3.始まり
ふわっという感覚と共に、今までの苦痛がウソのように体が楽になった。
体の強張りを解き、目一杯彼の体にしがみついていた両腕から力を抜けば、苦しいくらいに抱きしめてくれていた彼の力も弱くなる。
「一晩は掛かるのを覚悟したのだが。良く頑張ったな」
私の魔力が整ったことを察した彼は身を起こすと、私の目じりを伝う涙をその分厚い手のひらで拭ってくれた。
痛みが引いたとはいっても、長い時間体を緊張させていたためにぐったりしてしまった私はされるがままで、額に浮いた汗まで拭われながら、魔力をモノにした喜びに頬が緩む。
「助けてくれて、ありがとう」
「いや……補助するなんて偉そうな事を言っておきながら、君の胸にこんな痕を付けてしまった」
そう言った彼の指先が私の胸の間の少し下、今もじくじくと痛むその場所に触れた。
「いっ」
「動くなよ“傷を癒やせ”」
彼が治癒の魔法を使うと、鈍く続いていた痛みが引いていった。しかし彼の顔は晴れない。
「すまない。俺の力不足で……」
彼の苦渋の表情に、痛みの引いたその場所を見下ろせば、胸の間に握り拳大の赤く引き攣れた火傷の痕がくっきりと浮かび上がっていた。
硬い手のひらが痣を覆い、足掻くようにもう一度治癒の魔法を繰り返すが、火傷の痕に変化は起きない。
一度治癒魔法を掛けた傷に、繰り返して治癒を掛けても効果が無いのは、治癒魔法を習った最初に教えられること。
彼もそれをわかっていて、それでも私の傷を消してくれようとした。
胸に当てられた彼の大きな手を取り、微笑む。
「大丈夫です、痛みはすっかり無くなりました。本当に、ありがとうございます」
心からそう伝える。
だって、私の記憶にある覚醒では……私の魔力は炎となり、胸だけでなく上半身を焼いたんだもの。これだけで終わったのは本当に奇跡なのだと、私は知っている。
「この胸の痕は、名誉の勲章なの。私が……いえ、私と貴方の力で手に入れたものだから、消えなくていいんです」
「だが。君が結婚するとき、君の夫となる人はこれを厭うかもしれないぞ」
私の身を案じてくれる彼の言葉に、婚約者であるゲイツを思い浮かべ、騎士を目指す紳士な彼ならば大丈夫だろうと笑みを深める。
そんな私の様子を見た彼が、にやりと笑う。
「なんだ、余裕だな。心配するまでもなかったか。さて、そろそろ俺の理性にも限界が見えてきたんだが」
言われて気づいた今の自分の状況に、一気に顔が熱くなる。
「っ! やぁっ」
大慌てで両腕で体を隠して小さく体を丸める。
は、は、裸っ! 緊急事態だから仕方ないけど! 見ず知らずの男性にっ、裸っ!
「くくっ、今更だろうが」
含み笑いの声と共に体の上にシーツが被せられ、その上から逞しく大きな体にぎゅっと抱きしめられた。
「おめでとう、名前も知らない誰かさん。君が、この力に翻弄されることなく、幸いの為に行使することを願うよ」
真摯な声音で紡がれた『祝福』に、強張っていた体から力を抜く。
「ありがとうございます、名前も知らない貴方。私はこの力を幸いの為に使うことを……この胸の勲章に誓います」
想いを込めて返しの言葉を紡ぐと、頭上で満足げな息が零され、さらにぎゅっと抱きしめる腕に力が込められた。
苦しくはない拘束に、身を委ねる。
「この痕を勲章だと言う君ならば……」
独り言のようにそう呟く彼の声を聞いていたが、彼の力強い腕の中はとても気持ちよくて耳を素通りする。
緊張で疲れた体がうとうとと意識を手放しそうになるのを、このまま寝てはいけないと身動ぎして逞しい彼の腕の中から体を起こそうとするが、その腕が私をベッドに引き倒し抱きしめる。
「覚醒したばかりだ、ゆっくり休め」
私の髪の毛に顔をうずめるようにして、そう勧める彼の声もなんだか眠そう。
ああ、彼も私の魔力を整えるために無理をしてくれたから疲れてるのかしら。それなら、ベッドを譲ってゆっくり休ませてあげなければ。
「駄目よ、だって、門限に遅れてしまうもの。夕飯までに帰らないと、怒られちゃう。貴方は、ここで休んでいて」
遅刻してしまったら、あの反省房に入れられてしまう。冷たくて、惨めで……何より、したり顔のあの子を見なきゃならないなんて、嫌。
早く帰らなきゃと思うのに、強引にこの腕から抜け出せないのは、この温もりが心地良いから。
「夕飯が門限か。ということは、魔法学園を無断外出か?」
当てられて、ビクッと震えた私の肩を、彼の大きな手のひらが宥めるように撫でる。
「俺もあそこの卒業生だ。あの反省房はまだあるのか?」
彼の告白に驚きながらも、小さく頷く。
「そうか。なら、飯を食ってから帰った方がいいだろうな。どれ、今日は覚醒した御祝いだ、俺が奢ってやろう」
そう言って、彼は勢いを付けて起き上がりベッドを降りると、床に散らばっていた私の服を放ってよこし、自分もこちらに背を向けて服を着込んでゆく。
拾ってもらった服を大慌てで身に付けてベッドを降りれば、カクンと膝が笑ってベッドの下にへたり込んでしまった。
「やっぱりもう少し休んでいくか?」
親切な彼の手を借りて、なんとか立ち上がる。
さっきは注意しないで立ったから無様に転んでしまったけれど、気を付けていればちゃんと立つ事ができた。
「大丈夫です。ほら、私、ちゃんと立てましたわ」
ぐっと膝を伸ばし、スカートについた埃を払って、長身の彼を見上げて小さく手を広げて見せれば、呆れたように苦笑されてしまった。
「良い根性だ。さ、俺のお勧めの屋台にお連れしましょうか、お嬢様」
私の言葉遣いに返すように、おどけた口調でそう言って差し出された彼の肘に、まだ本調子じゃ無い私はありがたく掴まらせてもらう。
「ええ、よろしくお願いいたしますね」
ちょっと顎を上げて、高飛車な風を装って見せれば、プッと笑われた。
「ふふふっ」
つられて笑ながら、宿を出て彼のお勧めだという屋台を二軒ばかり渡り歩き、お腹がいっぱいになると、彼が魔法学園の近くまで送ってくれた。
「まぁ、怒られるのは仕方ないだろう。甘んじて受けて来いよ」
魔法学園の傍の路地で、彼に意地悪そうな笑顔と共にそう言われて、コクンと頷いた。
「ええ、頑張りますね。今日は本当にありがとうございました。貴方が居なかったら、大火事を起こすところでした。本当に、感謝します」
深く頭を下げてから顔を上げると、長身の彼が身をかがめて頬に唇を寄せた。びっくりして目を瞠れば、優しい彼の瞳とぶつかる。
これは……彼のエールなのかしら。
「じゃぁな。頑張って来い」
優しい声と共に、子供にするように頭を撫でられた。
「はい」
私も子供のように素直に頷けば、名前も知らない彼はあっさりと背中を向けて去ってしまった。
振り返らない潔い彼を少しだけ物足りなく思う。
女々しい私は、彼の背中が見えなくなるまで見送ってから、気持ちを切り替えるために一度目を瞑り、ゆっくりと開いた両目で魔法学園を見上げる。
さあ、ここが私の戦場。
大きく深呼吸してから、一歩を踏み出した。