7.反省房4
狭い房の中が、炎のお陰ですっかり温められたので、手を翳してその火を消しておく。
炎がなくなった部屋の唯一ある光源は、重厚なドアの上の方に付いている鉄格子の間だけだけれども、房の前の廊下に火が焚かれているらしく、柔らかな灯りが差し込んで来る。
昼間、覚醒した疲れのせいで、全身がとても重くて、眠い。
床に敷いた毛布の上に横になりまどろんでいると、コツコツコツと聞き覚えのあるヒールの音が近づいてきて、房の前で止まった。
女性的なその足音の主に思い至ったとき、急激に心が冷え、思わず震える両手で悲鳴をあげそうになる口を強く押さえた。
「コーラル? 居るんでしょ?」
歌うように軽やかな声に私の名が呼ばれ、両手で覆った喉の奥で呼吸が乱れる。
「コーラル、あたし、ランよ。ヴィゼル先生から聞いた? ごめんなさい! あたし、どうしてもウソを吐くのが辛くて! ちゃんと説明したの、ちゃんと説明したのよ? なのに、先生ったら、誤解してしまって……。コーラル? ねぇ? 聞いてるの? ねぇ、聞いてよ、あたしが説明してあげてるんだから。寝たふり? まさか、本当に寝てるんじゃないでしょうね? えぇっ! まさか本当に寝てるの! どんだけ図太いのかしら! いいとこのお嬢様のくせして、こんな汚いところで寝れるなんて、尊敬しちゃうわね。あたしだって無理よ」
最初は労わるような声が、だんだんと嘲るように変わっていく彼女の声を、目を見開き息を殺して聞き続ける。
ああ……っ。早く、早くどこかへ行って!
口を押さえる手はすっかり冷たくなり、目からは勝手に涙が零れる。
「あっ! そうだった! ねぇ貴女が楽しみにしていた、明日のゲイツ様とのデート、気がかりだったでしょう? 安心して頂戴、あたしがアンタの代わりに楽しんできてあげるから! 帰ってきたらお土産話、たっくさん聞かせてあげるから――今みたいに、狸寝入りなんかしたら、承知しないわよ」
ゾッとするような低い声と共に、格子の隙間からぼとりと何かが落とされた。
「お腹すいてんでしょ、食べなよ。残すなんてお行儀が悪いことはしないでねっ」
弾むような足取りで遠ざかる靴音、そして職員室へ抜けるドアの閉まる音が聞こえても、私の強張った体は動かなかった。
どれくらい時間が経っただろう。彼女が出て行ってから、すぐだったかもしれない。
バンッと遠くでドアが乱暴に開けられる音が響き、続いて重い足音が足早に近づき、ガチャガチャと鍵束を鳴らす音、そして、ガチンという音が鍵穴から聞こえた。
「コーラル! コーラル・ユリングス! 大丈夫かっ!」
重いドアを一息で開け放ち、たった一歩で私のもとまでやってきたヴィゼル先生は、体を小さく丸めて口を押さえて震えている私を毛布ごと抱き起こし、彼の藍色のローブの中に私を包み込んだ。
「コーラル、大丈夫だ、ゆっくり呼吸しろ」
先生の低い声と、抱きしめてくれる力強い腕に促されて、震えて上手くできない呼吸を、一生懸命ゆっくりと深呼吸する。
「そうだ、上手いぞ。ゆっくり、ゆっくりだ」
先生の胸に抱きしめられ、背中を擦られているうちに、やっと震えも収まった。
少しだけ体を離した先生が、口を塞ぐ私の両手をそっと掴んで引き離してから、もう一度強く抱きしめる。
「すまなかった。少し席を離れた隙に……」
「ヴィゼル先生どうしたんですかー、急にー」
「来るな!」
まだ若いエルグ・チェイス先生が後に続いて房に入って来ようとしたのを、ヴィゼル先生の一喝で止められる。
「何故、あの生徒をここへ入れた。誰も入れるなと言ってあっただろう」
「え? あー。彼女は親友だということですし、いつも二人が仲良くしているのは知っていましたから。コーラルさんの為に……」
おどおどと、言い募る若い教師に、ヴィゼル先生が奥歯をギリッと噛み締めた音が聞こえた。
怒りに体を強張らせているのに気付き、慌てて抱きしめてくれている先生の腕をキュッと掴んで、顔を上げる。
顔を此方に向けてくれたヴィゼル先生に、エルグ先生を怒ったりしないように小さく首を横に振って見せる。
私は大丈夫だし、あの子は取り入るのがとても上手だから、エルグ先生だけが悪いわけじゃないもの。だからお願い、怒るのはやめて。
私の願いがわかったのか、見下ろす先生の表情が緩まり、小さくため息が零された。
「エルグ先生、その事は後で話しましょう。申し訳ないが、この生徒が落ち着くまで、二人で話をさせてもらえないか」
言外に、邪魔だから出て行けと言ってる……。貴方、こんな先生でしたっけ?
「え、あ、はっ、はい、はいっ! ご、ご、ごゆっくりどうぞっ! あ、あれ? なんだこれ、カビたパン? なんでこんなところに」
さっき彼女が落としていった……カビの生えたパンを拾ったエルグ先生は、バタバタと慌しく廊下を走り去り、ドタンバタンと派手な音を立てて職員室への扉を閉めた。ヴィゼル先生の眉根が深い皺を刻む。
それにしても、ごゆっくり……って……っ。
「ぷっ、ふ、うふふふ、エ、エルグ先生って可笑しな先生ですね?」
思わず笑ってしまった私を、ヴィゼル先生が眉間に皺を刻んだまま見下ろす。
「生徒に笑われるような青二才だ。後で厳しく指導しておく」
「ふふふっ、すみません笑ってしまって」
抱きしめてくれている先生の胸を押してそっと体を離せば、すんなりと腕の囲いが外され、暖かかったローブも離れていった。
「ヴィゼル先生がいらしてくれて、嬉しかったです」
「いや、私の監督不行き届きが原因で、すまなかった。彼女に何もされなかったか?」
頬の涙の跡を彼のすらりと長い指で擦られる。
「大丈夫です。だって、此処は鍵がなければ入れない反省房ですもの。流石に彼女もこの中までは入ってこられませんわ」
言いながらむしろこの中に居れば安全だと、今更気付いた。
そうよ、ここに居ればいいんだわ!
「いやしかし、君をここに入れておく理由はもうないだろう。彼女のあの様子を見ればわかる……彼女は、君を陥れたのだろう」
断定する口調でそう言った先生のローブを思わず掴んでしまう。
今、ここを出されてしまったら……彼女に会ってしまうかもしれない。それは、嫌。怖い。
「いえ! お願いです、ヴィゼル先生。一晩、私をここに置いてくださいませんか」
必死に彼を見上げれば、少し躊躇った後ローブを握る私の手をそっと掴まれた。
先生に縋り付くなんて失礼な事をしていたと気付いてそろりと離した手を、男らしい大きな手のひらに包まれる。
逆光で先生のお顔は見えないけれど、怒っているような感じではなくて、少し安心する。
「ここは寒いし、寂しいところだ。君をこんな場所へ置いておくことはできない」
「大丈夫です! ほら、太陽の匂いのする毛布が二枚もありますもの」
床に落ちてしまっていた毛布を拾い上げて、それを片手で抱きしめる。
そんな私を見て先生は小さく肩を落として握っていた私の手を離すと、私の抱きしめていた毛布を取り上げて広げ、ばさっと毛布を翻して肩にかけ、端をきゅっと前で合わせて私を包んでしまった。
「もう一枚持ってこよう。風邪などひいたら大変だ」
ヴィゼル先生はそう言って反省房を出ると、すぐにもう一枚毛布をもって来てくれた。
そして私が眠るまで、一緒にいてくれた。
男性が一緒に居るときに眠るなんて、はしたなくてとてもじゃないけれどできないと思ったのに、頑なな彼は反省房から出て行ってくれなくて……。
「横になれコーラル・ユリングス。君が眠ったのを確認して、私はここを出る。誰も来ぬように鍵も掛けておくから、心配はするな」
「はい。では、私が早く寝ませんと、先生が眠れないのですね」
「そうだ」
大丈夫だと言っても、先生は私が眠ったのを確認しないと出て行かない気がする。
違うわね、私が……まだ、一人になるのが怖いから、先生に大丈夫だと言えないの。
渋々という風に、私は敷いた毛布の上にゆっくりと横になり、毛布をぎゅっと抱き込んで丸くなる。
「ゆっくり休め」
枕元に座った先生が、毛布に横たわった私の髪を撫でる感触に、同じように頭を撫でてくれた深い青味が掛かった緑の瞳を持つ彼を思い出しながら……すとんと夢の世界に落ちてしまった。




