cell memory 彼方(カナタ)
それは本人も忘れてしまった遠い過去の記憶。
記憶とは、決して消えない。ただ思い出せないだけで…
cell memory 外伝
《夏の記憶〜儚〜》
それは、ある夏の話。
周囲をぐるりと取り囲む建物。その中で空き地には草が生い茂り、生ぬるい風に煽られてはサラサラと葉を擦り合わせた。
忘れられたようにぽっかりと空いたその場合で、朝顔は照りつける陽射しを受けて尚、力強く小さな花弁を満開に広げている。傍らで、太い幹に大きな葉を幾つも着けた一本の向日葵が、重た気に丸々と大きな蕾を着けていた。
当分花は拝めそうにないそんな向日葵の前に、年の頃は4、5歳ほどの幼子が一人。
手には子供用のピンクの像の形をした如雨露を持ち、自分の背丈より遥かに高い位置にある蕾を睨み付けていた。
「まだ咲かない…」
幼子は苛立ちを露にし、頬を前回に膨らませて、鋭い眼差しで向日葵を威嚇する。
幼子が何故そうまでして怒りを露にするのかと云えば。
草ばかりの空き地に何処からかもらってきた種を植え、毎日毎日、小さな如雨露で水を与え、一日も欠かさず世話をしてきたからだ。風の強い日も。雨の日すらも。
毎日毎日、いつ咲くのか、いつ咲くのかと水を与え、蕾がつけば今日咲くかも、今日咲くかもと幼い胸を膨らませては、その一本の向日葵にガッカリさせられてきたのだ。
「早く咲けっての!」
幼子は向日葵に悪態をくつと蹴飛ばした。
ザザッと小さく前後に数回揺れると何事もなかったようにまた静かに佇んだ。
「チェッ…」
下手くそな舌打ちをして幼子は向日葵に背を向けた。
空き地を後にした幼子は歩きながら、明日は鎌を持ってきて向日葵を脅してみようかと、拙い作戦を真剣に検討しては頭を捻るのだった。
歩き慣れた裏通りをスタスタと歩き、一軒の宿屋に入ると、そこには沢山の若者がたむろしていた。
内装もまだ新しい宿屋はついこの間潰れたばかりの元宿屋。今はそこを寝城としている輩のアジトだ。
柄の悪い輩がわんさと居る中を幼子は平然と進み行く。
幼子に気付いた若者達も何をするでもなく、幼子にあたたかい眼差しを向けていた。
一人が進み出て幼子の前に立つ。
「お帰り。どうだった」
猫人の男は大きな身体を窮屈せうに曲げ、幼子と目線を合わせると、渋い猫なで声で優しく語り掛けた。
イカツイ顔をクシャリと柔らかい表情をして笑う男に、幼子は無言のまま膨れっ面で返す。
その態度で全てを理解した男は、ゴツゴツと筋張った大きな手で、幼子の頭をワシワシと撫でた。
「子供扱いするなっての!」
幼子は男の手を払い除けると、渾身の力を乗せた蹴を脛に浴びせ、バッと身を翻し階段を駆け上がっていった。
男は的確にヒットした脛を押さえ、低く低く呻きながら走り去る幼子の後ろ姿を見つめ、小さく口角を持ち上げた。
「…可愛い奴め」
男は幼子の姿が見えなくなると、薄らと滲む涙を拭い、何事も無かったように輩の輪の中へ戻って行った。
えっちらおっちら階段を短い足で上る幼子を後ろから伸びた手が掴み上げる。幼子はそのままヒョイッと肩に担ぎ上げられた。
一瞬戸惑いを見せた幼子も、嗅ぎ慣れた大好きな匂に、頭を両腕で。首を両足で締めあげた。もとい、抱き付いた。
「ングッ!流石は俺の弟…バッチリ決めてるってな…」
男は青ざめながらも、幼子の頭に手を伸ばし、ヨシヨシと優しく撫でた。
幼子はそれが嬉しくて堪らない。その証拠に、尻尾は千切れんばかりにパタパタと左右に揺れていた。
幼子を是程に喜ばせる男の正体は、実の兄である。
弱冠14歳にしてチームを造り上げ、自分より歳上の強面共を束ねるリーダー。幼子にはそれが誇りであり、自慢であった。
何より、自分が心おきなく甘えられる唯一の肉親にして、優しい兄。
兄も兄で、幼子にベタ惚れで、それはもう、周りが赤面した顔で苦笑いを浮かべたまま顔を背けるほどの相思相愛ぶりなのだ。
兄のチームで、唯一兄に勝てるのはこの幼子だけ。
さらにはその行動や態度で、幼子は“歳上殺し”の二つ名まで持っていた。
男は幼子の足首を軽く掴み、首から肩へと移動させ、大きく息を吸う。
「で、向日葵はどうだったってな」
兄の問に幼子の尻尾はパタリと止まり、幼子は兄の頭に顎を乗せ、頬を膨らました。
「咲かない…アレはオスだから咲かないのかも」
「オス?」
男は幼子の言葉の意味が理解出来ず、首を傾げて頭上を見る。
幼子は立派な頬袋を拵えていた。
「オスは咲かないのか?」
男は子供は面白い思考を持っているな、と思い、それでも笑わないよう気を遣い問い返すと、幼子は黙ったままコクンと小さく頷いた。
幼子はそのまま喋らなくなり、男の肩と頭はズシリと重くなった。耳をすませば、小さな寝息が聞こえる。
男は笑みを浮かべたまま静かに自室のドアを開けた。
翌朝、幼子は目が覚めると同時に枕元にある小さな如雨露を片手に部屋を飛び出し、階段を駆け下り、玄関横の掃除用に取り付けられた蛇口を捻り、如雨露に水を入れ、空き地を目指した。
夏の朝特有の空気が地表の辺りで揺らめいていた。
両手で抱えた如雨露がチャポチャポと音を立てる。
重いけれど、苦にならないのは、期待があるからだろう。
朧気な朝日が顔を覗かせた頃、幼子は空き地に到着した。
いざ、水をやろうと向日葵に近付いた幼子は肩を跳ね上げた。
今日も向日葵は頑なに蕾のままだった。その向日葵の前に、鮮やかな薄緑のマントを羽織った見知らぬ幼子が立っていた。
見知らぬ幼子はジッと向日葵を見上げていたが、気配に気付き振り向いた。男の子のようだ。
氷のような青さを持つ水色の髪。
キラキラと光を反射するような白銀の獣毛。
そして、透き通るような双眼に言葉を奪われた。
年の頃は己と同じくらいの彼は、けれど、同い年とは思えない何かを秘めていた。
その何かが何なのか。幼子の辞書にはまだ乗っていない。
暫し無言で視線を交合わせていると、幼子は寒さに身震いした。
夏の朝だ。昼間に比べると若干気温は低い。けれどそれは、涼しいであって寒いではない。
彼の双眼に魅入ってしまうと、その透き通るような瞳に、一瞬。言葉だけでなく、体温まで奪われてしまったようだった。
「…コレ、君の?」
身震いする幼子に、彼は向日葵を指さし、静かに云った。
声音は幼児のそれだが、落ち着いたよく通る声だった。
「…うん」
幼子は片手で腕を擦りながら頷いた。彼の目を魅入らなければ、不思議と体温が戻ってくる。
「大きいね。毎日世話してるの?」
「…うん」
「えらいね」
彼はそう云って笑った。幼子はその笑顔にドキリとした。
屈託の無い、無垢な満面の笑み。その笑顔が薄い氷のようで、直ぐに壊れてしまいそうで、触れてしまったら、彼と云う存在が無くなってしまうような。そんな儚さを纏っていた。
彼は護らなければならない者なのだと、幼子は幼いながらに直感で理解した。
「…お前、どっから来た?この町の人じゃないだろ」
幼子は恐る恐る彼の傍らへ行き、問う。
口調は周りが輩の所為もあり、乱暴だが、声音は柔らかい。
「うん。違うよ。遠くから来たんだよ」
「独りでか?」
「ううん。お兄ちゃんと」
「へぇー」
幼子と彼は空き地に置かれた土管に腰掛け、いろんな話しをした。彼は兄の仕事に興味があり、遺跡や古書を探し、研究するために各地を周っているのだと言った。
この町以外を知らない幼子にとって、彼の話はまるで冒険漫画のようで胸を躍らせて聴き入った。
話に夢中になって時間を忘れてしまった幼子は、グオォォォと言う腹の音に自分で驚いた。
気付けばお昼を知らせるサイレンの音が耳に届いた。
「あ、暑いっての!」
「本当だ、汗ビッチョだ」
暑さに驚き、腹の音は更に盛大に鳴り響く。二人は互いの顔を見合せて笑い合った。
「そろそろ宿屋に帰らなきゃ」
「なぁ…」
土管から飛び降りた彼はバイバイと小さな手を軽く振った。
その姿に幼子は急に寂しくなり、心細い声で彼を呼び止めた。
「なに?」
彼は足を止めてくれた。けれど、幼子は何を言ったらいいのか、わからなくなり、モジモジと指を絡ませた。
輩ばかりで同年代の友達がいない幼子は、彼との別れがとてつもなく寂しくなった。もっと彼の話を訊きたかった。
自然と幼子の目がウルウルと湿っていった。
それを見て全てを悟ったのか、彼は笑う。
「明日もまた来ていいかな」
その言葉に幼子の顔はパァーッと明るくなる。
「もちろん!」
心からでた嬉しさを含んだ声は、跳ねるように夏の澄んだ青空に消えていった。
何度も何度も振り返り手を振って互いが見えなくなると、幼子は尻尾をピンと立て、スキップで帰った。
角を曲がればもう少しでアジトという所で、幼子は幾つもの手に捕まり、高々と天に掲げられた。
「居たー!」「捕まえたー!」
次々に上がる声に、幼子は呆然と天を見た。
何人もの輩に、神輿の如く担がれてワッショイワッショイとアジトの玄関を潜れば、青ざめた男と目が合った。
男は電光石火の速さで幼子に飛び付くと、痛いほどに頬擦りをしてきた。
「おぞいがらじんばいじだぞぉ」
(遅いから心配したぞ)
そういいながら男は細長い帯紐を取り出すと幼子に括り付けた。
昔懐かしのおんぶ紐だった。
男はそのまま幼子を背中におぶると、やっと落ち着いたのか、ハァと大きく息を吐いた。
「ヨシヨシ、ヨシヨシ」
どこから出したのか、左手にガラガラを持たされ、どこから出したのか、おしゃぶりをさせられた幼子は、未だ呆然としたままだった。
こうなると、男の気がすむまでは幼子はこの格好が続く。
結局その日は兄が離してくれなかった。
それでも幼子は兄がくれる愛情が嬉しくてたまらない。
翌朝から、幼子は彼に会うために空き地へ向かった。
「おはよう」
「はよう!」
笑顔で挨拶をすると、水やりもそこそこに、幼子は彼との話しに夢中になった。
彼の話は拙いけれど、それでも話に出てくる風景や生き物を想像するのは楽しかった。
そんな日々が何日も続いた。
そして、別れは突然来た。
「空き地か…なくなる…」
いつもの様に昼にアジトに帰った幼子に、一人の男が告げたのだ。
周りの建物の老朽化が進み、区画整理が行われる事になったのだ。区画整理とは言っても爆発処理だ。その後は重機で真っ新な土地にされてしまう。
幼子はショックの余り、声も出なかった。彼に会えなくなってしまうのが辛かった。
幼子は慌ててアジトを飛び出して空き地に向かった。けれど空き地への道は全て塞がれてしまい、空き地にすら辿り着けなかった。
「ねぇ」
途方に暮れる幼子を呼ぶ声がした。振り返れば、マントや靴を泥で汚した彼が立っていた。
驚く幼子に彼は歩み寄り、幼子の手を取った。
「こっち」
彼は幼子の手を引いて歩き出した。
訳もわからず、ただ会えた事を喜んだ幼子は彼の後に着いていった。
辿り着いたのは町外れにある丘の上だった。そこに、見慣れたシルエットが浮かんでいた。
それを見た幼子は更に驚いた。
丘の上にあったのは、一本の向日葵だった。
「空き地、無くなっちゃうって訊いて、君の向日葵、ここ植え替えたんだ」
そう言って笑う彼の手はよく見れば泥だらけで、少し血が滲んでいる。
「ありがとう!」
本当はもう、向日葵なんてどうでも良かった。ただ彼に会うために空き地に通っていたのだから。
それでも彼の気持ちが嬉しかった。
町が夕焼けに染まっていく。
「また。今度はここで会おうよ」
そう言う彼に、幼子は大きく頷いた。
夏の日は長くとも、遅くなればまた心配される。
幼子はまた会う約束をしてアジトへ帰っていく。
彼はその姿を何時までも見送った。
翌朝。丘の上で幼子はまた驚いた。あれほど頑なだった向日葵がついに咲いたのだ。
幼子は嬉しくて、早く彼に見せたくて、彼を待った。
…けれど彼は、来なかった。
あの日以来、彼とは会っていない。
散々泣いた日々も、今では霞んだ記憶。
これは、ある夏の。記憶。
思い出せない記憶は、本当に思い出せないだけなのか。