第一章・14 「理想と現実」
洞穴の中を逃げ回り、山びこのように聞こえてくる仲間の悲鳴に怯えながら、訓練校に通っていた頃の無意味な妄想を思い出していた。
胸を膨らませていた、あの頃の俺を――。
「なあ、ヒロト! 父さんと同じ階級に上がったら、父さんには引退してもらって俺たち二人で頑張ろうぜ! ある程度の戦果を残して、それから……」
「それから、なんだよ」
「と、とにかく! 頑張ろう!」
カナデの婚約者に一騎打ちを申し込み、勝ったら婚約を白紙にしてくれって頼む――。なんて、口が裂けても言えなかった。
それまでに、たくさんカナデにアプローチして、ビビリな俺ではなく格好いい俺を見せつけてやろう――。なんて、そんな甘い事を考えていたのに。
どうせ死ぬのなら、男らしく派手に華やかに舞い散って、教科書の隅っこに載るような歴史の一部になれたら――。なんて、ビビリながらに夢見たこともあった。
「あぁ……、俺ってカナデの事ばっかじゃん……」
どうして予測出来なかったのだろうか。
三種の中に「獣」が含まれている時点で、妄想力を生かし色んな生き物を思い描く事だって出来たはずだ。
「貴様っ、混血者を率いる班は前進との命令だろう!」
逃げながら肩にぶつかってきた歩兵隊を目で追った俺は、両手に血を握り、荒々しく吐き出される呼吸に現実を見た。
こんな生き物を相手にして、どう戦果を残すつもりだったのだろうか。今の俺に出来るのは、せいぜい日中に安全な道を行きながらの護衛のみだ。
大猿は、すでに半数以上の歩兵隊を叩き潰し、咬み殺し、握り締め、肉片を四方八方に投げつけていた。もう誰の血や肉片を浴びたのかもわからず、戦闘服はあらゆる液体を吸収して重くなり肌に張り付いている。
少し動けば、足裏に響く骨を踏み砕いた音で体は硬直し、大猿を見上げては顔色が青くなるのを感じていた。
救いなのは、大猿のおかげなのか、ハンターの巣だと思われるこの洞穴にハンターが一体もいないという事だ。今のところ敵は入り口にいる大猿のみで、ハンターの襲撃は先程の後方部隊の被害のみである。
ユズキのアドバイスを思い出したのはそんな時だった。
「その目で出来る事を見つける……」
ビビリな俺だからなのか、彼女の言葉を思い出した途端に自分が今いる立ち位置が最も安全な場所である事に気がついた。
それから、よく大猿を観察するとある事がわかる。
「あいつ……、見えてないのか?」
大猿の隙間から僅かに差し込む光で、俺からは所々洞穴の中の状況が見えていたり、被害を把握出来たりするが、自分の背中で前方を影にしている大猿は手当たり次第に攻撃しているように見えるのだ。
つまり、あいつの影にいる人は大猿の目に映っておらず、さらには血のニオイが充満する洞穴で鼻が利いていない可能性がある。
大猿の足もとで戦うヒロトたちを観察しても、日が当たる場所に入ると攻撃を受け、影に入ると標的にされていない事がわかり、俺の推測は確信に近づいた。
俺が立っている場所は、恐らくこの洞穴内で一番影が濃い場所だ。
顔を横に振り、気合いを入れ直すために両頬を叩こうとすると、片手の自由が奪われていた。こんな状況でも顔に熱を帯びるのは、未だにカナデの手を握っていた自分に焦ったからだろう。
どうやら、最初のハンターの襲撃の時からずっと握っていたらしい。
「ずっと呼んでたんだけど……。大丈夫?」
「あ、当たり前だろ! 作戦を練ってただけだ!」
「……怖くないの?」
カナデの震える声に思わず息を飲み込んだ。俺だけじゃなく、彼女も恐れているのだ。何気なく頬に触れてみると、指先にカナデも血を浴びている感触が伝わってくる。
「怖いに決まってるじゃん。……混血者だからって関係ないよな。あんなデカい猿、見たことないし!」
笑って見せたものの、きっと俺の笑顔は不気味そのものだろう。だけど、これが俺に出来る精一杯の事だった。
カナデの手を離して大きく息を吐き出し、気合いを入れ直した俺は大猿に向かって足を進めた。最初は怖くて一歩踏み出すのが限界であったが、自己暗示のおかげでスピードは増していき、骸骨に足を取られながらも危険地帯に辿り着いた。
「ヒロト、今すぐ大猿の影に入れ! 他の人たちも早く!」
すると、大猿は足もとをしきりに警戒し、片足を上げては勢いよく振りかざしを何度も繰り返す。やはり、影の部分はあまり見えていないようだ。
それを見て、混血者は大猿の巨体をよじ登り、鋭い歯を剥き出しにして首を狙った。しかし、喉元を逞しい腕で覆われてしまい、人の何十倍もある腕を退かそうにも簡単にはいかない。巨体を振り、混血者を振り落とそうと暴れ始めた大猿は、一瞬だけ日の光を浴びた混血者の男の子を見逃さなかった。
開いていた片方の手でその子を掴み、握り潰そうと手に力を入れる。だが、捕らえられる瞬間に両足を大猿の手中に収めていた彼は、背中と足の裏で反発し握り潰されるまいとしていた。
半獣化した彼の脚力は凄まじく、大猿の手は尋常じゃない力を入れているのが一目瞭然で小刻みに震えている。一方、彼はというと、長く続く戦闘のせいで徐々に力を失っていた。
「ヒロト、ナオト! お前たち二人は右足を崩せ! 左は私たちに任せろ!」
青島隊長の声で、右足に移動した俺とヒロトは拳を作り地を強く殴った。転がる骸骨を砕き、地に拳が届くと、大猿の足を中心に地面が割れ壁のように突き上がる。
これにより、少しだけよろめいた大猿に、俺とヒロトは彼を握る手に飛躍した。
それから、俺は親指に、ヒロトは人差し指にしがみつき互いの足の裏を合わせて押し合う。すると、力が入らなくなった大猿の手から彼が滑り落ち、その下で彼の班の隊長が受け止めた。
再び暴れる大猿を見て、青島隊長が命令を下す。
「全員、奥に後退!!」
「あの場所が洞穴内で最も安全です! 一度退くならそこに! 態勢を整えましょう!」
「ナオトの言葉を聞いたな!? 行くぞ!」
青島隊長の指示で先に新人歩兵隊の三班を行かせ、隊長たちは援護しながら着いてきた。ところが、青島隊長は途中で立ち止まってしまう。大猿の足もとには逃げ遅れたカナデがいた。
「――っ、カナデちゃん!!」
青島隊長の横を走り抜け、カナデの元に向かった俺は振り上げられた手から守るために大猿の片足を思い切り蹴り飛ばした。
巨体は大きな地響きを鳴らしながら横に倒れる。
「ナオト君、なんで……」
「いいから! 早くあの場所に逃げるんだ!」
走ったカナデを確認し、後に続いて俺も向かおうとすると、左足を捕まれた俺は顔面から派手に転んだ。
骸骨に強く顔を打ち付け、その衝撃は頭にまで響き、左右する視界に吐き気を覚える。
足が解放され、仰向けになると、俺の真上で四つん這いになった大猿は唸り声を上げながら顔を近づけてきた。
そして、片手ですくい上げるように俺の体を洞穴の外に放り投げ、一身に日の光を浴びた俺には逃げ場がなくなってしまった。水切りのごとく体は地を跳ね、木の幹にぶつかりようやく動きは止まる。
両膝をつき、腹の底から嘔吐する俺に、大猿は容赦なく攻撃してきた。
これは死んだかもしれない――。
そう冷静に思えたのは、教科書通りにはいかない現実を身をもって経験したからだろう。ビビリな俺が前に出すぎた結果なのかもしれないが、格好悪い死に方ではない。
一つだけ叶った理想に思わず笑みが溢れ、踏み潰そうと持ち上げられた大猿の片足に目を閉じ、死を覚悟した、その時――。
「ナオト君! 諦めちゃダメ!」
聞こえてきたカナデの声に、無意識にクロスされた俺の両腕は、すんでのところで大猿の片足を受け止め体ごと地面にめり込んだ。のしかかる体重により背中と両腕は悲鳴を上げ、さらに両足で抵抗するも大猿の体重は支えきれない。
「カナデちゃんが……見てるのにっ……! このクソ猿が!!」
死を覚悟したはずなのに、俺は必死に逆らおうとしていた。改めてカナデの存在の大きさを実感し、あまりの単純さに我ながら情けなく感じるけど、好きな人に諦めるなって言われたら今ここで死ぬわけにはいかないのだ。
しかし、俺の思いよりも大猿の体重の方が勝っており、徐々に両腕が自分の顔に寄ってくる。
ここまでか――。
顔を横に背け、くる衝撃に身を構えた。すると、何処からか何語か理解出来ない声が聞こえてきた。それと同時に大猿の足から力が抜け、両腕は軽くなっていく。
急いで足もとから離れた俺は周囲を見渡した。大猿も同じような事をしており、聞こえてきた場所はわかっていないようだ。
俺と目が合った大猿は、ゆっくりと後退し、声に誘われるかのように森の奥深い闇の中へと姿を消した。
いったい何が起きたのだろうか。呆然と座り込む俺のもとに来たヒロトは、横になるように言い、他に怪我がないか急いで確認をしている。
「なあ、さっきの声……聞こえたか? 何語か全くわからないんだけどさ……」
「んだよそれ! 幻聴か!? 隊長、強く頭打ってるみてぇだ!」
俺の隣に腰を下ろし、安堵と腹立たしさの両方を顔に浮かべる青島隊長を見て、目頭が熱くなるのを感じた。
「ナオトよ、なぜ一人で立ち向かったのだ! 私の言葉を忘れたのか!?」
「すみません……」
この惨事が起こる前、俺は青島隊長と上官について話していた。
死んでしまったのか、外に出てきた歩兵隊の中に上官の姿は見当たらないが、今ではあの人に対して怒りすら感じず、あるのは「終わった」という硬直していた体の緩みだけだ。
それと同時に、あの場で上官に背いたのが無意味に思えてきた。
あの時でなくとも国に戻ってからでよかったのだ。もし仮に相手が死んだとしても、それは同じ仲間として見られなかった上官の自業自得の結果であり、そんな奴に物申しても、心に届かないのなら何の意味もない。
ならば、共に帰還した上で、改めて混血者の有り難みを実感させればよかったのだ。生きて帰って言うことに意味があるのだと、初めてわかったような気がした。
その後、動ける歩兵隊が洞穴内をくまなく調べたが、そこで衝撃の事実が浮上した。
「ハンターの巣じゃないぞ……」
「だな……。そもそも、あいつらがこんな綺麗に肉だけを食うはずがねぇ……」
大猿の出現で、本来の目的であるハンターの討伐と巣の排除は後回しになったが、逃げ込んだ場所がハンターの巣だと思っていたのは俺だけではなかったようで、生き残った全員が虚脱状態だ。
と、その時――。
日も落ちた頃、見計らったように突如として現れたのはハンターだった。
あちこちの茂みが揺れたのと同時に囁き声が聞こえてくる。一度奪われた戦意に、もはや隊としての機能は完全に失われていた。かくして、俺も同じだ。
痛みは全身にあり上体を起こす事もままならなかった。だからといって諦めたわけではない。
「(動け……動け……動け!!)」
足の先から頭のてっぺんまで熱くなるのを感じ、それは自己暗示が成功した事を意味していた。手を見ると赤く染まっており、心臓は激しく鼓動を繰り出す。
上体を起こし立ち上がった俺にヒロトはすぐに暗示を解くように言ったが、ハンターを目の前にしてそれは無理な頼み事だ。
やれるところまでやってやる――。
大猿を相手にして一度死を感じた今の俺に、恐怖心など微塵もなかった。
「や、やめろぉぉおお!!!!」
声に振り返ると、早速一人目が襲われていた。
ハンター四体が飛びつき、みるみる内に肉がなくなっていく。筋肉が露わになり、やがて骨が見え始め、倒れた歩兵隊にはさらにハンターが群がった。払い除けようと、近くに居た歩兵隊が駆け寄るも、巻き添えを食らい同じように残骸と化してしまう。
ハンター討伐のために五十人あまりいた歩兵隊は、大猿との一戦で半数以下になっていた。そのため、ハンターとまともに戦えるだけの人数がいないのだ。
最悪な状況に為す術もなく、この時点で隊に与えられた選択肢は二つに絞られた。いや、混血者に与えられた選択肢、が正しいだろう。
見捨てるか、戦うか――。
足手まといになる人間を見捨てれば混血者は簡単に生還することが出来るし、きっと俺とヒロトも生きて帰れる。考えている事は同じなのか、誰を見ても混血者と目が合ってしまった。
究極の選択に頭を悩ませていると、いきなり視界が左右にぶれ始めた。しだいに意識は朦朧とし、腰が砕けたかのように地に倒れ込む。
体は限界まできていたらしく、土を握り締めて意識を保とうとするも、それは叶わず視界は暗転した。
そして、久しぶりにあの夢を見た。
森をがむしゃらに走っていて、やがて視界が真っ白になり、「いつか、必ず迎えに行く」と声が聞こえてくる。
またこの夢か――、なんて他人事のように思っていると、驚いた事に他の声が聞こえてきた。
「そこには行くな! 戻ってこい! もう取り戻せないんだ!!」
夢の中で俺は声に振り返ろうとしていた。しかし、そこで夢は終わってしまい、目が覚めると真っ白な天井を見上げていた。
「……嘘だろ。まだ続きがあるのかよ……」
言いながら、薄い上掛けを着ている事や、薬品の独特なニオイで寝かされている場所が病院だと思い至る。気を失った後ここに運び込まれたようだ。
あの後、何が起こったのだろうか。みんなは無事なのだろうか。色々と気にはなるが、考えると頭に痛みがはしる。
誰か見舞いに訪れてくれたのか、ベッドの横に置かれている台には花瓶あり花が生けてあった。その横には手紙があるが、痛む関節に手を伸ばす事が出来なかった。無茶をしすぎたようだ。
こうして、大人しく目を閉じ一つ吐息を洩らした。生きている事を実感しながら再び眠りに落ちた俺が夢を見る事はなかった。




