第一章・10 「熱い抱擁」
白い立て看板に左方向を示す赤矢印を見つけ方向を変えた俺は、密集する樹木が並ぶ山へと足を踏み入れた。
中は一定の湿度に保たれていて、地面や岩、木の幹にはコケや藻が様々な模様を描いている。木々の隙間から差し込む太陽の光で、それは神秘的にも見えた。
初めて目にする自然豊かな山に、しだいに気分が高まってきた。
訓練のほとんどが国内にある山か、外に出たとしても人工的に作られた道を走るため、いつもとは違った風景に新鮮さを感じるのだ。
しかしそれも束の間、気を抜いたせいか朝霧で湿った地面に足を取られそうになり、すぐに現実に引き戻された。
奥へ進むと、色鮮やかな森を描いていた風景は、やがてダークグリーン一色に染まり、露出している肌には冷気が突き刺してきた。さらには、丈の低い草は茂みへと変貌し、いよいよハンターの危険が迫ってくる。
ここから先は今よりもスピードをあげ、出来るだけ三種との接触を避けなければならない。それなのに、現実に引き戻されたばかりの俺の頭はある妄想で染まり始めた。
「ん!? そこにハンターが! カナデちゃん、俺の後ろに下がって!」
薄暗い森には似合わない、木の根元に咲いた一輪の花。
それを前に足を止めた俺は、ここには居ないカナデを想像し、しかも全く害のないその花を茂みに、後ろにある背の高い木をハンターに見立てながら一人臨戦態勢をとっていた。
ビビリな俺が本物の茂みを相手にするわけもなく、この状況下では最も安全な一人遊びだ。手足をぶんぶん振り回し、地面に一つ穴を開け、額にない汗を拭いまた走る。
時には岩を、あるいは小川を三種としながら戦い続け、そしてついに頂上に辿り着いた。
国から見上げるよりも空は近く、澄んだ空気に深く息を吸い込んだ。酸素を十分に補給し、それから辺りを見渡すと立て看板を見つけ、その方面へ一気に下っていく。
登山に比べて下山はスピードの制限が難しく、一度転べば何かにぶつかるまで止まらないだろう。それでも俺は道を邪魔する木々を蹴り倒し、穏やかに流れる川を飛び越える。たまにカナデを背負うという妄想をしながら勢いを失う事なく進み続けた。
山のふもとまで下りると、そこには気だるそうな顔をしながら座り込む男の姿がある。多分、上級歩兵隊の人だ。そいつは、あくびをして首元を掻き、空を仰いでは鼻で息を漏らしていた。
「あのー……、ここが折り返し地点?」
涙を浮かべながらこちらを見た闇影隊は、立ち上がって尻を叩いた。土埃を落とし、名簿を片手に背伸びをすると俺の後方を見ながら頷く。
「走流野ナオト到着、と……。お前一人か。ヒロトはどうした?」
「え、一人じゃないけど? カナ……、いや一人です。ヒロトは置いてきました」
「あいつよりも早いだなんて珍しいな。……体が赤くなっているぞ。戻る際はペースを落とすように」
言いながら俺の頭を優しく撫でた男だが、なぜだかこの人が体質の事を知っているように思えた。それどころか、俺たち兄弟の事まで熟知しているみたいだ。
しかし、その顔に見覚えはなく、妖が化けているのではないかと疑ったが、早く行けと手で合図している。
何度か振り返りながら来た道を戻った俺は、混血者の一人と揉み合うヒロトを呼び止めた。
「なんで先に行くんだよ!」
「ご、ごめん……。興奮をおさえられなかったというか、なんというか……」
一人で行かせるなと言われたことを思い出し、半ば話を逸らす形で名簿を持った男について話す。
「……ったく、親父から聞かされたのは最近だってのに、どうなってんだか。マジでそう言われたんだよな?」
「うん。なんで知ってるんだろ……」
「お前は何も気にするな。とにかく、今は卒業試験だ。ハンターに出くわしたら一人で戦おうなんざ考えないでこっちに引き返してこいよ」
「わかった」
あのまま何もせずに良かったのだろうか――。そう思いながら、俺はまた森に足を踏み入れた。
そして、正門が近くなった頃。また妄想モードに入った俺は、門の向こうで待つカナデを頭に描いていた。
不安げに両手を胸の前で握りながら俺の帰りを心待ちにしているカナデは、こちらを見つけると自分の居場所を知らせるため片手を振った。目が合うと、カナデの両手は横に広げられ、俺が飛び込んでくるのを待っている。
門を潜り、細い体に衝撃を与えぬようそっと抱きしめた。
「ただいま」
「お疲れさん。どこも怪我はしてないかな?」
「……ん?」
返ってきた声は女のものではない。よく見ると、愛しのカナデの姿はどこにもなく、しかも俺が抱きしめた相手は男だ。
「誰だよ、おっさん」
坊主頭に低い声で喋る大男で、筋肉質な体格は傷だらけ。しかも無駄に声がデカいときた。急激に温度を失っていく両手は、力をなくし垂れ下がった。
「なんと! それほどまでに試験は恐ろしかったか……。しかしもう大丈夫だ! 私の胸に飛び込んできた今、お前は下級歩兵隊の道を一歩踏み出したのだ! 自信を持ってこの戦闘服を受け取るがいい! 今日からお前は青島班の一員だ! 合格おめでとう!」
合格を知らせたその男から慌てて離れた俺は、もう一度その姿を確認した。
腕を組みながら仁王立ちでいるこの男を、俺は知っている。
「青島……ゲンイチロウ……」
通称・不死身のゲンさん――。
目の前にいたのは、二十年前の戦争で唯一鬼と一戦交えたとされる伝説の上級歩兵隊だった。
体に残る傷跡は当時の戦争を物語るには十分で、生きているのに伝説とされるのは、この世に鬼が存在しないためだった。しかしそれでも、青島ゲンイチロウの武勇伝は一晩では語る事が出来ないほどにある。
父さんから詳しく聞いたのはつい最近の事で、青島ゲンイチロウは俺のヒーローであり、憧れの存在だ。
力強い抱擁に体が痺れているのか、それとも青島ゲンイチロウを目の前にして興奮しているのか。とにかく、俺の体は震えに襲われ、それとともに熱を取り戻していった。
「本当に俺が青島班の一員なんですか……?」
「そうとも! 走流野ナオト、お前は臆病者だと報告を受けている! この私が直々に鍛えてやろうではないか!」
「はい! よろしくお願いします!」
なぜだろう、臆病者だと言われたのにそれが嬉しくて、自分でもわかるほどに満面の笑みで答えていた。
それからしばらくして、次々に受験生が門を潜った。
旧家の子と揉み合いになりながら転がり込んできたヒロトに呆れ、後に続いて到着したカナデの無事を確認して胸を撫で下ろし、イツキも同じ班だと知って驚いたりと、こうして卒業試験は終わりを告げた。
片思いの相手だけでなく、仲の良いメンバーで構成された班に喜んだのもつかの間、戦闘服を片手に並ぶ合格者の横を担架に乗せられた受験生が運ばれていく姿に、背筋を冷たいものが流れた。
獣にやられたのか、またはハンターの襲撃に遭ったのか。肉を食われ骨が剥き出しになっている人や、足があらぬ方向を向いている人、中には全身を布で覆われ、地面に血の跡を残しながら運ばれていった人もいた。
後者の数の方が多く、思わず目を伏せてしまう。
二十人いた受験生のうち、合格したのは十一名。負傷者二名、死亡者七名――。
合格者のうち、混血者は八名、人間は三名――。
今回受験した混血者は全員が合格し、怪我人や死人は全て人間だった。
合格を祝してタモン様が何か言ってるけど、俺の耳には何も入ってこない。地面に残る血の跡から目が離せず、改めて外の世界の恐ろしさを実感していた。
明日から始まる任務が怖くて仕方がない――。




