48.医務室
涙が眦を伝い、枕に吸い込まれた。
ゆっくりと目を開けると、見知った天井で。ここが医務室であることを知る。
「目が覚めたか。ユリングス嬢」
ベッド脇の椅子に座って本を開いていた男性に声を掛けられ、ぼんやりしている頭で、挨拶を返さねばと口を開く。
「……殿下が、こちらまで、運んでくださったのですか?」
ジャンクルーズ殿下は本を閉じると、ベッドの上に放り投げるように置いた。
「私ではないよ。力仕事はゲイツの領分だが、今回はリックだ。私はペンよりも重いものは持たない主義だからね」
本気なのか軽口なのかわからないその言葉に戸惑う。
きっと、軽口なんでしょうけれど。だって、明らかにペンよりも重い本をさっきまで読んでいらしたもの。
本と彼を見比べた私に、彼は口の端を上げる。
「私のペンは酷く重いんだ」
私を見下ろすように座る彼は、いつもそうであるように、柔らかな表情であるのに、その雰囲気に刺々しさを感じる。
「目を覚まされましたか」
「カンドリック様」
窓辺に立っていたらしい彼が、ベッド脇までやってくる。
「図書室で気を失っていたので、ここまで運ばせてもらいました。具合はどうですか」
彼の冷たい指先が、私の濡れた目尻を撫でてゆく。
涙を拭われたのに気付き、慌てて手のひらで目元を擦り、体を起こした。
「大丈夫、です。運んでいただき、ありがとうございました」
カンドリック様はベッドの上に放り投げられていた本を取り上げ、ベッドサイドの机の上に置いた。
「君は、礼には礼が、親切には親切が返ってくると思っているだろう」
殿下が不意にそんなことを言った。
「だがな、そんなことは稀だ。多くの場合、裏切られる。礼を尽くしても無礼で返される。親切にすれば、偽善だと罵られる」
組んだ足の上に、両手を重ね。とてもゆったりとした口調でそう続けた。
「君はきっと、とても幸福に生きてきたのだろう。人の優しさを信じられるのだから。愚直なまでに、真っ直ぐに。これ以上無いほど愚かに。だから君は弱いんだ」
「殿下……?」
彼の辛辣な言葉の意図がわからず、不安をかき立てられる。
「君は弱い。少しの悪意ですぐにひび割れる、それはもう、簡単にだ」
喉の奥でクツクツと笑う彼に、カンドリック様がため息を零す。
「殿下、お戯れはおよしください」
「なにが戯れだ? 本当の事を言ったまでだ。必要な真実だろう」
鼻で笑い、綺麗な顔に笑みを乗せる。
「なぁ、ユリングス嬢。図書室で彼等を見たのだろう。彼等の様子を見てどう思った?」
殿下の言葉に、私がなぜ気絶をしたのか思い出し。血の気が引いた。
そう、あの場面を私は、過去に、ゲイツの位置で経験していた。
ランの求める魔法を探して、何度も図書室に足を運び。その度に、記憶を消されて。
――ねぇ、コーラル、あと半分しかないわ。やっぱり、無いのかな。
弱気な言葉を零す彼女を、私は何度も励ました。
――いいえ、きっとあるわ。まだ半分も残っていますもの。絶対に、見つけましょう……貴女が貴女の『世界』に戻るための、魔法を。
思い出した……。
両手で顔を覆い、その指の間を大量の涙がこぼれ落ちた。
彼女は間違いなく私の親友だった。
何度も、何度も……私にその魔法が効かなくなるほど記憶を消していたのは、彼女が私を守るため。私の心を守り、私自身を守る為だった。
彼女は自分の苦悩を私に聞かせ、その度に、私の時間を戻した。
その情報を聞いたことを知られれば、私があの方に消されるから。
あの方が『信じさせる』能力を覚醒していること。
彼女がこことは違う世界から来た人間であること。
あの方が行おうとしている、大罪のこと。
――ああぁ、ごめんね、ごめんねコーラル! あの方にバレてしまった。密偵が増えていたのに気付かなかったっ! あの方は、あなたのお父さんにまで……。うああああっ!
取り乱し慟哭するランを抱きしめた。
――もう、駄目だわ! 今の時点で『大戻し』をする。じゃないと――
あの人の放った凶刃がすぐにでも私を殺しに来るのだと。泣きながら力を使っていた彼女。
彼女はある日を境に、私を突き放すようになり。地位の高い、色々な男性と付き合うようになっていった。
涙が止まらない。
「自分を捨てた男が、他の女と居たのが泣くほどの事か? 全く、女というのは。大概感情的だ、これではろくに話もできないな」
呆れたような口調でそう言う殿下の声で、過去を反芻していた意識が浮き上がった。
「殿下。不謹慎にも程があります。ご自身の口の悪さを御自覚ください」
カンドリック様は控えめな声でそう言うと、私にハンカチを握らせた。
「ああ、自覚はあるさ。だからいつもお前に任せているだろう」
「そうですね。今回も、お任せいただけるのでしょう?」
頭の上で交わされる言葉を、泣きすぎてずきずきと痛んできた頭でぼんやりと聞く。
「残念だが、私が話す。お前は、甘いからな」
「――さようでございますか」
そう言った殿下に私は顎をぐいと持ち上げられ、驚いて彼を凝視する。
にこりと口の端を上げた殿下の目は、酷く冷たい色をしていた。
「汚い顔だ。まぁいい、話すのに支障はないだろう。涙も止まったようだしな」
言いながら顎から手を離し、その手をシーツで拭った。
私は慌てて、カンドリック様のハンカチで顔を拭く。
立ち上がった殿下が、ベッドの横を歩きながら口を開く。
「さて、ユリングス嬢。君はカンドリックから話を聞いたな、そして是との答えを返した。君はもう私の駒だ。私は優しいから、自らの駒には温情を掛ける」
正面に立ち、私を駒と言い切る彼を、ぼんやりと見上げる。
「お前はもう自らの意思で決断することは許されない。私の意で動け」
にぃ……と、口の端を上げて笑顔を作った殿下に、背筋がぞくりと震えた。
「ユリングス嬢、返事はどうした?」
ベッド脇まで戻ってきた殿下に、応えろと急かされ。掠れた声で「はい」と呟けば、殿下の口の端がひくりと動いた。
気分を害してしまった事に気付いたとき、パシンと乾いた音が私の頭上で鳴った。
「殿下、暴力はいけません」
「ふんっ。馬鹿は体で理解させねば覚えんのだぞ」
私の頭上に拳を落とした殿下と、その手を受け止めたカンドリック様がにらみ合ったが、殿下が拳を引いたことですぐにそれは終わった。
二人の様子に、記憶の邂逅でぼんやりしていた私の頭がやっと動き出し。急ぎそうになるのを自重しながら、落ち着いてベッドの上に膝を揃え、背筋を只して殿下に向き合う。
「ジャンクルーズ殿下、申し訳ありません、ぼんやりしておりました。この度は、私と父の命を保障していただきありがとうございます。不肖、私コーラル・ユリングスは、殿下の駒となり、働くことをお誓い申し上げます」
深く頭を下げれば、殿下は満足そうに鼻を鳴らし、両腕を組んだ。
「やっと調子が戻ったか」
そう言うと、どっかりと椅子に腰を下ろした。
カンドリック様もホッとしたように、固かった表情を和らげた。
正面から見合う形になった私を、殿下はひたりと見据える。
「隣国と戦争になったならば、その時はお前のその火力。存分に振るって貰う」
一呼吸、息が止まった。
「隣国、と申しますと。オルラング国でしょうか」
動揺を顔に出さないようにしながら、殿下に問えば。ゆっくりと頷かれた。
フレイムの国と、戦争……。
「無論そうならぬよう、今も交渉を重ねている。しかし、万が一の事があれば、お前の火力を使う。初手で威圧出来れば、時間も稼げるだろうからな。派手な魔法を期待しているぞ」
殿下はそう言うと椅子から立ち上がる。
「これでも忙しいんだ。お前もだろう? カティール嬢はああ見えて厳しい人物だからな。まぁ、頑張れ」
そう言うと、殿下はカンドリック様を連れだって出て行ってしまった。
気のせいかしら、彼女の名前を出したとき、ほんの少しだけど表情が優しくなった気がした。それに、彼女を名前で呼んでいたけれど。
一人きりになった医務室で、大きくため息を吐き、白い天井を見上げた。
「頑張らなきゃ」
うん、頑張らなきゃ。
これからすべきことを考え萎えそうになる心を奮い立たせるように、ぎゅっと胸元を押さえて気合いを入れた。




