涙の落ちる音
メタンプシコーズ王国は島国である。本島とそれを取り巻く小さな島々は四方を海に囲まれている。海洋に一つぽつんと浮かべられた国は、他国との国交の一切を断ち、独特の文化を築いていた。広大な本島は資源に富み、貿易を行わずとも国内の身の消費生産ですべて賄えた。他国とは隔絶された島国であるために国同士の争いもない。満ち足りた平和な王国である。
しかし人の力では対抗しえない天災によって400年続いた囲われたユートピアはあっけなく崩壊した。王国各地を見舞う異常気象は豊かであった大地を蹂躙し凶作となった農村は飢えと疫病に襲われ多くの国民が命を落とした。農村だけではない。鉱山では豪雨により地盤が緩み土砂崩れが起き、漁村では高波に村民が攫われる被害も出ている。国民は皆、次は我が身と戦々恐々といつ来るかわからない天災に身を震わせた。だが飢饉に対し王政府の弄した策と言えばその場しのぎの物資の補給のみ。民は気づいた。豊かな大地に頼りきりであったメタンプシコーズ王国は、この地が痩せたときの対応策を何も持っていないことを。
国民の不安と不満は、時間をかけて静かに肥大した。今は大丈夫でも次に異常気象が訪れたときは、自身の街が襲われたとき、王政府は何をしてくれるだろうか。
まるで積もり積もった不満が噴出するように決起したのが、アンタス・フュゼ率いる民意の代表組織『革命軍』であった。
王国では大きな革命戦争が二度起きた。
一度目は、本土の東に位置する王都テール・プロミーズと相対するように、西の宗教都市ドラコニアに新政府を革命軍が立ち上げたときだった。メタンプシコーズ王国で古くより信仰されてきた星龍会の聖地ドラコニアに樹立したことにより、明確な危機を感じた王政府はドラコニアに全軍事力を注ぎ、新政府を壊滅状態に追い込んだ。王政府軍と新政府軍の衝突により戦場とかした聖地ドラコニアは戦火に包まれ、半月ほどで見る影もない焦土化した。
大火炎の戦いと呼ばれた革命戦争は両軍に多大なる損害を与えた。王政府は戦いにより大将含む主戦力の大部分を失い、そして隆盛を誇るとは言えないが人々の間で脈々と信じられてきたドラゴン信仰の聖地ドラコニアを焼き尽くしたことにより国民からの不信感が増した。王政府軍に敗れた革命軍はそこでほとんどが命を落とし、事実上革命の徒は散り散りとなった。
二度目の革命戦争は、王都テール・プロミーズの王国軍本部の目と鼻の先、アサンシオン広場にて起きた。解散状態であった革命軍に後継者が現れた。大火炎の戦いから二年、再び革命軍を名乗る組織が現れた。元革命軍であったメンテ・エスペランサを二代目総長とする新生革命軍は勢力を増し多くの国民からの支持を受けた。再び危機に晒される王政府は策を弄し総長メンテ・エスペランサを捕縛し、革命軍の意思を折るために、王都にあるアサンシオン広場にて反乱軍総長の公開処刑を執行した。総長奪還のために革命軍は副長のアルマ・ベルネット、参謀長ソンジュ・ミゼリコルドを筆頭にアサンシオン広場に乗り込んだ。
二度目にして最後の革命戦争は、のちにアサンシオン広場の終劇と呼ばれた。
*********
立ち上る硝煙、空気を震わす人々の怒号、砲撃。革命軍の全勢力と王国軍がぶつかり合う。右を見ても左を見ても殺気と血しぶきが飛び交う。真正面から振り下ろされた券を受け止めながら腹に力を入れた。
「国民から搾取し、街を焼き捨て、罪なき国民をなぜ殺す!?民のための政府ではないのか!?民のための軍ではないのか!?」
轟音の中でも聞こえるよう叫ぶ。俺の声とともにひるんだ相手を蹴倒して前進する。これは革命軍復調としての叫びであり、革命軍に身を置く中で学んだ力のない国民の民意だ。血を流し、苦しみに喘ぐ国民を、見てきた、聞いてきた。それでもこの声が政府に、軍に届いているのか、誰も知らない。
振られる剣に舞う血が視界を煙らす。白い平和の象徴と呼ばれたアサンシオン広場は見る影なく、誰のものとも知れぬ血液と死骸で覆われていた。血にまみれて死んでしまえば敵味方の見分けなんてつかない。それを一緒くたに踏みつけて前へ前へ、処刑台の上にとらえられた革命軍総長の方へ走る。
皆怒り、目の前に立ちふさがる兵を薙ぎ払う。すべては国民がため。そして捕らえられ処刑台に括られた革命軍総長のため。おれは刀を振るい、目の前にいた男を切りつけた。
後方から、参謀の声が上がる。
「かつての同胞たちよ!なぜ我々と、国民と話をしない!?なぜたった一人、人間を殺すために、こんな戦争を起こした!?なぜ歩み寄ろうとしない、新たな道の可能性を切り捨てる!」
争いを嫌い、善人という言葉が仲間内で誰よりも似合う元王国軍中将のソンジュ・ミゼリコルドはかつての上官に、同僚に、部下に語り掛ける。
広場の奥の奥、高い城壁の上から戦争の在り様を見下ろす国軍総統に叫ぶ。血煙砂煙に覆われた戦場から、彼の感情はうかがえない。ただ仲間である王国軍兵を駒のように扱うあの男はきっと眉一つ動かさず、この戦場を眺めているのだろう。ぐらり、腸が煮立つのを感じた。
「足元を見ろッ!たった一人の人間を殺すために、君たちはいったいどれほどの仲間を失った!?どれほどの命が無駄に消えた!?敬愛した上官を、切磋琢磨した同僚を、自身を慕った部下を、君たちはどれほど犠牲にした!?それほどまでに、かの男を殺すことに価値があると、君たちは本当に思っているのか!?」
国のため、国民のためにその力を共に王国軍で振るっていた彼の声は轟き、空気だけででなく確かに兵士たちの鼓膜を揺らした。
わずか、ほんのわずかだが、国軍の動きに乱れが生まれる。誰もが心の中で疑っていたのだ。革命軍の総長一人殺すことが、自身の上司の、友人の、部下の命に釣り合うのか、と。無血での和解を訴え続けた新生革命軍と、いま戦争することにそれほどまでの意義があるのか、と。この戦いに勝ち、恙なく処刑が執行されたとしても、そこに栄光ある勝利は存在しない。戦争の先に何があるか、大火炎の戦いで痛いほどわかっているのだ。ここにいる皆が知っている、先代革命軍と王国軍が衝突した大火炎の戦い。その戦いは双方に凄まじい被害をもたらし、同時にさしたる成果も栄誉も得られなかった。そして今戦場に立つ者は皆、大火炎の戦いで自分たちの上司を悉く失っているのだ。
おれは攻め込む前のソンジュの言葉を思い出した。
王国軍は決して一枚岩ではない。大きすぎる組織では思想の統制は不可能に近く、表に向きには国のためと武力を掲げているがその内側は派閥争いで乱れていると。王政府のために戦う派閥、国民のために戦う派閥、そのどちらにも所属しないただ上の命令に従っているだけの兵士たちとある。そしてこの戦いは、間違いなく王政府のための戦いである。王政府の矜持、面子のための戦い。一代目革命軍総長は大火炎の戦いで死んだ。けれどその遺志を継ぎ新生革命軍は生まれただ。たとえ今代の総長、メンテ・エスペランサを殺したとしても、革命は止まらない。にも拘わらず、総長を殺すために再び、王国軍は再び巨大な犠牲を払っているのだ。王政府の面子のために死ねるか、言葉に窮するだろう。これは今までさんざん革命軍に翻弄させられた王国軍の面子回復、そして革命の徒に対する見せしめが多くの意味を持つ。ただ総長を殺すだけであればこんな風に公開処刑という形をとらず、内々に処分すればいいのだから。
皆が皆、この戦争が正しいと思っているわけではない。
しかしまさか一人の裏切り者の言葉一つでここまで動揺するなどとは思っていなかった。彼がかつて王国軍内でどのような立ち位置であったのかおれは知らない。気づけばメンテが勝手に引き入れていたのだ。ただ中将という将官の身でありながら、王国軍へと寝返った裏切り者の言に耳を傾ける者がこうもいるとは思わなかった。在軍時代に影響力があったのか、それとも彼の言うことがそれほどまでに的を射ているのかわからないが、その言葉は確実に王国軍に一打を与えた。
「怯むな!裏切り者の戯言に耳を傾ける者があるかっ!迷うな!向かってくる者は切り捨てろ!奴らは国の平和を、秩序を乱す賊軍だ!今豊かで平和な王都を踏み荒らしている不届き者が誰か、考えずともわかるだろう!!揺らぐな!奴らが何を言おうとも!正義は我々にあるのだ!!一歩でも退いてみろ!私が直々に切り捨てる!」
「何をっ……!?」
言うや否や、怖気づき、迷いの生まれた若い兵が武器を取り落し退いた瞬間、怒号を飛ばしていた大柄な中将が兵を先の言葉に違わず袈裟に切り付けた。若い兵は声もなく斃れ、足元に散らばる死体の一つと化した。必死に叫んでいたソンジュは地に塗れた青い顔をさらに青くさせ、中将の所業に絶句した。正義という言葉を盾に、仲間を斬り殺した、それを信じられぬという表情。
思わず舌打ちを零す。おれにとって仲間さえも殺して見せる国軍の鬼畜生ぶりなど想定内、むしろやはり奴らは屑だと再認識する材料でしかないが、国軍出身の彼から見て、それは衝撃だったようだ。一度は従い胸に掲げていた正義は仲間さえも蔑ろにするものであったのだと絶望しているのだ。彼はもう革命軍の幹部であるというのに、いまだ王国軍への未練を、そこへ残してきたかつての同胞たちを捨てきれていない。だがこの状況、革命軍側の最高戦力の一画である彼に、過去を回顧し絶望する暇など与えられない。
「おいしっかりしろソンジュ……!目的を忘れるな!最優先するはそこで縛り付けられてる総長の奪還だ!間抜け面を晒すのはあいつを助けてからにしろ……!」
「……!わかって、る!!」
立ちふさがる兵を問答無用で斬る。向かってくる者の識別などせず、ただ邪魔する者を斬りつける。相手の身体ではなく武器を壊すことに特化したソンジュとは似ても似つかぬと自嘲はしない。遠慮も情けも犬に喰わせた。そんなもの戦場では何の役にも立ちはしない。持てる力を行使することを躊躇すれば、大切なものはあっさりと奪われることなど、とうの昔に知っている。
革命軍も国軍も関係なし無差別に砲弾が降り注ぐ。瓦礫や鉄片、肉片が飛び散る中ひたすらに足を、手を動かし続ける。はるか遠くであった総長との距離もすでに表情を認識できるまでになった。。処刑台を見ると、苦しげに戦場を見ていたあいつと目があう。
なぜ自分などを助けに来た、自分なんぞのためになぜ同胞が命を散らそうとする、向けられた琥珀の目はそう、半ば詰るような色を見せていた。
そんな彼におれはただニッと笑って見せた。どうかその意が、彼に伝わるよう。
近づけば近づくほど、あたる兵の位は上がり、胸章から少将や中将などの将官クラスであることに気が付く。ただなんでもできる気がした。誰にでも、今なら勝てる気がした。放たれた弾丸が肩をえぐる。突き出されたランスが脇腹を掠める。それでも、メンテの顔がしっかりと見えるいま、おれの頭にはやつと再び笑いあい、なぜ来たのだと責める彼を小突くような、未来しか存在しなかった。
それ以外に、必要なかった。
「この、化け物を処刑台に近寄らせるな!!」
「道を、開けろ、ゴミ共ぉっ!!」
飛び散り体にかかる血が鬱陶しい。だがそれを拭うことすら億劫で、視線はそらすことなく台の上の彼に留められる。
「メンテ、メンテェェエエッ!!」
喉から絞り出された声は、我ながら耳障りで。叫びすぎて掠れた怒号となった彼の名前が持ち主の元へと届く。泣きそうな顔で小さく口を動かした。鼓膜を震わさずとも、それは間違えようもない名で。
「メンテ、待ってろ!絶対助ける!」
片足を斬り落とされた将校が絶叫する。だがその叫びすらどうでもいい。
頼れる頭目と、掬い上げてくれた恩人と、共に育った友人と再び笑いあいたい。
あと少し。
そう思いまた一歩踏み込んだ視界で、座ったまま沈黙を守り続けていた総統が立ち上がった。
「……予定通り、本日午後5時00分にて反乱軍総長、メンテ・エスペランサの処刑を行う。メタンプシコーズ王国軍大将、フスティシア・マルト―を処刑人に任ずる。準備に移れ。」
「はっ!」
浪々とした声が戦場中に響く。
革命軍の誰もが絶句した。
こんなにも奮闘しているのに、眼下で惨劇が繰り広げられているというのに総統はまるで知らぬように恙なく処刑を執行しようとしている。国軍総統にとって我々の死闘は余興に過ぎないとでも言うのか。わずか数分に迫った処刑に、怒りが、焦燥が膨れ上がる。
国軍の誰もが歓喜した。
あと数分持ち堪え、国に逆らう者たちの頭の命が潰えれば勝負は決し、この地獄は終わる。反乱軍は烏合の衆と成り果て、秩序を、平和を乱す組織を瓦解することができる。士気は上がり飛ばされる叱咤に呼応する声は増し轟音となる。
開戦時の勢いを取り戻した将校たちが革命軍の前に立ちふさがる。刀を振れば、武器に受け止められる回数が増える。長年の相棒は刃こぼれせずとも合わさった刃にキシキシと苦しげな声を上げた。隙を見て腕ごと切り落とすがまた次がおれのメンテの間に割り込んでくる。斬っても斬っても埒が明かない。それでも、斬り続ける。道を作るため。おれの頭を奪うため。革命軍の希望を奪い返すために。
「そこをどけぇぇぇえええっ!!」
「決してこの化け物を通すなっ!あと数分足止めすれば!平和を!国民の平穏を守れるのだ!」
爆音、轟音、叫びの中で、よく通る声だけが皆の心の支えと、激励となる。それは双方に言えたことだった。
「何がっ何が平和だ!国民の平穏だ!君たちが守っているのは、政府の、軍の権威でしかない!君たちが守っているのは、肥大し腐りきった、張りぼてのプライドでしかない!」
後方から背中を押すようにソンジュの声がする。彼の声はいつだってよく響き、人の心を揺さぶる真摯さがある。だがそれも目の前の中将たちには効果がない。一人斬り殺しては、倒れて空いた空間に身体をねじ込み一歩ずつ処刑台へと近づく。
「邪魔を、するなっ!」
「邪魔はどっちだ!革命なんざふざけたことほざいて、国の秩序を乱し国民の平和を脅かす輩に、この国の未来を担うなんざ大それたことできやしねえ!」
数度戦場で見えたことのあるメイスを持った中将に思わず舌打ちを零す。ヴェリテ・クロワール中将、この男の持つ打撃に特化したメイスはおれの刀では斬れない。数度やりあったことはあったが、ことごとく撤退を余儀なくされた。メイスと刀では、相性が悪すぎる。フランジ状の頭部のスパイクが顔の横に振り下ろされる。中将本人を斬り倒さなければ先に進むことができない。しかも真正面から向かえばおそらく奴を斬り伏せるよりおれの刀があの鈍器に破壊される方が早い。刀を活かすなら距離を取らなければならないが、時間のない今、一歩でも処刑台から遠のくのは惜しい。
「あと5分もない!諦めろ!反乱軍の狗が!」
「うるさいっ!おれが行くっ、絶対に死なせない……!!」
切っ先が奴の指を削ぐそれと同時に鎖の先のフランジがおれの左腕を砕いた。持ち手の指を飛ばされたことに表情が歪んだ瞬間踏み込みその手首に刃が食い込んだ。短いうめき声とともに落とされたメイスには目もくれず、歯を食いしばり振り上げた右足で側頭部を蹴りぬいた。手ごたえを感じるとまた走り出す。すでに国軍陣営の中枢まで来ていたが、おれと戦闘経験がありなおかつ相性の良いはずの中将の敗北にその場にいた兵たちが動揺しだす。それに漬け込み、片腕だけで刀を振るう。
「罪人メンテ・エスペランサ。主が最期に言いたいことはあるか?」
低く空気を震わす声が頭上から響いた。それは首を差し出すように縛られ膝を突かされた革命軍総長に対する王国軍大将フスティシア・マルトーの言葉だった。
まるで猶予を与えるような大将の言葉に戦場がどよめく。どうやらそれは総統すら与り知れぬ、大将の独断であったらしい。総統の鉄面皮が初めて城壁の上で歪む。
何のために今際の際、言葉を残させようというのか。処刑台にて口を開くであろう革命軍総長に神経が集中した。
促されるまま項垂れていたメンテは顔を上げた。
その顔は、仲間を詰るようでも、涙を堪えるようでも、ましてすべてを諦めた顔でもなかった。
革命の徒、頭領に相応しい、凛とした顔だった。
「お気遣い感謝しよう。まず最初に国軍総統、パシフィスト・イネブランラーブル殿に申しあげたい。私は反乱軍総長ではなく、革命軍総長である。」
カチリ、と時計の針が一つ進む。
地獄の様な戦場はなにも変わらず血飛沫が散っていたが、敵味方問わずその場にいた者皆が総長の声に耳を傾けていた。
「革命軍頭目たる私を大々的に処刑することで、政府に逆らう気概を削ぎ、革命軍の解散を狙ったのだろう。……だが言おう。その考えは浅はかであり、無意味であると!」
真っ直ぐ戦場となった広場を見下ろし高らかに言う。傍らに立ち巨大な剣を持った大将は咎めることもなくただ膝をついたメンテを見ていた。
聴覚を尖らせながら、道を塞ぐ兵を蹴倒し踏み越えた。彼の声は小さくないながら、この戦場の誰の耳にも届いているだろう。
「私を殺そうとも、革命は止まらない!私がこの首が胴体と離れようとも、革命軍は止まらない!私の命が消えようとも、革命の火が消えることは決してない!私が死んでも、私の同胞たちは、同士たちは生きているのだ!彼らは誓って諦めない!」
呼応するように言葉にならない叫びの波が広がり大気を揺るがす。革命軍の勢いが増した。
だが高まる熱気とは逆に、じわりじわり、背筋の凍るような焦りが俺の身を包み込んだ。
なぜ、なぜメンテは自身がここで死ぬ前提で話をする。語り掛ける。なぜ仲間たちと再び歩むことを口にしない。もうそこまで来ているのに。
おれが絶対に助けるのに、なぜ。
寸の間総長に気を取られた若い兵たちを一気に斬りつけた。勢いのまま刀身に纏わりつく脂と血を振り払う。
針は無情にも、また一つ時を刻んだ。
「我々は屈しない!我々は諦めない!不遇なるこの国の弱者のため、我々は立ち上がったのだ!」
同意の声が、肯定の叫びが押し寄せる。
メンテの隣に立つ大将は顔を顰めることも咎めることもなく、叫び訴える敵方の総長を静観していた。
もうおれとメンテの距離はもう50メートルもない。間に立つ兵たちを認識する間もなく切り払う。雑になり始めたせいか、刃が微かに曲がりもう鞘には収まらないかもしれないと、また振るった。革命軍であることを主張する白の制服が真っ赤に染まった。
あと少し。あと少しで処刑台まで辿り着く。そうだ、あの下まで来たら、まず処刑台を支える木製の足を斬り倒そう。それから彼を縛る縄を斬り、走るんだ。そこからはもう刀も捨てて、逃げよう。少しでも多く仲間を連れて撤退しよう。それからまた考えればいい。今はとにかくメンテの身を取り戻すことを第一にして。
革命を諦めない。そんな大義など、最初からほとんどなかった。おれはただ、あいつの望む未来と、あいつと共に見たかったのだ。あいつが望んだからこそ、俺も付き従ったのだから。
「努々忘るな!我々は、革命軍とは民意だ!政府に抑圧された国民の意思だ!今私がここで死のうとも、国民の意思を消すことなどできないっ!!」
「――――時間だ。」
盛り上がり、総長の声に鼓舞されるように気迫が場を覆い包んだことすら、まるで頓着せず、淡々とした声で総統は告げた。その顔、かすかな安堵の色を帯びていた。
時計の針がⅫを刺した瞬間、大将の大剣が振り上げられた。
ゴォオンゴォオン……
午後5時を告げる鐘が、広場に鳴り響く。赤い日に包まれ、外を駆け回る子供に帰宅を促す鐘は、何も知らぬように、平和な夕方と何ら変わらない音色で、血と煙で荒れた戦場にその音を轟かせた。
ドッ、と小さな音を立てて、処刑台から首が落ちる。
首を失った身体は縄のせいで地に臥すことさえ敵わずに、惰性で動く心臓により鮮やかな血をだくだくと噴出させた。
この戦場にいる誰もが、動きを止め、息をのんだ。
あれほど様々な音で埋め尽くされていた広場にある音は、もはや鐘の音のみ。
メタンプシコーズ王国の首都テール・プロミーズに位置する王国軍本部前、アサンシオン広場にて行われた王国軍と革命軍の総力戦。それを引き起こした革命軍総長メンテ・エスペランサ、台風の目である彼の死はあまりにもあっけなかった。
「終わ、った……。」
無音の世界を破ったのは誰であったか。一人、また一人声を上げる。
「死んだ……、メンテ・エスペランサが死んだぞ!!」
「おれたちの勝ちだ!」
「革命軍はここで終わりだ……!」
ことは決した。処刑台を中心に国軍兵士たちの歓喜が広がっていく。対して革命軍は絶叫する者、泣き崩れるもの、さっさと武器を放り出し戦線から離脱しようとする者、完全に陣形は崩れ、統率が取れない状態だった。しかしその中でもいまだ武器を手放さずがむしゃらに、見える敵すべてに襲い掛かる者も少なくはない。だが完全に烏合の衆と化し理性を失い襲い掛かる兵など、士気が最高潮となった国軍には敵うはずもなく、次々と地に臥していく。それを見てまた、逃げ出す者、一人でも道連れにしようと突き進む者、その場で自害する者。本当に一瞬だった。総長が死が結した瞬間革命軍は指針を失い、軍という体裁さえも崩れ去った。
「……ッ総員退避!退けっ!これ以上戦う必要はない!生きて帰ることだけを、考えろっ!まだ終わりではない!総長の、私たちの頭領の遺志を引き継ぐんだ!体制を整えるっ!退けっ!」
背中から、ソンジュの声が聞こえた。だがもはやそれを聞ける者はほとんど残っていない。錯乱状態の同士たちは、人の話が聞く余裕も、これから先のことを考える余裕もない。革命軍内幹部である、ソンジュの声はよく通る真摯な声だった。だが同時に、彼はどこまでも正直で、嘘の吐けない男でもあった。冷静に合理的な指示を飛ばしていても、張った声の裏にある悲しみ、焦り、恐れといった動揺を隠しきれていなかった。隠しきれない動揺は、よく通る声とともに伝播する。
目の前に立つ将官が喜色の色を浮かべた。首を失った身体の乗った処刑台へと視線が向けられている隙に、おれは力任せに刀をつきたてた。
「ぐぁぁああッ!」
「何喜んでんだ……?」
「なっ!止まれっもう貴様らに勝ち目などない!何もかも終わる、いや終わったのだっ!武器を捨て、」
「何言ってんだ。」
うるさく喚く口に引き抜いた刀を突っ込むと言葉にならない叫び声を上げ倒れた。喜びに、安堵の空気に浸っていた王国軍陣営が再びざわめきだす。
曲がってしまった刀はそのまま兵卒の口に置き去りにする。腰のベルトから下げていたグローブ型の爪を右手に嵌めた。子供のころより腰に下げ、刀よりも使い慣れ、何より好んだ武器。この奪還作戦において、ソンジュから決して使うなと散々念を押されていたが、メンテが死に、奪還作戦がおじゃんとなった今、そんなものはもう関係ない。
手になじんだそれはずっとおれと共にあった。メンテと会う前から。メンテといる間も。そして今、メンテが失われたときも。
骨を砕かれ肉をつぶされた左腕をぶらさげたまま。ほとんど突っ込むと言っていいほどの勢いで踏み込んだ。右手を突き出し、喉を、顔を、心臓を狙い抉る。
「まだ、終わってない。終わったなんざ言わせない……!!」
おれを中心に叫び声が広がっていく、と他人事のように感じた。目の前で飛び散る血も、うめき声も、ざわめきも、自身の痛みさえも、すべて一枚フィルターを通したように現実味というものがなかった。思考もまた、霧がかったようにはっきりとしない。ただただ身体の動くように任せた。
とにかく、一人でも多く道連れに。メンテへの土産話になるくらいには。
右手から直接伝わる肉を突きさす、抉る感覚。刀よりもずっと鮮明に、命を刈り取る感触がする。いったん流れた安堵の空気はなかなか払拭されなかったようで、面白いくらいに、馬鹿馬鹿しいほど簡単に処刑台への道が空く。ある者は逃げ出し、ある者は姿を見て悲鳴をあげ、逃げ遅れた者は右手につけられた爪で引き裂かれる。
さっきまで、この処刑台とおれの間にいた兵卒の壁はあっけなく崩すことができた。
「メンテッ……!まだ終わっちゃいないだろ……!?」
「アルマッ戻れ、メンテさんはもう……!君がいれば革命軍は持ち直せる!頼む、退いてくれアルマッ!!」
ずっと後方から聞こえるソンジュの悲鳴のような嘆願に、心の中で謝った。ああ、ごめん。おれにできることはもう何もない。
また一人、国軍兵の顔を鉄の爪で突き潰した。それでやっと、処刑台の四足と胴体を失った彼の首が視界に映された。まるで忌むように、死してなお恐れるかのように、彼の首の回りには不自然な空間があった。
「メンテ……!」
まともに動く右手で、彼の首を掻き抱いた。血まみれの右手が、メンテの銀髪に赤を落とした。
膝をつけば、俺を中心に誰のものともわからない血だまりができた。無防備な状態で、国軍陣営の最奥にいるというのに、取り囲む兵卒は武器を向けるだけで、誰一人として動こうとはしなかった。
もともと色白だった彼の顔は、血の気を失い、蝋のような白さを見せていた。深く澄んだ琥珀の双眸は瞼に遮られ、精巧な人形のようだった。
「なあ、おれの名前、呼べよ……!」
赤を増した日の中、ただおれは膝をついていた。
メンテが名前を呼ぶことは、ない。二度と。処刑台の上からパタパタと血がしたたり落ちて白かったコートを上書きするように赤で染める。
終わってしまったのか。何もかも、失われてしまったのか。
皆にとって希望で、未来そのものであったメンテ・エスペランサは失われてしまったのか。
メンテの身体から血が零れるのと反比例するように、おれの中にはじわじわと重く冷たい絶望が流れ込み、満たしていく。
突然、その赤い日が遮られた。静かにおれとメンテを覆う影が大きくなる。周りの兵たちは阿呆のように二人の頭上を見ていた。誰かが大将、と呟く。断頭台から飛び降りたであろう影を知りながら、おれはもう避けもしなかった。
ただただ、体温を微かに残すメンテの首を抱いていた。
首を落とした大剣を感じる間もなく、視界を覆い尽くす限りの赤は暗転した。
直前、国軍大将の呟いた言葉は誰に向けたものだったのだろうか。
******
身体の痛みに気づき、身を起こす。落とされた瞼を開けると、高く澄んだ空が広がっていた。見渡す限りの赤い日差しは、ない。ハッとして身体を確かめるが、何故か浴びたはずの返り血がない。そして抱きかかえていたはずの、彼の首もない。
「ここ、は……?」
鼻につき離れなかった血の匂いや物が焦げる臭いの代わりに、濃い潮の匂いがした。真っ赤に染まったはずの視界は青に埋め尽くされ、緩慢に振り向けば戦いなど、争いなど知らぬような平和で美しい街が目に写った。外壁は下がコバルトブルー、上は鉛白色のツーブロックに塗られている。
「フェール、ポール……?」
18年前隣街との争いにより火が放たれ廃墟と化した自分の故郷、フェールポールだった。
しかしそんなはずはない。自身がつい先ほどまでいたはずの首都テール・プロミーズからは馬車を全力で走らせても二週間はかかるほど離れているのだ。だがしかし、いくらあたりを見回しても、先ほどまでの幼い日を過ごした故郷の景色とは寸分違わぬものだった。
そう、記憶の中の故郷と寸分違わぬ景色。遥か昔、何もかも焼き尽くされたはずなのに。
「なんで……、どこなんだ、ここは、」
ふらつきながら身体に鞭打ち立ち上がる。再び状況を飲み込もうとぐるりとあたりを見回すが、先ほどと何ら変わらない。ついさっきまでいた戦場の痕跡はまるでない。血の染み込んだ石畳も、命を散らした同士も敵も、高みの見物のしていた忌々しい国軍総統も、おれを掬い上げてくれた総長の身体も、何もない。
ここがどこかはひとまず置いておいてこれからのことを考える。革命軍総長のメンテ・エスペランサは死んだ。先代総長のアンタス・フュゼもまた王国軍との戦いの中で死んだが、遺志をメンテが引き継いだことで革命軍は壊滅的状態から立て直された。ならば生き残っている構成員で革命軍を持ちなおさせることができるかもしれない。戦場で確かソンジュがそう叫んでいた。彼はきっと生き延びている。そして革命を起こし政府を倒すことを諦めてはいないだろう。それならば彼のところへ行くべきだ。先の戦場ではソンジュの言葉を無視して撤退しなかったが、おれだって仮にも革命軍の副長だ、できることはあるはず。
そこまで考えて我に返った。
血を吐くような声で、参謀長であるソンジュはおれに退くように叫んでいた。それを無視しておれは爪を付けて処刑台まで突っ切った。一番得意な獲物だったが、リーチが短いため攻撃を受けやすく、捨て身の時にしか役に立たないと認識され、メンテやソンジュからは極力使わないようにと口を酸っぱくして聞かされていた。あの瞬間、メンテのところまで行くことしか考えてなかった。あのとき間違いなく死ぬ気だった。それからメンテの首を抱えたとき、足元が陰った。
そしておれは、処刑台から飛び降りた大将フスティシア・マルトーによって、首を落とされた。
「……おれは、死んだんだ。」
あの戦場で、アルマ・ベルネットは死んだ。先のことなんて考えず、ただメンテのところに行きたくて。
「助け、られなかったなぁ……。」
あいつがおれに伸ばした手は、おれを救ってくれた。
でも、おれがあいつに伸ばした手は、あいつを救うことができなかった。
焦りよりも色濃く重い悔恨が、胸を覆った。
沈む心とは裏腹に頭は冷える。きっとここは死後の世界、というやつなのだろう。だから故郷はおれの記憶にある平和な情景で、自身は血に塗れてもいない。死んだら地獄に落ちるかと思っていたが、拍子抜けだ。どうせならメンテも一緒が良かったと、一人自嘲する。
死んだ後も意識があるがこれからどうするべきか、地獄へ行くための門でも探すのかと思案したところで、遠くから爆発音がした。バッと振り向き音の出所へ目をやると、フェールポールからだった。もくもくと黒い煙が立ち上る。大きな爆発音に続くようにいくつもの爆音が響く。それから、人の叫び声、建物が崩れる音、人々が逃げまどい走り回る音。平和な故郷は一瞬にして崩壊し、蜂の巣をつついたような騒ぎへと変わった。潮風に交じって物が燃える臭いが鼻につく。コバルトブルーと白に塗られた土の壁が崩れる。倒壊した建物の間から、煌々と街を嘗め尽くす炎が見えた。青かった空がたちまち煙に遮られ、その煙を炎が赤く染め上げた。
唖然とした。
諦めに満たされていた身体の奥底から、高揚感が湧いてくる。そしてうまく働かない頭のままフラフラと半ば確信にも似た希望をもって海へと近寄った。硬いコンクリートに膝をつき、身を乗り出すように海面を覗きこむ。
「ああ……、」
背後でまた爆発音がした。黒い煙が風に運ばれ薄れつつも海へと薄い影を落とす。透き通るように青かった海面は、さっきよりもずっと黒々としていた。
「あ、はははは……、やっぱり、まだ何も終わってない。」
黒い海面に写った自分の顔を見て笑みがこぼれた。
「これなら、これならメンテを助けられる……!」
低い位置にある海面には、とても手は届かない。それでもおれは短い手を伸ばした。
海面に写る、8歳のころのアルマ・ベルネットに向かって。
「まだ、やり直せる…………!」