第二章・16 「森の民」
幽霊島に向かう道のりで、青島隊長は「真っ直ぐに南下できない」理由をこう話していた。
この世界のど真ん中には常に濃霧が立ちこめている巨大な湖があり、その霧が晴れたことは今までに一度もない。つまり、湖を渡るのは不可能だという現実的な理由からだ――、と。
そのため、南東に下るルートを湖に沿うように、その上さらに湖と距離をあけて進む方法をとっていた。
これはあくまで濃霧を避けて進むための最短ルートを行く方法だ。だが残念なことに、この世界には春夏秋冬がなく、天候は前触れもなく崩れるし、温度差も激しい。つまり、いくら避けようとも、いつどこで霧が発生する条件が揃ってもおかしくはない、ということだ。
よりによって今夜、その条件が満たされてしまった。
濃くなった霧は視界を悪くしていく一方だ。どこにハンターや獣がいるのかも目視できず、迂闊に動けない。ただわかるのは、一人死んだということ。
氷を噛み砕くような音で耳の奥に痛みを感じる。
イツキと背中をあわせて警戒していると、小声で話しかけてきた。
「みんな所々で集まって動けずにいるのかも。なにか見える?」
「まったく……。ハンターだけならまだ打つ手があるけど、獣にはニオイで居場所がバレてるかもしれない。なにか作戦を練らないと……」
霧の奥に目を凝らした、その矢先。
暗さと、あまりにの速さで目視できなかったが、胸の辺りを鋭いもので抉られた。傷を目にすると途端に痛みが電気のように身体中を走り、ドクドクと溢れ出る血を手に取って膝をつく。
これはハンターじゃない。予感が的中したのだ。
「バレてる……」
斜めに引き裂かれた傷は三本あり、傷と傷の間隔で攻撃してきた相手の体長がある程度予測できる。
大猿とまではいかないが、それ並にデカい。
「気をつけろ、肉食獣だ」
言いながらイツキに振り向くと、いつの間にこちらを向いていたのか、しかも至近距離で目が合った。瞳孔が開き赤く光っている目は俺の傷を凝視していた。
「イツキ……だよな?」
緑色の髪の毛を見て彼だと確信するも、なぜだか別人に思えた。
別人は無表情のまま口を開いた。
「私ニ……指示ヲ……」
やけに冷静な声は、姿形は彼でも、やはりイツキのものではなかった。身体からは蒸気が立ちこめ、肌に熱が伝わってくる。これは、幽霊島で見た現象だった。
あの時は青島隊長が砂浜にねじ伏せてイツキを押さえ込んでいた。きっと俺もそうするべきなのだろう。しかし、なんだろう。この言いようのない興奮は。何が起ころうとしているのか、という好奇心は。
それに勝る、突如として胸を膨らませた懐旧の情は、俺の脳細胞を活発に動かしていた。
まるで咳がでるかのように、なにかが喉までこみ上げてきている。
ああ、そうだ。俺はこの声を知っている。
「行け、ジンキ」
「仰セノ……ママニ……」
立ち上がってイツキが片手を空に突き上げた。すると、手の平から黒い塊が蝶の産卵のようにして現れ、それが弾けた途端に一帯は暗闇に包まれた。そして、真冬を思い起こさせるような鋭い冷気が充満し始める。
肌を針で刺されてる感覚がするのに、しかし、心地いい。
目を閉じて、鼻から空気を吸い込んだ。そこに誰かがやって来た。腕を捕まれて俺を引っ張り、この場から離れようと走り出す。
「足を動かして!!」
女の声にハッと我に返った。
懐かしい? 知っている? なにを?
考えていると、いつの間にか暗闇を抜けていて、また濃霧の中に立っていた。隣には肩で息をするフウカとケンタがいる。フウカがこちらを見て微笑えんだ。
「大丈夫? 咄嗟の行動だったけど、ナオトだったんだね。傷は平気なの?」
「そんな暇なんてないよ! フウカちゃん、次はどっち? 早くみんなと合流しなきゃ」
「まあまあ、落ち着きなよぉ。あたしに任せるっぴ」
俺の返事を待たず、フウカに手を握られ、彼女はそのまま歩き始めた。だがすぐに立ち止まり茂みの方を向いた。
「サチ……」
今度はハンターだ。
「俺は怪我してるし、しかもこの状況だ。囮になるから二人はみんなを捜してきてくれ」
茂みの奥から飛び出してきたハンターはおよそ二十体。数体が二人を追ったとしても、混血者のフウカがいるならどうにかなる。残りのハンターを俺が引きつけてさっきの暗闇に戻れば、ジンキ――、いや、イツキもいるし、なにかしら手段が見つかるだろう。
しかしこれはあくまで全員が冷静であればこそ成せる方法だということを、俺はわかっていなかった。そして、忘れていた。レンから聞いた二人の関係を。
「あちゃあー。これじゃあ誰かが死んじゃうかもねぇ。大怪我をしてるナオトかなぁ? それともか弱いあたし? ……足の遅いケンタ?」
「イヤだ……、もうイヤだ!」
試験を思い起こしたのか、ケンタが逃げる。半分以上のハンターが彼を追いかけていった。
フウカは動かなかった。ケンタの背に笑顔で手を振って、千鳥足のようにフラフラとする俺を支える。
「なにしてんだよ!! あいつ、死ぬぞ!!」
フウカの顔を見て、怒鳴っても無意味だと悟った。機械的な微笑みは、笑顔とは受け取れない歪んだ顔だったのだ。
俺を木のそばに座らせてハンターに振り返る。
「自分から囮になってくれるだなんて、本当にケンタは優しい子だ……っぴ!!」
ハンターに飛びつき、両手に二体の頭部を鷲掴みにしたフウカは、顔から木に当てて、ありったけの力で押し潰した。しかも、彼女は半妖化せずに見事にやってのけた。
か弱い? どこがだ。囮になってくれた? 違う、そう仕向けたんだ。
玉城フウカ――。
彼女は恐ろしく強く、性格がひん曲がっている。
「よし! あとはナオトの仕事だっぴ」
「え?」
「闇影隊でしょー? 残りは片付けてよね」
彼女は俺をも囮にして濃霧の中に走り去って行った。
フウカの背に向けて伸びた腕は虚しく、そこへハンターがしがみつく。腕はカタカタと震え、出過ぎた血で意識は朦朧としてきた。
このまま喰われてしまうのだろうか――。
身体が地面に倒れて、消えゆく意識の中、どうしてかケンタの姿を見たような気がした。
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「おーい、起きろ」
「いやいや、まだ寝かせてやろうぜ。怪我人はこいつだけじゃねぇんだって」
「んじゃあ、下に降りてメガネの小僧を呼んできてくれ」
「あいよ」
聞いたことのない声にうっすらと目を開けた。眼球を動かすと、黒い影のようなものが視界に入る。物凄い勢いで頭が覚醒し、慌てて飛び起きた。
「俺に近寄るな!!」
そう大声を出すと、相手はピクリとも動かなくなった。
「か、身体が言うことをきかねぇ……」
胸が裂けそうな激しい痛みで、目の前にいるのが人であるとようやく理解した。それから、無意識に言霊が発動したこともまた認識する。
「す、すいません!!」
慌てふためきながら謝るも、俺の目は無精髭を生やしたイカツイおじさんの逞しい腕に釘つけだった。
タンクトップを着ていて、腕は大根二つ分くらい太い。裾が開いた長ズボンは、膝下・脹ら脛・足首の三カ所を紐でくくったものを履いている。男は、不信感丸出しで俺を睨んでいた。
少しの間を置いて、肩の力が抜けた様子の男に言霊が解けたことを確認する。
そこにケンタがやって来た。床に取り付けられたドアのような所から顔を覗かせ、部屋に入ってくる。
「お、来たか。どうだ、ちゃんと目を覚ましただろ?」
「ありがとうございます!! ナオト君っ……」
目に溢れんばかりの涙を浮かべたケンタは、ペタンと座り込んで嗚咽をあげた。
「感謝しろよ。この小僧が俺たちに助けを求めていなかったら大勢が死んでいたところだ。お前さんはギリギリだったけどな」
「ありがとうございます。えっと……」
この人は、女頭を筆頭に一族を築いた森の民の一人であることがわかった。世間一般には「山賊」と呼ばれているらしい。それは、青島隊長が言っていた「湖を拠点にしている山賊」のことであった。
「まあ、そんな物騒なものでもないけどな。人様の私物に手を出したことなんて一度もないが、噂には尾ひれがつくもんだ」
「ずっと森に住んでいるんですか?」
「そうだ。濃霧と巨大樹のおかげで住み心地は抜群よ。三種に襲われる危険もないとなれば、離れる理由もない」
「そんな安全な場所、あるわけないじゃないですか」
「地上に住んでいれば、な」
ふと、ケンタが床下から入ってきたことを思い出した。
「ここ、どこですか?」
「……ようこそ、ツリーハウスへ」
その後、名を「シノギ」といった男は、他の怪我人を診に下へ降りていった。
「俺の班は無事なのか?」
「みんなたいした怪我はなかったけど、ヒロト君はイツキ君を捜しにまた森の中に戻っちゃって……。今、ルイさんが連れ戻しに向かってる」
「ルイって?」
「女頭の人だよ。それよりも、怪我はどう?」
「かなり痛いし、喋るのがやっとだ」
「横になってなきゃダメだよ!」
本当は自己暗示で痛みを和らげているから、起き上がった時に比べるとそこまで痛くはない。ただ、ケンタの嘘を知ったばかりだから会話をする気にならないのだ。
なんとなく察しているようで、彼は実際の感情以上に大げさな表情を作っていた。この瞬間も、嘘がバレていやしないかと、緊張は極限にまで達しているらしく彫刻のような面持ちで心配する振りをしていた。
本音は別の所にある、といったところか。ケンタに助けられたため責めるようなことはしないが。今回は目をつぶることにした。
ケンタの情報によると、ここに住んでいる人たちは、路頭に迷っているところをルイに助けられた人ばかりなんだそうだ。国から追放され、外で暮らす事を余儀なくされたらしく、しかし驚いたのは、罪人ではなく善良な国民ばかりだということ。
朝になり、シノギに起こされた俺は青島班と合流すべく部屋を出た。そして、目の前に広がる光景に、胸の奥底に眠っていた純粋な少年の心をくすぶられた。
「なにこれ!? すっげぇ!!」
巨大樹と巨大樹を繋ぐ吊り橋を人が歩き、見たこともない大きくて太い枝の上には家が建てられ、スライド式のハシゴで上と下を行き来する、そんな光景が目の前に現れたのだ。まるで別世界にいるような気分だ。
何層にも重なった生い茂った葉で地上は見えず、それはつまり下からもこちらが見えないということ。
「な? 住み心地は抜群だろ?」
自慢げに言ったシノギに、胸の傷を忘れて大声で返事をした。
吊り橋を渡り、ハシゴを登って、案内されたのは誰かの家だった。ここが最上階だそうで、住んでいるのは女頭のルイだ。挨拶をしていないのは俺だけで、つい先程戻って来たらしい。
ドアを開けると、そこにはタバコを吸いながら座る、黒い長髪を編みこんだ髪型が印象的な女性がいた。服装はシノギと同じだ。
「お帰り、姉貴。この小僧が金髪坊やの弟だ」
「めっちゃそっくりやん。名前はナオトやったっけ?」
年齢は二十代後半くらいだろうか。その若さで女頭だなんて、いったいどんな人なんだろう。
「はい、走流野ナオトです。兄弟揃ってお世話になってます」
「そんな畏まらんでいいで。隊長さんたちが回復するまでゆっくりしていってくれ。それにしても、あんたの兄ちゃんもやけど、ナオトもイケメンやな。モテるやろぉ?」
「え? いや、まったく……」
「わしが若かったら狙ってたくらいや。シノギ見てみ。あんなゴリゴリのオッサンなったらあかんで?」
そう言って、大口で笑ったルイ。とにかく気さくな人で話しやすく、冗談が好きなのか終始シノギをイジリ倒していた。
挨拶を済ませ、ルイの家を後にする。イジられていたシノギがあまりにも面白くてその余韻を引っ張っていると、シノギは急に面持ちを変えた。
「明日もまた姉貴に挨拶してやってくれ」
「いいんですか? なんだか忙しそうな人ですけど」
「姉貴は常に今日を生きている人なんだ。朝になれば全員が姉貴に顔を出しに行く。それに着いていったらいい」
「どういう意味ですか?」
「……朝になれば姉貴の記憶は消え、今日のことを全て忘れる。原因はわからんが、もう三年もそれを繰り返している。姉貴と最初に出会ったのは俺だが、彼女はずっとこうだ」
「それってつまり、明日を迎える度に初対面だってことですか?」
「ああ、そうだ」
悲しげに笑ったシノギは、俺を青島隊長がいる場所に送り届けてどこかに行ってしまった。
他の家に比べて一際大きいこの建物は談笑の場として使用されているらしく、仲間はこの場所に寝泊まりしていた。
朝ご飯を持ってきてくれたおばさんたちは陽気な人ばかりで、あんな目に遭ったばかりなのに笑いで溢れている。
今しがた、青島隊長から追放された理由を聞かされた俺は、おばさんたちの笑みに胸が痛む思いだった。
混血者を庇っただけで、どうして故郷を失わなければならないのだろうか――。




