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cell memory # 04《井蛙の想望》 上


ヒウンに頼みがあると旅に同行したゴクウ。彼の目指す目的地への道中、ヒロはヒウンとはぐれてしまう。

嫌々ながらゴクウと二人、ヒウンを探す事になるのだが…。


記憶を探す冒険ファンタジー

《井蛙の想望》


白昼の街道は多くの旅人が行き来して、至って賑やかで粋がいい。

道中に点々と現れる茶屋や飯屋は何処もかしこも満員で、わいわいがやがやと他愛ない話声が響いている。まるで百舌鳥の巣だ。


そんな賑やかで粋のいい街道を木々の合間から遠巻きに伺う者が居た。


「だんご、旨そうだなぁ」


物欲しげな眼差しは店先に並ぶ餡子、みたらし、ヨモギの串団子の山々を舐め回すように見つめていた。


「おい!早く来いのぉ」


先を行く、朱毛に派手な着物を身に纏う猿人の青年は、振り返り少年を呼んだ。

けれど少年は呼び掛けに応じず、木の幹をガッシリと掴み、眼下に見下ろす街道に意識を持っていかれたままだった。


少年は風上に居るにも関わらず鼻をヒクつかせ、凡そ嗅げるはずもない甘味の匂に涎を垂らす。

このまま行けば、直に腹の虫がいななくのは明白。猿人は一つ大きな溜め息を吐くと懐に手を忍ばせた。


「だんご、ダンゴ、団子」


浮ごとの様に繰り返される言葉を食らい、舌なめずりをした少年は目蓋を閉じ空を噛む。


「仕方ないのぉ、ホレ」


そんな少年の様子を不憫に思ってか、それとも呆れてか、少年に歩み寄った猿人の青年は、懐から包みを取出し少年へと差し出した。


「え?」


振り向いた少年は、青年の行動に虚を衝かれ、間の抜けた表情で青年を見上げ小首を傾げる。


何処か疑いの色が覗く少年の瞳を見て見ぬ振りで流した青年は、押し付けるようにして包みを少年へと手渡した。


「一つしか無いがの、いつまでも道草されても困るでのぉ」


片目を閉じ、乱暴に己の頭を掻き毟る青年はぶっきらぼうに告げる。

何時もと様子の違う青年の態度に戸惑う少年は、けれどそれを優しさだと思った。

根拠はない。ただ、青年の目がチラチラと様子を伺うように忙しなく動くのがそう思わせる。


「ありがとうっての」


少年は一言礼を述べると受け取った包みの封を解いた。


紙包みの中身はぼた餅だった。


表面を覆う餡子は見るからに肌理細やかで光沢があり、甘い匂と豆の匂にが鼻腔を擽る。


忽ち満面の笑みをこぼした少年は、尻尾をくねらせる。


「いただきます!」


威勢の良い声と共に、少年は大口を開けぼた餅に噛り付く。

ほどよい甘さに滑らかな餡が口いっぱいに広がって溶けていく。後を追いやってきたザラザラ感は、次第にくどくどしく舌に絡まり、身体が呑み込む事を拒む。

やがて鼻を抜けたのは、豊潤な土の香り。


「ゲハァッ!」


「シシシッ」


思考が認識したのとほぼ同時に吐き出した少年の顔を覗き見て、青年は心底満足気に笑みを漏らした。


口内一杯に広がる不快感を取り払うべく、少年は竹筒で出来た水筒から水を煽り、何度も何度も口を濯ぐ。

その様子に、青年は更に強かな笑みを漏らし眺めていた。



何度も嗽をし、不快感を取り除いた少年は、直ぐ様顔を上げ眼光鋭く青年を睨み付けた。


「なんて事すんだっての!!」


米噛みに青筋を立てる少年を宥めるように青年は手を煽る。


「すまんすまん、出来心だ。悪かったのぉ」


悪かったと口にしながらも、全く悪怯れた様子の伺えない青年に更に噛み付こうとした少年だったが、差し出された包みで口を押さえられた。


「キャンキャン吠えるなのぉ、悪かったとは思ってる。本物をやるのぉ」


そうして渡されたのは先程と同じ大きさの紙包みだった。

ただ、明らかに違うのは包みに使用された紙に印刷された模様が菓子屋のマークなのだ。

受け取った少年は恐る恐る包みを見るが、開封された風も無くい。

更には包みから漏れ出る香りが先程の偽ぼた餅よりも格段に餡子の匂にをはっきりと醸し出していた。


「食わねぇのか?」


「…だって」


青年の問いに少年は眉間に皺を寄せた。

一度裏切られて直ぐに信用出来るはずもない。

疑いの眼差しで青年と包みを交互に見やり、少年は恐る恐る包みの封を切り包みを開けた。


「また…ぼた餅…」


「粒餡だの」


現れた物は、またしてもぼた餅だった。少年の口内は先ほど洗い流したはずの不快感を蘇らせ、顔を歪ませた。


「さっきの詫びだの」


訝しげに横目に見た青年は、愉快そうにシシシと笑う。

その笑顔に少年の疑いは少し和らぐが、それでも中々口に運ぶ事が出来ない。


見兼ねた青年は笑顔を崩さず後ろ頭を掻いた。


「同じ轍は二度踏まんのが口悪屋だのぉ、二度も同じ手は使わん」


それを訊いた少年は、あからさまに胸を撫で下ろし、安堵の色をあらわにする。

漉し餡なら兎も角、粒餡に残る小豆の様子まで泥で真似出来るはずがない。疑いを拭うにはそこが大きな要因になった。


よく考えて見れば簡単な事だ。

そうとわかれば少年に躊躇いはない。


「いただきます!」


大口を開け、ぼた餅の半分を一気に口に収め噛み締めた。


「んっ!?」


「まぁ…」


「ガハァッ!!」


「同じ手に二度も引っ掛かる奴には別だがのぉ」


えずき、涙ながらにむせる少年を横目に、青年は腹を抱え、心底愉快気にシシシと息を漏らした。


「み…みじゅ…ハッ!」


慌てふためきながらも、口内を占拠する臭いとジャリジャリとした不快感を吐き捨てようと水筒に手を掛けた少年は、竹筒の軽さに思い出し顔を歪める。


先の偽ぼた餅の後始末に、水筒の水を全て使ってしまっていたのだ。

酷く軽い水筒は、懸命に上下に揺すった処で一滴の水も滴り出ない。もし出たてしても一滴ではなんの解決にもなりはしない。


「ウングゥゥ!」


絶望的な事態に頭を抱えた少年が奥歯を噛み締め、地団駄を踏んだその時。前方から飛んできた竹筒が少年の額にぶつかった。


コンッと良く響き、舞い上がった竹筒を空中で掴んだ少年は、腫れ上がる額に手をあて、涙に歪む視界で竹筒の飛んできた先を見た。


視線の先。二人から少し離れた場所で、深緑のマントを羽織る者が居た。

二人を待つ為に立ち止まったと云うには何処か素っ気ない空気を漂わせる彼は、目深に被ったフードの下で、疎ましいと言いたげな色を滲ませる。


だからと言って眉根を寄せる訳でもなく、至って無表情だ。


水筒を受け取った少年。ヒロは、直ぐに水筒から水を煽り、口内を濯ぐ。

その傍らで、玩具を取り上げられた子供の様にいじけた表情を作る青年。ゴクウは、小さな舌打ちを一つしてヒロに背を向けた。


彼等は今、旧街道を使い、北へと向かって居た。

何故、旧街道を行くのかと言えば、先頭を歩くヒウンが人目に付くのを嫌っての事である。


見下せば直ぐ其処に、整備され道幅の広い街道がある。人通りの多い街道の道は平で歩きやすいだろう。

逆に長年使われていなかったと見える旧街道は道幅も狭く、雑草が生い茂る凹凸ばかりの道だった。勿論、人の気配などしない。ヒウンにすれば最適な道なのだろうが、下手に人の手が加わっている分、逆に歩き難い。



「いつまでやってんだ!早く来いのぉ」


「今行くっての!」



先程まで隣に居たゴクウがいつの間にかヒウンと並び歩いている。二人の背中を追い掛けて、ヒロも後に続いた。


「……」


「そう睨むなのぉ」


顔は前を向いたまま、何を言うでなく冷めた視線を傍らに送るヒウンは、見下ろしてくるゴクウの視線と交わった。


ヒウンに顔を顰めた覚えはない。それでもゴクウは無口で無表情の彼から表情も感情も読み取るのだ。


昔からゴクウは飄々として、言葉無い会話を成り立たせる。

だからと云って、ヒウンがどう思う事もない。


「……」


「ちょっとばかし尻を叩いただけだのぉ。店屋を見付ける度に立ち止まられては、何時になっても先に進めんでのぉ」


肩を竦めるゴクウに同意はするが、気にせず先に進んでしまえば良いと思うヒウンには、ゴクウの行動は無駄にしか思えない。


道草ばかりするヒロも、ちゃかすゴクウも、何故そんなに無意味な事をするのか、ヒウンには不思議でならなかった。


「シシシッ」


隣でゴクウが強かに笑っている。

思考を読んだのだろうが、それすらヒウンには感心のない事だった。


ヒウンの視線は進みべき先へと戻り、雑草の多い旧街道を見据えながら、右手の親指で額の中央を掻いた。


「ほぉー…」


頭の後ろで腕を組み、横目に見下ろすゴクウは、目の奥を光らせ何処か嬉しそうに長い尻尾をくねらせる。


自称親友のゴクウは、ヒウンの微かな変化を見逃さない。

数少ないヒウンの普段を知る者、そのなかでも自称だろうが幼なじみを豪語するだけはある。


「…今夜は誰に会うのやら」


独り小さく呟くと、白昼の青空を仰ぎ見てゴクウは尻尾をくねらせた。




夕暮れに色付く雲がゆったりと横切って行ったのがいましがた。急に辺りが暗くなり、空は一面の曇天に様変わりした。

山肌を撫でるように吹き付けた風は、冷たく湿気っている。


「…」


足を止め空を見上げたヒウンは次の瞬間には駆け出していた。


「だろうのぉ」


間髪入れずゴクウも続く。

ただ独り二人の咄嗟の行動に出遅れたヒロだけがその場であたふたと手をばたつかせる。


「な、なんだっての!」


取り敢えず二人の後を追い、駆け出すヒロだが、未だ何があったのか理解出来ないでいた。

そんなヒロに応えたのはゴクウだった。


「来るからだのぉ」


「来るって、何が!」


「そりゃ…来てからのお楽しみだのぉ」


「へぇ?」


ゴクウの要領を得ない応えに疑問符を浮かべたヒロは、ただただ二人の背中を追って坂道を駆けた。

足場の悪さにヒロは何度も躓きそうになるが、前を行くゴクウは重い薬箱を担いでいるにも関わらず、スイスイと進んで行く。その遥か前方にヒウンの背中が小さく見えた。

ヒロが出遅れたとて僅か二、三秒の事だ。それなのにヒウンがあんなにも遠くに見える事にヒロは内心驚いていた。


「あっ…」


そんなヒロの視界を何かが霞めて行った。

確認するよりも早く、再び視界に入ったソレは、口吻の先、鼻の頭に当たり弾けた。


「始まったのぉ」


ゴクウも気付いたのか懐から布を取出し、走りながら器用に薬箱を布で覆っていく。


その間にも視界を霞めていく物は一つ二つと増えていき、次第に数え切れない程になり、いつしか音を伴い打ち付けるようになっていた。

コレには流石にヒロも気付く。


「来るって雨のことかよ!」


「こりゃまた本格的に降る気だの」


音を立てて打ち付ける雨は木々に生い茂る葉を打ち鳴らし、忽ち森は騒ぎだし、湧いて出た濃霧に視界が悪くなる。


耳を塞ぎたくなる程の騒がしさに、ヒロが眉間に皺を寄せる一方で、ゴクウは何やら愉しげに鼻歌を歌っていた。


「おっ」


暫くして、二人の視界からふっとヒウンの姿が消えた。

見えなくなる程先に行ってしまったのかと慌てるヒロを余所に、ゴクウは至って落ち着いていた。


「来たらしいのぉ」


「えっ?!今度は何!?」


六歩半先にいるゴクウの呟きを辛うじて聞き取ったヒロに、ゴクウの発した言葉の意味を理解する間は無かった。


突然振り返ったかと思えば、ヒロの腕を掴み、懐から取り出した袋を地面に叩きつけたゴクウは、即座にヒロを引寄せ、小脇に抱えると街道側の斜面を滑る様に下り出した。


「なっ、な、なんだっての!」


「騒ぐな」


「ングッ!」


ますます訳が分からなくなったヒロが、声を荒げれば、ゴクウはヒロの口を手で塞いでしまう。


意図の見えない状況に、困惑するばかりのヒロは、ゴクウの腕の中で身を捩り暴れたが腕を振りほどく事はできなかった。


それでも諦めず、口にあてがわれた手だけでも剥がそうと試みたその時、横顔スレスレを何かが擦りぬけていった。

辛うじて飛び去る影を捕えたヒロがその正体を確認した途端、急に大人しくなった。


頭に上った血が急降下し、寒さに身震いする。肌寒い風が頬を撫でるが、ヒリリと痛む頬が熱を保つ。


「や、や、や…」


「やっぱり来てたの」


二人の目前に直立する幹に深々と突き刺さる細い棒。背後から狙い放たれた矢。

小脇に抱えられたまま、矢の突き刺さる木の脇を通りねけ、ヒロは今一度身震いした。


腕の中で身震いし、大人しくなったヒロの様子を見ずにゴクウはシシシと笑みを溢す。



宙ぶらりんの身体は、ゴクウが跳ねる度に脇腹に回された腕によって少なくない衝撃をヒロに与え、その都度ヒロは喉を鳴らすのだが、ゴクウは気にも止めてはくれない。


「この辺りは、海からの湿った暖かい気流と、山からの冷たい気流とがぶつかり合う場所での、この時期は雨も多い。こうして濃い霧もしょっちゅうだ。雨は山に恵みをもたらすが、それに便乗したりと不粋な輩が出るんだのぉ」


次々と背後から飛び来る風斬り音を物ともせず、相変わらずの飄々とした態度で語るゴクウは、有ろう事か、この事態を楽しんでいるようだった。


「さてと、そろそろ」


そう言っておもむろに立ち止まり振り返ると、口に片手を添えたゴクウは、わざとらしい悲鳴を上げた。

森中にゴクウの偽りの悲鳴が木霊して数秒後、今度は複数の野太い悲鳴が木霊した。

ゴクウのわざとらしい悲鳴とは違う、もっと深刻な悲痛に歪むようなそんな声だ。悲鳴を目を閉じ聴き入ったゴクウは、忽ち顔を綻ばせる。

その表情を仰ぎ見たヒロはギョッとした。そこには腹の中で善からぬ事を思案する強かな笑みも、からかい、人を馬鹿にした笑みは微塵も無い。悪戯が成功したときの子供のような純粋な笑顔だけがそこにあった。


鳴り止まぬ悲鳴が延々と木霊する中、思い出したようにまた斜面を下り出したゴクウは、上機嫌で霧の向こうで起こっている事をヒロに聞か始めた。


「旧街道から外れる前、オイが袋を地面に叩きつけたのは見ていたの?。アレにはアル物が入っていてのぉ、そのアル物とは、何を隠そう先の港町で拾い集めたお宝よ!」


「ンンッ?」


「それは何かって?シシシッ教えてやりやしょう。

ポイのポイのと棄て行く漁師。それを宝と知らぬ輩よ。折れて使えぬ銛の先、ひしゃげた釣り針、フカの牙。トゲトゲヒトデにエイの毒針。それら袋に詰め込んで、コレじゃ足りぬと?仕方ねぇい。

ほんじゃおまけに錆びた釘の20も入れて、なんとたったのタダ売り御免!。立派立派なひしにござい」


いつしか物売りの役を演じ、歌うように口上を述べる風にして、ゴクウの口調は変わっていた。

そんな時のゴクウの瞳はキラキラ輝き、商売人の顔をする。


一通り口上を語ったゴクウは、気付けば街道のすぐ手前まで下りていた。そこからポイッとゴミでも捨てる様に投げ出されたヒロは、前のめりに街道に転げ出ると、道端に出来た大きな水溜まりに頭からダイブした。


「ブファッ!」


「そこの茶屋で待ってろのぉ」


水溜まりに四つ足を着き放心するヒロに詫びの一つも無いまま、ゴクウは今下ってきたばかりの斜面を駆け上がって行った。


一方で何が何やらわからないと言った表情で泥水に映る自分を見つめていたヒロは寒さに身震いをした。

顔を上げた視線の先にはゴクウの云う様に一軒の茶屋が旅人に軒先を貸し出している。

ヨロヨロと立ち上がったヒロは、奇異の眼差しを向ける人々から逃れるようにゴクウの示した茶屋に駆け込んだ。


「さ、寒っい…」


濡れた身体を抱き抱えブルブルと震えるヒロはかさの減った獣毛の所為か身体を一回り小さく細くして哀憐を誘った。


「ボク?コレで身体拭きな」


「こっち来て服乾かせ。俺の替えの下着貸したるから」


「オヤジ!コレでこいつに生姜湯くれてやって」


「馬鹿!こんな時は汁粉が良いんだよ!オヤジ頼まぁ」



ヒロの余りの貧寒の姿に、見兼ねた店子の娘や同じく軒先を借りた旅商人やらが手を引いて、まるで子猫を看るように甲斐甲斐しくも世話をやき、ヒロは忽ち取り囲まれた。


「コレを首に巻きな。真綿のスカーフだから軽くて温たけぇぞ」


「でででも、濡れれる…」


「構わん構わん!売れ残りだからくれちゃる」


次から次に差し出される手に困惑しながらも、ヒロは一人一人に礼を述べ温かい好意を甘んじて受けた。

濡れた毛をタオルで拭い、濡れた服は店の中に干させてもらった。

差し出されたショウガ湯をフーフー言いながら飲めば、身体は内からポカポカと温められた。

何より首に巻いたスカーフが抜群に効果を発揮している。


火鉢を抱えて暫く。獣毛に普段のかさが戻るとやっと一心地ついてヒロは眉間の皺を解き店の外を見て、ふと気を揉んだ。


草履を借り、未だ降り止まぬ雨を気にしながら店の外に顔を出したヒロは、右に左に首を動かすが其処には誰も居ない。雨垂れに気を付けながらそのまま壁伝いに店の裏へと足を運んだヒロは、樽や空き瓶の置かれた一角に静に佇むヒウンを見つけた。


空の樽に浅く腰を掛けるヒウンは、降り落ちる雨粒を眺めて居るのか宙に視線をやっている様だが、その表情はフードに隠れていて窺い知る事が出来ない。

雨の所為か色合いの褪せた風景。店の裏と言う事もあり薄暗く、灰色に染るそこはとても寂しげで、ヒウンの濡れたマント姿が更に物悲しさを助長させていた。


まるでそう言った絵を見ているような錯覚が起こるほどだ。


「ヒウン?」


言い知れぬ胸の痛みに手を添えながら、ヒロは今にも消え入りそうな弱々しい声でヒウンを呼んだ。即座にフードの中で耳がピクリと反応を示し、ヒウンはゆっくりと視線を動かしヒロに横顔を向けた。

視線だけを此方に向けるいつもと変わらぬ反応の筈なのに、ただどうしてかヒロの目頭は熱くなり、鼻の奥がツーンと痛んだ。


「ここじゃ寒いし、店の中に入ろうっての」


「…」


「濡れたマントも乾かせるぞ。だから…」


「…」


「だから…」


「……」


「………」


ヒロの問いかけは独り言のように淡く空気を揺らし、忽ち降り落ちる雨音の中へと消えていく。もともと弱々しい声だったものが更に小さくなり、手応えの無いまま終には声にさえなれなかった。まるで、呼掛けるために作った声が喉元に出来たシコリに引っ掛かり、詰まっているようだ。

その所為だろうか。ヒロは息苦しさに喉を擦り、眉尻をグッと下げた。


俯き何も言わなくなったヒロを気にも止めず、ヒウンの視線はヒロから離れ、いまだ降り続く雨へと移ると二度とヒロに向けられる事は無かった。


無常に過ぎ去る視線。言いたい事、伝えたい事は沢山あった。店の中は暖かくて、生姜湯もお汁粉も美味しくて、人の優しさがいっぱいあるのだとヒウンに伝えたい。けれどそのどれもが喉の辺りで固まって、詰まってしまう。

ヒウンにその温かさを教えたい。それでも、伝えたとしてもヒウンは何も口にせず、何も感じないのではないかと思うと喉の塊は重く胃の腑へと下っていく。


手を伸ばせばすぐ届くほど隣に居ながら、けれどもヒロにその手を伸ばす事が出来なかった。

それはきっと、ヒウンが反応を示さないように、外界から切り離された場所に居る気がしてしまったからなのだろう。それが一枚の絵を見ている錯覚を起こさせた要因だとヒロは思った。


自分が居る世界とヒウンが居る世界。二人の間隔は差して離れては居ない。精々2〜3m程度だ。ただ、二人の間には距離とは別の隔たりがある。例え紙一枚の隔たりだったとしても、そこに描かれた絵の向こう側に介入する事は誰にも出来ないのだ。


世界が違う。



今はただ、言い知れね痛みに耐えながら傍らに居る事しかヒロには出来なかった。



どれ程そうして居ただろうか。

気が付けばあれほど鬱々と降り落ちていた雨は細い銀糸へと姿を変え、曇天の切れ目から光の梯子が伸びるように優しい光の帯が降り注いでいた。


垣間見る青い空と金色に輝く雲を見れば、雨が降っていたのはほんの2〜3時間の間だったのだと分かる。

それでもヒロにはとてつもなく長い時間を雨が止むのを待っていたような気がする。


ふと横目に盗み見れば、灰色がかった店の裏の淋しい風景が優しい光を浴びて、それぞれの色を取り戻し一気に賑やかな風合いへと変わっていた。

その視界の中央にいるヒウンも光の所為か、彼の纏う雰囲気の冷たさも三割減っている。


今ならば自分の声も届くのではないか。そう考えたヒロはゆんだ口を開いた。


「ヒウッ」


「……」


けれど、ヒウンの視線がヒロの言葉を遮った。


素早く立ち上がるとヒロを。ヒロの背後を見据えるヒウンの氷色の瞳は、薄氷の鋭い刃の様に光っていた。

その切っ先を、喉元に突き立てられる錯覚を起こしたヒロの身体は反射的に後ろに飛び退いた。


「ンガッ!?グフッ!!」


が、椅子代わりに腰掛けていた空樽に足を捕られ、ほとんど転げ落ちるように後ろへ倒れ両肩で着地した。一瞬で天と地が入れかわる。

きっと、格闘術で倒されたならこんな感じなのだろうと目を白黒させ、ヒロは折れ曲がった喉で短く唸った。そこへ目に鮮やかな色彩が加わる。


「随分と間抜けな格好の出迎えだのぉ」


呆れたような、人を小馬鹿にしたような声音にジャラジャラと不粋な音を織り交ぜて現れたのはゴクウだった。

見上げたヒロと意地悪く嘲るゴクウの目がかち合う。


シシシと失笑を漏らす口元は異様に吊り上がっていた。


「なんだっての!」


その態度の不愉快さに眉根を寄せて訝しむヒロにゴクウはまたシシシと失笑を漏らした。


「威勢が良いのは結構だがの。その格好じゃぁ子猫も逃げん」


三度目の失笑に透かさず立ち上がったヒロはむんずとゴクウに詰め寄った。

文句の十や二十も言ってやろうと顔を赤くしていきり立つ。

けれどゴクウは、米粒一つ分も動じずに肩にかけていた小振りの蛇の目傘をバッと振るってヒロに雫を浴びせ、たじろいだヒロは、慌てて手の甲で顔を拭い雫を払い落として身震いをした。


「ンバッ!?何すんだっての!」


再び詰め寄るヒロの見開いた目は充血し、カッカッと顔を火照らして気炎を揚げる。

しかし、そんなヒロとは対照にゴクウはヒロの頭に手を置いて上機嫌にシシシと笑うが、それが反ってヒロの気持ちを逆撫でした。


「なんなんだっての!大体お前が人を物みたいに投げるからコッチは大変な目に遇ったんだぞ!」


「猫がキャンキャン吠えるなのぉ、戦利品を譲ってやるでの。コレをやるから」


そう言って一息に捲くし立てるヒロの手を取り山賊から巻き上げてきたのだろうジャラジャラ鳴る袋に手を入れて何かを手に渡してきたゴクウは、直ぐにその手を退けて見せた。

ヒンヤリと掌を冷やす感触にそれまで息捲いていたヒロが途端に黙り込み、掌に視線を落とすとそこには古びた懐中時計が乗せられていた。


全体的に酸化して赤茶色に変色した懐中時計は、ザラザラと不快な手触りを伝えてくる。

文字盤を被う蓋は辛うじて開閉するが、時計の針はピクリとも動かない。

ゼンマイを巻こうにも、此方も錆びてしまっているのか動かす事は不可能のようだ。

これらを踏まえた結果からして、ガラクタと呼ぶに相応しい代物。

大体にしてあのゴクウが、タダで譲ると言った物だ。自分が要らないか廃品に違いない。


「いらないっての」


ヒロは時計をゴクウに突き返した。

例えゴミで在ろうと貰ってしまったら最後、後にどんな因縁を付けられるか分かったもんじゃない。はたまた、事ある事に恩着せがましく絡まれる事はゴクウならばやりかねない。その点については絶対の自信があった。


けれどヒロの抵抗などゴクウにしてみれば暖簾に腕押しも同然で軽くあしらわれ、有耶無耶にされてしまった。


そんな事をしている内に気付けばヒウンの姿は店の裏から消えていた。突然の事に頭は混乱し、ヒロはそこに居るはずのヒウンの姿を探したけれど、物音一つ立てずに消えた事実を上手く理解出来ずに固まってしまった。

数秒置いてやっとヒウンが居ない事を認識したヒロは忙しなく視線を動かしてヒウンの居た痕跡を探した。慌てて右往左往するヒロを尻目に「あっ」と呟いたゴクウは、自信有りげな顔で表へと周りヒロも空かさずその後を追った。


雨が止むと同時に、先を急ぐ商人や旅人が待ちかねたように一斉に店を出て街道には人が溢れていた。そんな人々の中へ視線を送り、目を凝らすゴクウを真似ては見たものの、ヒウンらしき人物は見当たらない。

山の街道とあってか雨は上がり、青空が見えてはいるが木の葉から落ちる雫を気にしてなのか皆、笠やフードを深く被っている。何十何百と居る人が皆これでは見付けるのも至難。まして見付けだす相手はヒウンだ。ここからではまず見付からない。

流石のゴクウも諦めたのか、珍しく苦い顔で溜め息を吐くと仕方ないとばかりに頭を乱暴に掻き毟った。




「行くぞ」


一言そう告げると歩き出そうとしたゴクウを呼び止め、店に置いた荷物を持ち頭を下げたヒロはゴクウと共に歩きだした。



先を行く何十と言う人の中からヒウンと同じ背丈の者を探し、そのなかから更に同じ色合いのマントを探す。そこから手当たり次第にそれらしい人物を追うのだが中々どうして見付からない。


「ウワッ!」


「気を付けろのぉ」


加えて足場の悪さ。雨でぬかるんだ道は急げば急ぐほど滑り易く、所々に出来た大小様々な水溜まりを避けながら、人を探すのは一苦労だ。

通常の倍は疲れる。おまけに蒸し暑くなってきた。それでもめげずに捜索を続けて居ると、ふと有る事に気が付いた。

今、ヒロとゴクウは街道に居るが、ヒウンがこんな人通りの多い場所を選ぶのだろうか。ゴクウに着いて探していたが、ヒウンは普段ならば人目を避ける筈だ。だとしたら探すべきはココでは無い。


「なぁ、ゴクウ。俺達探す場所間違ってるぞ!ココにはヒウン居ないと思う」


ヒロはそもそもが間違っていると告げようとしたのだが、肩越しに振り返ったゴクウの顔は呆れたような、馬鹿にしたような、はたまた両方を含んだモノだった。


「お前はのぉ。ほんっとに…」


ゴクウは皆まで言わずに言葉を飲み込んだが、そこまで言えば全てを言ったも同じである。忽ちヒロの頬は膨れ上がった。

そんなヒロを見て見ぬ振りで大袈裟に肩を竦めたゴクウは続けた。


「旧街道を探そうとしてるなら無駄だの。ヒウンはまず居ない」


「なんでだっての!」


遮り気味に食って掛かるヒロに対してゴクウはツイッと顎をしゃくり旧街道がある斜面上を指した。そこにはさして深くは無いがまだ霧が漂っている。

確認したヒロだったがだからどうしたと言いたげにゴクウを睨めば、ゴクウはまた溜め息混じりに肩を竦めた。


「霧がある内は旧街道は使えんの。まだ善からぬ輩が出没する可能性があるでのぉ。それにこっちは木の葉からの雫を気にしてフードを被った奴等が沢山おる。普段であれば目立つヒウンの姿も、今この時は普通の姿だの。己を隠すなら持って来いだのぉ。奴はこんな時こそ人混みにいるんだのぉ」


言われて見れば、笠もマントもしていない自分の方がかえって目立っているように思う。それでもまだヒロには引っ掛かる事が残っていた。

「人目に付きたくない」口数少ななヒウンはそう言っていた。今の現状を見れば確かにヒウンは目立たずに行動出来るだろう。それでも絶対に人目に付かないと言う訳ではない。


そうなるとゴクウの説明よりも、ヒウンの呟きのような一言の方が信用できる。


「やっぱり馬鹿だの!」


「っア゛」


一瞬の目の色の変化を見逃さず、今度はハッキリと言い捨てたゴクウをヒロは空かさず睨み付けた。

今にも掴み掛からんとするヒロに三度呆れたゴクウの溜め息が漏れる。


「お前、奴の旅の目的を忘れた訳じゃあるまいのぉ」


「旅の目的?」


ヒウンの旅。それは幾度となく繰り返された非人道的な実験に依って失われた己の記憶を、同じく実験によってすげ替えられた他人の身体の一部、つまりは誰かの細胞記憶を解放ちつつ己の己足る失った記憶、自分だけの記憶を探し見付けだす為に旅をしている。そのためにはまず蘇った細胞の記憶を辿りその持ち主を捜し、自身の記憶か否かを確かめている。

そしてそれは、未だ見付かって居ない。

そんな事は分かっている。己が見付からないからヒウンは旅を続けているのだ。


「知ってるっての!分かっているっての!」


「じゃぁ、何ぜ人目を嫌う奴がわざわざ人混みや街に出向くのか、人と関わるのかお前に分かるか」


「えっ?」


先程までとはがらりと空気を変えたゴクウの問いにヒロは当惑しそれまでの威勢を失った。

言われて初めて気付いた人目を避ける行動と目的の人捜し。そこには確かな矛盾が存在する。

人目を本当に嫌うのならば、わざわざそんな手間を掛けずとも目的の人を捜す手段は他に沢山ある。旅などしなくてもいいはずだ。

何故。


答えられずにいるヒロに、ゴクウは珍しくヒウンの友としての顔で答えた。


「そもそも、人の記憶なんて物は曖昧だ。時間が経てば忘れたり、自分に都合よく変わったりする。いくら忘れまいとした所でそれでも変わるが記憶ってモンだのぉ。ましてやヒウンのは細胞記憶。頭の中で1〜10まであるモンの1にも満たない極小の記憶の欠片で探さにゃならん。元が自分のモンでも無いそんな記憶が、そう易々と次から次に見えるはずも無い。時間に場所、風景に天候に印象深い人。色々な条件が満ちてやっと見える代物だ。だからヒウンはわざわざだろうが、リスクがあろうが人前に出るんだの。だからヒウンは今、街道にいる。最小限のリスクで人捜しの出来るこの好機にの。遊びじゃないんだの、ヒウンの旅は」


ヒロに答えると言う寄りはゴクウ自身にも言い聞かせているような語りに何も言えなかった。

何より何時もふざけているゴクウの表情がその時ばかりは真剣で、苦虫でも噛み潰したように苦々しく影を落としているのが信用に足る話だと切実に告げていた。


「わかったらさっさと行くぞ」


ゴクウ自身、らしくない事をした後ろめたさがあるのだろう。急かすように言い捨てると小走りでヒウン捜索へ戻っていった。





「アイツ何処まで行ったんだ」


茶屋を出て早1時間が立とうとしている。けれどそれらしい人物の姿は一向に見付からず、ゴクウは右に左に首を振って辺りを注意深くさがし、心なしか焦っているようにも窺ええた。

ゴクウの焦りも少しは分かる。何故ならば往来の人々が徐々に笠やフードを外し始めたのだ。斜面上の旧街道にかかっていた霧も大分薄れて来ている。

けれど、それは代えってヒウンを捜しやすくなると言う事では無いのだろうか。ましてゴクウは暫くヒウンと行動を共にする約束をしていたらしい。多少はぐれたとしても次の町で落ち合えればそれでも良いはずだ。

ただ、それまでゴクウと二人きりと言うのが気が引けてならないヒロは、早くヒウンと合流したい気持ちには心から賛同したい。それにしてもだ。


「ゴクウ、ちょっと歩くの早過ぎだっての、疲れッ!!」


ぬかるむ道に体力の消耗激しいヒロは小休止を申し出ようとしたのだが、言葉半ばで振り返ったゴクウの眼光の鋭さに射ぬかれたように続く言葉を遮られた。

目は口程にとは言うが、今のゴクウのそれは正に「休む暇があったらさっさと捜せ」と言っている。

その迫力たるや、背中の毛が逆立つほどだ。


何がそこまでとも思ったが、同時にらしくないとも感じられる。

これもゴクウの一つの顔。役なのだろうか。





――――


湿った匂いが強まり、頭上には水を限界まで吸ったスポンジのような雲が低い所に止まっていた。やがで辺りは霧に包まれて、とうとう雨が降り始めた。

いち早く駆け出しはしたもののそれでも羽織るマントには僅かな染みが着いた。


旧街道から斜面を駈け下りた先に丁度店屋を見付けたヒウンはそこで雨露を凌ぐ事にした。無論、店に入る気など初めからなく、迷いなく店の裏へ周り置いてあった空樽の一つに軽く腰掛けた。

雨宿りに軒先を借りる人は少なくない。背後では俄かに慌ただしくなった茶屋の営みが聞こえてくる。

ヒウンには少々雑多な場所ではあるが、それも直に気にならなくなることはわかっていた。

更に一段気温が下がり、曇天の空からは本格的に雨が降り出した。音を立て辺り一面灰色に塗り変えた雨は、周囲の雑音を掻き消してくれる。

山からの吹き下ろしはよく冷やされた風で、涼しいを通り越して肌寒さを感じさせる。濡れた服を着ていれば尚一層身体が震えだす。それでもヒウンにはその寒さも意識の外にあった。


「…誰だ」


街道に入ってから微かに感じていた気配が降りしきる雨の中で俄かに強くなった。

訝しむヒウンの問い掛けに応える者は居ない。

何かが足りない。漠然とした認識だけが残り、身体は熱を持ち始めていた。

雨の中で強くなった気配。手掛かりを求めるようにヒウンの視線は降りしきる雨へと向けられた。幾重にも重なった糸のように柔らかく、強固な壁にも見える水滴達を見るでなく眺めていると、不意に名前を呼ばれた。

弱々しいその声音に少し視線を傾ければ、虎の子が手を拱きながら眉尻を下げた情けない表情で此方を伺っていた。

その時、ヒロの姿に覆い被さるように見知らぬ子供が現れた。

一見して4、5歳程度の子供は小さな手で指をモジモジと動かし此方を上目遣いで窺っては小さな小さな声で何かを言っているのだが、雨の所為か上手く聞き取る事は出来なかった。


子供は時折小さな身体をビクンッと跳ね上げ、また衝撃に耐えるように小さな身体を強張らせていた。

再び顔を上げ、此方を伺い見る子供の両目からはこの雨のような大粒の涙が、ポロポロと零れ落ちて行った。

そんな子供の姿を見ていると何故だか胸には鈍い痛が走り、息苦しくて堪らなくなってしまう。何もしていないのに、右手は火照りジンジンと痺れていた。


痛みに気を取られた一瞬の内にその輪郭は曖昧になり、瞬きの後にはヒロの姿に戻っていた。右手の痛みももう無い。息苦しさも、胸の鈍い痛みもない。

ヒウンは誰かの記憶を垣間見たのだ。

記憶垣間見ている間、ヒロは何かを言っていたようにも思う。けれど今見た記憶からすればどうでもいい事に思えた。その証拠にヒロは黙り込み唇を噛み締めている。

ヒロが何の為に来たかは知らないが、用が無いのなら此方としても用は無い。

ヒウンの視線は余韻に浸るようにゆっくりと降りしきる雨へと戻っていった。視界の中を一際大粒の雫が降り落ちていく。それを見た途端、先程の幼子の涙を思い出し、また胸が痛んだが、近くにヒロの気配がある所為か、さほど気にはならずに済んだ。


暫くして不粋な音を立て、刃物独特の臭いをさせてゴクウが現れ、二人がジャレ出すと雨も上がった。


ヒウンは直ぐにその場を離れ街道を進み始めた。

この近くに必ず、記憶を伝えるべき相手がいると分かったから。

ヒウンの鼓動は強く脈打ち、記憶の為に身体が動いた。


「…」



――――


一方、此方は小さないざござが発生しつつあった。

先を急ぎたいゴクウに対し、バテ気味のヒロが足を引っ張り出したのだ。ヒウンの事情を深く知る者と知らざる者。その差が如実に現れている。


「遅いっ」


「仕方ねぇだろ!だいたいもう笠もフードもしてる奴殆ど居ないっての!上見ろ上!アッチも霧が晴れたんだし、旧街道行けばいいだろ!」


ヒロの言う通り、事態は大分改善され、捜索難易度は格段に下がったように見受けられる。それでも代えってゴクウ焦りは増しているようだった。


「手前の所為で間に合わなかったらどうしてくれる!」


「何に?」


ヒロの返答にゴクウは「しまった」と言う顔をして左手で頭を押さえた。焦りと苛つきに何時もの判断力を欠いていた。口悪屋としては大失態だ。ゴクウ自身その事を重々理解してか、眉間に深い皺を寄せた。


「何に?」


普通で有れば、その失態を返上すべく口八丁手八丁で誤魔化すことも容易に出来る。


「何に!!」


しかし相手が馬鹿一直線で、尚且つ変な所だけ素直で聡い奴では取り返しも難しい。


「何に!!!」


それに今のゴクウには一分一秒も惜しい時。下手に騙そうとして時間の浪費はしたくないのだ。


「なっ!にっ!にぃぃぃ!!!」


「ジャカシィんじゃボケェッ!!」


ヒロの餓鬼特有のしつこさは既にゴクウの知るところである。こうなったら最後、有耶無耶にも煙に巻こうにも出来はしない。ゴクウは正直に話す以外の解決策は残されて居なかった。


ガクンと肩を落としたゴクウの口からは、それはそれは大きな溜め息が漏れた。


「いいか。ヒウンは今、何かしらの記憶を思い出したに違いないのぉ」


「エッ!?」


始まったばかりのゴクウの告白。それはヒロの全く予期せぬ物だった。

内容も去る事ながら、ゴクウが何故そんな事を知っているのかにも驚かされた。

ヒウンがそんな話をしていた素振りは無い。ましてやヒウンがそんな話をするはずも無かった。だとしたら。


ヒロの疑問とする点を心得ているゴクウは、けれどソレには触れなかった。何故なら、一々ヒロに合わせていては話が一向に前に進まないからだ。

ゴクウは咳払いを一つして話を続けた。




ゴクウは顎をしゃくり合図した。どうやら移動しながらと言う事らしい。



「ヒウンが何らかの記憶を思い出す時、必ずと言って良いほど兆候が現れる」


「兆候?」


「簡単に言えば癖だのぉ。癖ってのは何気なしに行ってしまう行動って意味合いだが、大概の場合一定だの。つい耳を弄ってしまう。指を鳴らしてしまう。寝ていて歯軋りしてしまう。貧乏揺すりなんかもそれだ。ソイツが無意識でついついやってしまうものだが、大抵の場合、本人が気付いているのと無意識のとで20から多くて50ってのが、大体一人の持ってる癖の数だのぉ。」


確かに、言われて見ればヒロ自身思い当たる節がある。気恥ずかしい時は鼻の下を人差し指で擦ってしまうし、眠くなるとどうしても手の甲で瞼を擦ってしまう。それはヒロが幼少の頃よりそうだった。


「それはあくまで行動で現れる動作であって、気持ちや体質、環境なんかから来る癖もある。そいつはもう少し増えるが、ヒウンの場合、オイが知る限りで100はある」


「ヒャク!?」


その桁違いの量にヒロは目を見開いて驚きを顕にし、ゴクウが知らない物も有るのだと気付き更に目を見開いた。


「そう驚く数じゃないのぉ。普段、奴自身がする癖は常人と比べれば逆に少ない方だのぉ。精々20そこらだ」


それは子供の頃から付き合いのあるゴクウだからこそ知り得る事だった。今のヒロでは5つ見付けるのでも精一杯だ。それでも普段のヒウンの癖の1/4でしか無い。今まで気にも止めていなかった事だとしてもそれだけの差がヒロとゴクウとの間にはある。

ヒロは虚無感に襲われた。


「ココからが本題だの。奴自身の癖が約20。後の80はヒウン自身の癖じゃない。もともとヒウンには無い無意識の行動はヒウン自身がやっている訳ではないんだのぉ」


ヒウン自身のモノではない癖。それはつまり、他人。記憶からくる物と言う事。ヒウン自身気付いていない癖などそんなの分かる訳もない。それでも、だからこそゴクウは気付いたのかも知れない。


「それが、兆候…」


未だ納得仕切れないヒロはゴクウのセリフを借りてゴクウに答えた。それを分かっているからゴクウは頷きもせずフンッと鼻を鳴らした。


納得は出来ないが、それで一つの線は繋がった。その兆候を見逃さなかったゴクウだからこそあんなにも懸命にヒウンを探していたのだ。それなのに自分は、疲れただの休もうなどとゴクウの足を引っ張ってばかりいた。それはそのままヒウンにも言える事だ。兄を探すと勝手に決めて、身勝手にヒウンの旅に同行した。思い返せば自分の所為で色々とヒウンに迷惑をかけていた事に、今更ながら気が付いた。

ヒウンは何も言わないけれど、本当はどう思っているのだろう。ヒウンの事を思い出そうとしても、我の強い自分の我が儘ばかりを思い出す。

ヒウンの事を真剣に見ていなかった。

虚無感はヒロの落胆を餌に肥大して体力を奪い、精神力を奪い、視力を奪っていった。

歩いている筈なのに、前に進んでいる気がしない。ヒウンを探している筈なのに、探し出せる気がしない。前を見ている筈なのに、暗くて何も見えはしない。鉛のように身体が重い。筋肉が延びきったゴムのようで全身が怠い。

それでもゴクウの背中を追うのはヒロに残されて一握りの想いをヒウンに伝える為だった。伝えなければいけない気がしたのだ。


俯いたヒロは火傷しそうなほど熱い目頭を頻りに擦り、涙と共に零れ出ようとするナニかを拒み続けた。


「おいっ!」


それでも否応なく迫る虚無の中にヒロは落ちて行った。


「おいっ!ヒロ!」


遠くでゴクウの叱咤する声が聞えた。それなのに、俯いた顔を上げる事が怖くて避けるようにヒロは自ら虚無の底を目指した。


――――


ヒウンを探し、そして見付けられずに時間だけが虚しく過ぎていき茜色が迫りつつある事に気が付いたゴクウは夜業を覚悟していた。

後数キロ行けば宿屋のある村にたどり着くがそこは一気に人の目が増える場所でもある。そこへヒウンが向かう事も考えたが、現段階ではまだ情報が足りないのではないかとゴクウは思っていた。

今現在の状況は分からないがゴクウがヒウンの癖に気付いた時点ではヒウンはまだ記憶に干渉を受けていないようだった。

ただ、いくらゴクウがヒウンと長く付き合っているからと言っても何時、何処で、何を切っ掛けに記憶の干渉が起こるのかは知るところではない。そればかりはヒウンでなければ分からない事なのだ。


あの場で兆しの現れた事を踏まえれば、6:4でヒウンは村へと向かっている筈だとゴクウは推測する。

確率で行けば村を目指す方が好ましいが、絶対ではない。

即決の出来ぬ問題に、顎に手を当て思案に唸るゴクウは考えを纏めようと瞼を閉じた。すると突然、背負った薬箱をドンッと押され、不意を突かれたゴクウは大きくよろめいてしまった。


流石に転倒する事は無かったが、それでも危なかった事に変わりはない。もし倒れて商売道具に傷でもつけばそれこそ一大事だ。

誰がやったのかなんて見ずとも分かる。振り向きざまに怒鳴り付けてやろうと米噛みに青筋を浮き上がらせたゴクウは、その場でグルリと身体の向きを変えた。


「おいっ!」


身体の向きを変えながら、そこに居るだろうヒロへ怒の籠もった声で威嚇したゴクウは、向き直ったその瞬間から脅し文句で捲くし立てるつもりでいた。


ただ、昔からゴクウにはバカとは反りが合わない節があり、思い通りに事を進められなくなるのだ。


「おいっ!ヒロ!」


今回もそうだった。ゴクウが脅しを掛けるより速くヒロは懐に潜り込みゴクウの胸元に顔を埋めてきた。

予期せぬ行動を取るヒロに一瞬の困惑を見せはしたものの、直ぐに引き剥がしに掛かり、その肩を掴んだのだが、ヒロの様子が何時もと違う。

浅く荒い息遣いが寄りかかる胸に当たり、火照った身体が微かに震えている。まさかヒロにそんな趣味が有ろうとは思いもしなかった。


「おいおい、罵られて興奮するタチだったのか?そうなると接し方を改めてねばならんのぉ。兎に角、道端で発情するのは節度が足りんでのぉ…?」


言って異変に気付いたゴクウはヒロを突き放し、改めて顔と顔を近付け、襟口から懐に手を滑り込ませた。

心拍数の上昇。発汗。水音混じりの鈍い呼吸音。白目に若干の充血。

それらを確認するとゴクウは訝し気な顔で不愉快を顕にした。それは憤りにも通ずる感情。


「発熱あり。脈拍若干の低下。瞳孔の収縮未だ異常見られず。意識は無し……ッチ」


正直に言ってしまえば何故こんな時にだ。それ故悪態もつきたくなる。それは何らかの毒による症状だった。


何故今になってこんな事になるのだと頭を掻き毟ったが、自棄になっては更に事態は悪くなると己に言い聞かせ一先ず路肩へとヒロを引き摺って行った。

濡れた地面に寝かせる訳にもいかず、仕方なく片腕にヒロを抱いたまま長い尻尾を器用に動かし薬箱の一番下の抽斗から紙の束を取出した。薬戸(ヤクト)と書かれたその中身は地図である。

その名が示す通り、旅の医師や薬師が用いる地図であり、普通の物とは少し違う。15cm四方の面には各地の地図が描かれており、地図上には薬を扱う屋が記として記載されていた。

紙の左端にそこでの購入またはその周辺で採取可能な薬や薬草が細かな字で上から下までズラリと書き記されていた。


「えぇ、青観から来てシュカイドウ、シュカイドウ…朱街道豊水」


ペラペラと紙を捲り目当ての一枚を見付けだし、一見すると直ぐ様薬戸を抽斗にしまったゴクウはヒロを抱き上げ、街道を外れて行った。


此処から宿のある村まで残り6キロ弱はある。薬戸によればソコから村内を更に2キロ行った所に薬屋は店を構えているが、それでは遠過ぎる。毒の治療には致命的な距離だ。

ならばとゴクウの向かう先は斜面上の旧街道。薬戸によればそこに薬草の採取や調合を生業にする一家が居るらしい。


望みはそこにしかない。


「クソッ…」


またゴクウの口から悪態が漏れた。何時もならばどんなに商売に夢中になったとしても1つ2つは予備に残して置く。解毒の材料なら尚更だ。だが今は持ち合わせがない。

口悪屋を襲ってきた山賊を懲らしめるため、物理的にも毒を以て毒を制した訳だが、屈強な大男に涙ながらに取り囲まれ、金目の物と引き替えに解毒薬を渡してしまったのだ。

村に着けば手に入るからと高を括って油断した。


「割りに合わんヘマをしたもんだのぉ」


手渡した薬の小瓶を我先にと求めて殴り合いを始めた男達を見下し高笑いしていた自分に、ゴクウは軽蔑と強い後悔の念を抱いた。

口を開けばらしくない己を蔑む言葉ばかりが型を成し出てくる。自分でも驚くほどに。



その後も独り罵声を発しながら人一人を抱き抱え、悪路を馬車馬の如く突き進んだゴクウは、何とか日の入り前に目的の一軒家を見付けだし、転がり込むような勢いで家の中に駆け込んだ。





――――


灯籠に照らされた室内は、一部を除いて足の踏み場も無い程に薬草や調合書などが広げられていた。その所為か、6畳程の室内は青臭さと薬品の匂いが絶妙に複合した空間を作り上げていた。

そんな中で鼻と口を手拭いで覆ったゴクウは額に汗を滲ませながら幾つもの調合書と病理書とを交互に格闘していた。


灯籠の灯りに照らされて尚一層赤々と映える朱色の獣毛は妖艶であり、真剣な面持ちは戦場に向かう騎士と何ら変わらない。


「ウヴ−ッ」


部屋の中央で雑多に占領されずに陣地を主張する白い布団の上に寝かされたヒロが苦痛に顔を歪める。空かさずゴクウは枕元へ移動して、湿らしたタオルでヒロの顔を拭っては額の手拭いを変えてやった。


「苦しみ方に変わりなし。波があり、その周期約半刻。指先に僅かな痙攣あり。その周期上に同じ」


ゴクウはヒロが苦しみ出す度に声に出して症状を読み上げ、それを頭の中で整理していった。

点滴と痛み止めの効果もあり、症状に悪化の兆しは見られないが、同時に改善の兆しも見られない。


そもそも毒が何に依る物なのかが分からないのだ。どの薬草をどれだけ入れるか。どれが有効か有害か。今の症状だけでは非常に難題だと言える。


「失礼。水の代えと新しい蝋燭をお持ちしました」


波の落ち着いたヒロの元を離れ、再び病理書を手に取ったその時。障子の向こうで低い男の声がした。ゴクウはそのまま本に視線を注ぎながら男を部屋へ招き入れた。


障子戸の隙間から黒く節張った指が現れたかと思えば、勢い良く障子戸が弾かれてその先に筋骨隆々の熊人の男が現れた。少々、いや中々の強面の人物だが自分で弾いた障子戸が柱にぶつかる音に肩を跳ね上げると言う愛嬌を見せた。


室内に入ってきた男は豪快ななりとは裏腹に床一面に広がる物を華麗に避けて水と蝋燭を手際よく新しい物へ変えて行き、お茶まで用意した。


「すまんのぉ、急な来客だったのに部屋まで借りて」


一区切りと書類を少し片付け、差し出された湯呑みを受け取るゴクウに対し、男はゴクウが作った場所に座ると頭を軽く左右に振った。


「事が事でしたから、気にしないで下さい。それで彼の容態は?」


「今の所、善くも悪くも変わりなしだの」


「そうですか。外傷は無さそうだし、だとすると口からの毒物接触でしょうね。何か悪い物でも食べたとか、飲んだとか」


男の仮説にゴクウは口に含んだお茶を危うく吹き出す所だった。

思い当たる節はある。今日のヒロは泥団子を口に頬張り、泥水を口にしたりしているのだ。どちらも耳と心の痛いゴクウである。


そんな事とは知らぬ男は、むせるゴクウを心配していた。




――――


ヒロが街道て意識を失った丁度その頃。ヒウンは既に村の内に居た。街道沿いの村だからか人が多く、村自体も中々広い。更にもう暫くで夕食時とあってか村の賑わいは街中と変わらない程だった。

はっきり言って最早町のソレは、それでも村と呼ばれるからには行き交う人の多くが旅の者と言う事なのだろう。


「…」


まるで縁日や初詣を思わせる人混みの中をヒウンは人にぶつかる事無く進んで行く。人目が多くとも、危険が付き纏うとしても。

目的は一つ。全ては記憶の為。


人の波をすり抜け周囲へ隈無く視線を送り、身体の反応を確かめて、何も起きないとみるや直ぐ様場所を変えてまた己の内に問い掛ける。

そうして何回も移動しては内に問い掛け、移動しては内に問い掛けを繰り返し行って居ると、ふとヒウンの身体は熱を増した。

待ちわびた記憶の反応に微かに目の色を変えたヒウンだが何時もの反応とは違う事に気が付いた。

それは額ではなく、一度解放したはずの右肩の細胞からのモノだった。物言わぬ細胞は、それでも何かを伝えようと微かに疼く。

そんな右肩にそっと手をやれば返事をするように独りでにビクリと肩が跳ねた。


「…」


一度解放し眠りに就いたはずの細胞が再び目覚め、何かを伝えようと疼く。そんな時は大概その人と関わりのある誰かに何かが起こっているのだとヒウンは直感的に思っている。一種の虫の知らせだ。


そしてソレはある人物の顔を一瞬の映像として思い浮かばせた。


「…ヒロ」


記憶から呼び起こされた映像のヒロには薄い靄がかかり輪郭をぼやけさせていた。声に出してその名を呼べば自ずと足が動き出し、人混みを擦り抜けるヒウンは踵を返し来た道を戻り始めていた。

未だ求める記憶を呼び起こせてはいないと言うのに、身体が勝手に人混みから離れて行く。意志とは関係なく村の外へと足が動く。

けれどヒウンは身体を勝手に動かすその想いを邪険にする事は無かった。

新たな記憶の反応は無い。ならば今は主張する細胞に身体を預けるのも悪くない。

目指す場所も分からぬまま街道を外れ森へと入ったヒウンは、細胞の想うがままに、身体の赴くままに足を蹴りだした。


頭は冷静に働いている筈だ。心臓は一定に脈打っている筈だ。なのに何故、自分は浮ついているのだろう。意識が身体を置き去りに飛びだそうとするのは何故だろう。

それを示す言葉はヒウンの中には無い。


知らない感情を抱きながらそれでも先を急ぐヒウンは身体の赴くまま、森の奥へと進んでいく。そんな最中、眼前に突如現れた光景にヒウンの視線は釘付けにされた。夜の帳に覆われた漆黒の森。その中に空に在るはずの星星を地上にもたらし無数の光の粒を懐に止めた黒い水。

近付けば辺りに飛沫を飛ばし、空に向かい雄々しく吠えるそれは、ヒウンの身体をピタリと止めた。

見上げる程の大きなそれは暗闇にうねる龍の如き滝だった。周りの全てを呑み込み黒光りするその美しさに目を奪われたヒウン。その美しさに感化されたように身体は熱を増す。映像が頭の中で流れだす。


それはヒウンの求めた誰かの記憶。


声が聞えた。

啜り泣く幼子の声と、割れ鐘の様な大きな怒鳴り声。

痛みを感じた。

掌を剣山で刺したような鋭い痛みと、心臓を鷲掴みされギリギリと握り潰されて行くような苦しい痛み。


映像が切り替わり、想いの断片がヒウンに流れ込んで来た。


「わあぁぁ!」


瞼を閉じ、その想いを受け入れるヒウンの耳に雄々しい悲鳴が割り込んで来た。瞬時に頭上を見上げたヒウンは辺り一面の闇の中でその影を見付けだし、落ち来る影に向かって走りだした。

水圧に押された風は滝の周りを乱舞するもう一頭の龍となり乱れた気流を作り出し、ヒウンのマントは激しく舞った。けれどそのまま苔の生い茂り滑る断崖を手も使わずに駆け上がるヒウンは落ちる影をすれ違い様に捕らえると襲い来る龍にマントを広げ待ち構えた。

影の正体は筋骨隆々とした勇ましい大男だったがヒウンは気にした様子も見せず、滝壺から吹き上げた風を捕まえそのまま頂上へと飛び上がった。


着地の直後、ヒウンの身体は何時もより深く沈んだ。それは落下のショックから気を失ったのだろう大男のズッシリと体格に似合った重さから来ている。それでも荷物でも背負い込むように担ぎ上げたヒウンは、また走りだした。


大男を担いでいる事など忘れてしまう程に、身体が今迄に無い熱を保っている。それは新たな記憶に干渉したからなのだろうか。


――――


再び作業を開始したゴクウは剣呑な面持ちで広げられた複数の薬草を見つめていた。要となる薬草が足りないのだ。

ヒロの頬の獣毛の下に微かな切り傷を見付けたゴクウはソレが矢傷だと瞬時に見抜き、瘡蓋の新しさから昼間の山賊騒ぎで負ったモノだと診察した。となれば、毒物は山賊が良く用いる物だと推察される。


その事を熊人の男、フクに話した所、フクは採ってくると言ってゴクウの制止を無視して日の暮れた山へ独り入って行った。

幼少の頃から山はフクの遊び場で隅から隅まで知り尽くして居ると自慢気に胸を張っていたが、ゴクウにはまだまだ山の本当の恐さを知らずに粋がる子供に見えて仕方なかった。

山は昼と夜とではその表情を一変させる。いくら昼の山がその恩恵を与えてくれる優しさを持っていようと、夜の山は牙を剥く。畏れを忘れた者には特にだ。フクにはそう言った経験から来る厚みが無い。


出ていった者を何時までも心配しても仕方はない。それでも何かあったらと気持ちは浮つく。


「まったくのぉ。何処が10分そこらだのぉ」


帰りの遅いフクに家の者が俄かに騒ぎ出している。遠巻きに聞こえる口論にヤレヤレと言いたげな表情を作ったゴクウは腰を上げ出掛け支度に取り掛かる。


いざっ!と障子戸をあけ広げたその矢先。ドシンッと地が揺さ振られ家が微かに浮き上がった。

地震かはたまた落石かと目を白黒させるゴクウは衣擦れの音に中庭へ目を凝らす。一変して静寂に包まれた風景の中で何かが飛びす去る気配を感じ、夜闇に灯籠の灯りを向けて視線を巡らせた。


「おっ!?フク!」


灯籠に照らされた中庭に横たわる男を見付け、素足のまま駆け寄るとゴクウの声を聞き付けてドタドタと足を踏みならし老夫婦が姿を現し、庭で寝転がるフクを見付けるや否や血相を変えて駆け寄った。


「フク!大丈夫か!オイッフク!」


「フクちゃん。何があったんだい?」


地べたに膝を折り掻い巻き姿の老夫婦は頻りにフクの名を呼んで骨と皮の節張った指で縋るようにその身体にしがみ付き身体を揺らす。余程心配だったのだろうが狼狽が過ぎる。

ゴクウは片手を二人の前に出し制するとフクの胸に耳を当てた。


「…コレはっ!?」


途端に目の色を変えて声を上げたゴクウに老夫婦は固唾を飲んで互いに抱き合うように身を寄せる。


「フ、フクは、フクは大丈夫なのでしょうか」


祈るようなそれで居て不安に消え入りそうな声で二人はゴクウを窺い見る。そんな二人に振り返りゴクウはやや困ったように小首を傾げた。


「コレは、寝てますね。グッスリと」


一瞬、ゴクウの言っている意味を理解出来ないと言った顔で惚けた二人はフクのイビキを聞くやヘナヘナと崩れ、地に両手をついて脱力した。

それにしてもこれだけ周りが騒がしいのに起きる気配を微塵も見せない辺り、何処かの誰かに似ているモノだとゴクウは苦笑する。

フクの手には確りと戦利品が握られていた。


寝ているフクに腕を回し、引き摺りながらやっとの思いで部屋へ上げたゴクウは、寝ながらにさて落とさぬように確りと握りしめられたその手から薬草を受け取った。


「有り難く使わせてもらうでの」


夜の山中で何が合ったのかは知らないが、帰り着くなり寝入ってしまうほどの苦労があったのだろう。

その苦労を労い、ゴクウは手早く薬作りに取り掛かった。


夜陰に揺らめく灯籠は、淡い光で手元を照らす。単調で丁寧な薬卸しの音色が鳴り止んだのは空が白み始めた頃だった。



――――


雪の振るような音が耳元でする。しんしんと人知れず降り積もる雪は音を消すけれど、代わりに煌めく結晶を置いていく。

気付けばそこは見渡す限り一面の雪原へと姿を変えていた。

何も見えないほど暗い訳ではない。だからといって明るい訳でもない。

色も無く、ただただ広いだけの雪原は殺風景で感情を奪い去っていく。


自分は何故、こんな所に居るのだろう。裸一貫でどうやって此処まで来たのだろう。

何も覚えていない。何も思い出せない。

それでも何か大切な物を包み込むように重ねられた両手だけは開いてはいけない気がした。

事態に当惑したヒロは、迷いながらも一歩足を踏み出して見る。

足裏に触れる雪は思ったよりも冷たくは無く、パンケーキの上に振り掛ける粉砂糖よりもサラサラと柔い感触で指の間を擽りながら足を包んだ。

冷たくも無く触れても溶ける事の無い雪の結晶。

普段のヒロならば直ぐ様駆け出してその感触に笑い転げて喜んだに違いない。なのに今は何故だがそんな気が起こらない。自然と尻尾は股の間で縮み上がり、嬉々とした感情は身を隠して寧ろ怯えているようだった。


降り積もる雪の柔さは底が無く、何処までも沈み込んで行きそうな気がした。そしてそのまま沈んで行った先でヒロを待ち構えて居るのは突き立つ氷の刃達なのだろう。

今、目に見える雪原の何処かに其処へ通じる穴がある。歩きだせば必ず底の抜ける場所がある。

何処を歩けばそんな危険を回避出来るのか教えてくれる足跡は無い。

安全に進む為の道標になる物が何一つ無い雪原でヒロはただその場に立ち竦む事しか出来なかった。


握りしめた手の中にその答えが在るのは分かっている。でもソレを覗いてはいけないと直感で悟った。

覗いたらきっと踏み出さなければいけなくなる。今いる場所から先へと進まなくてはいけなくなる。

ヒロにはまだ踏み出す力が無い。

今はまだ、色の無い空を見上げるだけで精一杯なのだ。


そうしてる間にも、しんしんと音も無く新たな雪が降り出した。

やがて降り積もると知りながら、ヒロは瞼を閉じた。



耳元で音がした。小鳥の羽ばたきのような軽い音に薄目を開けたヒロは、そこに有るはずの空と木漏れ日の漏れる梢を探すが見付ける事が出来なかった。

目に写るのは古ぼけて黒っぽくなった木目板と太い梁。何処にも小鳥など居ない。

ムンズッと上半身を起こし手の甲で2度3度目を擦ったヒロは忽ちギョッとした。

白い布団で寝ていた自分の周りは、足の踏み場も無いほどビッシリと紙や本、得体の知れない草等が敷き詰められていた。

気付けば着ていた服も見覚えの無い薄手の手術着のようだ。

知らない場所で、自分が寝ている内に何か取り返しのつかない事をされたのではとヒロの顔からは一気に血の気が引いていった。

誘拐に孤児の売り飛ばし、臓器売買。不吉な言葉が頭の中をグルグルと巡り、薄手の手術着らしき服を脱ぎ捨ててスッポンポンの姿で全身を隈無く確認しては手術跡は無いか、付いてるモノが無くなってはいないかと目の色を変えて必死になった。


けれど、何処も弄られた形跡は無く、付いてるモノもちゃんと付いている。身体に異常も見られずに1、2年前から恒例となった下腹部の朝の硬直も変わり無い。ジフ曰く。健康な男子の証拠だと言っていた。ソレを信じるならば自分は健康だと言える。

ホッと胸を撫で下ろしたヒロが自分の服を探して室内を見回そうとしたその瞬間。障子戸に人影が映り、かと思えば次の瞬間には障子戸は弾かれたように開け放たれた。


「…」


「……」


「………」


「………」


いきなり現れた熊人の大男とヒロは無言のまま見つめ合い、互いに何が起きて居るのか解らないと言った顔で硬直した。





山賊に襲われ、なんとか逃げるも矢に塗られた毒に倒れたヒロ。

そのヒロを介抱するためゴクウは、薬作りを生業にする家に転がり込んだ。

一方、ヒウンは記憶の目覚めを感じ、独り記憶の主の関係者を探していた。


下 に続く。



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