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異界  作者: 通 行人(とおり ゆきひと)
1/10

佐藤 義彦(50)

 1-①


 その日、私は巳道みどう線の電車に乗って仕事から帰宅する途中だった。

 その日はたまたま仕事が早く片付き、いつもより1時間半以上早い電車に乗る事が出来た。いつもは帰宅ラッシュの時間帯と重なるせいで座れる事などまずないのだが、帰宅ラッシュが始まる1時間半以上も前ともなれば、車内は流石に空いている。車内をざっと見回したが、この車両内にいる乗客が全員座席に座ったとしても四分の一程の空きはあるというところか。

 私はかばんを膝の上に置き、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。 

 ついこの間まで普通の携帯電話を使っていたのだが、高校生の娘にせがまれて、娘の携帯を機種変更しに行った際、店員に「お父様の携帯も一緒に機種変更して頂ければ、お嬢様の携帯がお安くなりますよ」と勧められて5年以上使っていた携帯を変えた。

 最初は使いこなせるかやや不安だったが、慣れてくると案外面白い。

 私は最近よく見る小説投稿サイトを開いた。“掲載作品10万作越え”を謳う有名サイトだ。投稿されている作品の大半はプロの作家が書いたものではないので、当たり外れも大きいが、“当たり”の中には思わず唸ってしまうような完成度の高い作品もある。

 今読んでいるのは、仔猫と少女の不思議な出会いの物語だ。ふむ……どうやらこれは“当たり”のようだ。

 人差し指で画面をスクロールして物語を読み進めてゆく。

 主人公の少女が不思議なトンネルを通って、見知らぬ町にたどり着いたその時、私は何気無く顔を上げて、言葉を失った。

 会社帰りのサラリーマン、スマホを弄っていた高校生、赤ん坊を抱いた女性…ほんの少し前まで、確かに車内にいたはずの人々が、忽然と姿を消していた。

 ……読書に集中し過ぎて、終点を乗り過ごしてしまったのか? 思わず周囲を見回すと、窓の外にはこの世の物とは思えない不気味な赤黒い空と、黒々としたビル群が広がっていた。

 窓の外に広がる風景に私は激しく戸惑った。馬鹿な、私が乗ったのは巳道線……地下鉄のばすだ。

 この電車は何処を走っているんだ? 慌てて立ち上がり、ドアの横の路線図に視線をやった。しかし、私にはそこに書かれている内容を読む事が出来なかった。いや、読む事が出来なかったと言うのは語弊ごへいがある。正確にはそこに書いてある文字を読む事は出来た。だが、そこに書かれていたのは、『り3ノへd連』や『5Σ世szD務』など、まるで目隠しされた状態でパソコンのキーボードを乱打したかのような、まるで意味不明な文字の羅列だった。

 路線図だけではない、天井から吊るされた広告や、窓に貼ってある優先座席の注意書きのシールも同様だ。

 一体……何なんだこれは。

 スマホを操作し、家族に連絡を取ろうとした。しかし携帯電話は何処にも繋がらない。そうだ…確かスマホにはGPSがあったはずだ。

 操作方法がよく分からず、四苦八苦しながらGPSを起動した。しかし、何度やっても画面に表示されるのは「現在地を検出出来ませんでした、時間をおいて再度お試し下さい」のエラー表示だけだ。

 私は、手に持っていた鞄を思わず取り落とした。あまりに異様な事態に、思考が追い付かない。背筋をどろりとした嫌な汗が伝う。

 言い知れぬ不安に駆られた私は、落とした鞄を拾うのも忘れて前の車両へと移動した。もしかしたら他の車両に乗客がいるかもしれない。

 扉を開けたが、隣の車両には乗客はいなかった。足早に次の車両へ移る、そこにも乗客はいない。次も、その次も、その次の次も、そしてその次の次の次の次の次の次の次の次の次の次の次の次の次の次の次の次の次の次の次の次も誰もいない。

 おかしい……さっきからずっと、前へ前へと車両を何十両も移動し続けているのに、先頭車両が一向に現れない。

 どうして……どうして先頭車両に辿り着けない!?

 果たしてこれは現実なのか、私は幻覚を見ているのか?

 一体幾つめの扉なのか。もはや握力が無くなりかけた手でなんとか次の車両への扉を開いたものの、足がもつれて転んでしまい、床で顔面を強打してしまった。

 強烈な痛みと、鼻からとめどなく流れる生暖かい血が、今自分が置かれているこの状況が現実であるという事実を冷然と突き付けてくる。

 痛みをこらえながら顔を上げると、床に何かが落ちているのに気づいた。

 ポケットに入っていたハンカチで鼻を強く押さえて止血しながら、ゆっくりと落ちているものに近付いた。そして、落ちていたものが何なのかを確認した時、視界がぐらりと揺れて、思わず床にへたり込んでしまった。

 …落ちていたのは、はるか後方の車両に置きっぱなしになっているはずの私の鞄だった。

 それから、どれくらいの時間列車に揺られていたのだろう……私を乗せた奇怪な電車は何処にも停まる事なく走り続けている。

 精神的にも肉体的にも疲労しきった私を睡魔が襲う。


 がたんごとん、がたんごとん、がたんごとん……


 ああ……眠くてたまらない。だが……もし眠っている間にこの電車がどこかの駅に停車して、再び走り出してしまったら……二度とこの電車から降りる事は出来ないのではないか。全くもって根拠は無いのだが……言いようのない不安がどんどん膨れ上がってゆく。

 襲い来る睡魔に必死に抗ったが、規則正しく鳴り続ける音と振動は、私の努力を嘲笑あざわらうかのように神経をすり減らしてゆく。


 がたんごとん、がたんごとん、がたんごとん……がたんごとん……がたんごとん………がたんごとん…………がたん……ごとん……………がた………ん……………


 ……悪い予想は当たるものだ。いつの間にか眠りに落ちてしまっていた私が目を覚ましたのは、電車の扉が閉まり、再び走り出す瞬間だったのだ。


「ま、待ってくれ!! お…降ろせ!! 降ろしてくれえぇぇぇ!!」


 ああ、駄目だ……この電車からは…降りられない。

「あぁぁ……あああああああああああああ!!」

 もう限界だ!! 叫びを上げながら、バッテリーの切れてしまったスマホを電車の窓に力任せに叩きつける。ぴしっという音を立てて、画面に蜘蛛の巣のように亀裂の入ったスマホが床に転がった。

 それからしばらくの間、私は放心状態で電車の窓を見つめていたが、不意に、ある事に気付いた。

 ああ……そうか、その手があったか。こんな簡単な事に気付かなかったとは。

 私は思わず笑ってしまった。

 携帯を叩きつけた窓に、小さな亀裂が入っている。

 画面がヒビ割れたスマホを握り締めて、窓に出来た亀裂に、何度も何度も叩きつけた。亀裂が徐々に広がってゆく。まるで石片で壁画を彫る原始人のようだ。

 作業中にガラス片で手の甲や指を何度も切ってしまい、よれよれになったワイシャツの袖口は赤黒く染まり、傷口からは赤い肉が見えていたが、私はお構い無しに、もはや原型を留めていないスマホの残骸を握り締めて、一心不乱に窓ガラスに叩きつけまくった。少し痺れはあるものの、存外痛みは少なかった。昔何かの本で読んだ、アドレナリンだかエンドルフィンだかいう、脳内麻薬という奴が出ているのかもしれない。

 窓から吹き込む風が徐々に強くなってゆく。

 ひたすらに作業を続けて、とうとう人間一人が上半身を通せそうな穴を空ける事が出来た。

 ガラスの破片があちこちに刺さるのもお構いなしに、私は穴から上半身を乗り出した。

 はははははは……やった!! やったぞ!! これで……これで帰れ………いや……何をやっているんだ私は!?

 その時、猛烈な突風が吹いた。

 咄嗟とっさに車内に戻ろうとしたが、時既に遅く、バランスを崩した私の体は窓から離れて虚空こくうに放り出されていた。


 1-②


 目を覚ますと、無機質な白い光が目に飛び込んで来た。全身に重りを巻き付けられたかのように、身体が酷く重い。

 視線をゆっくりと動かして周囲の様子を窺う。見慣れた自宅のものとは違う無機質な白い壁と天井、僅かに漂う消毒液の匂い…どうやら私は病院のベッドに寝かされているらしい。右側に視線を向けると、すぐそばに窓があった。窓には病院には似つかわしくない真っ黒なカーテンがかけられていて、今が昼なのか夜なのか分からなかった。

 私は一体…そうだ、私はあの列車から飛び降りて……いや………あれは、現実だったのだろうか? いくらなんでも非現実的過ぎる。まるで“ハズレ”の小説の中に取り込まれたかのような出来事だった。もしかしたら、私は何らかの原因で昏倒してしまい、ずっと悪夢を見ていたのではないか。

「…ッッッ!?」

 体を起こそうと両手をベッドに着いた瞬間、右手を激痛が襲った。右手を見ると私の右手は、添え木やギプスも無しに、包帯がグチャグチャに巻き付けられていた。巻き付けられた包帯は、おそらく自分のものであろう血で赤黒く変色している。

 何だこれは……医療知識ゼロの私ですら、一目で明らかにおかしいと分かる処置だ。一体この病院の医師は何を考えているんだ!!

 私は枕元にあったナースコールを押した。私を担当した医師を呼び付けて怒鳴りつけてやる!! そう憤慨していたのだが、不意に、一つの疑問が頭をよぎった。私は……どうして右手を怪我しているのだろう……まさか……

 パタパタとサンダルの音が近づいてくる。

 いや、そんなはずはない。あれは……夢のはずだ!!

 そこまで考えた所で、部屋の扉ががらりと開いて、看護師が入って来た。整った顔立ちの若い女性看護師だ。もはや怒鳴りつけてやろうなどという気力は萎え果て、口から出てきたのは「あ……あの……」というなんとも情け無い声だった。

 ベッドの隣に立った女性看護師は、私の顔をまじまじと見たあと、口の端を吊り上げて、“にぃぃぃっ”と笑ったかと思うと、おもむろに口を開いた。


「……ふぬz月86個んju&著りょ?」


 嘘だ……あんな事が現実に起こるはずが…

 私はベッドから転げ落ちそうになりながら、左腕を伸ばして震える手でカーテンを開けた。


 ああ………そんな………


 ……窓の外には、不気味な赤黒い空がどこまでも広がっていた。

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