:けしごむ
消しゴムから発想した実話風怪談。
「テル、って呼ばれてたんです。いえ、本名は全然違うんですけど」
亜紀さんはアイスコーヒーの氷をつつきながら眉をひそめた。
彼女は医学部受験に失敗して、現在は都内の予備校に通っている。テルとは中学の時の同級生で、高校では離れていたが、ある模擬テストの会場で再会した。
「身体は小さいのに変に頭が大きくて、いつも猫背気味で、その大きい頭を前に突きだすみたいにしてフラフラ歩いてたんです。目も鼻も口も薄くて、いつもニヤニヤしてて、それが軒先にぶらさがってるテルテル坊主みたいで。だから、テル……」
再会したテルは、中学時代より背が伸びている以外はほとんど変わっていなかった。あいかわらず大きすぎる頭を前に伸ばしてフラフラ動かしながら、細い目と唇でニヤニヤ笑っている。亜紀さんは声をかけなかった。
「正直言って、あまり近づきたくなかったんです。中学の時のテルは吃音癖があって、女の子たちからは気味悪がられてました。だからなのか知りませんけど、自分からはほとんど喋らなかったし、男の子たちがからかったり殴ったりしても、やっぱりテルテル坊主みたいにぼーっと突っ立ってフラフラしてるだけで」
「いじめられっ子だった?」
「そうかも……いえ、『いないもの』にされてた、と言う方が近いかな。何をしても反応が薄いんで、最後には飽きて、みんな無視してました」
亜紀さんはうつむいた。
再会したテルは亜紀さんの斜め前の席に座っていた。こちらに気づかれないよう祈りながら、亜紀さんはテストが始まるまでのあいだ、参考書で顔を隠していた。
やがて、テストが始まった。着実に回答欄を埋めていた亜紀さんは、ふと顔を上げた拍子に、テルの様子がおかしいのに気づいた。
「筆箱の中をひっくり返してたんです。ペンとかシャープペンシルとか、一本ずつかきわけて。ちらちら見てたら、どうやら彼、消しゴムを忘れてきたみたいで」
テスト会場で消しゴムを忘れてくる、というのはとんでもない危機だ。いつもニヤニヤしていたテルの顔がしだいに引きつってくるのを見ていると、亜紀さんはなんとなく可哀想になってきた。なんといっても、いまは同じ受験生なのだ。
その日、亜紀さんは新品の消しゴムを持ってきていた。彼女はそれをカッターナイフで二つに切ると、試験監督の目を盗んで、そっとテルに投げた。
消しゴムはうまく相手の机に落ちた。テルはびっくりしたように亜紀さんを見た。亜紀さんは無言でテスト問題に目を落としながら、手真似で『使え』と伝えた。
テルはしばらくぽかんとしていたが、やがて消しゴムをとり、机に覆いかぶさって、必死に問題に取り組みはじめた。
「いいことしたな、って思ったんです。その時は。中学の時、みんなといっしょになってキモイとか言ってた罪悪感もあったし、ちょっとした罪滅ぼし、みたいな」
テスト時間が終わり、亜紀さんはやれやれと思いながら席を立った。教室を出ようとしていると、後ろから、
「あ、あ、あああの」
と声をかけられた。
テルだった。
「あ、失敗したかな、と思ったのはその時でした。彼、貸した消しゴムを返そうとしていたみたいなんですけど、その消しゴムが、一時間ちょっとのあいだにどうやったらここまで無茶苦茶にできるのか、みたいな状態にされてて」
テルはいつものニヤニヤ笑いを浮かべながら、頭をゆっくり前後に揺らしていた。じっとりした妙に青白い手のひらに、ガタガタになった消しゴムの欠片があった。
鉛筆の粉で真っ黒になっているのは言うに及ばず、茶色い指紋があちこちにつき、噛んだらしい歯形が二つ三つついている。一部はまだ乾ききらない唾液でねっとり光っていた。とうてい受けとる気になれるものではなかった。
「いい。返してくれなくていい。あげるから」
それだけ言って、亜紀さんは逃げるようにテスト会場を出た。後ろでテルが何か言っているようだったが、聞こえないふりをした。
それから数日後、予備校に行こうとした亜紀さんは、アパートのドアを開けようとして妙なものに気がついた。
「よくある茶封筒でした。手紙を入れる大きさの。それがポツンと、ドアの前に置いてあって」
中に何か入っているようだった。亜紀さんは用心しながら封筒を開いてみて、思わず「何、これ」と口走った。
「消しゴムでした。それも、真ん中からすっぱりカッターで切られてて。私がテルにあげたのと同じメーカーの、新品でした」
その時、人の気配がした。
反射的にあたりを見回した亜紀さんは、アパートの外階段の踊り場に、見覚えのある大きな頭がサッと隠れるのを見たように思った。
「あ、テルだ、って、直感的に思いました。あの時の消しゴム返しに来たんだ、って。でも、やっぱり気持ち悪くて」
消しゴムは封筒ごと駅まで持っていって、そのままゴミ箱に捨てた。
「電車に乗っても、予備校で授業を受けていても、なんとなくテルのニヤニヤ笑いがどこかで自分を見てるみたいで、いやな感じでした。どうやって私の住所知ったんだろう、とか考えると、気持ちが悪くて講義もろくに耳に入りませんでした」
消しゴムの届け物はその後も続いた。何日か続くこともあれば数日間が開くこともあったが、必ず同じメーカーの新品で、必ず、カッターで切られていた。
亜紀さんはすべて、駅のゴミ箱に捨てた。道ばたの溝に放り込んだこともあった。
「気味が悪いのは、無視を続けてると、その切り方がだんだん細かくなっていったことなんです。最初はただ二つに切ってあるだけだったのに、そのうち、三つ、四つ、五つと増えていって、しまいにはとうてい使えないくらい、バラバラに刻んであるのが入ってるようになりました」
いつテルが消しゴムを置きに来るのかはわからなかった。おそらく深夜、亜紀さんが寝静まったあたりを見澄まして置きに来るのだろうと考え、ある夜、玄関ドアに貼りついて寝ずの番をしてみた。
明かりを消し、寝たふりを装ってしばらく経つと、スニーカーの足音がアパートの廊下をキュッキュッと近づいてきた。
それが自分の部屋の前で止まり、紙の擦れる音がしたところで、亜紀さんはチェーンをかけたドアを開いて、「何よ!」と怒鳴りつけた。
のっそりと顔を上げたのは、やはりテルだった。大きな頭をフラフラさせながら、いつものニヤニヤ笑いを浮かべている。ドアの隙間から顔をのぞかせている亜紀さんに睨みつけられても動じた風でもなく、ニヤニヤと笑い続けている。
「気持ち悪い。どういうつもりよ、あんた。これ以上こんなこと続けるんだったら、警察に言うからね!」
「け、けしごむ、む」
亜紀さんの怒りにも感じた様子を見せず、テルは封筒を差しだしてきた。
「け、けしごむいりますか。もっといりますか。もっともっといりますか。けしごむいりますか。け、けしご、む。けしごむ」
「要らない!」
隙間から腕をつっこんで封筒を渡そうとしてきたテルを、亜紀さんは悲鳴のような声をあげて突き返した。封筒が飛び、テルはグラリと後ろに倒れた。
その隙に亜紀さんはドアを閉めて鍵をかけた。ばくばくと心臓が鳴っていた。
「け、けくっく、けしご、む」
コツコツとドアが叩かれた。
「くけっ、けく、けしご、む。けしごむいりますか。もっともっといりますか。もっと、も、もっといりますか」
「あっち行って!」
ドアに背中を当てて、亜紀さんは喚いた。
「警察に電話するよ! 本当に、するからね! あんた逮捕されるよ! キモイ! ストーカー! 変態!」
音がやんだ。しばらく荒い息づかいが聞こえていたが、やがて、気配はなくなった。
亜紀さんはずるずるとたたきに崩れ落ちた。全身、汗をかいていた。
「でもその翌日にはまた、消しゴム入りの封筒が置いてあったんです。いつもよりずっと、念入りに刻んでありました。切ってある、なんてレベルじゃなくて、もうめちゃめちゃのザクザクに切り刻んだ感じの」
封筒には「けしごむいりますか」と書いたくしゃくしゃのメモが押しこまれていた。長いこと握りしめられていたかのように汗臭く湿っていた。亜紀さんは総毛立った。
「これは放っておいたら駄目だ、と思いました。それで、小さいころから可愛がってくれてた叔父に相談したんです。叔父は今でこそカタギですけど、若いころは暴走族とかに入ってヤンチャして、今でも地元のチンピラとかには顔が利くって」
『そうか。そんな奴がいるのか』
電話で泣きながら訴える可愛い姪に、叔父はドスのきいた声を出した。
『わかった。俺に任しとけ。おまえは何も心配せんでいいからな』
数日後、消しゴム入り封筒の出現はふっつりと止んだ。
何事もないまま一週間ほどたって、予備校の友人から、テルらしき男を病院で見かけたと聞いても、亜紀さんはそれほど驚かなかった。
テルは顔中を包帯とガーゼにおおわれ、ますますテルテル坊主そっくりになっていた。片方の足をギプスで固められ、松葉杖をついてよろめきつつ歩いていたらしい。亜紀さんは胸をなで下ろした。
「もちろん、罪悪感はありました。でも、あの気味の悪い消しゴムを届けられることを考えたら、ホッとする気持ちの方が先に立って。それだけ痛めつけられたなら、もう近づいてくることもないだろう、と思って、安心していたんです」
一ヶ月が平穏のまま過ぎた。大事な全国模試が間近に迫り、勉強に追われる亜紀さんは、すでにテルのことを忘れかけていた。
深夜まで勉強に没頭していたある夜、痛む背筋を伸ばした亜紀さんは、空腹を感じて近くのコンビニに買い出しに出かけることにした。
「気分転換を兼ねてのつもりでした。あったかいおでんが食べたくて」
財布とケータイをポケットに入れて、亜紀さんは部屋を出た。コンビニまでは歩いて数分の距離だった。
鼻歌を歌いながら夜道を歩く亜紀さんの後ろで、いきなり声がした。
「くけ」
一瞬で全身の血が冷えた。
カエルが何かを吐き戻しているようなその声は、聞き違えようのないものだった。反射的にケータイと財布を胸に抱え込み、亜紀さんは振り向いた。
目の前で、テルの大きな頭がゆっくりと前後に揺れていた。
「け、けしごむいりますか。けっくけ、け、けしごむ、む」
ニヤニヤ笑いを浮かべた薄い唇が動いた。
テルの大きな頭はボコボコに膨れあがり、顔面は赤紫と青色の痣に覆われていた。細い目が街灯の光を受けて光った。鼻は埋もれてしまってどこにあるかわからない。
片方の足が奇妙な方向に曲がってねじれている。後ずさりする亜紀さんに歩み寄ってくると、かしいだ身体がヒョコッ、ヒョコッ、と奇妙に踊った。膨れあがった頭がそれにあわせてユラユラ前後に揺れ動いた。
前に突きだした両手には、新品の消しゴムと、カッターナイフがあった。テルはカッターの刃をチキチキと出し入れしながら、消しゴムを端から削っていた。削がれた消しゴムの屑が蛆虫のように丸まって、点々とアスファルトに落ちていた。
「けっけけ、けしごむいりますか。もっといりますか。もっともっといりますか。けしご、む。けしごむ、けしご、む、けしごむむむ」
亜紀さんは悲鳴を上げることすらできなかった。後ずさるうちに、電柱に背が当たった。足がアスファルトの上をずった。コンクリートの冷たさがひやりと首筋を撫でた。
「けっけ、けしご、む。けしごむいりますか。けしご、む。けしご」
ガツ、と妙な音がした。
テルは動きを止め、不思議そうに手を見た。
カッターの刃がそれて、消しゴムを持った手の親指に深く食いこんでいた。
根元からめくれ上がった親指の爪がはっきり見えた。濃い、油のような血がねっとりとにじみ出してきて、ザクザクになった消しゴムの上に流れ落ちた。
「ふわああ」
テルは剥がれた爪を口もとへ持っていき、紫色の舌でべろりと舐めた。
亜紀さんはその場で失神した。
「結局、朝になって、犬の散歩に出てきた近所の人に発見されました。倒れてる私のまわりに、血のついた消しゴムの切りくずがぐるりと並べてあって、そのそばに、ミミズの這ったみたいな文字で、『いつもありがとう』と書いてあったそうです」
文字は血をなすりつけて書かれていた。文章の最後には読点のつもりなのか、肉のついた血だらけの生爪が、きっちりと貼りつけるように置かれていた。
警察にも相談したが、事件性がないとのことでなんの役にも立たなかった。かえって夜中に一人で出歩いたことを説教された。
「即日、引っ越しました。予備校も同系列の、離れた場所の別の分校に転校して」
テルがその後、どうなったのかは知らない。知りたくもない。
今のところ、新しい住所に消しゴム入りの封筒はとどいていない──まだ。




