1.記憶
ずっと焦燥感があった。
もっと、頑張らなければ、もっと勉強しなければ、もっと、もっと強くならなければ!
学園に入った頃から、そんな……強迫観念にも似た焦燥感に背中を押され、私は頑張ってきた。
だけど――ああ、やっと理由がわかった。
二十日授業の後に三日連続である休日。
友人であるラン・クレイロールに誘われ、魔法学園の寮に外出届けを出さずにこっそり抜け出して遊びに来た町の中。
自由奔放な彼女は、ちょっと目を離したすきにどこかへ行ってしまい、私は慌てて八方探し回った。
級長の私は、途中から入学してきた彼女を、先生からもくれぐれもと頼まれているし、何より知り合って短いのに親友と呼べるほど大事な私の友人なのだから。
それに、あの猫のように気まぐれな友人は、なんだかんだ言ってとても寂しがりやで、私が居ないと……もしかしたら、今頃泣いているかもしれない。
ああ、やっぱり、こんなスラム近くにお忍びだなんてやめておけばよかった。せめて護衛を付けて来ればよかったのよ。
「駄目よ。護衛なんて居たら、邪魔じゃない! あたしたち、もう子供じゃないんだから大丈夫だってば!」
太陽のように輝く赤みがかった金色の髪の毛を、私のプレゼントしたレースのリボンで結んだ彼女の、太陽のような笑顔に頷いてしまった私が悪いわ。
澄んだ緑色をした大きな目と、良く動くピンクの唇、そして一番彼女を輝かせているのはその生き生きとした表情で。――赤みがかった焦げ茶色の目と、軽やかさの一切無い真っ直ぐな黒髪、そして何より優等生という言葉を地で行く硬い表情の私とは真逆の存在である彼女は私の宝物。
ああ、早く探さなきゃ。泣き虫なあの子の事だから、きっとどこかで泣いているわ。
どんどん日が落ち、寮の夕飯の時間が迫る。夕飯までに帰らなくては、無断外出が知られてしまう。
「よぉ、お姉ちゃん、どうしたんだい、血相を変えて」
路地を早足で歩いていた私の腕が、強い手に引きとめられる。
「は、離してくださいな! 私、急いでおりますの!」
すぐ先に大通りが見える。もしかしてと思って入り込んだ路地だけど、やっぱり彼女は居なくて、慌てて戻るところだった。
「イソイデオリマスノだと! あっはっは、こりゃぁ上品なお嬢さんだ」
振り向いた私の腕を握っているのは、赤ら顔の、既に酔いの回っているらしい男だった。
足元もおぼつかず、へらへらと笑っているのに、私を掴む手の力はまるで万力のように強い。
「う、腕を、離してください。痛いです」
言葉遣いに注意しながら、そう訴えれば、腕を引かれて壁に押し付けられ、結い上げていた髪が解ける。
助けを、助けを呼ばなきゃ!
顔を必死に大通りの方へ向ければ、その先にランが居た!
見知らぬ茶色の髪の青年と笑みを交わして歩いている彼女を見つけ、安堵と共に声を上げる。
「ラ、ランさんっ!」
自由な右手を彼女の方へ伸ばしたその時、彼女が不意にこちらを振り向いた。
目が、合った!
そう思った瞬間、彼女はふいっと目を逸らし隣にいる薄茶色い髪の男性を見上げて太陽のような笑顔を振りまいた。
「おんやぁ? お友達でも居たのかなぁ?」
酒臭い呼気の男の言葉も耳に入らない。
彼女は、ランは確かに私と目が合ったのに? どうして? どうしてっ!?
――キィン
男に捕まった恐怖と、彼女が離れていく恐怖に、恐慌状態になった脳裏に耳鳴りが響いた。
『あら、だって、コーラルもいい人と居るんだと思ったんだもの』
『やぁねぇ、見捨てた? そんなわけないじゃない。助けてなんて、言ってなかったでしょ? あたしだって野暮はしたくないもの』
『うふふ? どうしたの? ちゃんとお夕飯までに帰らなきゃ駄目じゃない? 級長なのに案外抜けてるわよね、コーラルって』
彼女の弾むような声……幻聴が聞こえる。
いや、違う。
幻聴ではなく……あれは、これから先の未来で、あの子が言う言葉だ。
この男に心身ともに汚され、それでもそんな汚らわしい事実を誰にも言う事が出来ない私に向かって、彼女はあの太陽のような笑顔で言うのよ。
――わざわざ気を利かせて、見ないフリをしたのだと。
傷ついて戻った私は、無断外出の咎で反省房に入れられる。
傷つき反省房の中で呆然とする私の元へ来た彼女は……ちゃんと時間までに一人だけ帰って来た彼女は、一切れのパンを反省房の格子の隙間から落として言いたいことを言い終えると、唇を戦慄かせる私に気づく事無く、暖かい寮の部屋へと戻っていった。
その後、彼女は私の婚約者を奪い、この国の王子や宰相の息子と親しくなり、一層美しく輝く。
そんな彼女を見て。私は、病む――
そして、あの日が来る。魔法学園の卒業式の日に行われる卒業試合で……私は総てを失う。そう、この身ですらも、失う……。
「あ……あああああぁぁぁぁがあぁぁぁぁぁ!」
すべてを思い出した私の体に最悪の事態が引き起こされているのに気づいた時には、もう助けを呼べる余裕なんて無かった。