瞬く間にヒロトは賊に衝突した。腕から投げ出されたソウジは転がり落ち、賊は拳一つで顔面を粉砕させたという。飛び散った肉片を身体中に浴びたレンは、ヒロトに恐怖したのと同時に、不思議と湧き上がる興奮を覚えた。
賊を無視して、じいちゃんはヒロトの両肩をしわくちゃの手で掴み揺すって正気に戻させた。こうなった原因を落ち着きのある声で問い、それから、衝撃的な真実を知った。
ヒロトには三つの「夢」と二つの力が備わっていた。力とは、言霊と自己暗示だ。
一つ目の夢は、今のヒロトが持つ兄自身のもの。二つ目の夢は、知らない男の子が、見たことのない世界で無邪気に走り回っているもの。三つ目の夢は面識のない男性のもの。
問題は三つ目だ。まるで他人の精神に入り込んで、他人の目で景色を眺めている感覚がする、奇妙な夢だという。
内容はこうだ。
小さな男の子が暗い森のなかを走っていて、その子は必死に誰かを探している。男性は少年を追いかけていた。
追いかけながら、決まって同じ台詞を口にする。
――「そこには行くな! 戻ってこい! もう取り戻せないんだ!!」――
男の子は声に振り返ろうとした。すると、とてつもなく巨大で空全体を明るくするほどの雷が落ちた。耳鳴りをともなう雷鳴がとどろき、夢は終わりを告げる。
泣きじゃくりながら、震えた声で、じいちゃんにそう話していた。神妙な面持ちで深く息を吐いたじいちゃんは、その三つは「記憶」だと教え、ヒロトにある約束をお願いした。
「……このことは口外しないこと、言霊を使わないこと、ナオトを守ること。ヒロトは大きく頷いて、そのうちの二つは死ぬまで守った。守れなかったのは言霊だ。ヒロトはその力を使って、国帝をも脅した」
「タモン様を?!」
「うん。ナオトが本部で育ったこともあって、知ってたんだ。北闇は走流野家の能力を熟知しているって。タモン様を説得する必要もなく、………ヒロトは精鋭部隊に入隊した」
そして、二度目にやって来た彼らの侵入をヒロトが阻止した。
レンの話しを聞く限り、どうやらヒロトは、夢が俺の記憶だと知ったようだ。だから死に際に話してくれたのだろう。弟を安心させるために。
初めから全てを知っていたヒロトの言葉や行動には、偽りのない愛情が込められていた。
こそこそと噂されるなかで、目で「気にするな」と伝えてきたあの日も、海賊を殺してしまったのに一言も声をかけてこなかったあの時も、前夜祭や上級試験の時も――。
ヒロトは、俺の意見を尊重して、見守り、時に全力で止めてきた。
きっとそれは、ずっと昔からだ。
ヒロトが見た三つ目の夢は、俺が見たものと同じだった。
どうしてこのようなあり様になったのかわからないけれど、あの生々しい夢は現実である気がした。
胸の中で何年も膨れていた風船が、パンッと音を立てて割れた。その風船は軽く見えても中にはぎっしりと疑問や不安といったものが詰まっていたのだけれど、急激に身体が軽くなったような気がして、座り込む。
いまだに金髪のままの髪が視界に入った。それを親指と人差し指でイジリながら、己の心を制御できずに、置いてけぼりになった子どものようにして泣いた。
レンも同様だった。
涙が枯れきって、顔を見合わせた俺たちは発作みたいに笑った。
喧嘩ばかりのヒロト、成績が優秀なヒロト、お節介で世話焼きで誰とでも仲良くなれるヒロト。記憶の中で、今もなお生きているかのよに兄さんが動き回っている。
それがとても幸せで可笑しくって笑ってしまうのだ。悲しいはずなのに、ヒロトがその感情を全力で否定しているかのようだった。
大量に息を吸い込んで、レンが言った。
「俺ね、あの時、すごくヒロトが格好良くみえて、道ばたで気絶しているソウジじゃなくてヒロトに着いていこうって思ったんだ。でもナオトのことがあったから絶対に嫌だって断られちゃってさ。それでも諦められなくて、勝手に他言しないって決めて、賊は俺が殺したって自分で噂をバラまいたんだよね。それから数日とたたないうちに、抱えられなくなったのか、ヒロトは俺に話してくるようになった。精鋭部隊のことや能力のこと、記憶が複数あることも詳しく……。思うところはあるけど、ナオトには聞かないでおく。いつか、ヒロトのように抱えられなくなったら、俺に話して」
「ありがとう。多分、近いうちにそうなると思う」
レンの言う思うところとは、ヒロトの記憶に関してのことだろう。死に際の言葉も聞いているし、きっと俺と夢の中の男の子が合致しているはずだ。
「それと……」
言いながら先に立ち上がったレンが俺の手を引っ張って、立つように促した。そして言葉を繋ぐ。
「もう一度いうけど、俺はナオトの配下になる」
「よくわからないんだけど、配下じゃなくて友達じゃダメなのか?」
会話すらしたことないけれどソウジに悪い気がした。ただそれだけの思いで吐露したことに、レンは目を二倍ほどにも見開きながら驚いていた。
「混血者相手に友達って……。混血者同士でも友達なんていわないのに、人間と? 考えられない。ナオトってお馬鹿さんなの?」
「そういうのもうやめよう。デスにも言ったけどさ、レンも考え方とか風習を変えていかないと、ずっとこのままだぞ? どうせなら楽しい方がいいじゃん。待つんじゃなくて先に動くのもアリだと思うけどな」
自分で提案しておいて急に恥ずかしさがこみ上げてくる。友達が少ないからだろうか。一方レンはというと、納得こそしていないものの、頭の隅に入れておくといった様子であった。
そうして家に帰宅した。居間で呆然と座り込む寂しい父さんの背中を横目に見て、その足でヒロトの部屋に向かった。
「どこにあるんだろう……」
独り言に呟き、手当たり次第に例の物を探す。日記だ。置いてある場所を口にしなかったのは、きっと誰にも知られたくなかったからだろう。
ということは、目に付くようなありきたりな所にはないはずだ。ふと、天井を仰いだ。上に届きそうな物で突っつきながら歩き回ると、一ヶ所が音もなく持ち上がった。椅子に上って天井裏を覗く。
「あった……」
ベッドに腰を下ろして表紙を開く。汚い字で、それでも読むことのできる文字の列が並んでいる。そこには、兄さんの過去の記憶と過ちと懺悔が、そして弟への想いがずらりと綴られていた。




