31.疑い
思い至った可能性に、俯いたまま両腕で体を抱きしめる。
――だとしたら。彼女が覚醒しているのだとしたら。
彼女の治癒が、私の記憶と同じ威力で覚醒しているのだとしたら、シロウネ草が元通りに戻る可能性もあるのかもしれない。
失われた物までも、回復させる、力……。
でも、それならお父様が昨日の事を忘れているのは? 記憶を消す魔法なんてあるのかしら。
コトン――テーブルの上に硬い音がし、珈琲が来たのかと慌てて居住まいを正し、下げていた視線を少しだけ上げる。
珈琲ではなく、目の前に置かれたホットミルクのカップから離れたのは大きく分厚い手で、男性が給仕をしているのかと驚いて見上げれば、深い青味が掛かった緑の瞳とぶつかった。
「また泣いているのか」
フレイムは手にしていた珈琲をテーブルに置くと、胸元から取り出したハンカチで私の目元を濡らす涙を拭ってくれた。
「な、なんで、貴方がここに……」
動揺が隠せない私を尻目に、彼は椅子を引いて私の前に座った。
正直に言えば、今は一人にしておいて欲しかった。
どうしてシロウネ草が元に戻っていたのか、お父様の記憶の事とか……考えなきゃならない事があるのに頭が上手く動かなくて。
彼に何もかも話して、力になってもらえないかしら……。いいえ、駄目よ、駄目だわ。
万が一、彼を巻き込んでしまったら悔やんでも悔やみきれない。
「どうした、浮かない顔だな。それに、顔色も悪い」
彼は三つ編みにして肩の前に垂らしていた髪を手に取ると顔を近づけスンと鼻を鳴らし、探るような上目遣いで私を見つめた。
彼の手から髪の毛を取り戻し、目を伏せる。
「お気になさらずに。少し……すこし、疲れて休んでいただけですから」
髪から手を離し、目の前に置かれたホットミルクのカップに手を伸ばす。
彼はどうしてこうも、私にミルクを飲ませたがるのかしら。今は、気付け代わりに珈琲を飲みたい気分だったのに。
ゆっくりとコップを傾け喉を潤す。自分で思っていたよりも喉が渇いていたようで、一度に全部を飲み干してしまった。
「ふ……ぅ」
フレイムから目を逸らしつつ、取り出したハンカチで口元を拭う。
「良い飲みっぷりだな」
揶揄する声に、頬がほんのり熱くなるのを感じる。ちらりと目を上げれば、端を上げた彼の口元が目に入り、いたたまれなくて顔を背ける。
「ど、同席を許可した覚えはありませんよ」
「つれないな、アイシス。こうして偶然会うのも三度目だ、何か運命を感じないか?」
彼のからかうような口調で言われた言葉に、そういえば、もう三度も会っているのだと気付かされ、顔を上げて彼を見つめる。
目鼻立ちのはっきりとした男らしい顔立ちに、逞しい体つき。だけど粗野な感じはしなくて、どことなく品のよさを感じる……言葉遣いは悪いのに不思議と。
そうよ、だから私は彼の事を貴族だと思って、彼の元で仕事をしたいと願っていたのだけれど。――彼は、本当は誰なの?
三度も会うのは偶然? 偶然が重なればそれは必然になるのだと、お母様がおっしゃっていたけれど。
必然である前に、意図ではないと言い切れるのかしら。
「焦げた匂いがするぞ、アイシス。火遊びは、やめておけ」
何かを暗示して真顔で言うフレイムに、私の顔から表情が抜け落ちる。
もしかして彼は、あの、シロウネ草の畑を知っているのでは……。
あれを知っているのは、ランの実家である伯爵家と、取引先である隣国の誰か。もしかして他にも居るのかもしれないけれど。
その誰もが、私の敵であることに間違いは無い。
私の敵であり、ラン側の人間……。
「あら。火遊びをするような、いけないオンナに見えます?」
“火遊び”を違う意味になぞらえて憮然としてみせれば、彼の眉がひょいと上がる。
彼は“氷”で覚醒していると言っていたわ。確か図書館には覚醒者名鑑があったはず。
私の炎と同じで、水の上位である氷なんかで覚醒してしまえば、惨事は免れなかっただろう。いま彼がこうして心身を損なう事無くここに居るということは誰か補助について覚醒を果たしたに違いないわ。それならば、名鑑にその名が記載されているはず。貴族ならば、なおさらに。
――彼の事を調べよう。何か、重要な手がかりになるかもしれないわ。
胸の奥が引き絞られるように苦しい。私を救ってくれたこの人を、疑わなくてはならない。信じ続けられたらどんなに良かったかしら。
「どうしたんだ? 君らしくないな」
怪訝な顔をされて、苦笑を零す。
「少し、疲れているんです。ごめんなさい、これ以上一緒に居ても……八つ当たりしそうなので、失礼しますね」
椅子を引いて立ち上がりかけた腕を掴まれ、中腰のまま戸惑って彼を見る。
「八つ当たりしていけ」
深い青味が掛かった緑の瞳に射るように見つめられ、胸の奥が一層苦しくなる。
早くこの場から離れるべきだと思うのに、強い力で腕を引かれ椅子に腰が落ちる。
「お、恩人である、貴方に、迷惑をかけたくないの」
震えてしまう声でそう告げ、戦慄きそうになる唇をきつく結ぶ。
私の腕を掴んでいたフレイムの大きな手が腕を伝い、握り締めていた私の手を包み込む。
「迷惑かどうかは俺が決める。俺では頼りないか?」
力強い声音で伝えられる言葉に、胸が震える。
優しいこの言葉に縋ってしまいたい。
いいえ、彼の素性が……彼がラン側の人間ではないと判断できない今は、彼に頼ってはいけないわ。
だけど彼が向こう側の人間ならば、ランが私の覚醒を知らないのはおかしいでしょう。真っ先に教えるべき事項なのに教えていないということは、彼は敵ではないの?
でも私は彼の本当の名前を知らない。
――やっぱり、彼を頼ってはいけない。それは、とても危険だわ。
一度強く目を瞑り覚悟を決め、ゆっくりと開いた目で彼を見つめ。私の手に重ねられた彼の手にもう一方の手を乗せて、精一杯微笑んだ。
「貴方が“フレイム”である限り、私は貴方を頼るわけにはいかないの。でも、貴方の言葉はとても嬉しかったわ」
「アイシス……」
彼の真剣な表情に、胸がぎゅっと絞られる。
意を決して離れがたい彼の手を離し、席を立つ。今度は引き止められなかった。
「ごきげんよう」
淑女の礼を取り、彼に背中を向けた。