53.接触3
――ラン? 聞こえる?
恐る恐る、心の中で声を掛ける。
――……聞こえるわよ。ほんっとーに、アンタって、非常識だわ。
怒っているような呆れたような声が返ってきて、胸の中で安堵する。
ランはこちらを見ずに、カリカリと教科書の内容を帳面に書き写している。
心なしか、その手が乱暴に動いている気がしないでもない。
あ、インクがはねた。
――それで、何の用よ。
端的に聞いてきた彼女に、言いよどんで沈黙する。
――こんな所まで来ておいて、だんまりは無いでしょ。何が聞きたいのよ。
――ランに……会いたかったの。ねぇラン、私、炎を覚醒したの。
――知ってるわよ、そんなこと。
素っ気ない彼女の言葉に、何故だろう懐かしくて、涙が出そうになるの。
――貴方との大切な思い出も、思い出したわ。学園の外に味方も出来たの、その方も手伝って下さるし、学園内にも助けてくれる人達が居るの。
一呼吸置いて、言葉を続ける。
――だからもう、簡単に、殺されたりしないわ。
――……。
文字を綴っていた手も心話も止まった彼女の左手が震えた。その手に、もう片方の手もそっと重ね、両手で彼女の冷たくなった手を包み込む。
――だから……私は大丈夫よ。
パタパタと机の上に、水滴が落ちる音がする。
顔を伏せた彼女の肩が細かく震える。
――大丈夫なんかじゃないわよ! ……コーラルお願い、あたしの邪魔はしないで。もう、あなたを助けてあげられないのよ。あたしは、今度こそあの方の望みを叶えて、向こうの世界に帰るのよ。だから、お願い……っ、もう、邪魔、しないで。じゃないと、あなた、また炎が……「違う、それは前のとき」だから、覚醒しなようにしなきゃ「燃える、コーラルを見たくない」。今度は、間違えられない。今度こそ、正しい道を進まなきゃ「もう、耐性が」だから、間違えられない。あの方の「望みを叶えつつ」、だけどコーラルが死なないように。欲張りは駄目、あたしの目標は「帰ることだもの」。お母さん、お父さん、兄ちゃん、おばあちゃん、じいちゃん、大丈夫、帰る。絶対に帰る。だって、あの方が「約束してくれた」。必ず、あたしを元の世界に戻す力を覚醒した人を見つけてくれるって。心当たりもあるって言ってた。だから、待ってて。「待ってて……」
心話とつぶやきが混じった嗚咽。
彼女の手が私の手の中から抜かれ、その手で彼女は顔を覆う。
辛そうに閉じた瞼から、涙が溢れて細い顎を伝った。
その時、突然部屋のドアがノックされ、びくりと竦んだ私とは対照的に。嗚咽していた声をぴたりと止めたランは、ゆらりと顔を上げると私の方へ手を伸ばし、手探りで私の手を取る。
――靴を脱ぎなさい、足音を立てずに歩くの。部屋を出たら左手側に進んで。一部屋分だけ進んでからそこで彼女が帰るまで大人しくして。それから部屋に戻りなさい。
それだけ私に伝えると、ノックを繰り返すドアに応じるように立ち上がる。
「なぁに? どなたー?」
甘えを含んだような、ゆっくりとしたしゃべり方で声を掛けながら、ゆっくりとドアに向かう。
私は慌てて靴を脱ぎ、足音を立てないように彼女に続く。
「私です。声が聞こえましたが、誰かいらしてるんですか」
ドア越しに問う女性の声は固い。
ランは涙をハンカチで拭うと、大きなため息を一つ吐いてから、ドアを開けた。
ドアの向こうには、見覚えのある私と同じくらい長身のクラスメイトが居た。だけど、彼女がランと友達だったなんて知らなかった……、教室でも会話している所なんかも見たことがないわ。
「監視役も大変ねー? 予習をしながらちょっと寝ちゃっただけ。ごめんね、ちょっと寝言が大きかった?」
「そうですか。一応、中を見せていただいても?」
ちょっと照れくさそうに小首を傾げて見せたランに、彼女は硬い表情で部屋の中の確認を求める。
「勿論いいわよ。ちょっと帳面によだれの跡がついちゃってるかもしれないけど、それは報告しないでね?」
そう言って大きく部屋のドアを開け、彼女を部屋に迎え入れる。
大きく開けたドアはそのままに、彼女は部屋の中に入り、机に向かった。
私は足音を忍ばせながら、部屋を出て。ランに指示されたとおり、左に曲がり一部屋分進んでからそこで、壁にくっついてじっと息を殺す。
すぐに出てきた彼女は、厳しい表情で部屋の方を向く。
「くれぐれも、不用意な行動は慎んで下さい。貴方の仕事は、ここで彼の方々と懇意になり、その懐に入ることです」
「あなたも、不用意な発言には注意したらぁ? 誰かに聞かれたらどうするの?」
呆れたようなランの言葉に、彼女の表情が憎々しげなものに変わる。
「誰も居ないのは確認しております。では失礼致します、勉強はほどほどに、さっさと就寝なさってください」
「はーい。おやすみー、ばいばーい」
部屋の中から明るい声がして、彼女は部屋のドアを叩き付けるようにして閉めると、足音も荒く階段の方へ廊下を去って行った。
私は殺していた息を吐き出し、靴は履かないままで自室まで歩き、ベッドに倒れ込んだ。




