確かめなければならない (4)
日暮れよりも風が強くなってきたようで湿気を帯びた風が吹き付ける。重たげなそれは時期に雨が降り出すことを知らせていた。傷はなかったが倦怠感に似た疲れに襲われていた。
方位磁針で大まかなあたりを付ける。森に入ってからの時間からして入り口から戻るよりも適当に横腹あたりを突っ切った方が良いだろう。
あたりにはすでに誰もおらず、橙の光もない。都合がいいといえばよかった。適当な言い訳や報告書の内容を考える。問題ない程度に、ほどほどの情報を上に上げよう。それから他の小隊からの情報も聞かなくてはならない。俺の記憶がすべて正しいわけではないだろう。不安要素は尽きないが少しでも情報を集めて記憶とのすり合わせをしなくてはならない。
「アルマくん、」
久しぶりにきいた声だった。
『……ヒルマも、姿を消した。』
『おれは、あいつが裏切ったとは思ってねえ。』
どうやらヴェリテの想像、もとい希望は裏切られたようだった。
「……久しぶりだな、ヒルマ。」
「うん、アルマくんも元気そうだね。」
薄暗い森の中に溶け込む小柄な身体。手にはスコープを持っていた。どうやら暗視用らしい。あたりに意識を飛ばすが他に誰かがいる気配はない。手にスコープ、背中に筒。そばかすの散った顔を見ながら、すぐにやれると判断した。彼女は不確定要素の塊だった。軍内ですら得体の知れない情報局所属、なおかつ俺と同期で余計な情報を所持している可能性もある。今回、誰も殺すつもりはなかったが、場合によっては必要になるだろう。彼女が自分にとってどのように動くのかわからない。けれどその眼の奥には微かに怯えが見て取れて、十二分に始末しなければいけない可能性をはらんでいた。
「中将昇格おめでとう。」
「どうも。そういうお前は革命軍か。」
「…………、」
「クロワールが、お前が裏切るはずがないって言ってたぞ。」
「それは、」
反駁するように口から言葉が出たがすぐにつぐむ。それからいくつか言葉を探した後にため息をついた。
「……『涙を流す者』っていえばわかるかな。」
思わず息を飲んだ。まさかここでもう一度聞くことになるとは思わなかった。
ソンジュが退役する際、それを促すように届けられた手紙の送り主。言ってしまえば、裏から王国軍、革命軍に糸を引いている奴がいる。
「……ヒルマが、『涙を流す者』なのか?」
「残念、私じゃないよ。……ただその言葉を言えば君は話を聞いてくれるからって、メンテ・エスペランサが。」
「革命軍総長が、『涙を流す者』ってことか?」
「残念外れ、たぶんね。私もそれが誰なのか知らない。下っ端だからね。ただ総長ではないよ。あくまでもあの男は『涙を流す者』からの預かりもの、って言ったから。」
ほとんど無警戒のまま、自然な動きで距離を詰められた。気が付けば俺のリーチの内側だ。にもかかわらずもはや怯えの色は霧散している。差し出された一通の手紙。それがヒルマに自信を持たせているようだった。その手紙の内容は俺にとって有益なものであり、重要なもの。だからこそ自分が殺されることはない、という自信。俺がまともに話を聞く姿勢をとった時点でそれを確信したのだろう。無防備に差し出された手紙に押された印璽に、見覚えがある。かつてソンジュに見せられた手紙に捺されていたものと同じだ。
「俺にか?」
「さっきから質問ばっかだねえ。そうだよ。アルマ・ベルネットに渡すようにって言われたから。内容は知らないよ。私はあくまでも『伝書鳩』らしいから。」
手渡されたそれは手紙らしい質量をしていた。いたって普通の便箋。しかし得も言われぬ感覚に襲われた。ソンジュたちと同じように操られるような恣意的な内容であれば不快だ、とか指示通りになるものかという反骨精神、そしてそれらに勝るとも劣らない期待。裏から糸を引こうとする、そこまでして『涙を流す者』は何を望んでいるのだろうか。そこに何か答えが書いてあるのか。俺がまだ気づいていない何かが書いてあるのか。
「ちなみに、私は裏切者かっていうところはグレーだよ。私はもう軍の情報局に戻る予定はない。でも革命軍になったわけでもない。ボスは他にいるからね。」
「第三勢力があるなんて、聞いてない。」
「いやいや、そんな勢力なんてそんな大したものじゃないよ。」
いよいよわからなくなってきた。そんなものはなかったはずだ。対立はあくまでも王国軍と革命軍のもの。他の組織と言えばすでに潰えた宗教陣営ドラコニアの星龍会くらいだ。それは今も前回も同じだったはず。
今回初めて現れた他勢力。
「革命軍の在り方って知ってる?」
「……みな平等でありどこにでもある。革命の意思があるならばどこにでも生まれる。決して途切れることはない。ゆえに革命軍は国中にあり続ける。姿の見えない共通の意思を持った勇士。」
「それだよ。」
「それ?」
「ある意味私たちは革命軍なんだ。本体に与する気はさらさらないけど。同じ意思を持ってる。この国を倒さなければならないって思ってる。私たちは正義の味方。正義の味方がいないなら、私たちがならなきゃいけない。神様は誰も助けない。何も助けない。人を救えるのは人だけだから。」
いつかにヒルマは言っていた。「馬鹿馬鹿しい、神なんていないよ」と言っていた。それには若干の恨みのようなほの暗さを感じさせていたが、今のヒルマからはそれが感じられなかった。それよりもずっとすがすがしい。
王国軍と、革命軍と、それから正義の味方。全員が全員、正義を掲げているのだから、滑稽だ。
いつかに、正義の味方を語ったやつがいた。
『それが、「正義の味方」だろ?』
それは果たして、誰の言葉であっただろうか。
「この国はもう腐ってる。そうでしょ?」
「……さあ。」
「誰かが変えなきゃいけない。でも力が足りない。この国の持っている軍事力は大きい。今革命軍との闘い、大火炎の戦いで戦力を大きく削れたとしても、それは革命軍側だって同じ。誰も王国軍を組み伏せられるような力を持ってない。だから、私たちは協力しないといけない。同じ意思を持った者同士で、欠陥を補うの。」
それはきっと、理想だ。知らず知らずのうちに歯噛みした。それができたら苦労しないという悔しさからではない。ただヒルマの語った内容はまったく『正義の味方』らしいものだった。いかにも、彼らが語りそうな。
「その一部が、お前のところってことか。」
「そうだね。目的が同じなら協力し合うことが合理的でしょ。『涙を流す者』が何者なのかはわからない。でもたぶん、志は同じだよ。この国のことを案じてる。」
裏から糸を引こうとしても、その姿を現そうとしなくても志が同じなら、目指すものが同じならその意図に操られてやらなくもない、と。
裏切られるかもしれない。他に何か思惑があるのかもしれない。それはきっとどこの誰もが承知だろう。それでもなお、希望を寄せているのだ。そのリスクを知りながらも、信じようとするのだ。
「アルマくんは何のために強くあろうとするの?」
「……俺は、」
「何のために出世しようとするの?何のために軍にいるの?」
「それは……、」
「この国を変えてみたいと思わない?」
変えたいと、思う。そうだろう。かつて抱いた希望だ。たとえそれが俺自身のものではなく、メンテの持つものをともに目指しただけだとしても。
けれどそれは、最重要事項でないことを俺は知っている。
この腐りきった国が変わることよりも、大切な人間が永遠に失われることの方が、俺にとって大きな事象だ。
あの絶望を、あの焦燥を、あの渇望を忘れることは、きっと何度死んでもないだろう。
「まあいいや。きっとその手紙にはそう言うことが書いてあるだろうから。たぶんね。送り主『涙を流す者』なら君をこっち側に引き込もうとするだろうから。」
すこし時間を気にするようなそぶりを見せたヒルマにハッとする。それは俺も同じだ。ポツリポツリと、暗雲から雨がしたたり落ちる。恐らくもうどこも戦闘は終わっている。ならばいい加減戻らなければならない。
「なあ、」
「なあに?」
駄目で元々、一応聞いておく。
「王国軍でなく、革命軍でもない。だが裏切っているかと言えばグレー。お前は誰の下で動いている。」
ヒルマは少し考えてから鼻先に落ちてきた雨をぬぐって笑った。
「……そうだね、グレーだからどうせ話してもいいか。アルマ君は国云々についてはたぶん興味ないでしょ。あの中将だったソンジュ・ミゼリコルドも見逃したみたいだし。」
雨が降り出し、木々の葉を打ち付けはじめる。足元で微かに雨がけぶった。
「私のボスはリチュエル・オテル。メタンプシコーズ王国の宰相閣下だよ。」
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豪華絢爛、そんな言葉が似あう宮をリチュエル・オテルは歩いていた。そこに行き交う使用人や文官たちはそろって目を伏せている。誰も直視などできない、直視をしたくない。国内が荒れ始めてからもう随分と経つ。あちこちから飢饉の声が上がり、税減額の嘆願も少なくはない。にもかかわらず、ここだけは相変わらず何も変わらない。この国の技術の粋を集めて、贅を尽くす。煌びやかな宮でありながら、その最奥に隠されているのは悲惨なものだ。
重々しい扉が開かれれば同時に強い香の匂いが流れ出す。反射的に右腕の袖で鼻を覆い、辛うじて咳き込むことだけは回避する。
いくつもの厚い布が視界を遮る。寝台の天蓋から垂れる布はすっかりその奥の主のことを覆い隠していた。
「おやすみのところ失礼いたします。陛下、ご報告したいことが、」
返事はない。が、これもいつものことだった。ため息を飲み込み、もう一度呼びかける。
「陛下、お話ししたいことが、」
「……リチュエル、そうかリチュエルか。近う寄れ。」
緩慢な動きで細く白い腕が紐をひく。スルスルと垂れていた布が上がり、その姿が明らかになった。
ああ、久しぶりにこの顔を見た、というあきれにも似た感情は思いはおくびにも出さず首を垂れる。整えられた金糸の髪が寝台に散る。寝そべったまま、彼は王族の証である紫の目をつまらなそうに細めた。
「それで、今日は何の用だ?我を叩き起こすくらいなのだ、さぞ重要な話なのであろう?」
心底つまらなそうなくせに、口元と目だけはニンマリと弧を描いている。
メタンプシコーズ王国の唯一にして最高権力者。傲岸不遜をその身に纏い、この世の万物を玩具のように片手で弄びながら興味なさげに捨ててみせる、傲慢怠惰の体現者。
唯一の国家元首アルシュ・メタンプシコーズ・ロワ。
「はっ、ぜひとも陛下のお耳入れておきたいことがございます。」
「良い、申してみよ。」
「以前よりご報告申し上げて参りました、反乱軍のことにございます。」
「ほう……?」
柳眉がゆるりと上がる。どうやら辛うじて興味は持たせることができたようで、一息つく。
今までこの愚王は再三の奏上に耳を傾けることなく些事であると片手を振って見せるだけだった。今日は機嫌がいいのか何なのか、寝そべりながら聞く意思を見せた。
「それで、その賊がどうしたと申すのだ。」
「先の戦い、ドラコニアの殲滅戦により反乱軍は一度無力化させることができましたが、しかしながら国民の中には未だ燻っている者が少なくはなかったようで再びその姿を見せ始めました。現在は王国軍がせき止めてはおりますが、損害は小さくなく、心身共に疲弊しております。」
「まどるっこしい、疾く要件を言わんか。我に申したいことがあるのであろう。迂遠な物言いなど不要。」
にやにやと笑う顔は、笑みを形どっているだけで愉悦など微塵も感じさせなかった。背筋が薄ら寒くなる。その紫の目は何もかもを見通しているように見えて仕方がない。何もかもを知りながらそれでも愚かであり続けるような恐ろしさを感じるのだ。
「僭越ながら申し上げます。王国政府の対応として反乱軍との話し合いに応じ、和解策を講じた方がよいのではないのでしょうか。」
「ならん。」
やはりこの王はわかっていたのだろう。そしてその答えも決まっていた。諦めて投げ出したくなり、早々に退室しようとする踵を叱咤しながら言葉を継いだ。