33.困惑
彼の名を知り絶望した私は、一体どれほどの時間そうしていたのだろう。
横にある椅子が引かれたことで、私はぼんやりと顔を上げた。
「君は、本当に泣き虫だな」
優しい低い声に、止まっていた涙が溢れ出す。
ゆっくりと横を向けば、会いたくて、だけど、会いたくない人がそこに居た。
「フレ……」
名を呼べず、声が詰まる。
何度か喘ぐように呼吸して、一度深く息を吸い込んでから、ゆっくりと口を開く。
「オルフィズ殿下、数々のご無礼、お許し――」
最後まで言葉を紡ぐ前に、唇が彼の指先に止められる。
窓から差し込む茜色の光が、彼の顔に翳りを落とし悲しげに歪ませる。
「謝るな。謝らないでくれ……アイシス」
唇に触れていた指先が頬を撫で、目じりを拭い、頬を包み込む。
その指先は冷たくて、まるで彼が悲しんでいるように感じる。
どうして? どうして、貴方が悲しむの?
貴方は、お父様の事を探るために、私に近づいたのではないの?
貴方がただのフレイムという男性だったら――
「フレイム――貴方がフレイムならよかったのに」
涙と共に望みが唇から零れ落ちる。
彼のもう片方の手も私の頬を包んで、居た堪れずに目を閉じた私の唇に彼の吐息が掛かる。
「君が望むならば……」
言葉途中で唇が触れ合う。
「ん……っ」
触れ合うだけの口付けに、顔を背けようとしても彼の両手がそれを許さない。
「んんっ」
「逃げないでくれ」
唇が触れ合う距離で懇願され、深く唇が合わされる。
無理やり上下の唇を割り彼の熱が差し込まれ、頬から離れた彼の手が背に回り、きつく抱きしめられる。
息苦しさに喘いだ歯列を押し開き、口の中まで彼の熱が押し入る。
抵抗して必死に舌で押し出そうとするけれど、その動きさえ絡め取られてしまう。
私は彼の膝の上に抱き上げられ、成す統べ無く長い時間を掛けて口の中を刺激され、その刺激が心地よくなってきたころにやっと唇を解放された。足りなかった空気を胸いっぱいに吸い込み、肩で息をする。
暗く静まり返った図書館の中で、私の荒い息の音が殊のほか大きく聞こえた。
薄い闇の中で私を見下ろす彼の表情は柔らかく、目が合えばついばむように唇を重ねられる。
私ももう抵抗はしない。
「なんで、こんなことをするの?」
もしかしたら、もう閉館したのかもしれない。私たち以外に人の居る気配のしない図書館の静けさに気圧されながら、小声でそうたずねる。
「言っただろう。私の名を知ったときに、君が君のままならば、君を私のものにすると」
自分のことを“私”と呼ぶ彼が怖い。
怯えて震えた私を包み込む彼の腕が強くなった。
「あなたは……フレイムではないわ」
彼の腕の中に捕らわれたまま、顔を伏せる。
「ああ、私はフレイムではない。君も、アイシスではなく――コーラルだ」
低い声に耳元で囁かれて、きつく唇をかみしめる。
彼に名を知られているだろうと分かっていた。なのに、アイシスという名を否定されるのが、胸を引き裂かれるように辛い。
「君はずるいな。ほら、唇を噛むな、アイシス」
噛んでいた唇を彼の指が這い、宥めるように私をアイシスと呼ぶ。思わず唇を緩めれば、再度口づけされた。
「私が嫌ならば、無体をする私を君の炎で焼いてくれ」
甘い声で彼が耳元で囁く。
ああ、なんて酷いこと言うのかしら。
「焼けるわけ、ないじゃない……っ。ずるいのは貴方の方よフレイム」
「焼けないのは、私がエイシェン・オルフィズだから? それとも、フレイムだからか?」
彼を見上げる私の目から涙が止まらない。
どうして? どうして、彼はこんなに私を追い詰めるの?
「貴方が、フレイムだからよ……っ! どうして……どうして、貴方はオルフィズ殿下なの。だって貴方は、お父様を罰するのじゃない。だから、私っ――貴方を好きになってはいけないのに!」
彼の腕から逃れようと身を捩るが、更に強い力で囲われてしまう。
「放して。放してよ! もう、フレイムなんて、大嫌いっ」
「私は好きだ。好きなんだよ、アイシス」
強い声で囁かれる。
どうして……どうして、好きだなんて言うの!? 頑丈な彼の腕から抜け出すのは諦め、目の前にある彼の服をぎゅっと握り締めた。
「愛してる、アイシス」
彼は震える私を抱きしめ、髪に顔を埋める。
押し付けられた彼の胸から、少し早い鼓動が伝わってくる。
「駄目よ……駄目なのよ、フレイム。だって、私は貴方がなぜ、この国に来ているのか知っているもの――シロウネ草」
動きを止めた彼に腕を突っ張り、体を起こして彼を見る。
「シロウネ草の栽培元を調べにきたのよね。貴方は、私のお父様を殺……捕らえに、魔法学園の卒業試合の来賓という立場を以てやってきたの。ね? あたっているでしょう?」
彼の深い青味が掛かった緑の目が大きく開かれる。
ああ、驚いているの? そうよね、秘密だったのでしょうから、それは驚くでしょうね。少しだけ楽しい気分で、言葉を続ける。
「もう、シロウネ草の畑は見つけましたか? 先ほど、私が焼き尽くしてきたのですけれど……」
だけど、ああ、もしかしたら――
「もしかしたら、明日になれば元通りになっているかもしれませんわ」
自分で言っていて可笑しくなる。そうね、そうよね、また元通りかもしれないわね。ああ、もう嫌だわ、本当に。
くすくすと声に出して笑い、笑ながら涙が零れる。
「もう、本当に、私は死ぬしかないのかしらね……っ、ふぅっ」
嗚咽がのどから溢れてくる。
「君は……なぜ知っているんだ。いや、何を知っているんだ? 教えてくれ」