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cell memory # 03 《彼が見た虚構》

己を探す旅を続けるヒウン。その旅に着いてきたヒロの二人は峠を越えて港町にたどり着いた。

二人はそこで派手な男と出会う。


記憶を探す冒険ファンタジー




《彼が見た虚構》



山を一つ越えた峠道。眼下に広がるは陽光煌めく白と青。



遠巻きに見た風景に、逸る気持ちを押さえ切れないのか、幼子のようにはしゃぐ少年。

傍らにはそれを疎まし気に見やる者がいた。

けれど少年はそんな視線に気付きもせずに、浮足立つ。


「ワップッ!」


浮かれついでに小石に蹴躓き、見事な転倒を見せる彼に、連れの男が冷ややかな視線を送る。


「ッテェ…」


転倒の際、身体を庇って擦り剥いた手。掌に出来た擦過瘴からは薄らと血が滲んでいた。

少年は掌に息を吹き掛け、ヒリヒリと痛む傷口を冷やす。

潤んだ瞳を頭上に向ければ、蔑み 見下す冷ややかな視線と交じり合った。


ばつが悪いのか、少年は視線を反らし、誤魔化す為か、鼻を啜った。


「…」


無愛想な彼は、慰めや心配の言葉を投げ掛けるでもなく、ただ視線を送る。


ふと深緑のマントの中から手が伸びて少年に近付いて行く。それに気付いた少年も、照れ臭そうに自分の手を彼に差し出した。

けれどその手を捕まれる事はなく、男の手は少年の前を通り越し、少年の転ぶ原因となった小石を拾い上げると、小石と共にマントの中に腕を戻し何事も無かったかのように少年の横を通り過ぎて行く。


少年は何が起きたのか理解出来ず、押し寄せる羞恥に顔を真赤に染め上げた。


「何でだこの野郎!」


威勢よく立ち上がった少年は、別の石を掌に収め、立ち去ろうとする彼へ力一杯ソレを投げ付けた。

八つ当りにも近い攻撃に、石は彼の後頭部に目がけて飛んでいく。

人瞬きにそれを目視した少年は、思わぬ石の進行にドキリと肩を跳ね上げた。


「ヒウッ」


慌てた少年が叫ぶのと略同時に、ゴンッと鈍い音が少年の耳に届き、少年はさも自分に石が当たったかの様に痛みに顔を歪め顔を反らす。瞼を固く閉じ、出来心に奥歯を食い縛った。


それでも心配になったのか、少年は恐る恐る彼の様子を伺い見た。

すると、彼は振り返りもせず飛び来る石を手中に収めており、そのまま石を投げ捨てた。

胸を撫で下ろした少年は、振り向いた彼の眼光に、再び肩を跳ね上げる。


「…」


物言わぬ彼に、少年は更に畏縮し膝をガクガクと震わせてしまう。


「…悪かった…ての」


威圧に堪らず少年の視線は逃げるように宙を泳ぎ、謝罪の言葉も尻窄みに消えていってしまう。

そのままばつの悪さから外方を向いた。


「…」


「…」


「…」


「…」


「…ヒロ」


「はい」


漸く口を開いた彼の第一声が、自分の名であった事に少年は何かを悟ったように背筋を伸ばし足を揃え、吹き出した汗がとめどなく流れ落ちる。

強ばる身体とは裏腹に、瞳孔は開いて行く。最早、言い訳すら思いつかない。

蛇に睨まれた蛙が如く、少年は男の次の言葉を待った。

けれど。


「…気を付けろ」


「…ヘッ」


予期せぬ彼の言葉に、少年は口をあんぐりと開け、情けなく声を漏らすしてしまう。自分の聞き間違えではと耳を疑う少年を余所に、再び歩きだした彼。遅れてその後に続く少年は、彼の言葉の意味を推測し、頭をひねり思案にふける。

彼の言葉には感情が殆ど含まれていない。ただただ平淡で薄っぺらい。それ故に、何を言おうとしているのかが分かりにくく、怒っているのか、そうでないのか、全くわからなくなる。


「ワップッ!」


うーうーと唸りながら歩みを進める少年は、己の不注意に再び見事な転倒を披露して、前を行く男は再び冷ややかな視線を送り、その眼光に微かな呆れの光を宿すのだった。


――――



そんなこんなで二人が辿り着いた町は、磯の香りに満ちていた。

大通りを行き交う人々は、どれも見馴れぬ衣服を身に纏い、重た気な荷を担いでいる。

皆、商人や旅人なのだろう。この町の住人で無い事は一目瞭然である。理由をあげるとすれば、見た目に違いがある。


この町は所謂、港町であり町の住人の殆どが燦々と照りつける陽光と、潮焼けによって黒々としているか、海水に浸かる仕事をしているからか、毛が脱色していた。

また、獣人は獣毛が短い。男達の殆どが漁を生業としている為に体付きもガッシリとした筋肉質なのだ。

皆が皆そんな身体では恥ずかしさなど無いのだろう。殆ど裸に近い格好で、堂々と町中を歩いていた。



そんな町中を、半ば興奮気味に歩く少年。ヒロは、右に左に忙しなく首を動かした。お上りさん丸出しだ。


何を隠そう、ヒロは生まれてこの方本物の海と言う物を見たことがない。

照りつける太陽、煌めく白波、磯の香りと、琥珀色に輝く砂浜。

見るもの、感じるもの、全てが新鮮で心が踊る。


「…」


そんなヒロの様子を背後から見るでもなく見ていたヒウンは、見上げた看板に足を止め、スッと消えるように路地へと入って行った。


一つ路地へ入れば、大通りの喧騒が遠巻きに聞こえ、港町特有の民家が立ち並ぶ。その中に一軒、調和を乱すように建つ煉瓦造りの建物が存在した。

傾いた看板には、金物屋と書かれており店先には漁で使うであろう銛や、5cmはある釣り針等が並べられていた。

けれどヒウンはそれらに目もくれず、店の裏に周り躊躇する事なく裏口の扉を開け店内へと入って行った。


扉を開けると硝子製のドアベルがリンリンと風鈴のような涼やかな音を店内に響かせて、人の出入を知らせる。

ヒウンが扉を閉めると同時に、暖簾を潜り屈強な熊人の大男が姿を現した。店の印が施された前掛けを着用したその姿に、この店の主である事は明白だ。明らかに親方と呼ばれる貫禄を纏っている。


「らっしゃい」


熊人の男は渋い声を響かせてヒウンを横目に見ると、棚の中を漁り、受け皿やルーペ等をてきぱきとカウンターの上に用意した。

その迅速な行動に、よくある事なのだと伺える。


カウンターに歩み寄ったヒウンは、深緑のマントの中からぎっしりと詰まった見るからに重た気な麻作りの子袋を取出し、袋の口を縛る紐を解く。そこから5つばかりの小石を受け皿の中へ転がした。


店主は受け皿を引き寄せると、早速ルーペ片手に石を拾い上げ目を細めた。節くれた太くゴツイ指を器用に操り、慎重に石の表面を見る店主だが、端から見れば異様な光景だ。店主の手の大きさの所為もあり、硝子玉ほどの小石が米粒の様に見えてしまう。店主の腕力を持ってすれば小石などいともたやすく粉砕してしまえるだろう。



険しい表情のまま、店主は次の石へと手を伸ばす。そうして全ての石を吟味した後、店主は受け皿を持ち天秤の前に移動し、小石の重さを見定める。それが終れば片手で帳簿に筆を走らせ事細かに記入していった。


受け皿を持ち再びカウンターに戻った店主は、別の受け皿に金貨6枚と銀貨4枚を乗せヒウンの前に突き出した。



金貨1枚に銀貨10枚の価値があり、銅貨100枚の価値がある。

パン1斤が銅貨5枚であると考えれば如何に高額であるか分かる。


「小ぶりだが質はいい。これでどうだ」


「…」


ヒウンは頷きもせず、差し出された両をその懐にしまい店主に背を向けた。


「ご贔屓に」


ヒウンに投げ掛けた店主の言葉は、扉の閉まる音とベルの涼やかな音に呑み込まれ、空間に溶け入るように消えていった。


店主はヒウンの出ていった扉を見据え、感慨深げに息を吐く。

それは、子を持つ親ならではの心境からくるのだろう。

見立てからヒウンの歳を推測し、十三、四頃と当たりを付ける。

眼光に宿る冷たさに、ヒウンが纏う静けさが、語らずとも彼の生い立ちの断片を映し出し、心を騒つかせる。


店主もまた、ヒウンとは異なる意味の見る目をもっている。

それは、長らく接客業をやってきた言わば観察眼だ。

少年が持ち得る筈のない目を持つヒウンに、それを持つと言う意味すらも知らぬ無垢で無知な少年に心を痛めずにはいられなかった。

涙腺が緩みそうになるのを堪えて、それでもと店主はつい、渡す両に色を付けた。


それが店主に出来る精一杯のヒウンへの励ましだったのだ。


店主は目の奥に熱いものを感じながら、いつまでも扉を見つめていた。


――――


大通りは人の往来でごった返し、昼の漁を終える時刻も重なり人口密度が急激に増していた。

そんな中を黒毛に黄縞の虎人の少年はすいすいと人の壁をすり抜けていく。

そこは街の子だ。人混みには慣れている。

だが、既にヒウンとはぐれている事など、本人は全く気付いていない。


ヒロは目を爛々と輝かせながら先へ先へと進む。

そんなヒロの耳に威勢の良い物売りの声が聞えてきた。

妙に引き寄せられる不思議な声に足を向ければ、往来をせき止めるように路上に大きな人集りが出来ていた。

どうやら声はその人垣の向こうから訊こえてくる。

ヒロは人垣の僅かな隙間に無理矢理身体を押し込み、グイグイ人垣の先へ進んで行った。

やっとの思いで人垣の先頭までやってくると、声の主が姿を現した。

紅色の布地に細やかな金の刺繍を施した派手な衣装を身に纏う、猿獣人が朱色の獣毛を陽光に光らせていた。


今にも大道芸を披露しそうな格好をした猿獣人の男に、ヒロの目はより一層の輝きを増した。


しかし男は一向に芸を披露せず、ただただ口上を述べるのみ。

次第にヒロの目の輝きが鈍くなりだす。


ヒロは別の店へ行こうとしたその時、男は路上に置いた縦長の薬箱の引き出しを開け、中から小さな瓶を取出し、更に短剣を構えて見せた。



その光景に、ヒロの目は光を取り戻し、これから何が起こるのか、期待に胸を膨らませた。




「さぁさぁお立ち会い!ご用とお急ぎでない方はゆっくりと聞いておいで。お次は滅多に手に入らない珍品だ!」


男は先程よりも更に声を張り上げ手にした小瓶を天高く突き上げる。


皆がその小瓶に視線を注ぎ、男は皆の意識が十分に引き付いた所を見計らい、ドンと地面を踏みならした。


「遠出山越え笠のうち、聞かざる時は物の白黒出方善悪がとんと分からない、山寺の鐘がゴーンゴーンと鳴ると言いども、童子来って鐘にしゅもくを当てざればとんとカネの音色がわからない。サテお立ち会い!

手前ここに取りいだしたるは明峰名高い山に住まうガマの油、ガマと申してもただのガマとガマが違う、これより北、北は神山のふもとは、おんばこと云う露草をくろうて育った四六のガマ、四六五六はどこで見分ける。

前足の指が四本、後足の指が六本合わせて四六のガマ、山中深く分け入って捕いましたるこのガマを四面鏡ばりの箱に入れるときは、ガマはおのが姿の鏡に映るを見て驚き、タラーリタラーリと油汗を流す、これをすきとり柳の小枝にて、三七二十一日間、トローリトローリと煮つめましたるがこのガマの油。この油の効能は、ひびにあかぎれ、しもやけの妙薬、まだある、大の男の七転八倒する虫歯の痛みもぴたりと止まる、まだある出痔いぼ痔、はしり痔、はれもの一切!」


男はくるりくるりと身を翻し、まるで舞踊るように動きながら口上を述べる。その熱の籠もる語りに、訊いている者は全て息をするのも忘れているようだった。

まるで催眠術にでもかかったかのように。


男は尚も続ける。

今度は短刀を天高く突き上げる。そして懐から紙を取出し、短刀でザクザクと切りはじめた。


「そればかりか刃物の切れ味を止める。取り出したるは夏なお寒き氷の刃、1枚の紙が2枚、2枚の紙が4枚、4枚の紙が8枚、8枚の紙が16枚、16枚が30と2枚、32枚が64枚、64枚が一束と28枚、ほれこの通り、ふっとちらせば暮雪は雪降りのすがた。」


男は切りに切った紙を威勢よく天に向けて放り投げる。頭上高くに舞い上がった紙は、一陣の風に煽られ、男を取り囲む人垣にヒラヒラと舞い降りた。


陽光に照らされた紙吹雪きが、幻想的な光景に見え、誰もが口をあんぐりと開け、上を見上げた。そこへ飛び込んで来た足踏み音に、皆の視線が男に戻り、その瞬間に皆は息を呑み、声にならない悲鳴を上げた。


男は、刀の刃を力強く握り締め、掌を何度も斬り付けていたのだ。驚愕にもの言えなくなった人々を余所に、男は口上を続ける。


「これなる名高い刀も一たびこのガマの油をつける時はたちまち切れ味が止まる、おしてもひいても切れはせぬ。」


もう何度斬り付けて事だろう。皆がヒヤヒヤと息を呑む中、男が掌を開き皆に見せ付けた。そこには切り傷は愚か血一滴もついてはいない。

かわりに男が見栄をきり、人垣の中から自然と拍手が漏れだした。



「云うてもなまくらになったのではない、この様にきれいにふきとるときは元の切れ味となる。サーテお立ち合い!この様にガマの油の効能が分ったら遠慮は無用だ、どしどし買って行きやがれ!今なら銀貨2枚だ!」


男は拍手を浴びながら、後ろに隠していた風呂敷包みを足元に広げ、現れた小瓶の山を両手で掬い上げた。


一瞬きの静寂の後、耳をつんざくような雄叫びにヒロは堪らず耳を塞いだ。

それは人集りが一斉に声を上げたからだ。

俺も俺もと手を伸ばし、狂ったように小瓶を求める者達。出遅れたヒロは何処か遠巻きにその光景を見ていた。



小瓶は正に飛ぶように売れていき、あっという間にその数を減らしていく。


ヒロは我に返り、慌てて財布を探るが、財布の中にはそんな大金入っていない。

そんな事をしているうちに、小瓶は数える程に無くなっていく。

焦るヒロは一つの名案にたどり着き、振り向いた。が、首を右に左に動かして自分がヒウンとはぐれた事に漸く気付いく。


その間に小瓶は全て売れてしまい、人垣は幻のように一瞬で消えてしまった。


気付けば売り子の男ももう居ない。ヒロはぽつんと為す術なくただ呆然と立ち尽くした。



ここに何時までもたっている訳にもいかない。ヒロは後ろ髪を引かれながらもヒウンを探すため来た道を戻った。



――――



人も疎らな裏路地を、大きな風呂敷包み担いだ男が鼻歌混じりに悠々と歩く。

今にもはち切れそうな風呂敷からは男が歩く度にジャラリジャラリと細かな音を鳴らす。


そこへ影が一つ歩み寄る。男はその影に気付き足を止めると、背後にもう一つ影が男に歩み寄ってきた。


「お兄さん、荷物が重そうだな」


「手伝ってやろうか?」


現れたのは衣服をだらしなく着崩した二人組だった。二人組は男の行く手を阻むように立ちふさがるとニヤリと薄い笑みを浮かべる。


明らかに怪しい二人組に、男は柔らかい笑みを浮かべ一礼する。


「これはこれは、ご親切に。今時珍しいお兄さん方だ。善き心根をお持ちのようで」


男はニコニコと満面の笑みを見せもう一度深々と頭を下げる。

その様子に二人組は顔を見合せニタリと笑い頷き合う。


「いやいやなんの」


「礼には及ばねぇよ。さぁ貸しな」


背後の一人が手を伸ばし、風呂敷包みに手をかける。けれど男が振り向いた所為で風呂敷はツルリとその手を交わす。


「おっとっと」


余程中身が重いのか、男はバランスを崩し、勢いそのままにもう一人にぶつかった。


「ッテェ!何しやがる」


「これはこれはすみません。ちょいと小石に躓きまして」


男は謝罪の色を顔に出し、深く頭を下げた。一拍置いて顔を上げれば、重さに耐え切れず後ろに転がりそうになる。

転がるまいと後退れば何かを思い切り踏み付けた。


「ッテェェェッ」


野太い悲鳴に振り向けば、全体重をかけて足を踏み付けていた。


「これはこれは申し訳ない」


男はひょいと足をどけ頭をさげるが、足を押える男には見えていないようだった。


「テメェわざとやってるだろ!いいからソレよこせ!」


痺れを切らした男が乱暴に風呂敷包みを奪い取ると中を確認しようと結び目に手をかける。


「あぁあぁ、止めた方がいいですよ。中身は薬が入っております。下手に開けたら大変な事になりますよ」


男は慌てて制止するが二人組は彼の言葉に聞く耳持たず、一気に風呂敷包みを開いた。


期待に胸膨らまし、覗き込んだ二人は、けれど中身を目視する事は無かった。


「イテェイテェヨ!」


男達は情けない声を上げ、両目を掌で覆いながら地べたを転げ回る。


そんな二人組を遠巻きに見ていた男は呆れているとも心配しているとも言える表情を浮かべていた。


「だから止めなさいと言ったのに。この中身は劇薬でして、無闇やたらと触ったらいけないのです」


男はそう言いながら風呂敷を包み直すとヒョイと担ぎ上げ、ゴロゴロと地べたを転げ回る男たちの顔を覗き込んだ。


「どれどれ、あぁこれはいけない」


男の声音が変わった事に男達は痛みに悶えながら冷や汗を流し、不安の色を滲ませた。


真赤に腫れた瞼の間から覗く眼球は酷く充血し、止まらぬ涙で目の周りをびっしょりと濡らしている。


「ちょいと失礼」


彼は男達の懐を漁ると手拭いを拝借し、薬箱から竹筒に入った液体で手拭いを濡らし男達に手渡した。


「これで目の周りを拭き、直ぐに目を洗った方が良いですね、早くしないと失明してしまいます」


それを訊くやいなや男達は狂ったように手拭いを奪い目の周りをゴシゴシ拭き、慌てふためく。


「生憎、今は薬を切らしております。直ぐに医者にかかって下さい」


「畜生!」


男達は罵声を吐き捨て、よろよろフラフラと裏路地を木箱やら生ゴミやらにぶつかり散らかしながら走り去っていく。


男達の背中を見送る彼は心配そうに顔を歪めたかと思えば、ゆっくりと不適に口角を持ち上げた。


「まいどあり」


まるで仮面でも被っていたのではと思えるほど変貌した男は、手に持った小袋を天高く放り投げ、再び手中に納めた。

男はお手玉でもするようにポンポンと投げては納め投げては納めを繰り返す。小袋はその度にチャリンと軽い金属音を響かせた。


言わずもがな、それは男達の物だが、彼に悪怯れた所は全くない。


「高々、辛子の粉であの狂い、いやいや傑作、傑作。ミイラ取りがミイラに、コレ如何に」


彼は風呂敷包みに細工をしていた。それはある一定の法則で解かねば唐辛子の粉が吹き出す様になっていた。無理矢理開けば、先程の男達の様になる。

彼は含む笑いをこらえて、再び歩き出す。



裏路地を抜け、連なる出店には目もくれず男が入ったのは銀行。


男は店員に挨拶そこそこに通帳を見せた。すると店員はすかさず満目の笑みで男を個室に案内し、何度もへこへこと頭を下げる。男はそんな顔をする輩が大嫌いだった。




案内された個室には、所狭しと高価な美術品が飾られ、部屋の中央には革製の高級ソファーが置かれていた。

男はためらいも無くそのソファーにドカリと腰掛け、運ばれて来た高級焼き菓子と金で装飾されたカップに注がれた珈琲を口に運んだ。


「お待たせいたし申し訳ありません」


程なくしてやってきた初老の男は彼にヘコヘコ頭を下げる。

きっちりと整った服装に、丁寧な物言いから察するに、お偉いさんだと一目でわかる。


男は手形帖を手渡し、風呂敷包みの封を解き中のぶつを受け渡せば、数分後には多額の記載された手形帖を受け取り店を出た。

玄関先まで盛大に見送られた男は何が不満だったのか微かにフンッと鼻を鳴らし人込みの中へ消えていった。





――――



喧騒の中に一際響く声が入り混じる。飲み屋を覗けば、昼間だというのに大の大人が酒を片手に褌一丁で大騒ぎしている。擦れの混じる声音は喧騒の中にあっても良く通る。どうやら仕事を終えた漁師達の様だ。この時間帯から町の様子は徐々に変わり、地元民の生活感が現れるようになっていった。


大通りを行き交う商人達はその数を減らし、地元民の姿が増えていく。

そんな中を右に左に忙しなく視線を送るヒロが居た。

ヒロは人込みに、路地にと注意深く視線を送り、些細な情報を見逃すまいと窺い見る。けれどヒウンの姿はどこにもなく、あてもないまま時間だけが過ぎて行った。


「いない…」


ヒロは力なく息を吐くとうなだれて言った。

きた道をヒウンを探しながら戻り、町の入口まで来たがそれらしい人の姿は見当たらない。


不意に泳がせた視線の先に路地へと続く道がある。ヒロはもしやと思い、往来する人々の間を潜り、狭い路地へと足を踏み入れた。


「ングッ」


「ッテェ!」


路地裏へ入って直ぐの角を右に曲がった途端、ヒロは人にぶつかり、ぶつかった相手と共に鈍い声を漏らした。

鼻を押さえながらも、謝罪の言葉を述べようと顔を上げたヒロは、胸倉を捕まれた事に驚き、言葉を呑み込んだ。


「何処見てんだガキ!」


いきなり罵声を浴びせられ、その上、胸倉まで捕まれた事に、ヒロは謝罪の言葉など忘れて米噛みに青筋を立てて相手を睨み付けた。

見れば素行の悪そうな男だ。


言い返してやろうかと思ったヒロだったが、男の顔を見るやいなや吹き出してしまった。


「謝りもしねぇで何笑ってんだ!」


ヒロの態度が気に食わない男は尚も怒鳴り散らすが、ヒロはそれが可笑しくて笑いが止まらない。それどころか男が吠えれば吠えるほどヒロの笑い声が路地に響いた。


何故ヒロが笑ってしまうのか、それは男の顔が悲惨な事になっているからだ。

目は赤く充血し、目蓋は腫れ紫色に、涙に鼻水、涎と顔から出るものは全て垂れ流し、唇にいたっては原型がわからないほど腫れ上がり、男が喋る度にプルプルと揺れ動く。それなりに整った顔をしているだけに、余計に不恰好で可笑しく思えた。


ヒロは怒りなど忘れ押さえる事無く笑い続けた。結果、男はわなわなと身体を震わせて青筋を立てた。


「ふざけやがって!」


「ブハッ!!」


震える男の震える唇をネタに笑っていたヒロは、男の影から現れたもう一人の男を見て大きく吹き出した。

その男もまた、酷い顔をしている。

ヒロは不意に増えた愉快な仲間に腹を抱え、たがが外れたように爆笑した。


ヒッヒッと荒い呼吸をして涙を流すヒロを男達は睨み付け、ヒロの胸倉から手を離すと民家の壁に無造作に立て掛けられていた銛を手に、振りかぶった。


笑いながらも不味いと思ったヒロは、チャカの先を男達に向け、指先に気を送るのだが、笑ってしまう為に気は散漫になり、上手く気泡を作れずにいた。


その間に、男達は振り上げた銛を勢い良くヒロに向けて振り下ろた。一気に笑いの引いたヒロは慌てて腕を顔の前で交際して衝撃を防ぐ体勢をとった。


けれど男達の攻撃が一向に訪れない事に不思議に思い、腕の隙間から男達を見ると、男達は青冷めた表情でピタリと動きを止めていた。


ピクリとも動かない男達に、時間が止まっているのかと錯覚を起こしたヒロだったが、背後から近付いて来る足音にその考え方を捨てた。


背後の足音が止まれば、直ぐ後ろに人の気配を感じ、ヒロは頭を後ろに仰け反らせ背後に立つ人物を窺いみた。


ヒロはその見覚えのある男を見てハッと息を呑む。

見間違える筈も無い。派手な服装に朱色の獣毛がよく栄える薬屋だった。


薬屋はそれに気付いたのかヒロに視線を送ると、ヒロの肩にポンと手を乗せ、そのままヒロを庇う様に前に歩み出た。

薬屋の背負う縦長の薬箱には大小様々な抽き出しが並んでいる。箱の中身がカラカラと軽い音を奏でていた。


薬屋は何を言うでもなく懐に手を偲ばせ、おもむろに折り畳まれた風呂敷包みを取り出すと男達に向けて放り投げた。

フワリと上がった風呂敷包みに男達は肩を跳ね上げ、引きつった表情を見せると銛を放り出し、血相を変え、走りだした。

去りゆく姿は正に文字通り。尻尾を巻いて逃げて行った。


ヒロはその様子をポカンと見つめ、何が起こったのかわからないで、ただただ立ち尽くした。


「怪我は」


身を翻した薬屋は穏やかな口調でヒロの身を案じた。


「あっ、大丈夫」


呆然と立ち尽くしていたヒロは薬屋の問いに気の抜けた声で答えた。


不可解な出来事にヒロの目は自然と男達の去った路地へと向けられ、その様子を見た薬屋は小さく鼻で笑う。

ヒロは自分が笑われたのだと思い、薬屋を見上げたが、彼は風呂敷包みを振って見せた。


「風呂敷が恐かったのかね」


薬屋は何かを隠す様に片方の口角を上げて笑った。

ただの風呂敷包みを何故恐がったのか、ヒロには皆目見当がつかない。


小首を傾げたヒロは、視界の端に揺れる影を見て、一瞬に再び路地へ目を向けた。

道の奥、薄暗い路地に深緑の布地が揺れた。


「ヒウン!」


「!?」


路地裏にヒロの声が反響し、空気を揺らした。

深緑のマントに、フードを深々と被った男は、その声に顔を上げた。表情までは見えないが片目を隠す眼帯をヒロは確りと確認した。

安堵の表情を見せるヒロ傍らで、薬屋は眉根を寄せていた。


「一人でウロチョロするなよ!迷ったら、」


急ぎ駆け寄ろうとしたヒロは、隣から聞こえたガタンッと落とすように置いた薬箱の音に驚き振り返った。


そこには穏やかに笑う薬屋の姿は無く、青筋を立て、怒りの形相で離れたヒウンを睨み付ける男がいた。


薬屋の余りの変わりようにヒロは言葉を無くし、生唾を飲んだ。


薬屋の背後で何が蠢く。それは器用に薬箱の金具を掴み、小さな引き出しをスルリと引き抜いて箱の中身を巻き取った。

器用に動くそれは、特定の猿獣人特有の尻尾だった。


朱色の獣毛が鮮やかな、細く長い尻尾はしなやかな動きを見せる。巻き取った物を器用に回転させ、彼自身の右手に握らせた。


ヒロは彼が手にした物を一度見ているだけに、彼しようとしている事にいち早く気付いた。

けれど止める間も無く、薬屋は鞘から刀心を抜き出すと、脱兎の如くヒウン目がけて駆け出した。


ヒウンは猛然と迫る男を前に、尚もゆっくりと歩みを進めている。

男の姿が見えていない訳がないのにも関わらず眉一つ動かさない。


あっという間に二人の距離は縮み、薬屋はここぞとばかりに腕を前に突き出した。

切っ先がヒウンの喉元目がけて伸びていく。そこで漸くヒウンが動きを見せた。


マントの中から右手を出すと、手の甲で薬屋の手首をポンッと押し退け、腕の軌道をずらし刃を躱す。

切っ先は空を切り、首すれすれを掠め行く。けれど、薬屋は一瞬にして小刀を指で回し持ち変えて、再び首を狙い腕を曲げた。

しかし紙一重の所で薬屋の腕が動きを止める。

見れば薬屋の肘にヒウンの拳が収まり動きを止めていた。

ヒウンはそのまま薬屋の前腕を押し払い、続け様に薬屋の右肩に掌底を浴びせ、その衝撃に薬屋の身体はグンッと後ろに退け添いた。



薬屋は少しよろめいたが、しなやかな動きで即座に体勢を立て直し、直ぐ様ヒウンに飛び掛かる。

空中で身体を回転させ、遠心力を加えた斬撃を繰り出す。

それをヒウンは右手一つで受け、薬屋の左手を弾き上げた。

衝撃に小刀が手から滑り落ち、地面に突き刺さる。

けれど小刀を失ったと言うのに薬屋は、片方の口角を上げニタリと笑うと空中で下半身をグルンと半回転させた。するとヒウン目がけてしなる尻尾が鞭の如く襲いかかる。

それすらも右手でガッチリと掴むヒウン。ピタリと急停止した尻尾は、けれど捕まれた所から先をグンッとしならせヒウンの顔面目がけて何かを投げ付けた。

ヒウンが一瞬に目視それは小刀を納める鞘。


放たれた鞘は、弦に弾かれた矢のような速度で的確にヒウンの右目を狙って来た。

直撃すれば確実に眼球は潰れるだろうそれをヒウンは瞬時に避けて見せた。


的を失った鞘は路地裏に置かれた水瓶を割り、ガシャンと耳障りな音を響かせた。


薬屋は着地と同時に小さく舌打ちすると首元に押しあてられた手刀に気付き、怪訝な表情を浮かべ両手を高々と上げた。


二人の攻防を遠巻きに見ていたヒロは、未だ事象が飲み込めないでいた。

オロオロと戸惑いながらも頭を過るヒウンの言葉。

「…俺の旅は危険だ。俺はいつ狙われても可笑しくない」

あれはこう言う事だったのか。狂言では無かったのかとヒロは冷や汗を流した。


遠巻きに見ていたヒロは急に怖くなり、足早にヒウンの元へ駆け寄った。

ヒウンの表情は何時もと同じ無表情で、何処も変わってはいない。けれど表情が無い事が恐かった。


表情が無いと言うのは白と似ている。なんの不純物も含まない純白。けれど一滴でも他の色が混ざってしまえば、立ち所に色を変えてしまう。

表情が無い事が、相手の心根一つでヒウンを善にも悪にも変えて見せる。

今のヒウンはヒロの中で色を濁していく。ヒロの中でヒウンは返り血を浴びていた。


忽ち薬屋の首を刎ねてしまいそうなヒウンがスッと腕を引き、手刀をマントの中へと納めた。


路地裏の人殺現場を目撃せずに済んだと、ヒロは一つため息を吐いて安堵の表情をみせる。けれど疑問が残ったままだと気付き、ヒロは薬屋に視線を移した。

何故、薬屋はヒウンを襲ったのか。ヒロが疑問を投げ掛けるより早く、薬屋は両手を下ろし、落ちた小刀と鞘を拾い刀心を収めると、フードに隠れた顔を伺い軽く鼻を鳴らした。


「変わらんのぉ」


「…」


「ご挨拶なこって」



先程までの怒気は何処へやら、薬屋はヒウンと向き合いやれやれと言いたげに肩を竦めた。

ヒウンに対し親しげに振る舞う薬屋。こうなって来るとヒロはますます訳がわからない。


目玉をキョロキョロ動かし、薬屋とヒウンを何度も見比べる。眼球を動かし過ぎて目が回ったヒロを図ったかのように薬屋が鼻で笑う。


「飯行くか。おごってやんよ」


そう言って背を向けた薬屋に、ヒウンは無言のまま薬屋の背を追った。

既にヒロの頭は容量一杯で何かを消去しなければ考えもまとまらない。そうこうしている内に二人は路地の角を曲がっていった。


「だから!置いてくなっての!」

先に行ってしまう二人の背を追いヒロは小走りで路地を抜けた。





「先ずは乾杯といきますか」


褌と漁師服の男達が犇めく店内は密度が高く、ムンムンとした熱気が立ち込めていた。

お客でぎゅうぎゅう詰めの店内を、店の印が刺繍された前掛けを付けた猫人の女性が駆け回り、注文を執ったり、空のジョッキを片付けたりと忙しないく働いている。


店の奥の壁際に衝立てで仕切られた座敷席が三つあり、その一番端の席にヒウン達は通された。

席に着くなり薬屋は手を上げ、透かさずやってきた店員に品書きの中を指差しで注文をする。

暫くして運ばれてきたグラスを受け取ると、薬屋は立ち上がりグラスを高らかに掲げ言った。

けれども続いて手を上げる物はいない。


薬屋が見下ろすとヒロはグラスを両手で包み、ポカンとした顔で薬屋を見上げ、ヒウンに至ってはグラスにすら手をつけていなかった。

薬屋は肩を竦め大きく溜め息を吐き、もう一度手を上げる。けれど誰一人グラスを上げようとはしない。


「ヒウン!乾杯だ乾杯!…ウッ」


「…」


ヒロは兎も角、グラスを持たないヒウンに無理やりグラスを押し付けた薬屋をヒウンは冷めた眼差しを突き刺した。

「何が面白い」と言わんばかりの眼差しに薬屋は、一瞬硬直し、苦笑いを浮かべた。


「ですよね…」


小さく呟くように言った薬屋は、音もなく席に着いた。

程なく料理がテーブルに並べられ、薬屋は手で召し上がれと合図して見せた。

出来たての唐揚げが匂を纏って湯気を上げ、魚のあんかけがキラキラ光る。更に漁師町だけあって舟盛りからは新鮮な魚介類の刺身がプリプリと見た目にも身を躍らせていた。


ヒロは生唾をゴクリと飲み下し、口から溢れた分を手の甲で拭い、食欲を堪えた。

手を出したいのは山々なのだが、話を訊かなくては折角の飯も旨くないと思えた。


「ちょっといいか」


「んっ?」


問い掛けに薬屋は唐揚げ頬張りながら方眉を持ち上げヒロを見た。

片足は胡坐をかき、片膝を立てそこに肘を置き飯を食う姿は、白昼の路上で見た薬屋とは別人に思えるほど素行が悪かった。


「あの、えっと、」


「あぁ」


ヒロは何から訊けば良いのか分からず、言葉を探した。けれど薬屋は何かを察したように唐揚げをゴクリと呑み込み、パンッと自分の膝を叩き、大袈裟に腕を振り見得を切る。


「自己紹介がまだだの。では一つ!古今東西さらには南北、ひいては名も無き島々までも、金に成るなら何処へでも、旅から旅へと根なし草。

五悪畏れぬ五悪道。口悪説くあくせつを生業に、有為転変ういてんぺんを謳歌せし。

“口悪屋、ゴクウ”が俺の名よ!」


ドンッと胸を叩き、薬屋はニヤリと口角を持ち上げる。その笑みは薬屋の本性を表すように黒かった。


「えっと…クアクさん?」


口上が難しい過ぎてか、ヒロは首を傾げ訊ねるように声をだせば、薬屋はガクリと転けてテーブルを揺らした。


「お前…オイはゴクウだ」


薬屋は何かを言い掛けたが、諦めたのか溜め息を一つ吐き、半ば諦めたようにガクリと肩を落とした。

あぁ、と頷いたヒロは質問を続ける。


「ゴクウ、さんは、ヒウンとどういった関係で?」


「んっ?あー…」


ヒロの問にゴクウはまた一つ唐揚げを頬張り、モゴモゴと口を動かしながら間を置いた。言葉を探しているのか視線を宙に泳がせて、ブツブツ言いながら時に首を左右に振った。

ヒロは彼の答えを待ち、真剣な眼差しを注いだ。

漸く探し当てたゴクウが「うん」と頷く。


「幼馴染み且つ親友だの」


考えぬいたゴクウの答えに、ヒロは耳を疑った。

言葉の意味を何度も頭の中で繰り返し、間違った理解はしていないかと記憶まで辿り、頭を抱えた。

次第に言葉の意味どうこうではなく、幼馴染みとは何だっけ。親友とは何だっけ。と言葉自体がわからなくなり、ヒロの思考はゲシュタルト崩壊の末に停止した。

その間抜け顔が堪らなく滑稽で、ゴクウはゲラゲラと笑った。


「で、お前、名前は」


一頻り笑ったゴクウは、目に浮ぶ涙を拭い、顎をしゃくる。


「ヒロ」


「ふぅん。で、なんでまたコイツと」


ゴクウは視線をヒロに向けたまま、次はヒウンを顎で差す。

ゴクウの云わんとする事はヒロにも分かる。ヒロは横目にヒウンを見た。

人を寄せ付けず、会話も成り立たない。

他人の事を何とも思わず、他人の事には無関心。人を傷付ける事にも躊躇しない。

言動すべてに刺がある。

そんな奴と何故、行動を共にしているのかとゴクウは訊きたいのだとヒロは思った。


ヒロは視線をヒウンからゴクウへと移すと、ヒウンとの出会いから今に至るまでの経緯を語った。


「へぇ、正直に話すか」


ヒロの話を聞き終えたゴクウは膝を支えに頬杖を着き、左眉と左口角を持ち上げて意地悪げに笑った。


ゴクウにとって話しの内容はどうでも良かったのだろう。ただヒロが嘘をつくか正直に話すか、それが見たかっただけのように思えた。


そんなゴクウの態度にヒロは自分が馬鹿にされている様に感じ、頭に血を上らせた。


気の強いヒロが、何も言わない訳もなく、ゴクウに噛み付こうとテーブルを叩くのと同時に、ヒウンが立ち上がり背を向けた。


「行くのか」


「…」


「まぁ待てよ、オラ」


立ち去ろうとするヒウンにゴクウは四つ折りにした紙切れをヒウンの背に投げつける。

それを振り返りもせずに右の手中に収めたヒウンは、横目でゴクウを睨んだ。


「…」


「オイの泊まってる宿屋の場所だ。店主には口利きしといてやるから後で来いの」


「…」


ゴクウはやれやれと肩を竦め、ヒウンは再び立ち去ろうと混雑する店内を出入口へと歩いて行く。


「俺も…」


「待ちな」


ヒウンの後を追おうと席を立ちかけたヒロをゴクウは止めた。


「オイの奢りを無下にする気か。お前はゆっくり食ってけの」


「でも…」


心配そうに眉根を寄せ、ヒウンの後ろ姿を目で追うヒロに、ゴクウは刺身を頬張りながら目を閉じて鼻を軽く鳴らした。


「心配しなくもアイツは来るよ。それより腹減ってんだろ、鱈腹くってけ」


「…ん、うん」


ゴクウに気をとられてる内にヒウンの姿は見えなくなり、ヒロは仕方なく席に戻り箸を伸ばした。


「やっぱ手を付けねぇか」


「え?」


独りごち、息を吐くゴクウに、ヒロは顔を向けた。それに気付いたのか、ゴクウは困ったような、呆れたような顔で苦笑いしてヒロに返した。


「アイツは他人の手が加わった物、詰まりは調理され物は絶対に口にしねぇんだの。極端な話し一瞬でも誰かが触るともう喰わない。パンも米も。喰うのは自分で採ったもんだけ」


「他人が…一瞬でも…」


ゴクウの言葉に、ヒロは自分の手を見つめた。


「でも…魚…」


「ん?」


自分の手を見つめたまま、ヒロが呟くと、ゴクウは小首を傾げた。


「前に、ヒウンが捕って来た魚、生で食えってよこして。俺、無理で」


「うん」


たどたどしく話すヒロに、ゴクウは頭に疑問符を浮かべたまま聞き入った。


「自分の、焼いたら、ヒウンが不思議そうに見てて、焼いてやったら、食っ、たんだけど…」


「…」


ヒロが視線を上げ、ゴクウを見れば、ゴクウは目を真ん丸にしてヒロを見返した。


「へぇ」


暫し固まっていたゴクウが正気を取り戻すと、テーブルに並べられた料理を見て感慨深げに呟き、意地悪げに笑うと頬杖をついたまま小首を傾げてヒロを見た。


「お前も、存外変わってるの」


ゴクウはそう言って目を細め、別人のような柔らかな表情を見せた。

性悪な人だと思っていたゴクウの意外な一面を見た気がして、ヒロはドキリと肩を跳ね上げた。


けれど、少し、切なさを含むゴクウの瞳は、人知れぬ所。


定員の女性が、提灯を店の軒先に取り付け火を灯す。

町はいよいよ暗くなる。



「ありがとうございました」


店を後にする二人の背中に猫人女性の元気な声が掛けられた。


一歩店の外に出てみれば、温かみある提灯の灯りで町は橙色に染まっていた。

ずらりと並ぶ提灯は一つ一つ異なり、図柄や大きさ、形にいたるまで様々だ。まるで祭に来たような感覚に、自ずと気分は高揚する。


大通りは昼間の比では無いほど賑やいだ。趣のある雰囲気に人々は陽気に心を弾ませる。

提灯を見ていると、胸がポカポカと温まる。時間さえゆったりと流れていた。


二千を優に超える提灯の織り成す光景にヒロは言葉無く魅入った。

歩幅は自然と小さくなり、ゆっくりと歩みを進め、忘れない様にと脳裏にその光景を焼き付けた。


言葉を失うほどの光景を見入るヒロの隣で、ゴクウはフッと鼻を鳴らし肩を竦める。


「そんなんだからアイツとはぐれるんだの。行くぞ」


わざわざ一言付け加えるゴクウにヒロは折角の雰囲気を壊されたと言わんばかりに眉間に皴を寄せた。

それをまた意地悪い笑みで返すゴクウに、ヒロは頬を膨らませた。


客を前にするとしないとでは、ゴクウは全くもって別人である。



夜空と提灯の淡い光が織り成す幻想的な光景を前に、ゴクウは大きな薬箱を背に、軽い足取りですたすたと歩みを進める。その間一向に風景を見ようとも、楽しもうともしない。


足早に歩みを進めたゴクウは、門一つ越えた先の、華やかな外観に優美な提灯を幾つも飾る、3階建ての豪勢な一軒の軒先で歩みを止め、暖簾を潜った。

とても宿屋には見えない雰囲気にヒロは思わず顔を顰め、暫し軒先で手をこまねいていると、細い腕がスウッと暖簾を押し退けて、店の中から艶やかな赤い蝶の刺繍された着物を身に纏う白狐獣人の女が姿を現し、ヒロの前に歩み出ると、しなやかな動きで一礼をした。


「おつれ様が中でお待ちです。どうぞ」


気品のある女の艶色な姿に優しげな声。促されるままヒロは恐る恐る暖簾を潜り店内に足を踏み入れた。途端に眩いばかりの光景が飛び込んでくる。


晃晃と照らされた提灯の灯りに、柱はどれも朱色に染められ、至るところで女性の笑い声や楽器の音が聞えている。

店内は驚くほど広々とし、店内に川まで流れている。


見たことも無い光景にヒロは呆け、目を瞬かせた。

隣で女が着物の袖で口元を隠してクスリと笑う。


「ちんまいお連れとは言うとりましたが、こげん愛らしいお子とは存じませんした。ほんに無垢な子を連れ込むなんて、野暮なお方でありんすな」


クスリと笑う女の後を追い朱色の橋を渡ると上へ続く階段が現れ、ヒロは女に案内されるまま階段を上り、着いた3階段は全て襖で仕切られた個室になっていて全部で15部屋は有りそうた。

女はスルスルと着物の裾を擦りながら廊下を歩いて行く。

女が足を止めたのは突き当たりの一室だ。


「おつれ様が参りんした」


「おぉ、へぇんな」


女の声に返された返事は紛れもなくゴクウの物だった。

女はそれを合図に膝を折り、廊下に正座するとそっと襖を開け、ヒロに入るよう促した。

慣れない接客にドキマギしながら室内に入ったヒロは再び目を瞬き呆けてしまう。

広さもさることながら、内装のなんと艶気の満ちた事。


そんな室内の真ん中で、片膝を立て支えにし、酒を煽るゴクウがいた。

ゴクウはクッと盃を持ち上げ、酒を飲み干し、未だ呆けるヒロを見て片方の眉と口角を持ち上げ意地悪い笑みを拵えた。


「スズナ」


ゴクウはヒロの後ろで正座する白狐の女の名を呼んだ。透かさず女は「はい」と返すと熱っぽい眼差しでゴクウを見返した。


「床の用意は出来ておりんす。お召し物の代えは、いかがなさいましょう」


白狐の女、スズナは、ゴクウとヒロを交互に見やりゴクウに問う。呆けていたヒロは自身を見渡し汚れていないから、いらないと告げると二人は同時に吹き出した。


「何も泊まるだけだ、嬲つもりもありゃしねぇの。下がれ」


「畏まりました。ご用と、お供が必要なればお呼び下さいなんし」


そう言ってスズナは襖を閉め去っていった。ヒロは何を笑われたのかわからず小首を傾げていた。


「ここって…宿屋、じゃないよな」


ゴクウに背を向けたままヒロは確認するように独りごちると、ゴクウは鼻で笑って一蹴した。



「お前、ヒロだったな。ヒロは艶場は初めてか」


「…つやば?」


「その様子じゃしらないようだの。女も、男も」


ゴクウは盃に並々と酒を注ぎ、また一気に飲み干して、開放たれた格子窓から外を見て鼻を鳴らす。


「食わず嫌いは勿体ないの。知らねば分からぬ事もある。男も女も知ってなきゃどちらがいいかもわからねぇの」


そういってゴクウはまた意地悪く笑って見せた。



ゴクウの向かいに腰を下ろしはしたものの、右に左に顔を振るヒロ。ゴクウは落ち着きのない幼子を見ているようで、堪らずシシと笑みを漏らし、盃を盆に置いた。


「ここは遊廓だ。宿屋じゃねぇから誂えも珍しいだろ」


「遊廓…」


ゴクウの言葉を反復し、惚けた顔で暫し固まるヒロ。恐らくは頭の中で少ない知識の引き出しを懸命に漁っているのだろう。

漸く見付けた知識の断片を片手に、ヒロは忽ち目を丸くした。


「遊廓っ!!?」


ヒロが唖然とした表情になるのも無理は無く、地域によっても様々だが、原則として遊廓に足を踏み入れる事が出来るのは十八を過ぎた男性と決められていた。

ただし、特例も幾つかあった。

医者、坊主、薬屋等の商人に限り、出入りを許されていた。

けれど十八やそこらでいっぱしの名を持つ者は少なく、稀に居る者達も奇異の目で見られる事が多かった。



ヒロの出身地には遊廓は無く、ましてや十八を迎えていないヒロにとって、知識の中だけでしか無かった場所に自分が居る事に、酷く困惑しているようだった。


彼女すら出来た事が無いと言うのに、玄人を相手に一晩明かさなくてはいけないのか。何をどうするべきかと、勘違いな妄想で最高潮のパニックを起こすヒロを、ゴクウは他人事だと、意地悪く笑う。


「考えが表情で筒抜けだの」


言葉としては口にしないものの、意味合いの中に、阿呆と言わんばかりの色を含むゴクウに、本日何度目か知れぬ苛立ちを顔に出したヒロは、食って掛かろうかと牙を剥き出し睨みを利かせる。

けれども、頃合いを見計らったかの様に、部屋の襖越しに「ごめん下さい」と声がかかり、開かれた襖の向こうに頭を下げるガタイの大きな女性がいた。


「久しくお待ちしておりました。ゴクウの若旦那」


「イワセの女将か、なにようだのぉ」


男と見間違える程、ガタイの良過ぎる体格のこの女性。この遊廓の女主人なのだろう。並々ならぬ貫禄を醸し出していた。

女将の腕は昼間見た、漁師達と同等太さと筋肉を保持し、胴回りに至っては、ヒロを2人分。いや、下手をすれば3人分はある立派なものだった。


女将はその腹を大きく揺らし、ズカズカと室内に入って来た。

その背後で、襖が一人でにしまる。よくよく見れば、女将の陰に隠れてもう一人、女性が立っていた。特別小柄な女性な訳ではない。ただただ女将がデカ過ぎるのだ。身長は180もありそうな女将だ。

女将の綺羅美やかな着物に刺繍された白銀の白鳥が、何故だろうか。ヒロの目にはアヒルに見えてしまう。


女将はゴクウの前に出ると三つ指をつき、女将から一歩後ろで女性も同様に頭を下げた。


「この度は、よくぞ我が芍薬屋にお越し下さいました」


女将は野太い声でゴクウに丁寧な挨拶をする。


「あい、ご丁寧に。だが女将よ。いつも通りでかまわねぇよ。剛毅な母親口調でたのむの」


ゴクウは薄ら笑いを口元に讃えたまま女将に言った。それを訊いた女将はコロリと態度と口調を変えて豪快に大口を開けてガハハと笑った。


「他の客も居るからね、表では一応しおらしくしてねぇとねぇ」


再びガハハと笑う女将を見て、どの辺がしおらしくなのかとヒロは思った。


女将の挨拶が終わると、自分の後ろの女性を前に出した。


「早速で申し訳ないけど、この子をちょいと診ておくれ」


チョイと柔らかに会釈をした女性は少し躊躇いながら裾をめくり、あれよあれよと生足を露にしていく。

艶めかしく、淑やかに指を動かし、チョロチョロと着物の裾を持ち上げて、裾は焦らす様に足首、脛、膝と順を追って上がる。


もっとチャッチャと出来ないモノかと思う一方で、自分でもわからない気の向上をヒロは確かに感じていた。

ただ、まだまだヒロには色気、色恋云々は遠いのか、妖艶な色に毒気を覚え、気分を悪くしたようだった。

サッと顔を背けたヒロを女将が笑う。


そうこうしている内に女性の着物は太ももの付け根近くまではだけていた。そこには美しい華奢な足には似つかわしくない、生傷が二つある。


「これは」


唸るゴクウに女将が言った。


「行儀の悪い客にやられたのさ。手前の技術が乏しいから声の一つも訊けないってのに、強姦擬いに腰振りやがって、挙句にガブリさ。タクッ、猪豚野郎が」


事の成り行きを説明しながら、その光景を思い出したのだろう。女将は米噛みに青筋を立てて荒い鼻息でフンッと一蹴した。

女性の太ももに、牙の痛々しい傷口がパッカリと開いていた。


「だけどこの子は最後まで声一つ上げなかったよ」


女将は女性の頭をヨシヨシと優しく撫で、労を労った。女性は着物の袖を口元に当てフフフと笑った。


「花を散らす悪僧に、花が語らう訳もござんせん。例え苦界に咲く花とは言えど、意地もござんすよ。最も語らったとて悪僧に花の言葉は届かないでござんしょう」


「まったくだのぉ」


女性の話にゴクウは笑いながら頷いた。その手には薬箱から取り出した細い針と糸握られていた。


ゴクウは傷口の大きさを確認しながら、躊躇い無く針を刺しスッスッと傷口を縫合していった。


麻酔もしていないと言うのに女性はさして痛がる素振りも見せず、傷口が縫い合わされる様子を見てクスリと笑う余裕まであった。


忽ち二つの傷口は縫い上がり、もう何処に傷口があったのかわからない。

ゴクウは糸を結ぶと針を屑籠に放り込み、再び薬箱から取り出した薬を塗って、残りを女性に手渡した。


「一日二、三回これを塗れば二週間で傷口は塞がるだろうのぉ。糸は獣毛に合わせたからの、野暮な奴にゃわかりゃしないのぉ」


女性は薬を両手で握りしめながら熱っぽくゴクウの双眼を魅入っていた。

それに気付いてか、気付かずにか。ゴクウは薬箱の小さな戸口を引き出した。引き出されたのは細長い箱。中身は色とりどり、形もそれぞれの簪達。

その中から一つを取り出すと、ゴクウはそっとお串に刺した。


「例え苦界に咲く花とて、月光の下に咲く花は綺麗なもんだのぉ。そんな花には蝶が似合いよ。ホレこの通り」


ゴクウは壁に掛かった鏡を手に、女性の前に片膝をつくと鏡に女性の姿を映した。

琥珀色の簪に一羽の赤い蝶が羽を休めている。小さな蝶なのだが、優雅に見えるのは何故だろうか。


ゴクウに魅入っていた女性は止めを刺され、首を真っ赤に染め上げた。

その様子を目の端で見ていたヒロは浮いた歯をガチガチ言わせて身震いした。


「全く。花に色を使うんじゃないよ。ろくに買いもしない癖に!うちの娘子共は何人あんたに毒されてると思ってんだい」


その様子を見ていた女将も野太い声を少し裏返しつつヤレヤレと肩をすくめた。


「いくらボッたくるつもりだい」


女将の口からは遂に本音が零れ落ちた。


「いいじゃねぇか。どうせ猪豚野郎から、たんと巻き上げているんだろうのぉ」


空かさず返したゴクウに女将は一瞬眉根を寄せたものの、ガハハと盛大に笑った。


「確かにね。いつものを買ってもお釣が来るよ」


「はいよ、いつもの。十つ一吊しを三つだの」


ゴクウはそれを合図に薬箱の数ある引き出しの一つを抜き出し、中身を手に取った。

橙色の薄い和紙で包まれた、何とも見事なそれは、和紙の繊維が光を受け、葉脈のように見て取れる。本物と見間違えてしまいそうな、装飾品に見えた。

光を透かして見れば、それ自体が光を放っているようにさえ見える。

まるで小さな提灯の連なりだ。


興味深げに魅入る視線に気付いたゴクウはクスリと笑い、ヒロの手に一つ落とした。

受け取るやいなや、ヒロはそれを灯りに照らし、繊細な作りに目を輝かせた。よくよく見れば和紙の中に宝石のように輝く玉がある。


「綺麗だ」


「それはな、鬼灯ってぇ植物の果実を模したものでの、薬の一つだの」


ゴクウは薄い和紙を破り、中にある玉を取り出して掌で転がしながら言った。

コロコロと転がる玉は蝋燭の淡い光を浴び、橙色に輝いた。

ますます宝石のように輝く玉は、とても薬とは思えない。


「鬼灯ってぇのは、一般的には咳止めに使われる。だけどもそれはこっちだの」


そう言ってゴクウは別の引き出しを開け、中から同じ様な薄い和紙作りの鬼灯を取り出して見せた。

ただ、違うのは和紙の色。

ゴクウが手にしている鬼灯の和紙は芽息吹いたばかりの若葉のように、鮮やかな薄鶯色をしていた。


包みを開ければ中の玉は緑柱石のように光沢を放っていた。


「鬼灯のもう一つの効力を抽出、濃縮した薬。それは、堕胎剤だの」


「だたい…えっ」


目玉に入りそうなほど顔を近付けていたヒロは、手をつん伸ばし、身体を仰け反らせた。

橙色の玉は、反動でヒロの指先へとコロコロと転がって行った。


「因みに、相場は一つで銅貨30から40枚だの」


「ンゲンチョ!」


金額を聞くや否や、ヒロは体勢を立て直したが、橙色の玉は指先からポロリと転がり落ちた。

慌てふためきながらも何とか床に触れる前に受け止める事に成功したヒロは、ホッと胸を撫で下ろす。


割れ物を扱うように、慎重に両手で玉を包み込んだヒロは早急にゴクウへ手渡した。


「…チッ」


一瞬。ゴクウの顔に影が落ち、つまらなそうな表情を浮かべた気がしたが、気のせいだと。見なかった事にしようとヒロは首を振り、後退りでゴクウから離れた。


グシャリ。足裏から伝わる飴玉とも角砂糖とも似た潰れる感覚に、ヒロの背筋に冷や汗が滴る。

足を退かして確認するのが恐ろしい。けれど、また別のモノという可能もある。ゴクウを見れば、女と愉快気に言葉を交わし、気付いてはいない。


機はここぞと一抹の不安と希望を抱えながら、恐る恐る足を退かしたヒロは、無残に潰れ、光沢も形も失ったただの鶯色の残骸を見て言葉を失った。

ハッと見上げれば先程まで話しに花を咲かせていたゴクウが、ヒロに笑顔を向けて静に佇んでいる。


言葉は無く、ただただ優しく。柔らかい空気を纏うゴクウが、逆に無性に恐ろしかった。

ヒロの額に脂汗がジットリと滲んだ。


「ち、違うんだっての!これは!」


弁解を求めるヒロに、ゴクウはにこやかに首を縦に静に揺らす。


「大丈夫。そっちは安いからのぉ。気にするな。わざとじゃ無いんだしの」


「そ、そう、そう」


ビクビクドキドキするヒロに、ゴクウは咎める言葉を放たない。芯から優しく、ヒロを気遣う声音にヒロはただ頷き同意した。

ゴクウはヒロに近付き、砕けた薬丸を綺麗に片付けると、ビクビクするヒロの肩に優しく手を乗せた。


「大丈夫大丈夫。高々銅貨10枚の薬だの。分割払いで構わないからの。本来あるはずの利子まで請求するつもりは無いから安心しろのぉ」


ゴクウは慈愛に満ちた笑顔のまま言った。ヒロは顔中の穴から出るものを全て出して静に笑った。

女将と女性の笑い声が遠巻きに聞こえて来た。





「値は張るがあんたん所のが一番だ。若いのに大した腕だよ」


女将はゴクウの薬を褒め、ゴクウは万更でも無さそうに口角を上げた。


未だ熱い視線を送る女性はゴクウに近寄り、腕にしなだり掛かる。


「ほんに立派な御腕で。絡み合いとうござんす。声の一つもお聞かせしとうありんしたが、魅入るばかりで鳴かせてももらえんした。いけずなお方」


そんなこんなで暫くの後。女将と女性は部屋を出ていった。

去り際に女性が簪に触れながら振り向いた。


「良いものをありがとうござんす。姉様方に自慢いたしんす」


本当に嬉しそうに笑う女性にゴクウはフッと息を漏らすと軽く首を左右に振った。


「悪いがの。簪の数がないんだのぉ。ここは一つご内密に」


口の前で指を一本立てて小さく口角を上げたゴクウに女性はチョンと会釈をした。

この時、何故ゴクウが嘘をついたのかヒロには分からなかった。

一瞬ではあったけれど、引き出しの中を見た限り、簪は二、三十本は入っていた。

遊廓にはそんなに女性が居るのかと、ヒロは小首を傾げた。


笑い声が止み、女将と女性の足音が聞こえなくなると、室内は妙に静まり返った。




広い部屋の片隅で角に向かい合い膝を抱えて丸くなる物体は、一人ブツブツと今後の返済に思いを巡らせた。その姿を見てゴクウは左の口の端と眉とを持ち上げてシシシッと意地悪く笑った。


そもそも。こんな偏屈な奴とヒウンが親友だと言うのがヒロには信用し難い。

変人と云う括りの中に居る二人だが、一方は無言、無関心、無表情。もう一方は口悪、素悪、意地悪。この真逆に近い二人が、どうやって親友の地位を築く事が出来ると云うのか。


今更ながら、ヒロは自分が騙されたのではと疑い始めた。

肩越しにゴクウを見る目付きも自然と険しいものになる。


「シシッ。つくづくオイの嫌いな目をするのぉ」


視線に気付いたゴクウは横目にヒロを見やり、意地悪く笑う。

のらりくらりする態度。幾つもの雰囲気を場に合わせ使い分ける術。正体を隠す表情と云う仮面。

実体が掴めない相手だけに、ヒロは警戒し、同時に恐れを抱いた。


ゴクウはもう一度ヒロを横目に見るとシシッと笑い、まるで独りごちる様に話しはじめた。


「オイは薬の調合から生成まで一人でするが口悪屋よ。ただ薬屋ってぇ面を持って表に出てるんだの」


「…ただの嘘つきって事だろ」


「ただの嘘と一緒にしないでもらいたいのぉ」


ゴクウはわざとらしく頬を脹らませ、口を尖らせて見せた。


「前にも云ったがオイは五悪畏れぬ口悪屋。そこらの法螺吹きとは訳が違うってもんよ。嘘とは言われた他人だけじゃなく、言った本人も囚われる、言わば奈落。泥の船。共に沈む覚悟のいる代物さ。言ったが最後、自白しても信用を失い、自白しなけりゃ一生嘘を突き通すか、いつバレルかとドキドキハラハラとしてなきゃならねぇ。覚悟がねえのに嘘つく輩も沢山いるが、何時かは足元掬われる。自業自得の馬鹿共だ。覚悟がねえなら嘘つくなっての」


ゴクウは意味深にシシシッと笑ってから目を光らせる。

朱色の瞳が蝋燭の灯りに照らされて怪しく揺れている。


「口悪も嘘の一種。けれども違う。口悪屋は、嘘を誠として。嘘を幻として扱うのよ。己を嘘と同化させ、変化させ、嘘に成り切る。いわば役者と演目よ。口八丁に手八丁とはよく言ったもんだのぉ。口悪屋は口先だけでは成り立たない。信用させる為に勉強し、技術を身に付け、役を己の物とする。己の力量を見誤らぬ事。出来ない事はしない事。過信しない事。素を表に出さぬ事。瞬時に状況を把握し、相手を見抜く事。此等が出来ての口悪屋だ。深く広く知識を物にし、嘘に呑まれぬ強靭な精神と覚悟を要する。嘘をも食らうが口悪屋だ。因みにオイの役は、薬屋の他に医者もあるのぉ」


ゴクウが何を言っているのかヒロにはわからなかった。それはゴクウを快く受け止める事が出来ないからなのかもしれない。なにより嘘をつく事を、人を騙す事をなんとも思わないばかりか正当化さえしているゴクウが、ヒロは理解し難い。


ただ、彼が役と称して演じた薬屋の薬も、医者としての腕も実力があり、信用もあった。

それ程の実力と知識をもっているのなら、口悪屋などという詐欺師じみた事をしなくてもと考えを巡らせるヒロに、ゴクウは聡く告げる。


「正直者じゃぁ有為転変は謳歌できんからのぉ」


ゴクウの笑みが苦く歪む。彼自身に何があったのか、今の彼に訊くのは気が引けた。


場の空気が重たくなるのを拒んだヒロは、話を変えようと口を開いた。けれど声を出す間もなく部屋の襖がバッと開放たれた。


見やれば20人は居るだろう艶やかな着物姿の女性がドッと室内に流れ込んでゴクウを取り囲んだ。


「訊きましたえゴクウ様。私にも簪を一本お刺し下さいなんし」


「姉様に頼まれんした。椿の飾りはありんすか?」


「遊び言葉を訊きとうありんす」


女性達は、皆口々に簪を求め、ゴクウの腕や服を引っ張り、襟元に手を滑り込ませたり、首筋に腕を回したりと色を振りまきゴクウを誘う素振りを見せた。


その様を唖然として見ているしかないヒロ。開いた口が閉じようとはしなかった。

当のゴクウは絡み付く腕を軽々とあしらい簪を一人一人に手渡していく。


何十と迫り、絡み付こうとする腕をスルスルと掻い潜るゴクウ。その仕草がまた良い意味でも悪い意味でも慣れを窺わせる。


遊女の迫力にたじろぎ、恐れを覚えたヒロは、後退り騒ぎが静まるのを待つ事にした。


「おや、可愛いお子がおりんす」

遊女の迫力からか部屋の隅で自然と息を潜めていたヒロ。

豹人の女性と目が合ってしまった。女性が独りごちる様に言うと、ゴクウに群がっていた遊女達が一斉にヒロを見た。

その瞬間、ヒロは震え上がった。


食われる…。その単語だけが頭を過る。


「ほんに。愛らしい童がおりんす」


「ゴクウ様の色でありんすか?」


「私と遊んでみんかぇ」


ヒロの周りはアッと言う間に遊女が取り囲み、舐めるような眼差しにヒロは言葉なくただただ震えた。


「勘弁してやってくれのぉ姉さん方」


ただただ途方に暮れるヒロに遊女の壁向こうから思いもよらぬ助け船が出た。

顔は見えないものの、声からして確実にあの笑みを浮かべているのは容易に想像出来る。

不本意ではあるが、ヒロは今は嬉しいて思わずには居られない。


「そいつはまだまだ無垢な赤子も同じさね。美味いも不味いもわかりゃしないのぉ。何せ食った事すら無いご身分だ。初物は想い人にくれてやっちゃくれねぇかのぉ」


ゴクウの言葉を静かに聞き入った遊女達は口々に薄い笑みを拵えながら、すんなりと引き下がった。


遊女の迫力が弱まった事に、ヒロの震えは立ち所におさまり、ホッと胸を撫で下ろした。

ゴクウに馬鹿にされ、遊女に哀れみの眼差しを向けられていた等と知るよしもない。


ゴクウに簪を売ってもらい、散々騒いで満足したのか、遊女達はそろそろと部屋を出ていった。

化粧の臭いの残る部屋は異様に静かで、二人きりでは少し。ほんの少し、寂しい気もする。


遊女達の去った後、ヒロはこっそりと簪の入っていた引き出しを覗いてみた。

あれ程入っていた色とりどりの簪は、今では数える程しかはいっていない。


「人の口に戸は建てられないものよ。秘密は内緒にならず広がるものだの」


ヒロの視線に気付いてなのか、そうではないのか、ゴクウは独りごちた。


「…あ、ありがとう」


「なんの」


威勢なく礼を述べれば、ゴクウは静かに落ち着いた声で返してくる。

また別人のゴクウが其処にいた。




「あのさ、訊いていいか」


「ん?」


再びゴクウの向かいに腰を下ろしたヒロは、ゴクウの纏う落ち着いた雰囲気に惹かれ顔色を伺いながらも、気になっていた事を訪ねたい衝動に駆られた。


「あんた、ヒウンと、お、幼なじみなんだよな?」


「あぁ」


「じゃぁ、なんでヒウンと会った時、あんな事したんだよ」


「…あんな事?」


ゴクウはチビチビと飲んでいた酒の手を止め、首を傾げ、ヒロの言わんとする事に考えを巡らせた。


ひとしきり唸っては首を左右に傾げたゴクウは、やっと思い当たる伏を見付けた出し、アァと膝を叩いて見せた。


ゴクウがどんな答えを返すのかと真剣な眼差しを向けるヒロ。そのヒロの目を見てゴクウは小さく吹き出して笑った。


「そんな大層な訳はねぇんだの。アレはただの挨拶だの。オイとヒウンのな」


「挨拶っ!?」


予想もしていなかったゴクウの答えに、ヒロの声は裏返り、間抜けた顔で驚きを見せた。


本気の殺気に、急所ばかりを狙った攻撃。あれがただの挨拶だとはヒロには到底信じられない事だ。


再び疑いが増すヒロの心境を知ってか知らずか、疑念の眼差しをゴクウは鼻で笑い、退けた。


「アイツ。ヒウンが右手しか使ってなかったのは気付いてたかの」


「…うん」


あの時は突然の出来事に目を白黒させたものだが、ゴクウの攻撃をヒウンが右手一つで凌ぎ、躱していたのは見えていた。


頷いたヒロに、ゴクウは見えていたかと言いたげにホォーと声を漏らした。


「ガキの頃からな、ヒウンとは良く手合せしてたんだの。それはもう顔を見たら殴りかかるくらいにの。ただ、ヒウンの奴は何時もオイの攻撃を否すか躱すかでのぉ、殴りかかるのは一方的にオイの方だったのぉ。アイツ、自分からは手を出して来ないんだの」


何処か楽しげに昔話を始めたゴクウに対して、ヒロは本当に仲が良いのかと疑問を抱きつつ黙っていた。

何せ独特の二人なのだ。ヒロの知る常識が通用するはずもなかった。


「ただ、奴は何時も右手しか使わんからの、それがムカついてのぉ、おまけにあの無表情。毎回負けてばかりのオイは悔しくて一つ約束を取付けたんだの」


「約束?」


「あぁ。約束だの」


勿体ぶるゴクウにヒロは身を乗り出して話に聞き入った。

その姿は絵本の続きをせがむ幼子同様でゴクウは吹き出すのを必至に堪えていた。


ヒウンとゴクウの間でどんな約束が交わされたのか。想像しただけで鼓動が早くなる。

ゴクウの言葉を今か今かと待つヒロに、けれどゴクウは応えなかった。

ただぼそりと独りごち、ゴクウの話は打ち切られる。


「来た、ようたの…」


襖に注がれるゴクウの視線は、襖を越えた向こう側を見据えているようだった。



ゴクウの視線を追い、振り向いたヒロの目の前を影が横切った。

眼は自然と影を追い、輪郭を捕える。


格子窓から紛れ込んだのだろう。鳳蝶のような大きな蝶が柱にとまって羽を休ませていた。

艶やかな色彩が。模様が。ヒロを釘付けにする。




――――



西の夜空をカワホリの群れが飛び交うと、賑わう町はいそいそと、()ねがてぬ町の姿を変える。

淡い提灯灯りは、一つ二つと次々に、灯り火を無くし消えてゆく。

蝙の声を合図に町木戸が閉まり、町人、商人皆均しく床に就く。


けれども苦界に咲く花は、今が盛りと咲き誇り、住まう城は晃晃と灯りを絶やす事はない。

一夜の夢よ。儚き時よ。夢うつつへと誘うように、町は淡淡と艶色に染まる。



町木戸の閉じた通りはに人影は無く、先程までの喧騒が嘘のように清と静まり返っている。

それもその筈。町木戸が閉まってしまえば行き来は出来ず、外出も禁止されてしまう。

そんな事と知ってか知らずか、一人の少年は通りを歩き、町木戸を飛び越え進んでゆく。


力任せに跳ぶではなく、無重力に舞うかのようなその姿その動き。

平等にもたらされる時の刻む時間の中を彼だけが流れを無視してゆったり動いているかのようだった。


海風にマントをなびかせ、フードを深く被った少年は、静寂に雑音を持ち込まない。


人気の無くなるこの時間は、少年にとっては絶好の時であり、町木戸の決まりは好都合に他ならない。

窓を開け、就寝前の月見酒を楽しむ住人も。金勘定に勤しむ商人も。裏路地にまで目を光らせる憲兵でさえも。前を横切る彼には気付かない。

夜闇は彼を見方する。


目指すは一路、苦界の城。




「…」


町木戸を飛び越え花町に足を踏み入れた少年は色里内でも一等でかい遊廓、芍薬屋にたどり着くと躊躇なく裏手に周り、勝手口の前に立った。


扉を開けるでもなく佇んでいると独りでに扉が開き、細い腕が少年を中へと招き入れた。


「お連れ様よりお話しは聞いておりんす。どうぞ此方へ」


案内を申し出た白狐の女性に、少年は何の反応も示さず、女性の前に歩み出ると、そのまま従業員用の細い通路を進んで行った。


普段であれば常連ならば後ろに、一見ならば前に立ち、案内をする遊女だが、今回ばかりは少年へのこれ以上の接客から身を引いた。


遊女を毛嫌いする者。蔑む者は少なからず居る。そういった者達に遊女が進んで相手をする事はなく、手を出す事もない。

けれども少年の態度はソレとはまた別物だった。


毛嫌いも蔑みも、その瞳にはありはしない。それどころか、少年の瞳には目前に居る遊女でさえ映ってはいないのだ。


視界に入っていても眼中に無い。少年にしてやれる事は何もなく、何もしない事が両者にとっての最善の術だった。


少年は迷い無く歩む。そこに目印でもあるかのように。



たどり着いた先は襖の並ぶ廊下の突き当たりに設けられた一室。


少年は襖の前で立ち止まるとその眼に怪訝な色を含ませた。


酒に白粉、汗に体臭、血に体液。ほのかに甘い香りは米のりだろうか。苦界はありとあらゆる臭いが入り混じり、独特な場の臭いを創りだしている。

その臭いに呑まれたもの達が苦界のあちらこちらで狂ったように旺盛の歌を奏で合う。

時に悲鳴に近いその声にギシギシかなる柱や床が、雄々しい唸りを伴奏に歌う。

さながら城が瘴気を振りまくガマのような、地を揺さ振る不協和音の鳴き声を発しているかのようだった。


少年にとって瘴気は足を止める問題になりはしない。

少年が立ち止まったのはまた別の問題があった。


「来てんだろ。突っ立ってねぇで入れのぉ」


一向に襖に手を掛けようとしない少年へ、様子を見ていたかのように室内から声が投げ掛けられる。


無表情。それでいて嫌悪の色を混ぜ近だ瞳がジッと襖を見据えていた。


どれ程そうしていただろうか、漸く襖に手を掛けた少年は、拳一つ分の隙間を開けた後、また少し間をとり、再び襖を開け室内に入る。


「相変わらず、用心深いのぉ」


内でその様子を見ていたゴクウは杯の液体をゴクリと飲み干すと片眉と片方の口の端を持ち上げシシシと声を漏らし笑う。


そんな男を見るでなく、ヒウンは漠然と室内を見渡し、襖からも、男からも離れた位置で立ち止まる。


窓縁に置かれた陶器の香炉から一筋の白煙が立ち上る。

白煙は時折蝶のような姿を見せてクルリクルリと舞踊り、その後儚くも霧散した。残す香は、さながら蝶の骸からでた微かな甘美を誇る花の蜜。



眼下では黒い獣毛に黄縞の子虎が座布団を枕に丸くなり、深い寝息を立てていた。

余りにも無防備で無垢な寝顔に目が止まる。


「お子様には悪いが退席してもらったでのぉ。手をつけもつけさせもしとらんから安心しろの」


「…」


意地悪く笑うゴクウは何を思い出したのか、愉快そうな面持ちでシシシと笑った。

知らぬ存ぜぬ我関せずとただ佇むだけのヒウンは無表情を崩さない。返ってくる言葉もなければただの独り言だと自負しながらもゴクウに気にした様子はなかった。


室内に漂う微香。ただの香ではなさそうだ。

複数の香料が交ざり合い独特な臭いを作り出している。花の香りに香木の香り、恐らくは蜂の巣が主材料なのだろう香りは微かにゴクウからも放たれている。


静かな視線の交わりに、ゴクウはまたあの顔でシシシと笑う。


「微香にて誘う八重の花。誰一人逃れられぬ魔の香り。魔の手招きは睡へといざなう睡微香。上出来の新作なんだが、こりゃぁ口上に偽りありだのぉ」


愉快げにそれでいて訝しげにヒウンを見上げたゴクウはシシシと笑い肩を竦めた。


気にしなければ気付かない程に微かな甘い匂い、それでいて誘うように意識を持っていく微香。再びヒロに視線を向けたヒウンはゆっくりと瞼を閉じた。

いくら世間知らずとは言え、ヒロが今日会ったばかりの他人を前にこうも無防備に寝息を立てるはずも無く、強制的に眠らされた事は容易に想像できた。

ただ、世間知らずの子虎はいともたやすくゴクウの思惑に填まったのだろう。

吸っては吐くを繰り返す浅い呼吸音を耳に宿し、ヒウンの瞳はほんの微かな安堵の色を混ぜ込んだ。


一般人ではおおよそ見抜けるはずもないそんな微かな瞳の変化に、向かいに座るゴクウは目を丸くして、意地の悪い笑いを止めた。代わりに覗く表情は、温か味をおびながらも、何処か切なさを秘めている。


「暫く会わん内に、随分とオイの知らん顔をするようになったのぉ」


ゴクウはそんなヒウンから視線を逸らすと物思いに耽るよう瞼を閉じて独りごちる。

何を思い出しているのかはわからない。けれど拵えたその微笑みの柔らかさに、裏も表も存在しない、ゴクウの心情が現れていた。


「昔より、感情が出るようになったの」


喜びを含んだ独り言は滑らかに空間を渡り、静かに消えていった。


恐らくは、他人には区別出来ないだろう本当に些細で、極々小さなヒウンの変化を、ゴクウは心から祝福した。

それは幼き頃よりヒウンを知り、近くに居たゴクウだからこその心根。


「…オイが見出だしたかったけれど、オイではダメだっただろうのぉ。コイツだったからこそ…かの」


薄らと開けた瞼の隙間から、腹を出して無垢な顔で無防備に横たわるヒロに視線を送ったゴクウは、大きく息を吐いた後、鼻を啜ってヒウンを見た。


「余程、大切なモノをもらったようだの」


「…」


ゴクウの問い掛けに、ヒウンは無言で視線を送る。相変わらず答えはしないヒウンは、公定はしないが、否定もしなかった。それだけでゴクウは答えを得たと、独り小さく頷いた。


静かで、何処か温もりに包まれた夜はまだ続く。

苦界の奏でる演奏とて、この部屋には届く事はなかった。



温かい静寂は、奇妙な組み合わせの三人を平等に懐の中に抱いている。


「あれから何人になった」


「…70と…少し」


「そうか、まだまだ先は長そうだのぉ」


「…」



時折交わされる会話は淡々と、長くは続かない。それはゴクウを嫌っての生返事ではなく、その証拠にヒウンの目に怪訝の色が混じる事はなかった。

一言二言で終わる会話を饒舌だと言いゴクウは愉快気に笑う。


気付けばいよいよ苦界にも、あらがえぬ魔の足音が近付いていた。

旺盛に歌い、夢世を謳歌した者達は一夜の夢を忘れるように一時の眠りについていく。

次々と消されていく提灯。最後の一つが消えた時、空は冷たい暗闇を白けさせはじめていた。


「さて、ここらで一時眠るかのぉ」


杯を盆に戻したゴクウはその場でゴロンと仰向けに寝転がり大きな欠伸をした。

そのまま寝息を立て始めたゴクウを確認してからヒウンはスッと立ち上がると、細い柱の前に座り、背中を預け瞼を閉じた。


布団をかける程では無いが、夜風は寒い。けれどヒウンは、己の左胸の辺りが妙に温かい事を不思議に思った。



港町の朝は早く、甍の波を白光りの空が淡く照らすそんな時刻から、賑わいの一端を垣間見せる。


木製の漁船を押す声。掛け声に合わせて船を漕ぐ音。それらは冷たく湿った潮風に乗り、格子窓から入ってきた。

潮騒の中にあり未だ眠る者も多いなか、雄々しい声が響いていた。

「アッシが傘をさしやしょう。雨が降ろうが、槍が降ろうが、アッシが傘をさしやしょう。アッシに持たせておくんなせぇ」


喉太い声で力強く、真意の込もる眼差しは真っ直ぐで、照りつけ蜻蛉を生む陽光よりも熱く語るのは、顔の中央、額から鼻筋へと一直線に夏の青空に浮かぶ雲のような純白の流星※、それを際立たせるよう、真夏に伸びる陰のような真っ黒い獣毛をしたイタチの男だった。


「さあ、お手を」


片膝をつき、腕を伸ばしてくる男は、黒曜石のような輝きを持つ双眼で見上げてきた。

手を取り立ち上がれば、男はサッと背を向けて、朱色の蛇の目傘をバッと広げ高々と掲げると、振り返った。


「さあ、参りやしょう」


男の表情は、喉太い声や纏う雰囲気とは不釣り合いなほどに、優しい微笑みだった。



二人が連れ立って外にでれば、結った髪に簪を挿し、艶やかな着物を身に纏い、口元に紅をさした童や三味線を抱えた遊女や紋付き袴姿で印の描かれた提灯を掲げる男達が一列に並び待ち構えていた。二人がその列の中央に入れば、一同はゆっくりと動きだした。


その様子を見るために集まっただろうむさ苦しい人垣から一斉に歓声と吐息が漏れだす。

ある者は拝み、ある者は手をたたき、ある者は三味線に合わせて合いの手を入れ行列を見送る。


一行はそんな野次馬達を尻目に真っ直ぐ前だけを見据え真顔のまま夕日の煌めきの中へと消えて行った。

姿が見えなくなったにもかかわらず、三味線の音だけが妙にはっきりと、戦慄に切なさを含み大気を揺らしていた。




ゆっくりと瞼を開けたヒウンは、胸に手を当て、語り掛けるように意識を集中させた。

未だほんのりと熱を保つ左胸。その温もりに想いを馳せる。


「…これは一体…誰かの記憶…」


鼻にこびり付く白粉の臭いが、ヒウンの中の誰かの記憶を呼び覚ましたのだろう。

暫しの間そうして胸を押さえていたヒウンだったが、何事もなかったように腕を下ろし室内に視線を巡らした。


既に眩しい程に格子窓から陽光が差し込み、室内を照らしだしている。太陽はほぼ真上に差し掛かっていた。

そんな中で未だ寝息をたてる二人を見てヒウンは立ち上がった。

背中を丸め、股の間に両腕を挟み込み時折尻尾をくねらせるヒロは、陽光が眩しいのか眉間に皺を寄せているがそれでも寝息を立てている。

普段であれば疾うに目覚めているはずの時刻だが、香が余程効いたのだろう。

一方のゴクウと云えば、朱色の獣毛を煌めかせ、酔っていたためか上着を開だけさせ、胸元を大胆に露出させていた。此方も陽光が眩しいのだろう。左腕で目の上を覆い陽光を遮りながら寝息を立てていた。


二人の間を眠りの邪魔をしないよう足音を忍ばせ抜けたヒウンは木製の格子のはめ込まれた窓の縁に腰掛け、外界の様子を窺った。

見渡せば甍の連なりの向こうには海が陽射しを反射して白くキラキラと瞬き、見下ろせば店の前の通りには夢を買い楽しんだであろう多くの男の後ろ姿があった。


道を下った先では、今日も盛大に賑わい活気づく商店街が見受けられ、威勢の良い声が響いていた。


何を見るでなく、何を思うでもなく、ただただそこにある名も知らぬモノ達を眺めていた。

煌めく陽射しを宿した風が吹く。

その風に乗せられ、運ばれてきた音を、ヒウンの耳は聞き逃さずピクリと反応を見せた。

爪弾く旋律は記憶に覚えがあったからだ。

下げた視線は店の前の大通りを写し、耳はまだ遠い旋律を捕える。見下ろした花町は道の両際に人垣を作り初めている。

一様に同じ方向を向く人々は何かに取り付かれたようにソワソワと浮き足だち、瞳をギラつかせていた。

そんな視線を一点に集めた先に、艶やかな一団がいた。

赤に茜に桃色の蛇の目傘が点々と並び、同じく清潔感のある朱色を基調とした艶やかな着物に身を包んだ女達がゆっくりとその歩みを進める。

一人一人が一本の花のように凛と存在し、互いを引き立て合い、優美な花束のようだった。

集まった男達はその光景に歓喜の声を上げ、身を乗り出して一団を待ち受けた。

男達の声が聞こえない筈もないのだが、一団は科を作るどころか表情一つ変える事無く真っ直ぐ前だけを見据えて歩む。まるで一団の周りだけが別世界に存在するかのような光景だった。


その中で一際目を引く女性がいた。間違いなく別格の存在であろう女性は白地にほんのりと薄桃色の濃淡を施しただけの何の飾りも無い着物を身に纏いながらも際立つ美を有していた。

周りの花が霞んでしまう程に、一身に視線を集める彼女を見た時、彼女を引き立てる為だけに周りが存在するのだと理解した。

空気さえ己の色に染める彼女に、男達は吐息を漏らし、合弁垂れる。


清と静寂に包まれた大通り、一団が目前に迫りくれば、一同は固唾を飲み、一斉に口を開き、割れんばかりに叫喚した。


「いよっ!待ってました!」


「桜、単葉、手向け草っ!」


「桜色太夫ぅぅ!」


「桜花、桜玉、桜奥!」


「…」


耳を突ん裂くような大声援に町は大きく揺れる。

そんな光景を見下ろすヒウンは眉間に皺を寄せていた。それは、雑音に嫌悪したからではなく、太夫と呼ばれる彼女の違和感を一瞬きに感じ取ったからだった。


「ウゥゥ…」


ヒウンは唸り声に眼下に向けていた視線を足下へと移した。

藻掻くように身を捩ったゴクウはスッと上半身を起こすと背伸びと同時に一つ欠伸をして嫌忌の表情を作った。

言葉にはしないゴクウだが、盛りのついた雄々しい狂喜が目覚めの引金とあってはそれこそ寝覚めが悪い事だろう。

睨む様な横目でヒウンと視線を交わすだけの挨拶を済ませたゴクウは、窓の縁に左腕を乗せ下界を見下ろした。

機嫌を損ねたゴクウをあやすように、嗜むように三味線を爪弾いた旋律は、程よく空気を揺らし、雄叫びに近い騒音を相殺させていく。

いつの間にかヒウンの視線も眼下に連なる一団へと戻っていた。


「もう清掻き道中の時刻か…相変わらずだのぉ」


窓辺に置いた腕を枕に顎を乗せ、半開きの瞼の間から見下すよな視線を下界の男共に向けたゴクウはつまらなそうにまた一つ大きな欠伸をかき呟いた。


清掻きとは花町の店開きを知らせ三味線を爪弾く事で、道中とは花町一の遊女が顔見せとして、大通りの真中を闊歩する事だった。

花町一の遊女は太夫または花魁と呼ばれ、遊女の身でありながら人々から一目置かれ崇められる存在だった。


確かに花町一と云うのは伊達ではない。周りを取り囲む遊女達も相当な美人揃いなのだが、それにも増して太夫は、美、気、身に置いて他を圧倒していた。

男達が狂喜するのも無理はない。けれど男共を狂喜させる理由がもう一つある。それはその名の通り高嶺の花と云う事。


花町一の遊女は茶席を申し込むだけでも金貨何十枚と必要とし、さらに一夜の夢を買うとなればその倍は必要とするのだ。

そんな高価な花をタダで、しかも間近で見られるとあっては狂いもするだろう。

そして狂い拝む者達は、間違いなく高嶺の花とは縁遠い庶民に過ぎないのだ。


「…」


そんな様子を遠目から窺い見るヒウンは己でも首を傾げる程に見入っていた。

何がそうさせるのかは分からない。ただただ太夫から目が離せなかった。


ヒウンの表情の無い横顔を横目に見ていたゴクウは片方の眉と口角を持ち上げる。


「太夫を買うか」


「…」


唐突な発言にゴクウを見たヒウンは、驚きも、戸惑いも宿さないただただ無表情で視線を送った。


「気になるんだろうのぉ」


不適な横顔でそう告げるとゴクウはシシシと笑った。

寝癖と陽光に照らされたゴクウの姿は友の為に力を貸そうとする友人のソレであり、ヒウンには見えない影の部分は酷く暗いモノだった。


「なんだってのぉぉ」


モゾモゾと身を捩りムクッと起きたヒロは寝呆け眼で視線を交わす二人を見た。

此方も騒音に無理矢理目覚めさせられたのだろう。どうにも瞼が重そうだ。


そんな状態では二人の会話など訊いていなかっただろう。その証拠にヒロはまだガクンガクンと頭を揺らし、うつらうつらとしていた。


「置いていくか?」



ヒロの様子にゴクウは意地悪く笑いヒウンを見上げる。ヒウンが応えないのをわかった上であえて問うてくる辺りが、また意地悪い。

けれど、ゴクウの意地悪は思いがけない答えをヒウンの口から促した。

ヒウンの閉じていた口がゆっくりと開く。ゴクウにはその様子が齣送りに見えた。


「…いや」


たったソレだけ。たった一言を発しヒウンの口はまた閉ざされた。

意地悪のつもりだったゴクウはヒウンの反応に一瞬言葉を喉に詰まらせ、目を見開いた。

己で藪を突いて出した蛇だと云うのにゴクウは酷く動揺している自身に気付き、同時に胸の苦しさを感じた。


「まぁ、仕込みは上々だしの。こんだけ寝れば夜更かしも出来る」


苦笑を浮かべ、苦し紛れに通常を装うゴクウの姿に、ヒウンは疑問を覚えるが、口を動かす事はない。

何をどう切り出せばいいか、ヒウンにはまだ分からないのだ。



ゆっくりと歩みを進める一団は人垣に見送られゆっくりと過ぎ去っていく。

普通に歩いて先回りすれば5メートル程でまた一団を前から窺う事も出来る。けれど誰一人そんな事はしなかった。

するだけ野暮な事だと、粋じゃないと、誰も口に出してはいないが暗黙の約束を心得ている。良く言えば。

太夫の一挙一動に見惚れ、呼吸すら忘れた者達の言い訳だ。


ただ、前から観ようが横から観ようが後ろから観ようが花は花。

陰る事はなく、美しい。



頃合いを見計らってか、部屋に膳が運ばれた。

台から四脚に至まで細やかな飾り彫りの施された台は漆特有の光沢を滑らかに、艶やかに魅せる。

乗せられた食器も揃いの漆塗り。よそられた食材に一花を添えている。


漆塗りの碗に米と汁がよそわれ、菜の煮浸しに焼き魚が芳ばしく香る。隅の小皿に乗った二切れのだし巻きがまたよく栄える。


それぞれ向かい合いように置かれた膳の前に各自腰を落ち着ける。

すっかり目の覚めたゴクウの隣に、まだ瞼半分のヒロが座り、正面にはヒウンが座る。

いただきますと手を合わせればヒロも続いて手を合わせ、ヒウンは興味薄く膳を見た。


かたやもくもくと箸を動かし、かたやもそもそと箸を咥えている。

会話らしい会話もなく、しめやかに執り行う行事のような朝食に、ゴクウは動かしていた箸をピタリと止めた。

立てた膝に肘を置き、掌に顎を乗せ視線を動かし何かを探す。


ゴクウとしても仕事以外で朝からテンションを高くするのは好きではない。どちらかと言えば朝はゆっくり過ごし、昼頃から徐々にギアを上げ、日没過ぎにはっちゃけて飲めや踊れやと騒ぎ、意気揚々とそのまま眠りにつきたい。

けれど、だからと言ってこうも静かなのも好きではない。

ズズズとヒロの啜る汁の音が妙にはっきりと響いた。


その音がゴクウの身体に鞭を打つ。途端にゴクウの顔色はパァーと明るくなる。

向かい合うヒウンが見たその顔は、玩具を見付けた時のゴクウのソレだ。


シシッと不敵な笑い声がしたかと思えば既にゴクウの腕がカクンカクンと揺れるヒロの前を通過していく。

狙うは膳の端。たった二切れのだし巻き卵。


ゴクウは仕事柄、人間観察に長けてた。

昨日初めて対面した筈のゴクウがヒロを観察して得た情報は既に100を優に超えていた。

歩きだす時の第一歩から、物を口に入れてから飲み込むまでの噛む回数と時間まで、あらゆる癖に目を光らせた。

それらの癖からヒロの人物像を組み立てる。口悪屋の真髄。


そこから見えるヒロとは。


飯の時、好きなものは最後派だ!



伸ばした腕が唸りだし巻き目がけ襲い掛かる。


「もらいっ」


箸の先が柔い黄色に突き刺さし、宙に浮く。

未だ事態に気付いていないヒロに対して、ゴクウは奪取成功を確信した。

後は伸ばした腕を引き戻すだけ。シシシと笑みを浮かべるゴクウは、カツンと小さく震えた箸に違和感を覚えた。

途端に箸が軽くなる。

見ればそこにある筈の黄色いだし巻きが何故か元の小皿の上に戻っていた。


疑問符の覗く表情を一瞬きのうちに振り払い、再び腕を伸ばしたゴクウは再度だし巻きの柔肌を突き刺し持ち上げるが、腕を引き戻す途中でまたカツンと箸が小さく震え、その隙にだし巻きは元の小皿に戻っていた。


何が起きたのか理解出来ず、ゴクウの顔に先ほどよりも色濃く、疑問の覗く表情。

何が起きたのか確かめる為に三度腕を伸ばしたゴクウは呆気にとられた。


ゴクウの箸がだし巻きに触れるより先に、一対の箸がその行く手を阻み片腹を挟む。

途端にゴクウの顔が曇る。

狙い定め伸びる腕、それを再三防ぎ、阻む事の出来る人物を思い浮かべるだけでゴクウの表情が硬くなる。


そうまでして…。ゴクウは口には出さず心内で吐き捨てた。

睨み付けた箸から次第に視線を上げていき、突如ゴクウから険が消えた。

眉を持ち上げ耳をピーンと後ろに引いている。


それはゴクウばかりでは無かった。ヒウンもまた瞳に色を加えている。

二人が目にしたもの、それは今にも二度寝に入りそうなコクリコクリと頭を揺するヒロの姿だった。


「はぁ?」


ゴクウの口からは思わず間の抜けた声が漏れる。

それもその筈、ゴクウの調査で構築したヒロははっきり言って、ドジで読みも考えも甘い子供なのだ。


動体視力は中の中、良くて中の上程度。しかも今は半分寝ている状態だ。そんな状況のヒロが意識的に動いているとは思えない。


「なら…」


ヒロの箸から逃れたゴクウは確かめる為にもう一度、箸を突き出した。

そして見たものに息を飲んだ。

カクンカクンと頭は揺れ、意識が宙に浮いたようなヒロ。その今にも閉じてしまいそうな瞼の向こうで黒目が揺れたとほぼ同時にゴクウの箸はヒロによって弾かれたのだ。




「…マジか」


目の前で起きた信じがたい出来事にゴクウの顔が綻ぶと同時に、弾かれた己の箸が顔面に目がけ飛んでくるのをひらりと躱したゴクウは、何事も無かったようにまた米をチビチビ口に運ぶヒロを見て笑いだした。


「コイツキモいのぉ!寝呆けてる方が腕が立つって訊いたこと無いでの!なんなんだのぉ!」


腹が捩れるほど笑うゴクウはゴロゴロと畳の上を右に左に転げ回り、ヒィヒィと呼吸を乱しては涙を拭った。


ただ気紛れに手を出した悪戯心が、思わぬ形でヒロの新しい一面を垣間見せた事に、驚きと同時に概念を飛び越える“バカ力”を見た。


「こりゃぁ参ったでのぉ、一から書き替えねば。面白い奴だの」


次から次から目に涙が浮かぶ、これほど笑ったのは何時ぶりだったろうかとゴクウは目を細めた。


「ん〜、どうしたっての?」


ゴクウの笑い声に、コクリコクリ頭を揺らしていたヒロが目を擦り、ようやく起きた。


「いただきっ!」


「あっ!」


目の覚めたヒロからは簡単にだし巻き卵を奪取する事が出来た。

情けない声だすヒロを横目に、ゴクウは奪った卵をヒョイッと口に放り込みシシシと笑う。


「俺のだし巻き卵ぉぉぉぉ!!」


「ギャハハ!起きてる方が雑魚だのぉ」


「返せぇぇ!」


「ギャハハ」


一気に賑やかになった朝食の雰囲気に、たまになら悪くないと思うゴクウ。

ヒウンもまた、眉根を寄せる事無くじゃれ合う二人を瞳に映していた。




「…うーん」


胡坐の上に頬杖をつき、右に左に首を傾げては難渋に顔を歪めるゴクウは、何着もの服をヒロにあてがっては左から右へと移していく。


食後、フラりとどこかに出かけて行ったかと思えば一時間としないうちに大量の服を抱え戻って来たゴクウは、訊けば古着屋に赴いたのだという。

それからずっとヒロの前に陣取り代わる代わる服をあてがうのだが、表情は曇る一方だった。


背丈も訊かず、寸法も計らずに買ってきて服は不思議とヒロの身体にぴったりだったが、どの服も継ぎ接ぎだらけだったり、擦り切れていたりとまともな服は一着もない。

おおかた古着屋でも持て余していた、古着と呼ぶにも忍びない物を二束三文で買いつけてきたのだろう。


「似合うのは似合うのだがのぉ」


服をあてがいながら唸り、何を迷っているのか、既に20着は部屋の隅に放られている。

そのたびにヒロはため息を噛み殺し、眉間に皺を寄せた。

ゴクウが戻ってから二時間。ヒロはずっと立ちっぱなしだった。

ゴクウの意図も見えず、ただ立たされ続ける。元々気の短い質のヒロはそろそろ限界を迎えようとしていた。

何度かヒウンに助けを求めようとしたが、柱に背中を預け片膝を上げたまま瞳を閉じたきり、相変わらずの我関せずとした雰囲気を漂わせるだけで見向きもしない。

二人にたいする意味の無い疑念が芽吹き始めようとしていた。

苛立ちも限界に近い。


「ダメじゃ!服が合わんの!」


そんな矢先、あてがう手を止めたゴクウはまだ試していない古着を室内にぶちまけ叫ぶと後にバタリと倒れこんだ。


「下手に小綺麗で貧相な服が似合わんのぉ!使えんのぉ!」


誉め言葉で罵り、穴の空いた鍋でも見るような眼差しを向けるゴクウに、遂にヒロの忍耐にも亀裂がはいった。


「なんだっての!二時間も立ちっぱなしでよくわかんない事に付き合ってやったてのに、なんだっての!!」


背中を丸め、獣毛を逆立てたヒロはチチチと空気を震わせゴクウを威嚇する。

暫くゴクウを睨み下ろしたヒロは自分の渾身の威嚇にも全く臆さず意地悪い笑みを浮かべるゴクウを見てクルリと背を向けると、その場にドカリと腰を下ろした。


すっかり臍を曲げてしまったヒロを見てゴクウはシシシと小さく笑う。


「悪かったの」


少しも悪怯れた様子のない声音にヒロはムスリと頬を膨らませた。

ゴクウはヒロに孤児の役を演じさせようと私案していた。継ぎ接ぎ擦り切れだらけの服はそのためだった。

けれど当のヒロは毛艶もよく健康的な外見のため、いくら汚れた服を着せた所で吊り合いが取れず違和感が生じてしまう。


決定的なのは瞳の色だ。

濁りの無い、世を恨むような色を宿さない双眼に、孤児の役が勤まるわけもなかった。

所詮ヒロは、ただの素人でしかない。


反動をつけ起き上がったゴクウは、また胡坐の上に頬杖をつき、顎を擦り瞼を閉じると、つかの間の思案に移る。


僅か十秒程度の思案の後、ゴクウはパンッと膝を叩いた。


「ちと趣向をかえるかの」


落ち着いた、それでいて何処か薄気味悪い声音に、肩越しに返り見たヒロは、ゴクウの微笑みに肩を跳ね上げた。



「旦那様ったらホホホ」


「何を言うか。美女に美女と言っては可笑しいか?」


「ほんに口の達者なお方でありんすなぁ」


「達者は口だけじゃないぞ」


「まぁ、それはそれは楽しみでござんす」


また人相、言葉使いを変えたゴクウは両手に遊女を抱え込み、満足そうに笑みを溢す。

その様子を歯をガチガチ言わせながら見ていたヒロは妙な柄の羽織を着せられていた。

どうやら旅商人の(ゴクウ)とその下働き兼護衛役らしい。ヒロは身寄りの無い孤児でゴクウに拾われた設定のようだ。


夕刻を少しばかり過ぎた頃、ヒウン、ゴクウ、ヒロの三人は遊廓【姫椿】の暖簾を潜った。

姫椿は原則として完全予約制にして一見様お断りの高価な遊廓として有名であった。

ただし、そこで働く遊女達は皆、何処の店でも一番を名乗れるほどの粒揃い。美女ばかりが顔を連ねていた。その事から人気もあり、大店の子息や老舗のご隠居。官僚のお偉方など、金のある者は足繁く店に通いつめていた。



そんな店に予約もなく一見の紹介もなしに乗り込んだ三人は当初、冷ややかな眼差しを向けられた。本来なら即刻放り出される所だろう。けれど、番頭に歩み寄ったゴクウが耳元で何か囁くと、番頭は血相を変え、店主を連れてきたのだ。

それから暫く姫椿の店主と話をしていたゴクウが、懐から取り出した小さな巾着袋を手渡した途端。番頭も店主も掌を反したように笑顔でヘコヘコと頭を下げたのだった。


快く店内を案内する店主に続く三人にすれ違う遊女は誘う様に科を作る。

ヒロはそんな遊女達には目もくれず、店内を右に左に上に下にと忙しなく視線を動かした。

落ち着いた雰囲気を醸す内装は、芍薬屋とはまったく違っていた。第一に吹き抜けである事。そして第二に壁や襖、天井絵から床絵にいたるまで金粉が施されており、時折現れる朱色の柱や太鼓橋も、刺激的な赤ではなく程よく暈しの効いた淡い赤で統一され、高貴な印象を与えるものだった。



「旦那様方、つきましたよ。あちらでお待ちください」


迷路のような回廊の角を幾度も曲がり、急な階段を三階まで登った所で店主は立ち止まり、三部屋あるうちの奥の座敷を指差した。


階段を降りていく店主を見送り、座敷に足を踏み入れたヒロは目を見開いた。


「な、広っ!」


「おぉ、豪勢じゃのぉ」


続いて座敷に入ったゴクウもその造りに感嘆の声を上げる。

ちょっとした宴会場のような広さがある室内は惜し気もなく金粉と漆細工であらゆる物が装飾されている。漆塗りの柱には上り龍が彫刻されていた。


室内を一望して揚々と鼻歌を歌いだすゴクウに対して、場違いもいいところだとヒロは些か臆していた。

固まったままのヒロを余所にゴクウは早速上座に腰を落ち着け、ヒウンもまた座敷の隅に腰を下ろした。

ようやく我に返ったヒロは少しでも落ち着こうとヒウンの傍らで何故が正座した。


それから早一刻。残照も水平線へと消え入り、今に至る。


「プハァ〜」


「あら善い飲みっぷり」


「ささ、もひとつ」


両脇に座る遊女に代わる代わる御酌され、そのたびに椀ほど大きな杯を軽々と飲み干すゴクウに遊女はうっとりとした眼差しを注ぐ。


一向に酔わないゴクウを半ば呆れたように見ていたヒロだが、視線の交わった左方の遊女に手招きされ、おずおずと用意された御膳の前へと進み出た。


「ささ、ボンもお食べ。そっちのボンもおいでな」


「……」


促されるまま箸を動かすヒロの様子を微笑ましく見ていた遊女がヒウンにも手招きをするが、部屋の隅から動こうとしないのを見ると「いけずやわ」と言って口元を袖で隠しクスリと笑った。


「……」


「お待たせいたしんした。お初にお目にかかりんす。ユスラでありんす」


そこへ襖を開け現れたのは大夫と呼ばれるあの遊女だった。大夫はスッと立ち上がるとスルスルと足を運び一同の前に歩み出ると再び三つ指を着き頭を下げる。

指折り一つに至まで洗練された動きを見せる大夫の美しさと、醸し出す別格の気品と雰囲気に、ヒロならずゴクウまでも手を止め、まじまじと魅入ってしまっている。



それを合図にゴクウを両側から誘っていた遊女達は名残惜しそうにしながらも席を譲り渡すようにスッと下座へと移動した。

頃合いを熟知した大夫も同様にゴクウの右側へとゆっくりと歩み寄る。

白地に桜の花びら柄をあしらった素朴な着物だが、大夫の清らかさに箔を付ける。


「この度は座敷にお招き頂き、誠にありがとうござりんす。さ、御一つ」


「あ、あぁ」


ゴクウの隣に腰を下ろした大夫に流石のゴクウも臆している。

淡い桃色の獣毛に、細くしなやかな身体。清らかで吸い込まれそうな黒目に艶めかしい桜唇。

華奢な美女はある意味、迫力があった。


差し出された杯に並々と酒を注ぐ仕草でさえ絵になる大夫に、遊女でさえ、うっとりと魅入ってしまっている。


それは彼女の秘め事の所為かもしれない。


「……」


「あっ…」


そこで漸く、ヒロもユスラ大夫の違和感に気付き声を上げた。

聡く察した大夫はヒロに顔を向け、優しく微笑むとゆっくりと頷いて瓶を置いた。


「見てのとおり、あちきは単葉。右の片腕しかござりんせん」


そう言って大夫は左の着物の袖を軽く振って見せる。

着物はヒラヒラと舞い、大夫の腕が肘の辺りまでしか無い事を表していた。


「ご、ごめんなさい!」


悪い事を訊いたと慌てて頭を下げるヒロに、大夫は尚も笑みを返し、はかなげに首を左右に振る。


「童は善き気立てをお持ちで」


恐縮と縮こまる姿を見て、しまいにはヒロを気遣う大夫。そんな大夫に見つめられヒロは顔を赤らめた。何故、ユスラが大夫になったのか、その時ヒロは、垣間見たような気がしたのだった。


大夫の持つ儚気な気配に男は引き寄せられる。護りたいと思わせる。ユスラ大夫は本当に花なのだ。



「……」


遠巻きにその光景を眺めていたヒウンは、胸がドクンッと大きく跳ね上がりジワジワと熱を持ち始めている事に気が付いた。

胸に手を当て、語り掛けてくる記憶に耳を傾ける。


それは、とても淡い熱だった。



「そろそろかのぉ」


肩越しにヒウンの様子を伺うゴクウがボソリと呟いた時だった。

何やら言い争う声が遠巻きに聞こえて来たのだ。

声を荒げているのか、品の無い醜い声にも思えた。


ひとしきり言い争って居たかと思えば一瞬きの静寂の後、醜い声は遊女の悲鳴で掻き消された。


「な、何事で?」


座敷に居た遊女達も異変に気付き戸惑いながら互いの顔を見つめ合い、ソワソワと落ち着かない様子。それでもユスラ大夫は平然とゴクウの杯に酒を注ぎ、コレコレと他の遊女を嗜めた。


「座敷に入れば御客の為に勤めなんし。それでも姫椿の名を背負う遊女でありんすか」


凛々しく通る大夫の声音に遊女はハッと息を呑み、「はい」と声を揃えて返事をすると、箸の止まったままのヒロの口元に匙で掬った豆腐を差し出した。


「ボン、はいお食べ」


「んっ…うん」


「こちらも」


慣れない事に小刻みに身体を震わせるヒロに遊女達は甲斐甲斐しく世話を焼き、ヒロはますますブルブルと身体を震わせた。


そんな中、悲鳴はなり止む事はなく、次第にドタドタとけたたましい足音と共に醜い怒声が響き聞こえてきた。

そしてそれはとうとうヒウン達の居る座敷へとやってきたのだ。


勢いよく開け放たれた襖はドタンバタンと耳障りな音を立て、震動に座敷は揺れる。たまらず悲鳴を上げた遊女と共にヒロもピョンと飛び上がり、キャッと小さく悲鳴を漏らした。


何だ何だと開け放たれた先を見れば、額に大きな青筋を浮かべ、怒りに目を血走らせた巨漢の男が仁王立ちで座敷内を睨み付けていた。


ここまで一気に駆け上がって来たのだろう。男は顔を真赤に染めながら汚らしく涎を垂らし、荒い呼吸に合わせ肩を大きく上下にゆする。


それだけで十分場の空気は冷めるというのに、男手には鞘から抜かれた刀が握り締められていて不粋この上ない。

よくよく見れば、結構な服を着た猪人だ。

男は荒い呼吸を整えもせず、刀を持ち上げ切っ先をゴクウへ向ける。

「キサマがワシの予約を蹴り割り込んだと言うガキか!!」


「さて、何の話か今一わかりませんね」


怒声を響かせる猪人の男は、唾を飛ばして顔によく似合う醜い声でゴクウを問いただす。けれどゴクウは冷めた口調で言い返すと、肩を竦めて何食わぬ顔で杯を煽った。


ゴクウの態度に男はますます顔を真赤に染め上げてドスドスと座敷の中へ足を踏み入れた。


「キサマのようなガキに遊女など百も千も早い!とっとと立ち去れ!」


「立ち去れと申されましても、此方はまだ宴の途中。はいそうですか。とはいけません」


「えぇい黙れ!生きて居たければ今すぐ座敷を出ろ!」


「後一刻半もすれば出ていきますよ」


「ぬかせ!!」


ドシンドシンと床を踏み抜く勢いでゴクウに近付く男は刀の切っ先をズンズンと近付けて脅すのだが、その切っ先が鼻先にまで迫ると言うのにゴクウは眉一つ動かさず杯を煽り続け、男を見ようともしない。


そんなゴクウの態度が男の怒りを逆撫でしたのは言うまでもなく、男の顔は赤を通り越し、黒く染まっていった。



男が斬り掛かるのも時間の問題かに思われた。けれどそこにユスラは割って入り三つ指をついた。


「タケノ様、どうか今しばしお待ちくださいなんし。ユスラは逃げも隠れもいたしんせん。必ずやタケノ様にご満足いただける宴をご用意いたしんす」


深々と頭を下げる大夫は誠心誠意の気持ちを表し平に平に男に接した。

醜く歪み、品の無い声を上げる男に気後れする事のないその態度に座敷にいた者達に尊敬の念すらいたかせる。

しかし男はそんな大夫にも切っ先を向けた。


「遊女ごときが口を挟むでない!キサマの様な下等者がワシに指図出来ると思うなよ!キサマはワシを愉しませる。それだけでいいのだ!口答えするなら切り捨てる!」


男の吐き捨てた言葉がその場にいた者に一様の怪訝と嫌悪の顔を作らせ、嗚咽させる。

自分勝手で歪みきったその思考に、醜い事が醜いとわからない馬鹿さ加減に全身が総毛立つ。


それでも大夫は顔色を変えはしなかった。


「今はこの方々に一時の夢として買われた身。夢が醒める迄はこの場を離れる訳にはいきんせん」


「まだ云うか!」


「されど、この場で買う夢は、誰で有ろうと買える夢。買われた夢にとやかく言うは野暮なお方と言うもので。タケノ様は、そんなお方と違いんしょう」


「ぬっ…」


大夫は自分に向けられる刀など気にも止めず、猛る男の目を一心に見つめ語る。

凛々しく真っ直ぐに咲く意志の花。その迫力たるや、怒り狂う男を言い淀ませるに十分な威力を持っていた。


暫しもたらされた静寂も、ただただ静かにというわけではなく、交わり弾き合う視線のやり取りに座敷の内は、グッと温度が上がるようだった。


息を呑む無言の攻防も、根負けした男が苦虫でも噛み潰したような表情を顕にした事により、ユスラの勝ちを一同は確信した。


だが、そんな空気を感じ取ったのだろう。もう優劣はついたと云うのに醜の大夫は顔に似合った往生際の悪さを見せた。


「遊女風情が愚弄しおって!」


男は、醜い顔を更に醜く歪ませて刀を振り上げるとユスラ目がけて振り下ろした。


「その右腕、切り捨ててくれる!」


巨体にものを言わせ、力任せに振り下ろされる刃は風を切り、ユスラの身体に襲い掛かる。


「……」


「ぬぁに!?」



男の狂気に誰もが遅れをとるなかで、声なき悲鳴をその背に庇い、マントがヒラリと風を切る。


一瞬きの内に刃とユスラの間に身を滑り込ませてきた青年に、男は驚き目を疑う。


しかしそれでも構わず切り捨てんと振り下ろされる刃をヒウンは手にした蛇の目傘使い払いのけた。


「キサマッ!!」


「…」


猛る男が刀を構え直すより直早く、ヒウンは傘を巧みに使い小手を打ち、続け様に胴を突く。

衝撃と苦痛に眉根を寄せる男を余所にヒウンは手を緩めず頭に、肩に脇腹にと次から次に攻め立てて、その場で右足を軸にグルリと回転すると、勢いそのままに内膝へと傘を叩きつけ、巨漢の男を打ち据えた。


「グアァッ!」


刀を放り、後ろに倒れこむように盛大な尻餅をついた男は、最早何処が痛むのかも分からぬ程に痛め付けられ、額からギトギトと脂汗を垂らして苦悶の声を漏らした。


口元からだらしなく垂れる涎を拭う事も出来ず、ただ呻くばかりの男の前に、ヒウンはスッと立ちはだかり蛇の目傘を肩に乗せた。


「……」


凍てつく独眼の眼光に見据えられ、モノ言わぬ圧力に完全に気圧された男はヒウンを見上げ、血の気の引いた表情でブルリと身体を震わせる。


「……屑虫に、情けを掛ける慈悲は無い」


取って付けてような台詞だったが、その眼光とヒウンの腕っぷしだけで、男には十分な脅し文句足りえるものだった。

一歩、二歩と揺れる巨体をもたつかせ、腰を引きずるように後退り、男はヒウンに背を向けると、ヨロヨロと立ち上がり、逃れようと走りだす。


普段で有れば、逃げる相手など気にも止めないヒウンだが、今日は何故だかそうも思えない。

胸の辺りがイガイガと剣呑な痛みを放ち、言い知れぬ感情が込み上げてくる。

気付けば傘の柄を軋む程に握り締め、大股で逃げる男の足と足の間に傘を滑り込ませ、渾身の力で傘を振り上げていた。


「ッッツ!!」


股の付け根を強打され、男の巨体がフワリと持ち上がったかと思えば、断末魔の叫びを残し、白目を向いて卒倒した。

それ以後ピクリとも動かなくなった男はブクブクと口から泡を吐き、廊下に打ち棄てられたのだった。


傘を肩に乗せ、佇むヒウン背中にユスラの目は釘付けになった。


迫る刃をものともせずに舞踊るような攻防は正に圧巻の一言。真剣を握る相手を紙傘一つで打ち負かす類い稀な身の動き、傘使い。


振り返るヒウンは息一つ乱さず、何事も無かったように凛としていた。

表情の薄いその顔に、忘れもしない顔がフッと重なり、ユスラの瞳は淡く黒目を湿らせた。


「危ない所、誠に」


「…害虫…駆除だ」


頭を下げるユスラの言葉を遮るように、ヒウンはボソリと独りごちる。誰かの言葉を借りた朧気な言葉に、伏したユスラの目はハッと見開かれ、ヒウンの表情を伺おうと頭を上げた。

けれど再びユスラに背を向けたヒウンからは、彼がよく見せたあの表情を窺い知る事は出来なかった。


騒ぎを聞き付け、次第に階段を駆け上がってくる人の気配を、ヒウンの耳は誰よりも早く察知して廊下へと歩み出た。


「あっ、お待ちに…」


縋るように掛けられたユスラの声に振り返りもせず、代わりに、持っていた蛇の目傘をユスラへと放るとヒウンはそのまま廊下へ出ると回廊から飛び降り姿を消した。


放物線を描き腕の中へと舞い降りた蛇の目傘をユスラは片腕でギュッと抱き締め、今は無き彼の姿を瞼に描き首を垂れた。


「ごちそうさま」


「じゃぁの」


一足遅れてヒロにゴクウも静かに座敷を立ち去って行く。


「よしなに…」


微かに震えたユスラの声を二人は確かに訊いていた。

声も無く、ただ呆然と座敷を後にした三人を見送った遊女達は、その後直ぐに役人を連れ現れた店主と番頭に事情を聞かれたが、そこに倒れたままの猪人に襲われかけた事と、一人の客に助けられた事以外は何も喋ろうとはしなかった。


騒動を聞き付け人が集まる中で、ユスラは腕の中にある傘を我が子をあやすように、優しく撫でては目を細めた。

部屋の隅に、飾りとして置かれていた蛇の目傘。勿論、和紙と木の持ち手だけの普通の傘だが、刀を振り払ったと云うのに、そこに傷一つついてはいなかった。


持ち手に残る温もりにそっと自分の手を添えた。



――――




その夜の出来事は、正に一晩で色町全ての遊廓に知れ渡った。

なんでも、タケノという男は大店の三男だそうで、柄も素行も悪い事で有名だったそうだ。

各有、ゴクウに治療された遊女に牙を立てた犯人もタケノだった。


遊女を漁り、花町を汚す醜の大夫も、けれどもう花町に現れる事は無いだろう。

何せ最早玉無しだ。竿すら曲がって使い物に成るはずがない。


そんな噂に今日の花町は何処か華やいで見える。



「ハァー」


けれど一人、浮かない顔で格子窓にへばりつき、昼の花町を眼下見下ろす虎の子は、憂鬱そうにため息を吐いた。


ゴクウが何故、姫椿に向かい大夫を買たのか、ヒロはあの時はまだ知らなかった。騒動の後、芍薬屋への道すがらゴクウに問い質し、やっとヒウンの中にある誰かの記憶が目覚めたのだと知った。

事情も知らず、ただ悪人の一人を伸した事にスッキリしていたヒロは忽ち憤慨した。


何故ゴクウはその事を自分に教えてくれなかったのか。事情を知っていれば自分も何かしら役に立てたかもしれない。そう思うとどうにも遣り切れない。

あの騒動さえなければ、ヒウンは大夫に誰かの記憶から、誰かの言葉を伝える事が出来ただろう。

けれどヒウンは想いを伝える事無く一人去ってしまった。


ヒウンにとって記憶は自分を探すための大事な物なのに。


「なぁ、伝えに行かなくっていいのかっての!」


室内に向き直ったヒロは、おおよそ動く気配のしない二人に問い掛けた。

片や柱に背中を預け片膝を立て瞼を閉じるヒウンに、片や昼間から肴片手に酒を飲むゴクウは、ヒロ問い掛けに耳すら貸そうとはしない。


徐々に苛立ちを顕にするヒロは窓縁から降りるとゴクウへと歩み寄り、肩を掴んでゴクウの身体を揺らした。


「なぁ!なぁっての!」


「おっとっと!危ないのぉ、そう急く事でも無いだろうのぉ」


ゴクウは杯から零れそうになる酒を啜り、素っ気ない態度でヒロを軽くあしらった。


「なんでだっての!それでもヒウンの親友って奴かっての!なんでだっての!なんでなんでなんでなんで!」


ゴクウの態度にますます苛立ったヒロはわざとゴクウの傍らで、じたばたと手足をばたつかせ地団駄を踏んだ。

端から見れば休日にどこかに連れていけと駄々を捏ねる子供にしか見えないのだが、ヒロの場合頭に来ると直ぐにチャカが出る。


傍らで暴れられては流石のゴクウも顔を顰めずにはいられない。

舞散る埃に倒れる酒瓶。ついにはガタンと床を踏みならし立ち上がったゴクウは、ヒロの首根っこを掴むと廊下へと放り出した。


「金は遣るから駄菓子屋でも玩具屋でも行ってこいのっ!」


そういって金貨を2枚放ると襖をピシリッと閉めたゴクウは再び腰を下ろし、酒瓶から直接酒を煽った。



一方、廊下に尻餅をつき一瞬きの停止を見せたヒロは金貨を広い上げるとドカドカと足を踏みならし階段を掛け降りて行った。


そのまま芍薬屋を飛び出したヒロは、頬を膨らませ、鼻息荒く通りをズカズカと突き進む。

今回はどうにも自分が蔑ろにされていると感じざるおえない。



「なんだってのアイツ!」


ゴクウの事を思い出す度に口が勝手に悪態をつく。

どうにも治まらないヒロだが、ヒウンの事を思うと少し切なくなった。


10分も怒っては凹んでを繰り返していた時だった。ふと気付けば無駄にカラフルな看板が目に飛び込んできた。

巨大な看板に玩具と掛かれたその横には、染め抜きののぼりも上がっている。


別に欲しい物が有るわけでも無かったが、気晴らしに中を覗こうとヒロは店の敷居を跨いだ。


店内には幾つもの棚が並び、その棚にはびっしりと玩具が並べられていた。


けれど、ヒロの興味を引く物は何一つ無かった。

店先の卵型で芯の無い蒟蒻の様な感触の物から、所々節のある長さ15cm程度の振動する棒。穴の空いた抱き枕に、人の腰から腿の部分までしか無い風船の様な物。

どれを見ても、どれを手に取っても用途がわからず、物欲も全く湧いてこない。

おまけに鞭に蝋燭、紫の麻紐と、とても玩具とは思えない物まで陳列されていた。


訳もわからず店内をグルリと見渡すが、やはりどれも欲しくない。結局何も買わず、店を出る頃には、訳がわからなすぎてゴクウへの苛立ちなど何処かへ落としていた。


何となくスッキリはしたが、まだ芍薬屋に帰る気分にも成れず、道端をウロウロしていた時だった。


「もし、」


「あん?」


「あぁ、やはり」


滑る様な呼び掛けに咄嗟に振り向いたヒロを見て、呼び掛けただろう頬被り姿の女性が胸に手を当てホッと胸を撫で下ろした。


女性の姿はとてもでは無いが綺麗な物とは言えなかった。

婀か汚れ、継ぎ接ぎだらけの粗末な服に素足に草履姿の女性は、ヒロにペコリと頭を下げた。


頭を下げられたはいいが、見ず知らずの女性に何故と問い掛け様とした時だった。

一連の動きに優美な舞を観るかのようにヒロの視線は釘付けになったのだ。


こんな体験は記憶に新しい。

ヒロは戸惑いを隠せなかった。


「え?えっと…まさか…」


ヒロの言おうとしている事の先を聡く察した女性は、口元をほんの少し持ち上げて微かな笑みを拵えた。



ヒロが出会った薄汚い装いの女性。それは紛れもないユスラ大夫だった。


「えっ?あっ!えっ?」


何故、道中前の昼の花町に大夫が居るのか。何故このようなみすぼらしい姿でわざわざ街中を歩いているのか。ヒロの頭は一瞬きにして疑問の嵐に見回れた。

考えれば考えるほど、訳がわからなくり、目を回し始めたヒロの様子を伺い見る大夫は、何かを気ががりにし、何処か落ち着きがない。


頭を振る度にカラカラと音を鳴らすヒロの様子を見兼ねてか、痺れを切らしてか、大夫は今一歩ヒロへと歩み寄る。


「童が居ると云う事は、あの御方もまだ此処に?」


「ん?…お、おう」


まじまじと見つめられると、その迫力は凄まじく、みすぼらしい服などほぼ無意味。滲み出る大夫足りえる美しさは隠しきれずにいた。

そんな大夫に詰め寄られては仰け反らずにはいられない。ヒロは頷きの先出しに、後出しで大夫の言うあの御方とやらを思い浮かべた。


大方、座敷の幹事だったゴクウだろうと当たりをつけ、ヒロは一拍置きもう一度頷いて見せた。

すると、それまで落ち着かない様子だったユスラの瞳に安堵の色が添えられた。


「どうか、会わせておくんなんし」


対面し、深々と頭を下げる大夫をヒロは制し、ユスラ大夫の願いを快く引き受けた。

何はともあれ、これでヒウンと大夫の接触もなしえる事が出来る。これでやっと役に立てると息巻くヒロは、追い出された事などすっかり忘れ、意気揚々とユスラと連れ立ち、二人の居る芍薬屋へと向かった。



道中に何人もの男とすれ違ったが、皆が皆、二度見三度見と振り返り、皆大夫とは気付きはしないものの、恨めしそうにヒロを見てきた。

気まずさから自然と歩みを早め、逃げ込むように芍薬屋の敷居を跨いだヒロを番台に座る女将が出迎えた。


「おや、お帰り。…おんやぁ?女連れたぁ昼間っから御盛んな事で。床を用意させようかい?」


「ちちちっ違うっての!!」


女将はヒロが女を連れ込んだと見るや、ゴクウの様な意地の悪い笑みを作りヒロをからかう。

途端に赤面したヒロは尻尾をクルリと巻き上げて階段を駆け上がっていった。ヒロの初初しい反応を横目に楽しみながら女将の豪快な爆笑がいつまでも響いた。



時折振り返りながら急な階段を登り、大夫を二人の居る座敷へと案内したヒロは瞼を閉じ、襖の前で大きく深呼吸すると両の襖に手を掛けて勢いよく開け放った。

瞬時に集まる視線を感じながら、ヒロは揚々と鼻を鳴らす。


「フッフッフ!お前等の為に凄い人を連れてきてやったっての!」


本当は偶然出会っただけなのだが、ヒロはどうしてもゴクウに一泡吹かせてやりたかったのだ。瞼の裏に思い描いた未来には自分にひれ伏し、絶賛の声を上げるゴクウがいた。

だが、耳を澄ましてその時を待っても、一向にそんな声は上がらない。それどころか囁き一つ起こらない。

不安に駆られ恐る恐る瞼を開いたヒロ。そこには何処か哀れみを宿した冷めた眼差しと絶妙に居心地の悪い空気が漂っていた。


「まぁ、あれだの。…座れ」


思い描いた物と余りにも掛け離れた現実とゴクウの態度に、ヒロは冷や汗と困惑に満ち満ちてしまう。

そんなヒロにゴクウは諭す様に格子窓を指さして言った。


「此処がどういう所で、この空気がどういう事か、今一度良く考えてみろのぉ」


ヒロは焦りを押さえつつ、ゴクウの言葉の意味する事へ必死に思考を働かせた。

先ず落ち着いて、一つ一つの疑問に目を向ける。

一つ。ゴクウの言う「此処」それは芍薬屋で間違いはない。次に「どういう所か」。座敷、だけでは何かが物足りない。視野を広げて芍薬屋の三階の座敷であり、芍薬屋は丁度花町の真ん中に位置している。ゴクウの指さす格子窓からは花町が一望出来た。最後に「この空気」。まるでヒロがユスラ大夫を連れて来るのがわかっていた様な。

そこまで考えてヒロはハッと顔を上げた。


花町が一望出来ると云う事は、自分が大夫と偶然出くわした事や、馬鹿みたいに戸惑う姿も遠巻き見えたのではないか。

従ってゴクウの言った「この空気」とは、さも自分の手柄と言わんばかりに胸を張り、自慢気に語るヒロの見え透いた嘘に興醒めした結果だと考えられた。


答えに辿り着いた途端、ヒロは惨めさと恥ずかしさに苛まれ、短い悲鳴を上げた後、その場で四つ足をついて落ち込んだ。


「童っ」


「いい、いい、気にするなのぉ」


「でも、よろしいので?」


いきなり崩れ落ちたヒロにユスラは驚き、膝を折ろうとしたがゴクウに止められた。

仲間であるはずのヒロが取り乱していると言うのにゴクウの態度は余りに冷めている。座敷で見たゴクウはもっと社交的だったはず。なのに今、目の前に居る人物は、まるっきり別人のようにユスラの目に映った。


「時間も無いのだろの、丁度オイ達も野暮用で出て来るからのぉ」


立ち上がったゴクウはユスラ大夫を座敷内に招き入れ、戸口で打ち拉がれるヒロの襟首を掴むと、大夫と入れ替わるようにしてヒロを引きずり、そのまま階段を降りていった。


「…」


「……」


室内に残されたヒウンとユスラは互いになかなか口を開こうとはせず、座敷は静まりかえった。


暫し訪れた静寂を先に破ったのはユスラの方からだった。


「お訊きしたい事がありんす」


ヒウンの真正面に正座したユスラは、氷のような冷たさを持つヒウンの独眼を一心に見つめ、真剣な面差しをヒウンへと向けた。

ヒウンはゆっくりと瞬きをすると胸に手を当て、ユスラを真っ直ぐに見つめ返し、重い口を動かし言葉を紡ぐ。


「…レイジの事か…」


「やはり、御存じで」


「…」


ヒウンの口から出た人の名に、ユスラの目は見開かれた。そのままコクリと頷くユスラに、ヒウンは静かに首を左右に振った。


「御存じではないと?」


「…」


また首を左右に振るヒウンの様子にユスラは困ったように眉根を寄せ、ヒウンの意図を計りかね、そのまま黙り込んでしまった。


そんなユスラを真剣な眼差しで見つめていたヒウンは拳を握り締めた。

「…レイジの記憶は此処にある。…レイジの細胞だ…」


己の胸に手を当て、そこにある細胞を差してヒウンは言った。



「…お前が関係者なら、話さなければいけない」


覚悟を決めて口を開いたヒウン。

うまく喋る事が出来るかわからないがユスラには伝えなければならないと思った。

ユスラは「はい」と小さく呟き、大人しくヒウンの言葉に耳を傾けた。


「…俺の身体は何十何百の他人(ヒト)の細胞等が組合せられ出来ている。キメラと言ったらわかりやすいだろう。それは俺が幼少の時にアル場所で人体実験をされたからだ」


唐突に始まったヒウンの身の上話に、ユスラは目を見開いて驚いている。いや、戸惑っていると言った方が正しい。

これまでの誰もがそうだった様に、ユスラもまた自分の耳を疑い、ヒウンの話が嘘か誠か思案し困惑する。


そんな表情を見るたびに、ヒウンの胸は、言い知れぬ感情が渦巻く。黒く鋭い刃の様にヒウンの内側は何度斬り付けられただろう。これから何度斬り付けられるのだろう。


この痛みに、自分は何時まで耐えられるのだろうか。

誰に答えをもらえばいいのかヒウンには分からない。答えてくれる誰がヒウンの中にはいない。


「…俺の記憶は途中からしかない。けれど時折、記憶が蘇る事がある。俺はその記憶を頼りに各地を周り、誰の記憶なのかを確かめている。自分の抜け落ちた記憶なのか、他の誰かの記憶なのか、確かめて行くしか己を確かめるすべがない。それは、俺の記憶と存在を探す旅でもある」


ヒウンは顔に影を落とし俯いた。この話はもう何度もした。けれど、信じてもらえる事は稀で化け物や嘘吐きと呼ばれる事の方が多い。その度にヒウンの内側で刃が振り回される。



「さて、どうするかのぉ」


芍薬屋の玄関脇に立ちゴクウは腕組みをして空を見上げた。

大夫には野暮用と言ったが、本当は当てなどない。ヒウンと大夫を二人だけにする口実だ。

いや、それでは良く聞こえ過ぎる。ゴクウは、本当は逃げたのだ。あの場から。


ゴクウも昔は、あの場にも何度が立ち会った事がある。

初めは嘘だと、信じられないと疑った。けれど、その話をする時のヒウンの顔は、酷く悲しげで、恐怖に耐え苦しみ、痛みに耐えて苦しむ様に陰るのだ。

そんな表情をされたら、ゴクウは自分だけでも信じてやらねばと、支えてやらねばと思うのだった。


その中で一度、ヒウンは真実を語り、それでも信じて貰えず化け物と罵られ、嘘吐きと呼ばれた場面に立ち会った事がある。

その時は、小石を投げつけられながらも避けず、震える身体を懸命に押さえ付け、額を伝う血を拭いもせずに耐えるヒウンの姿にただただ泣いたものだ。


その場はゴクウにより強制的に逃げ、事無きを得たが、ヒウンは胸を掴んだままずっと震えていた。


痛みを痛みと知らず、恐怖を恐怖と知らずに、それでも耐え続けるヒウン。

いくらゴクウが忠告した所で、ヒウンが辞める事はなかった。

何時からかゴクウはその場に立ち会う事を辞めた。もうあんな姿のヒウンを見たくは無かったのだ。


「嘘をつけば、いいのにのぉ」


つい、本音が口から零れ出た。


真実を話す者を嘘吐き呼ばわりする者こそ、嘘吐きだと思った。

真実を信じられないそんな世なら、だだの虚構でしかない。

偽りだらけの世なら、真実などいらないではないか。


けれど、そんな世だったとしてもヒウンは偽らないのだろうなと思う。


「まったくのぉ…」


怪訝な表情を作ったゴクウは空に向かって小さく舌打ちをした。


「気晴らしに散歩してくるかの。お前も散歩してこい」


「イテッ!」


傍らで落ち込むヒロの背中を思い切り叩いたゴクウは、いつもの様に片眉と片方の口角を持ち上げ、シシシと笑うと、ヒロに背を向け腕を上げた。


痛みに背中を擦りながら、ゴクウの後ろ姿を睨み付けたヒロは、頭に血を上らせて額に青筋を作るとゴクウに向けて思い切り舌を出し、反対方向へと歩き出した。

それまでの羞恥など、痛みですっかり忘れてしまったヒロである。




座敷では、静寂が続いていた。

未だ嘘か誠か計りかねているユスラに、ヒウンは口を挟む事はなく、ユスラの言葉をただ待っていた。


ユスラが漸く口を開いたのは一刻が立ってからだった。

それはユスラの想い出話し。


「私は13の時、此処に売られてまいりんした。借金の形。よくある話でござんす。苦労も多ござんしたが、生まれ持っての容姿に客が着き、17の時、大夫の名を頂きもうした。レイジと出会ったのはその頃でありんす。突然店を訪れて、私の前で傘持ちを申し出たのでありんす。その場は断ったのでありんすが、レイジはしつこく傘持ちを申し出てきんした。私も店主もレイジのしつこさに根負けいたしんして、レイジは私の傘持ちと相成りんした。レイジはそれは腕っぷしの強き者でござんした。10人の輩を1人て打ちのめした事もありんす。それに、何より純な眼の持ち主でござんした。…今思えば、一目惚れだったのでござんしょう」


そこまで話すと、ユスラはヒウンを見て恥ずかしそうにクスリと笑った。


「遊女が一目惚れなんて、可笑しな話しでござんすが、本に愛おしい眼でありんす。されど、遊女と傘持ち、結ばれる事は決してありんせん。それでも、共にいれるだけで私は幸せを感じる事ができたんでござんす。それから何年もの月日を共にしたある日の事、別れは突然やってきたのでござんす」




それは、湯浴みの日の事。

ユスラは部屋で湯浴みの番を待っていた。

結った髪を解くと絹糸のように細く艶のある髪は背中を覆うほどに長く、格子窓からの風にフワリと舞踊る。

サラサラと風になびく髪の間から垣間見るユスラの表情は幼さの面影がちらつく。


春先の冷たい風を頬に浴びながら目蓋を閉じたユスラは、遠い故郷を思い出した。

山と山との合間。山肌を削り、開拓した小さな村の暮らしはとてもではないが豊かなものではなかった。

夏でも山頂からの冷たい風が吹き下ろし、頬を掠めていく。

作物も満足に採れないそんな暮らしだったが、ユスラにとっては人と人との繋がりをおもんじる村の暮らしが好きだった。


借金さえなければあの村で一生を遂げていたに違いない。その借金にしても父の病を治す為には仕方なかった。


返済の目処も立たない。それでも父を救いたい。その時既にユスラの目は先を見据え、覚悟を決めた。



身売りされやってきた遊廓。

毎晩好きでもない男の相手をする日々。それでもユスラは音を上げず懸命に働いた。

結果、太夫の名を貰うのにそう長くはかからなかった。


覚悟を決め、やってきた。それでも時折、冷たい風を浴びると故郷を思い出し、郷愁に狩られてしまう。

客の前では優美なユスラだが、精神にまだ幼子がいて顔を覗かせる。



その都度ユスラは首を振り、弱さを追い出そうとするのだが、なかなか幼子はしつこい。こんな時は湯浴みで気を紛らわすのが一番だと、己が番が来るのを待った。



しかし遣ってきたのは湯浴み番ではなく5人組の拐わかしだった。

咄嗟の出来事に声を上げることもままならず、伸びる手を必死に掻い潜り抵抗するユスラだったが、男5人ともなれば力で勝てる訳が無い。容易く拘束されてしまい、引き摺られるように部屋を出ようとしていた。


恐怖と困惑と痛みに支配され、視線が涙で揺らぐ。思考もままならない中、一筋の流星が舞い降りユスラに希望を与えた。



「レイジは異変にいち早く気付き、駆け付けて拐わかしの手から私を救い出してくれたでありんす。けれど輩はなかなか退かず、質の悪いことに強者ばかりでござんした。レイジは私を庇いながら懸命に対峙しておりんしたが、背後に回った1人に反応が遅れ、倒れたのでありんす。その透きに一斉に斬り掛かろうとする輩からレイジを庇おうと私は飛び出し、その時、左腕は無くしんした」


その後、駆け付けた役人により、拐わかし達は捕まり、大夫も駆け付けた医師の治療により命までは落とさずに済んだのだと言う。

けれど、腕を切り落とされた事により、大夫は1週間の間、高熱に寝込んだのだそうだ。

それから更に2週間、部屋からも出れず安静に過ごした後、漸く動ける様になった時には既にレイジは姿を消していた。


「酷い咎め立てに有ったのでござんしょう。レイジは私を庇いながら戦ってくれたと言うのに…」


ユスラは急に言葉を詰まらせた。

苦しそうに小さくむせながら、身を震わせ、俯いたまま畳にポタポタを雨を降らせた。


「私は…レイジに謝りたい…私の所為で店を負われたレイジに謝りのです…どんな罵りも、甘んじて受ける所存。…レイジは今、どちらに…」


震える声に水音が混じり、ユスラの声は弱々しくなっていく。

ヒウンは少し眉尻を下げ、困惑の色を垣間見せたのだが、細胞の熱の高まりに意識を移した。


「…レイジのその後は分からない…ただ…心残りがあるようだ」


「ッ!?」


ユスラの息を呑む音が聞こえた。

引きつる声音は罵りの言葉を覚悟しての事だろう。ヒウンはそのまま記憶を汲み取った。レイジの強い思いは鮮明な記憶となってヒウンの脳裏に映し出される。

そこから読み取れるのは、ユスラの話した事とは少し違っているようだった。


レイジは自ら店を出ていったのだ。ユスラを護ると言いながら、怪我をさせてしまった事を後悔して、己を許せなくて。会わせる顔がない、会う資格がないと。


そして記憶に滲む淡く切ない温かさ。

レイジもユスラの事を…。



「…すまない…許してくれ」


ヒウンの口を借りて、レイジの言葉が紡がれる。

謝罪の言葉にしては温もりの強い想い。懐に含まれた言葉の意味。


「アァッ、アアァァッ」


ユスラは声を押し堪え切れず、その場で泣き崩れた。

何かが許されたような感覚に、とめどなく涙が溢れ出た。


想いを伝えた細胞が、徐々にその熱を下げていく。まるで眠りに落ちるように、記憶が遠く薄れていく。


夕暮れの近付く空に光の粒が瞬いた。




陽もすっかり傾いた頃、ヒロはある店の前で佇んでいた。

並ぶ棚、溢れる玩具。そこは昼過ぎに訪れたあの玩具屋だった。


別に欲しい物が有るわけではない。ただ、ヒロにはここの玩具は一体なんなのかが気になっていたのだ。


「超!気もちぃー。…?」


店先の棚の前で屈み、手に取った節ばかりの棒を握りながら広告を読み頭を捻るヒロ。

スイッチを押せば手が痺れる程に震動する棒を肩に押しあてて見た。


「アァアァアァアァ!」


震動に合わせて声が揺れる。

これはこれで面白いのだが、気もちいかと訊かれれば、そうでもない。寧ろ擽ったい。


「うーん…なんだっての?」


棒を見つめ、スイッチを入れては切ってを繰り返し、その都度首を傾げるヒロを、通り過ぎる大人達は皆、微笑ましげに、時に恥ずかしそうに横目に見ていた。


「童にはまだ早い玩具でござんすなぁ」


かけられた声に振り返ったヒロは、覗き込む様にして立つユスラと目が合った。

微笑むユスラは相も変わらず美しい。けれどその目は赤く腫れてしまっていた。


「用は?」


「もう、済みんした」


ヒロを真っ直ぐ見るその瞳は、晴れ渡る空の様に淀み無く澄んでいた。

昼過ぎのあの不安気で落ち着きの無い雰囲気は、今はもう微塵もありはしない。

ヒウンは記憶の言葉を伝えられたのだろう。


「それで、あの…」


「私はあの御方を信じんす。彼もきっと、この世界の何処かにおりんしょう」


「そっか」


祈る様な心境で言葉を選ぶヒロを遮ってユスラははっきりと告げた。

希望に満ちた言葉の中に、ユスラの決意を垣間見たヒロは、己の懸念に幕を閉じ、息と共に吐き出した。


「ソレの使い方を知った後、また、店に来ておくんなさい。その時を楽しみにしておりんすよ」



去りぎわに見せたユスラの笑顔にヒロはドキリと肩を跳ね上げた。


気の所為か、ユスラの美しさに更に箔が付き、本人にも自信が溢れているようだった。

アレではもう、ボロ着でも素性は隠せまい。


ヒロがそう感じたように、忽ちボロ着姿のユスラの周りに人集りが出来ていた。


沢山の男共を従えて、ユスラは道の真ん中を悠然と闊歩して行く。

夕焼けに真っ赤に染まる彼女の背中。一度大きく手を振ったヒロは、跳ねる様にヒウンの待つ店へと駆け出した。



「終わったのぉ」


帰路の途中、ゴクウに再会し、共に芍薬屋へと赴いた。


店の前で立ち止まり、ふと見上げた三階の窓辺に遠くを見つめるヒウンが見えた。ヒウンも視線に気付いてかヒロを見下ろす。

ヒロは満面の笑みを拵えて、ヒウンに向けて大手を振る。

ヒウンからの反応はないが、それでもヒロは何故か、嬉しくてまたらない。


急いで部屋へと向かうヒロをゴクウはやれやれと肩を竦めて追いかけ、ヒウンはただ二人の帰りを待っていた。



ドタドタと世話しない足音が芍薬屋に響き、ヒウンの鼓膜を頻りに揺らす。

それでも聴き入るヒウンの顔は何時もより、ほんの微かに色が宿っていた。





「忘れ物は?」


「無いっての!」


母親の様に訊ねてくる女将に向かいヒロは威勢よく答え、敷居を跨ぎ出た。玄関先では、朝日の中に芍薬屋の遊女達がズラリと並び、その先にはゴクウとヒウンが佇んでいる。

駆け寄るヒロの頭を鷲掴みにしたゴクウは、そのままワシワシと乱暴に頭を撫でながら女将へと視線を移した。


「世話になったのぉ」


「なぁーに、この位屁でもないさ。それに醜の大夫を懲らしめてもらったんだ。こっちこそ礼を言うよ」


ガハハと豪快に笑う女将につられ、ゴクウもシシシと強かに笑って見せた。

そんなゴクウに遊女達は群がり科を作る。


「いやぁ、もう少し居ておくんなんし」


「離れとうありんせん」


「アチキ、胸が痛とうござんす」


あの手この手でゴクウを落そうとする遊女達を、馴れた手付きで捌いたゴクウは、クルリと背を向け手を上げる。


「また薬が切れる頃、くるからのぉ」


「お世話さま!」


別れを惜しむ声。次の来店を待ち侘びる声。旅の無事を祈る声。

思い思いの声を背に、ヒウン、ゴクウ、ヒロの三人は花町を後にした。


そのままずずいと港町の門を抜け、街道を進む。見れば道が二股に別れている。

ゴクウとの別れを間近に感じ、ヒロは少し寂しくなった。

意地悪で、口が悪くて、態度も悪い、一言で言えば嫌な人。それでも少しは好きになれそうだったのにと頭の隅で思った。


「なぁ、ゴクウは何で口悪屋なんてやるんだっての?」


「ん?そうだのぉ」


唐突に投げ掛けられた質問に、ゴクウは眉一つ動かさず、当たり前の様に答えた。


「この世は虚構に満ていると気付いたからかのぉ、それと人も嫌いだからだの」


「えっ!?」


余りにしれっと答えるものだから、訊いたヒロは馬鹿面で驚いてしまう。人が嫌いなら口悪屋になるのかとも思った。


「じゃ、じゃぁ、何でヒウンとは親友なんだよ?」


ヒロの問いにゴクウは離れて歩くヒウンに視線を向け、シシシと笑った。


「こいつは嘘をつかんからのぉ」


ヒウンを見つめ、笑うゴクウは、本当に本物の友達の顔をしていた。

こんな柔らかい顔も出来るのかと思うと、もう少しゴクウの事が好きになれそうだとヒロは思った。


「お前は嫌いだがの」


振り返り、指をさされ断言するゴクウに、絶対好きになれないとヒロは強く思った。


そうこうしていると別れ道は眼前に迫っていた。


「まぁ、何でもいいっての。どっかで会ったらその時は…?」


別れ道の前で足を止め、別れの挨拶をしようと手を差し出したヒロをゴクウは不思議な物でも見るような眼差しを向けてきた。

その眼差しの意味する事がわからず、ヒロは別れ話しを打ち切って小首を傾げた。


「あぁ、お前には話して無かったのぉ」


何を思い出したのか、ゴクウは不意に大声を上げ、パンッと手を叩いて見せた。


「ちと頼みが有ってのぉ、暫くコイツと行動を共にする事になったんだの」


「えっ、えぇぇぇー!!」


今度はヒロが大声を上げておののいた。

せっかく嫌な奴と別れられると思ったのに、暫く共に行動しなければならない。そう思うとヒロの身体から見る見る力が抜けていった。


「お前はコッチにいくのか?じゃ、何処かでまた会おうのぉ!」


「ま、待てっての!置いてくなっての!」


吐き捨てるようにそれだけ告げたゴクウは、スタスタと徐々に登り坂へと成りつつある左の街道を進んでいく。

自分にはお構い無しに歩みを進めるヒウンとゴクウ。

ヒロは慌てて二つの背中を追い掛けた。



この先は苦しい旅に成ることをヒロは嫌でも確信したのだった。





終わり。と…






オマケ




「そうじゃ、オイがある植物を研究して作り出した最高の薬をお前にやるでの!」


「ホントにぃ?」


「……」


「なんじゃいその目は!」


「だってぇ…」


「まぁ、訊けのぉ。取りい出したるは一粒の薬!試行錯誤に早5年、遂に完成したるは、どんな病でも死なない薬!」


「えっ!マジか!本当に本当か!?」


「マジも本当も大マジよ!一粒飲めばあら不思議!不治の病だろうが御サラバよ!」


「スッゲーっての!ゴクウってそんなスッゲー奴だったんだ!」



「フッフッフ!褒め称えるのは後にしろのぉ!ホレお一つ」


「ありがとうっての!…んっ!甘い!飴玉見たいに甘いっての!」


「そうだろうのぉ、そうだろうのぉ、」


「旨い!コレ材料は何?」


「トリカブト」



「…!!?」


「へぇ〜…ゴックン…トリカブトって?」


「「!!!!?」」Σ( ̄□ ̄;)


「??」


「……」


「………」


「…解毒薬やるから…直ぐ飲めのぉ……」



「あ?あん??」




「…無知の勝利………」



*オマケ*


memory №03 END


To be continued.


無口で無愛想なヒウンの旅はまだまだこれから。


拙い文章ですが、お読み頂きありがとうございます。

楽しんで頂ければ幸いです。



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