第二章・10 「前夜祭」
いよいよ上級試験まで一週間をきった頃。
南光の国までは数日かかるため、北闇の国では下級歩兵隊の昇格を願って少し早めの前夜祭が開催された。天候にも恵まれ、生暖かい風が吹き抜ける北闇はまるで夏のようだ。
北闇の国に生まれて十一年、祭りは初めてだ。ということは、上級試験は十一年ぶりに開催されるということ。
前の世界を思い出して最初は素直に笑えなかったが、父さんに繋がれた手に緊張はほぐれていき今では夜店を自由に楽しんでいる。
「父さんは向こうで少し話してくるから、お前たちも友達のところに行っておいで。ヒロト、ナオトを頼んだぞ」
「わかった! また後でな、親父」
大勢で賑わう祭りでは、俺たち兄弟が歩いても、隣にイツキがいても、ユマやカナデと合流しても、誰も冷やかしや不服を口にする人はいなかった。
浴衣姿でおめかししている人もいて、家族と一緒に祭りを思う存分に楽しんでいるようだ。それに比べて俺たちは、もう着慣れた戦闘服に身を包みながら夜店に並んでいる食べ物を頬張っている。
そういえば、さっき家族と歩くケンタとすれ違った。その表情からは合宿帰りの時のような憂鬱さはさっぱり消えていた。きっと、タモン様から許しがでたんだと思う。
「ほらナオト、お前ももっと食えよ。いつ任務が入るかわかんねぇんだからさ」
「俺はヒロトみたいに大食いじゃないから。っていうか、お腹いっぱいだし」
差し出された食べ物を押し返しながら、目は自然とカナデに向いた。熱かったのか、口の中ではふはふと小刻みに息を吐きながら食べる姿に俺の頬は緩んでいくも、仲間とこんな時間を過ごすのは初めての経験で、なんだか違和感を抱かずにはいられなかった。
いや、これまでが異常だったのだ。
護衛中は常に三種の存在を警戒し、そのうち二種を相手にした時は死を間近に感じていた。その間は一秒たりとも気を抜ける余裕などなく、脱力感に襲われるのは家に帰ってからだ。
「(こんな日がいつまでも続けばいいのに……)」
前の世界のような日々がこの世界にもあれば――。怯えて暮らすのではなく、平穏な毎日を過ごせたら――。
行き交う人々や通りに向かい合って並ぶ夜店、風に運ばれてくる様々なニオイはこの世界では珍しい。
広場の中心では重ね合わせた木材に火がつけられ、炎と煙が夜空を焦がしていて、人々はまるで神秘的な物を見ているかのようだった。
死ぬかもしれない試験に送り出すための祭りではなく、年に一度の季節を感じる楽しい祭りのはずなのに。
前の世界では、心の底から楽しめる夏の恒例行事の一つだった。
ヒロトやイツキ、カナデやユマの笑顔を見ていると、もっと別の意味で楽しめたらと思わずにはいられない。
「ヒロト見っけ! 思う存分楽しんでるみたいだね」
そこに言いながらやって来たのは、ソウジの配下である大刀華レンと他の誰かだ。ぽっちゃりとした体型に似合う骨付き肉を片手に、温和な雰囲気を纏いながらレンの隣に立っている。
察したのか、「片倉ダイチ」という名前で、ソウジの配下だとイツキが教えてくれた。
「ユマ、レン、ダイチ……。配下は全員で四人だよな?」
「もう一人はまた今度。どうせナオトは忘れるだろうしね」
「ごもっとも……。やっぱみんな強いの?」
「んー、それぞれ役割があるって感じかな。ソウジとユマは攻守バランスのとれたタイプで、レンは根っからの攻撃型、ダイチは防御型でもう一人は司令塔ってとこ」
「防御型ってどういう役割だよ」
「身をもってソウジの盾になる守護的存在。そういう意味では、配下の中ではダイチが一番身を危険にさらしているかもしれないね」
見た目で決めつけるのはどうかと思うが、ダイチは壁になって守ってくれそうだ。だが、レンは意外だった。
というのは、合宿終了後に総司令官に対してあんなことを言っていたものの、ふわふわで口どけのよさそうな薄ピンク色の綿あめを食べているレンからは微塵もそんな空気が感じられないのだ。
攻撃型というよりは、人懐っこくて何かあれば一目散に逃げだしそうな小型犬みたいな子で、改めて観察すると手元にある情報とは違ってみえた。
ヒロトやユマと話すレンはこちらの視線に気づくと、俺の顔を覗きこむようにして近づいてくる。
「やっほ、弟君。ちゃんと話すのは初めてだよね?」
「そうだけど……」
「……ふーん、これがヒロトが大事にしてる弟君かぁ。弱そ!」
「――っ、なんだよ、お前」
「別に、思った事を言っただけ」
綿あめを口に運んだレンは、それが溶けるのを待って続ける。
「なんでだろうね。どうして弟君の方なんだろ。神様は何を考えているのかな」
それを聞いて、ヒロトはレンの肩を強く掴み自分に振り向かせた。そして、今までに見たこともない表情で怒りをあらわにする。
「ヒロト、俺は気にしてないから!」
慌てて止めに入るも、ヒロトと目が合うと思わず息を飲み込んでしまった。
「うるせぇ、お前は黙ってろ……。レン、……殺されたいのか?」
ヒロトの掠れた低い声で、祭りの賑やかな空気は一瞬にして消え去ってしまう。まるでここだけ別空間みたいに、目の前にある夜店の並びと見えない壁ができてしまったかのようだ。
「冗談だって」
「冗談に聞こえねぇんだよ」
あのユマでさえ、ヒロトに近づけずにいる。
「……だって気に食わないじゃん。今だってほら、弟君はいつの間にかヒロトの後ろに隠れてる。いつだってそうだよね。小さい頃からずっと守られてばっか」
「黙れ! それ以上ナオトのことを口にしたら本気で殺すぞ!!」
レンの言葉を遮りながら怒鳴ったヒロトは、そのままの勢いでレンの左頬を殴り飛ばした。よろめきながら倒れかけたレンをダイチが受け止めてくれたおかげで大きな怪我をせずに済んだようだが、そんなことはどうだっていい。
「(俺は……また……)」
無意識だった。気がつけば目の前には揺れる金髪があって、幼い頃と変わらず俺はヒロトの背後に立っていた。
ヒロトを超えるのはそう簡単なことではないと突きつけられた瞬間だった。染みついた習慣か、それとも臆病者ならではの行動か。とにかく、こみ上げてくる恥ずかしさと虚しさと苛立ちで、その場から逃げるように走り去る。
そんな俺を追いかけてきたヒロトは、横を追い抜いて行く手を遮った。肩で息をする俺と違い、整った呼吸のまま薄紫色の瞳同士が合う。
何気なくヒロトの左手を触ると、さらにどん底に突き落とされた。
「熱くないってことは、自己暗示で俺を追い抜いたわけじゃないんだな……」
適度に温もったその手にどこか届かない場所が痛み始めた。目の奥が熱くなり、歯を食いしばっても静かに頬を伝い流れていく。俺の後ろには、ユマたちも来ていた。
「なぁ、ナオト。俺たちはいつも通りでいいんだって。レンの言うことなんか気にするなよ」
「違う! 俺はっ……」
青島隊長のようになりたくて、ヒロトと比べられたくなくて、そして――。
「守られるだけの存在じゃない! 俺だって戦える!」
「んなこと俺にだってわかってんだよ!」
「何もわかってないっ……」
見慣れたはずの揺れた金髪――。
それは少し前までなら当たり前のことだった。喧嘩ばかりしていたあの頃は、呪われた兄弟だと冷やかされて国を歩きづらくても、それでも安寧を感じていた。この金髪が目の前にある限りこれ以上の最悪なことは起きないと思っていた。
だけど、気がつけば金髪は遠く離れたところで揺れていた。隣には俺じゃない誰かがいて、力にも差が付いて、目に見えて明らかとなったそれを周囲は比べ始めた。
「何もわかってないのは弟君、そっちの方だよ。ケンタを見てるみたいでイライラする」
こうなった元凶ともいえるレンまでやって来て、俺は急いで涙を拭った。
「弟君はさ、いつもヒロトの背中ばっか見てるじゃん。だからヒロトがどんな顔で前に立ってるか知らないよね、きっと」
「どういう……意味だよ……」
「自分の事しか考えてないってこと。たまにはヒロトの立場になってみなよ。……てなわけで、俺たちはここで解散。ユマとカナデも帰るよ。ソウジが全員集まれってさ」
一言も言い返すことが出来なかった。
「ナオト、帰ろう」
「でも、俺……」
「いいから、帰るぞ」
「うん……」
イツキと別れ、賑わう夜道を黙って歩く。俯いていた視線を上げると、そこにはやはり揺れる金髪があった。
歩きながら、カナデの言葉が頭のどこかで聞こえてきた。
なんだか俺を守ることに必死になっているように見える――、そう言っていたが、そんな風に見えていたのはカナデだけではなかった。
いつもヒロトの後ろに立つ俺は、ヒロトがどんな表情でいるかを知らず、その時の感情を全て声だけで判断していた。だけど、正面からヒロトを見ている人はどうだろう。
きっと、カナデやレンはよく知っている。俺よりもちゃんと見ている。
「いつまで俺を守るつもりだよ……」
声に歩みを止めてヒロトが振り返った。
「俺は兄貴だ。守るのは当然だろ」
「先に生まれたってだけじゃん!! それに、守られてたらまた馬鹿にされるだろ!!」
「そんなの関係ねぇ。俺が守らなきゃいけねぇんだよ」
「なんだよそれ!! 意味わかんねぇよ!!」
「とにかく、絶対に死なせねぇから。もう悲しまなくていいように、俺が変えてやっからよ」
「さっきからなに言ってんだよ……」
「……いつか祭りだってもっと楽しくなるし、みんなも今よりずっと幸せそうに笑ってる。そんな世界を造るのはナオト、お前の役目だ。それまで俺が守ってやる。だからもうなにも気にするな」
「気にするなってそればっかりじゃん。ビビリな俺になにを期待してるのかわからないけど、レンの話しを聞いてなかったのか? ケンタを見てるようだって言われたんだぞ!! それがどういう意味かわかってんのか!?」
「あんな言葉に意味なんてねぇんだよ!! いいからお前は俺の後ろにいろ!! 絶対に前に出るな!!」
どうしてヒロトの目に涙が滲んでるのだろう。なぜそこまで必死になって俺を守ろうとするのだろうか。
強引に腕を掴まれ、半ば引きずられるようにして家に向かう。俺がなにを言ってもヒロトは答えてくれなかった。
数日後、俺たちは上級試験のため北闇を出た。
新人三班を含め、北闇からは全十班の下級歩兵隊、隊長を除いた計四十一名が試験に挑む。
隊列から少し距離を置いて歩きながら、こちらを何度も振り返るカナデに胸の中で謝った。喧嘩なんてしてほしくないという彼女の小さな夢すら、俺には叶えてあげることが出来ない。
きっと俺は、ケンタと同じラインに立っている。




