第二章・1 「死神」
遠い意識の中、毛布とは別の温かい何かに包まれている感覚がした。その温もりが消えた途端に頭の中が真空のように冷たく凍りつく。
肢体の自由が利かず、このまま粉々になって消滅してしまえばいいとすら思えた。
重い瞼を開けると辺りが真っ暗で何も見えない場所に立っていた。
「どこだよ、ここ……」
すると、声に応えるかのように目の前に街灯が一基現れ、その光が俺の足もとで不規則に点滅した。
点滅は、俺のこれまでの人生を短編映画みたいに映し出す。
そこには、いつも通っていた道を走る小学生の頃の俺がいた。どうして今になって前の世界での思い出を蘇らせたのだろうか。
今の俺にとっては苦痛でしかないその映像は、日曜日の昼下がりを映し出していた。
あの頃の俺は、朝から晩まで家族全員が家で過ごせるこの日をとても大切にしていた。まるで自分がヒーローであったかのように幽霊探しのことを父さんに話しながら、台所で夕飯の支度をする母さんが包丁で何かを切っている音に心地よさを覚えていた。
それなのに、両親が亡くなった時の悲しさを思い出す事が出来なかった。
「やめろよ……。――っ、どっかに消えろよ!!」
笑うな――、と誰かが耳元でそう囁いた気がして、過去の自分を消そうと何度も足裏を擦りつけると、映像の真ん中から亀裂が入り光の粉となって消えてしまった。
次に別の映像が流れた。この世界に生まれた俺だ。
座り込んで手で映像に触れてみると、そこから真っ赤な液体が溢れだした。俺の手を這うようにして全身を染め上げ、急に頭が痛み出し、耐えきれずに横に倒れると映像は丁度顔の真下にきた。
そこには人生最大の汚点が映し出されている。
映像の光が闇の空間を明るくするほどに光を放つと、瞬間移動でもしたのか、海賊の島で愕然と立ち尽くす俺の背後に、今の俺が浮遊霊のようにして立っていた。
俺は人を殺した――。
ユマは、俺が殺らなければ自分が殺っていたと言っていたが、それは人間に対する恨みや憎しみからの発言だろう。獣や妖の扱いと混血者の扱いに違いはないと、そう断言したのだ。
思えば、俺は大猿に何をした?
足もとを何度も狙い、隙あらば殺そうとしていた。
逃げ遅れたカナデを見た時には無意識にそこまで向かい、その後の対策は考えてもいなかった。
あの男の時もそうだ。俺はただ怒りに狂い、その時の衝動に任せて行動した。ユマと違い、状況を見て判断してはいなかった。
映像は幽霊島に戻ってからの出来事も映し出していた。
「ごめん……なさい……」
幽霊島の浜辺に一人座っている俺は、ユマが立ち去ってからそう言葉を漏らした。
そんな自分を見下ろしながら涙が頬を伝った。砂浜に、人差し指で「人殺し」と文字を書いている俺もまた肩を揺らしながら泣いていた。
この世界は、「死」が他人事ではなく、職業のせいもあるだろうけどとても身近に感じる。
前の世界でテレビを見ていた時、ニュースでは交通事故や殺人などの報道が連日に渡り放送されていたのを思い出す。
あの時の俺は、画面の向こう側にある事故現場に妙な興奮を覚えたり、犯人像を頭に描いたりしていた。なぜ事故が起き、なぜ人を殺したのか――。
そうなるまでの過程を考えた事は一切なかった。全て他人事だったからだ。
前の世界にいた俺も含めて、俺は最低な人間なんだと思い知る。第三者のくせに当事者のような気分になって、今回のようにいざ自分の身に起きると何の心構えも出来ていやしない。
両親が死に、ただ泣いて、人を殺して、ただ泣いて――。
元の暗闇に戻ってきた俺は、また点滅する街灯に照らされていた。この光は、どれだけ闇に逃げようとも、罪を犯した人間を逃がすまいとする光だった。
その光を両手に見ていると、俺の体は指先から灰となって消え始めた。途端に苦しくなり、呼吸は小刻みに吐き出される。これが「死」だと、直感でそう思い目を閉じた。
「これで償えるのなら……」
もし死んだ事であの男が天国に逝けるなら、俺は喜んで絶命する。
そう決意を固めた、その時。
誰かに髪の毛を鷲づかみにされ、凄まじい勢いで引っ張り上げられた。地から足が離れ、点滅はどんどん遠く離れていく。その間も体は灰となり消え続けているが、下半身がなくなった頃だろうか。
次に心臓辺りを強く圧迫された俺は、大きな口を開いて大量の酸素を吸い込んでいた。
瞼を開けると、真っ先に目に飛び込んできたのは見た事のない生き物だった。血色の悪い灰色の肌に、血で染めたような深紅の着物を着る、角が二本生えた鬼のような生き物だ。
「死神……」
そいつはまさしくそれに見えた。
手を差し伸べられ、恐る恐る掴むと、強引に立たされた俺は地面に放り投げられた。両手と両膝をつき顔だけで振り向くと、俺の背後には掘られた大きな空洞があり、その周りにはたくさんの墓があった。
死神は空洞の前に置かれている墓石を蹴り壊して、俺の近くに寄ってきた。それから腰を下ろして、ジッとこちらの顔を眺めている。
その目は、白目の部分が黒くて瞳が赤い恐ろしい目をしていた。怖いのに、なぜだか目が逸らせず、赤い瞳の奥に吸い込まれそうになる。
死神はゆっくりと口を開いた。
「……充分に苦しんだか?」
そう問われ、俺は首を横に振った。
あの男の苦しみや痛みはこんなものではないはずだ。
痙攣し、皮膚は波打つようにうねり、両目が飛び散り、呼吸を遮断され、そして顔が破裂した後に灰となった。あの死に方に比べれば、映像を見ながら苦しんだ俺なんて可愛いものだ。
「あれだけじゃ足りない……。俺がした事は……」
思い出すと、体は小刻みに震え始めた。自身の肩を強く抱くも、男の死に様が稲妻のように頭の中を走り抜け、震えは治まるどころか激しさを増していく。
「お前、死神だろ? 俺は他にどんな罰を受ければいい? なんでもするからさ……」
立ち上がった死神は赤い瞳で俺を見下ろした。あまりの身長の高さに、上から圧力をかけられ押し潰されそうになる。
鼻で笑って見せた死神は震える俺を無理矢理立たせ、蹴り壊した墓石の前に移動した。
「なんと書いてあるか、声にして読んでみろ」
「……――っ、走流野……ナオト……。俺の名前だ……」
「二日前、お前の心臓は止まり死を宣告された。だが、仮死状態にあっただけで死んではいない」
死神の言葉に息を飲んだのは、死ねていない自分に愕然としたからだろう。
死神の袖を掴んだ俺は、俯きながら「殺してくれ」と頼んだ。しかし、死神は俺の頼みを無視して別の話をし始める。それは、言霊についてだった。
「……お前のその力だが、父親も知らない原理がある。それを知った上で、どうしても殺してほしいのなら、もう一度そう頼むがいい」
「原理って……?」
「言霊で誰かを殺める場合、何の罪も犯していない相手には一切効果がないのだ。しかし、逆の場合、言霊が与える死に方はその者が過去に犯したやり方を相手に返す形となる」
「それって……。じゃあ、あの男は……」
「そうだ。あらゆる人間、あるいには混血者に、自身が死ぬまでの過程と同じ事をやった。……あの男は元々王家に仕えていた者で、主に拷問を職としていたようだ」
それを聞いて、俺は大猿との戦いで入院した時に医療隊の女の人が話してくれた内容を思い出した。混血者が軽度か重度かを見極めるために、王家と呼ばれる貴族が拷問で確かめる、とのことだ。
しだいに体の震えは収まり、死神の袖から手を離して、白々とした空虚感が黒い怒りに変わっていくのを感じていた。
「それでもお前は、俺に殺せとそう頼むのか?」
言霊にそんな原理が備わっていると知っていたら、俺はどうしていただろうか。いつも通りの生活が送れたのか。――いや、きっと同じ感情を抱いていたはずだ。
「罪は償えたのかな……」
「死んではそれで終わりだろう。死に逃げるのではなく、生きて償え、この阿呆」
言いながら、いきなり俺の体を俵担ぎにした死神は、目を開けてられないほどの速さでどこかに移動し始めた。
それから、辿り着いた場所で俺を降ろした死神は、周囲を確認する間もなく俺の首に手刀を入れる。全身から力が抜け、地に両膝をつき、上を向いていた顔は最後に地面へと叩きつけられた。
消えゆく意識の中、死神は耳元でこんな事を口にした。
「ユズキを探せ。お前が求める答えを、あいつが持っている……」
その言葉を最後に死神はその場で姿を消し、そして俺は意識を手放した。




