cell memory #02 《纏う匂》
無口で無表情なヒウン。己を探す為、各地を旅する彼は、旅の途中で出会った虎の子ヒロと旅をする事になるのだが…
旅は道ずれ?世は情け?
記憶を探す冒険ファンタジー
淡く揺らめく朧月、足元を照らすは白く淡い光のみ。
虫の音も木々の騒めきも無く、ただただ静かなこんな夜。何処か淋しく、もの悲しい。
《纏う匂》
夜も大分更け、昼間の暑さから解放されたと思えば今は逆に肌寒い。汗に濡れたシャツが体温を奪い、べったりと肌に不快な感触をもたらした。
ヒロはシャツの首元を指で掴み、少しでも肌にシャツが触れない様に努力しヒウンの後を追った。
ヒウンはそんなシャツが気持ち悪く無いのだろか。
ヒロはヒウンの背中に向けた視線を直ぐ様自分の足元に戻した。ヒウンの羽織っている深緑色のマントの下など想像したくなかった。
夜風がヒロの濡れたシャツと獣毛を撫で、ヒロは小さく唸り身震いした。
ヒウンは時折空を見ながら黙々と街道を歩き続ける。外灯も何もないと言うのにヒウンは何の躊躇いも持たず足を前に進ませる。そんなヒウンにヒロが声を掛けた。
「なぁ!」
「…」
「なぁってば!」
「…」
「今日はもう休もうぜ!俺疲れたっての!」
「…」
ヒロが懸命に呼掛けているのにも関わらず、ヒウンはなんの反応も示さない。それどころか、ヒウンの押し退けた木の枝だが、勢いよくヒロの顔面に当たりベチンと鞭で打たれたような音を出した。
ヒロは両の掌で顔を被い、その場で声に成らない呻き声を洩らし蹲る。
眉根の寄った顔で指の間からヒウンの背中を睨み付るヒロの目には薄らと涙が滲んでいる。
ヒロは片手を顔から離し、ホルダーに手をかけるとチャカを取出し、ヒウンの背中に照準を合わせて気を貯めた。直ぐに弾の争点されたチャカは、放たれるのを待つように淡く熱を保つ。
けれどヒロが気泡を放つ事はない。
「…」
ヒウンは足を止め振り向くと、無言のままヒロに視線を向けた。
忽ちヒロの指先から弾は消え、ヒロは立ち上がり唇を尖らせてヒウンに横顔を向けた。
「無視するから脅かしてやろうと思っただけだっての!」
ヒロは横顔を向けたまま視線だけヒウンに向ける。するとヒウンはヒロに背中を向けて顔だけ振り向くと、さほど感情を込める事無く口を開く。
「…休みたければ休めばいい」
「休めって…何処で!宿は!」
「…ない。そこで休め」
ヒウンが顎で指し示したそこは道際に立つ大きな木の根元だった。
ヒロは目を見開きヒウンにもう一度訊いたが答えは同じだった。
ヒロはヒウンに駆け寄ると、鼻先が触れそうなほどに顔を近付けてヒウンの瞳を見て驚いたように目を瞬いた。
「はぁ?それって、野宿しろってかぁ!」
「…」
ヒウンは何もな応えない。けれど彼の目は否定の色を宿さなかった。
「やだ!やだやだやだ!虫いるじゃん!獣いるじゃん!布団無いじゃん!!山賊出たらどうすんの!」
全身全霊で駄々をこねてに抗議をするヒロからヒウンは顔を反らし、紐付きの小さなバックを肩に掛けなおした。
「…なら歩け」
ヒウンはそれだけ言うと再び歩き出した。ヒロはヒウンの背中を見ながら彼の旅に同行した事に後悔しながらとぼとぼと彼の後を追った。
ヒロは空を見上げ大きくため息を吐く。
これがホームシックと言うものなのだろうか。
「…嫌なら帰ればいい」
ヒロの溜め息が聞こえたのかヒウンは振り向く事無く言い捨てる。
「ムッ!」
それを訊いたヒロは奥歯を強く噛み締め眉根を寄せて感情的に歩みだす。
ヒロの顔には先ほどまでの疲労感は見られない。彼はヒロを焚き付ける為に言ったのかは不明である。
その後、10分もしない内にヒロが彼のマントを泣きながら掴み、必死に懇願し休む事になる。
最初はブーブーと文句を言っていたヒロも、布団を諦め持参した水色の薄いマットを草の上に敷き、シャツを変え、そこに横になれば数分の内に寝息を立てはじめた。
故郷から初めて外に出て、初めての旅。苦労と疲労は相当なものだろう。
ヒウンは木の根元に腰を下ろし、立てた片膝に片手を乗せ、木に背中を預けて空を見上げた。
頭上に白くぼんやりとした輪郭を浮かべた月がある。
まるで月がそこに存在する事を確認するように。月を見るヒウンの目は何処か嬉しそうであり、悲しみを表しているようでもある。
暫く月を眺めていたヒウンはゆっくりと瞼を閉じ規則正しい寝息をもらす。
二人の様子を見守るように、月が二人を淡く照らした。
翌朝、ヒロが目を覚ますとヒウンの姿は無かった。
「なんだよ、」
ヒウンにとって自分は邪魔なのだろうか。一緒に旅をするのは嫌だったのだろうか。
「ん〜、身体中がイテェ」
慣れない歩き旅でヒロの身体中の筋肉が軋み、悲鳴を上げている。
ヒロは両膝を抱え腕の中に顔を埋めてしまった。
ヒウンに置いて行かれた淋しさと、疲労が合わさってヒロの目に薄らと涙が滲む。
自分はただ、兄の探し、遇うために旅に出たと言うのに。
ただただ情けなくて悔しかった。
ヒロは袖で目元を擦り、涙を拭うと、軋む身体に鞭を打ち立ち上がった。
置いて行かれようと兄の手掛かりをヒウンが持っている。それならばヒウンの後を追う以外ヒロには選択肢は無かった。
ヒロは荷物を纏め、小さなリュックに無造作に詰め込んだ。
リュックを背負い、ヒウンが行ったであろう道の先に視線を向けたその時。道を挟んで反対側の茂みがガサガサと大きく揺れた。
ヒロはビクリと肩を弾ませながらも直ぐ様木の裏に身を潜め、指先に意識を集中させた。
ガサガサ葉の揺れる音が大きくなっていく。ヒロは息を止めて茂みに意識を集中してチャカを握り、臨戦態勢に入った。
ドクドクと脈打つ心臓が酷く騒がしく聞こえる。
一層大きく揺れた茂みがピタリと動きを止め、一呼吸の静寂に包まれた。ヒロの緊張は最高潮に達し、心臓がより一層大きく鳴った。
ザザと大きく揺れた茂みから素早く動く影が現れて、身を隠すヒロに目がけて飛んでくる。
ヒロは木の裏から飛び出ると影に向かってチャカの引き金を引き、気泡を放った。
弾は影に当たるとバンッと破裂音を数回響かせ、影は力なく地面に落ちて、その動きを止めた。
ヒロはホッと胸を撫で下ろし、影に歩み寄り、足元に転がるそれを見て目を見開いた。
まだ息が有るのか。それはビクリと身体を揺らす。
「ヒィッ!」
息の根を止めたと確信していたヒロはそれが動いた事に顔を引きつらせて一歩後退る。
飛んで来たのはその場には明らかに不釣り合いな、体長40センチはある大きな鱒のような魚だった。ヒロはその魚を覗き込むとギョロリとした目が動き、魚と目が合った。
パクパクと無言に口を動かし、苦しそうに魚の目が何かを訴えている。
ヒロの放った気泡は魚のエラを打ち抜いていた。
魚の無言の抗議に圧倒されていたヒロはガサガサと大きく揺れた茂みに一層大きく肩を弾また。
見開かれたヒロの視界に、深い緑のマントが風に揺れているのが映る。
フードから覗く無愛想な表情はヒウンその人だった。
彼は魚を片手にヒロの元に歩み寄ると地面に落ちた魚に視線を向けた。
ヒウンは地面に横たわる魚を持ち上げると驚いたように固まるヒロの手に魚を乗せヒロを見た。
「…食え」
「ハ?」
受け取った魚を手にヒロは再び固まった。
食えと言われた事は分かっている。しかし理解が出来ていたかった。
ヌルリとする魚の粘膜の感触がヒロの背中をゾクリと震わせた。
流石に生で踊り食いをする気にはなれず、ヒロは荷物を漁りマッチを取出し火を起すと、内蔵を捕った魚を焼き始めた。
ヒウンはその様を珍しげに眺めている。視線に気付いてヒロは彼の魚も棒に刺し一緒に焼いた。
皮の焼ける香ばしい匂いが鼻を擽り、滴り落ちた魚の脂が炎の中にジュッと音を立てて消えていく。自然と口の中に涎が溜まる。
いい按配に焼けた魚をヒウンに手渡す。ヒウンは受け取った魚を右に左に動かし、警戒したように観察しているようだった。
単なる焼き魚がヒウンには珍しく思えた。
「食わないのか?」
ヒロは見せるように魚を頬張る。その様子を見たヒウンはぎこちなく真似をする。
その様子は、まるで幼子のようであり、いつも無表情のヒウンに愛嬌を見出だせてしまう。
「…味が違う」
焼き魚を一口頬張ったヒウンは魚に視線を向けたまま独り言のように呟く。
彼は恐らく生魚の味を想像していたのだろう。
けれど不味いわけではない。彼が黙々と魚を口に運ぶ様子に、ヒロは口を挟むのを止めた。
食事が済むと、また二人は歩きだす。
言葉数の少ないヒウンにヒロももう慣れはじめている。
長い距離を徒歩で移動する事は相当な体力を使う。したがってペース配分や呼吸等も大きな意味を持つ。
喋りながら、歩幅や歩行速度を度々変えていると直ぐに疲れてしまう。
ヒロは教えられるでもなく、彼の姿を見てそれを悟った。
会話の無い道中は意外と苦痛ではなかった。
耳を澄まさずとも聞こえてくる自然の音楽が心地好く、風に運ばれた花の匂いに心安らぐ。
そんな嗅ぐともせずに嗅いだ匂いの中に、微かに混じる違和感がある。
普段、嗅がない匂い。普段、気付かない匂い。
気付けばその匂いしか鼻に入ってこない。
ヒロは片手で鼻を覆った。
それでもその匂いは鼻に入ってくる。ヒロが匂いを辿るように鼻をひくつかせ、匂いの元を探す。
そしてヒウンがその匂いを纏っている事に気が付いた。
それは、血の匂い。
先程迄は気付かなかった。彼が怪我をしている様子もなかった。なのに彼は薄らと血の匂いを漂わせている。
ヒロは追及する事が出来ず、気付かなかった事にしようと決めた。
魚とは全く違う血の匂い。ヒロの不安を余所にヒウンは黙々と歩き続ける。
その日の夜も二人は道の際の草原で宿をとった。
ヒロは火を起し、揺れる火に薪をくべる。
夕食は木の実と色鮮やかな茸。
どちらもヒウンがとってきた物だ。
食えるのかと心配になるほど無駄にカラフルな茸を小枝に3つほど刺し火の傍の地面に突き刺す。
暫くすれば、茸から蒸気が上がりわりといい匂いが立ち込める。
しかし、火に寄ってきた羽虫が蒸気を浴びると次々に地面に落ちていくのが気掛りではある。
焼き上がったものの、なかなか口に運べないでいるヒロを余所に、ヒウンは何事もなく茸を頬張り、ゴクリと飲み込む。
ヒロは恐る恐る1欠片口に入れ、口の中で転がしてみる。
特に何も無いので安心し、それを喉に送ると、指先が痺れだす。
「ん〜!ん〜!」
舌先がチリチリと針で刺したような痛みに襲われている。
ヒロは残りの茸を火にくべ、水筒の水で何度も口を濯いだ。
チリチリと痛む舌を風で冷やしながら、向で黙々と茸を食べるヒウンを見て良く食えるなと些か感心してしまう。
次からは自分も食料調達に行かなければ身が持たないだろう。
訝しげにヒウンを見ていると、ヒウンがピタリと手を止めた。
それ以来動かなくなってしまったヒウンを焚き火がユラユラと照らす。
ヒウンは大方、茸の毒で動けなくなったのだろうと、高を括り、自業自得だとヒロは鼻を鳴らした。
しかし一向に動く気配の無いヒウンに、まさか死んでしまったのでは無いかと、流石に心配になったヒロは、恐る恐るヒウンの身体に手を伸ばした。
「…ヒ、…ヒウン…」
強張る指で、チョンとその肩に触れてみる。しかしヒウンの応答は無い。
「じょ、冗談だよな…なぁ?」
返事をしないヒウンに、ヒロは問い掛ける。
「なぁ!おい!」
ヒロの頭は真っ白になり、どうしたら良いかなど分からない。
息はしているか、脈はあるか、瞳孔は開いていないか、ヒロは自問自答を繰り返した。
確かめようにも、マントに包まれた彼の胸の動きは見えないし、自分の心音が大き過ぎて、ヒウンの脈なのかわからない。
見る見る気を動転させていくヒロは、ヒウンの両肩を力強く掴み、マントに爪を立てた。
「なぁ!ヒウッ」
泣き出しそうな顔でヒウンの肩を揺すろうとした時、ヒウンの首がグルリと回り、鋭く光る瞳がヒロを睨み付けた。
「ヒィィッ!」
思わず出した悲鳴は声が裏返り、引きつってしまう。
ヒロは死体が動いたとばかりに、慌てて手を離し、よろめく足で後退る。
けれど踵を小石に躓かせたヒロは、よろめき後ろに倒れこむ。
同時に、頭すれすれを何かが掠めて行った。
ドンッと勢い良く尻餅を着いたヒロは、目を見開いたまま動けなくなる。
膝がガクガクと音を立て震え、腰が抜けてしまっている。
「あ…あがっ!あっ…」
驚きの余り、呂律すらまともに回らないヒロを、ヒウンは無表情で見つめていた。
額を伝う生暖かい物に、漸く気付いたヒロが、それに触れる。
触れた指先は赤く染まり、鉄の匂いをさせる。それが血だと気付いたヒロは、咄嗟に振り返り、後方を隈無くあるものを探した。
そしてそれは、ヒロの真後ろに立つ、木の幹に深々と突き刺さっている。
突き刺さっているのは、先程まで茸が刺さっていた串だ。
ヒロが尻餅を着いたと同時に後方でカンと軽い音がしていた。その正体は恐らく、その串の刺さる音だ。
小石に躓いていなければ、ヒロの額のど真ん中に、穴が空いて居ただろう。
ヒロの顔から血の気が引いて見る見る青ざめていく。
「…チッ」
微かに聞こえたその音を、ヒロの耳は聞き逃さない。
鬼の形相で振り返ると、ヒウンに詰め寄った。
「何すんだお前ェェェ!!死ぬだろ!アレ!アレ当たってたら死ぬだろ!ってか、舌打ちしただろ今ぁぁぁ!」
「…」
ヒロはヒウンを見下ろし、怒りをぶつけた。
けれど、ヒロがどれだけ騒ごうが、喚こうが、ヒウンは眉一つ動かさず、焚き火に視線を向けたままだった。
そんなヒウンの態度は、ヒロの感情を逆撫でしないわけがない。
ヒロはヒウンの首に手を伸ばす。
罵声の一つも浴びせなければ気が治まらない。
しかし伸びた手が、ヒウンの首を締める事はなかった。
「チッ、血が!」
茂みがワサワサと大きく揺れ、串の刺さる木の根本から人影が転がり出てきた。
声から察するに性別は男だろう。
男はヒロ同様に額から血を垂れ流し、赤子の馬のようにフラフラと足を震わせていた。
「ヒッ!」
ヒロはその男を見て、また引きつった声を上げた。
飛び出る程激しく脈打つ心臓に、ヒロは胸を押さえる。
暗がりから血を流した男が出て来れば、誰だろうと肝を冷やす。
けれどヒウンは、何時もと変わらぬ冷めた表情で、ふらつく男を見ていた。
男は立っていられなくなったのか地面に膝を着き、糸の切れた操り人形のようにそのまま俯せに地面へ倒れこむ。
余りの出来事に、暫し時が止まる。
本当に時が止まった訳では無いが、その場にいた全員が動かない。
正気に戻ったヒロは、ハッと息を吸い込み、倒れた男に駆け寄り声をかける。
「お、おい、大丈夫かっての…」
無論、大丈夫な筈が無いとわかっている。
ヒロは恐る恐る男の肩を掴み、仰向けにすると、胸に耳を押しあてた。
トクトクと脈打つ鼓動を確認すると、ヒロは一先ず胸を撫で下ろし、深く息を吐いた。
月明りに照らされた男の顔は、額から鼻先にかけて、白い獣毛が線を描いている。
特徴的は面立ちから察するに、どうやら白鼻心のようだ。
ヒロは男を抱き上げ、焚き火の傍に移動させようとする。
けれど気を失った男の身体は、ずっしりと重く、独りで抱き抱える事が出来ない。
「ん〜!おいっ!ヒウン!手伝えっての!」
「…」
ヒロは男の両脇に腕を回した状態で、ヒウンに協力を求めた。けれどヒウンは無言のままヒロに視線を送るだけで、その場から動こうとはしない。冷めた眼でヒロを見る。
まるで何をしてるんだ。と言いたげなその眼に、ヒロは奥歯を噛み締めた。
ヒウンの協力を諦め、ヒロは男を引きずりながらも、何とか男を焚き火の近くまで運び、ゆっくりと男を地面に寝かせた。
休む間も無く、ヒロは男の額を濡らしたタオルで拭き、血を拭う。
痂になった額の傷を確認すると、自分の額も同様に血を拭きとる。
暫くすると、男の瞼がビクリと動き、瞼をゆっくりと開かせた。
「大丈夫か?」
心配したヒロが顔を覗き込むと、男は小さく悲鳴を上げた。
ヒロは怯える男を落ち着かせようと言葉を慎重に選んだ。
男はヒロが自分に敵意が無い事を感じ取ったのか、次第に落ち着きを取り戻したようだ。
ふっと、男は気付いた様に額に触れ、獣毛に着いた血が拭き取られている事に気付き、姿勢を正すと地に手をつき頭を下げた。
「見ず知らずの私を介抱して頂いたご様子で、ありがとうございます」
「いやいや!大した事じゃないっての!それに…」
ヒロは言葉を途切れさせ、横目にヒウンを見やる。
(怪我させたのコイツだし…)
ヒロは心の内でヒウンに毒づいた。決して口には出さないが、心の声が聞えたのか、ヒロに顔を向けたヒウンに、ドキリ肩を弾ませた。
何か言いたげにヒロを見つめるヒウンは、けれど相変わらず口には出さない。
目で語らう様な二人の光景を不思議に思いながら、男は再び声を発した。
「も、申し遅れました。私、タジャと申します」
白鼻心の男、タジャは軽く頭を下げ、二人を交互に見やる。
「俺はヒロってんだ!っで、こっちがヒウン。」
親指を立て、背後に座るヒウンを指差したヒロは笑顔で自己紹介をした。
途端、ヒロは背後に鋭い視線を感じ取り、獣毛を逆立てる。
それは紛れもなくヒウンのものである。
「…お前、…目的はなんだ」
その声は低く、間を開ける独特な語り方は、緊張感を煽る。
酷く刺々しい言葉は、ヒロの和ませた雰囲気を打ち破り、タジャを再び怯えさせた。
「わ、私は、だだ…」
「…嘘はいらない。…言え」
タジャの震えた言葉を遮り、ヒウンは尚も冷える言葉を突き付ける。
タジャの身体は見る見る震えだし、唇を戦慄かせる。
「ヒウン!」
見兼ねたヒロがヒウンを睨み付けた。
「そんな言い方すんなっての!タジャを怯えさせてどうすんだっての!大体、怪我させたのお前なんだから先に謝れっての!」
ヒロはタジャを背中に隠す様に庇い、声を荒げる。
言い方もさる事ながら、怪我をさせた事を謝りもしないヒウンに腹が立つ。
「…」
ヒウンは黙り、ヒロを見上げた。その顔はやはり無表情だが、その視線の冷たさがヒロの頭に血を上らせる。
「無視すんなっての!」
「…」
犬歯を剥き出し怒鳴るヒロに、ヒウンは無言でヒロを見やる。
あわや一触即発。ピリッとした空気がその場に立ち込めた。
けれど、それを吹き飛ばすようにタジャは大声を出した。
「助けて下さい!」
余りの大声に、振り返ったヒロは土下座するタジャを見て驚いた。
ヒウンも珍しく面食らったように目を見開き、ヒロ越しにタジャを見た。
「なんて?」
聞き逃した訳ではないが、ヒロは確認の為にもう一度、タジャに訊ねる。
タジャは土下座したままその問に答えた。
「助けて下さい!お願いします!」
タジャのただならぬ必至の懇願に、ヒロは中々言葉を見付けられずにいる。
するとヒウンが口を開いた。
「…話せ」
ただ一言。ヒウンは言った。
今度は言葉に刺が感じられない。タジャもそれを感じ取り、怖ず怖ずと顔を上げ、ヒウンの目を見ながら話し始めた。
「はい。私は、この森の先にあります村に住んでおります。村人は猟や樵、民芸品を作り、それらの収入で生活しております。その村で、近頃、人攫いが多発しておりまして、既に3人が攫われているのです。上は10から下は5歳と、狙われるのは皆子供ばかり。身代金を要求されましたが高額でどうにも…」
タジャは時折、震える拳を握り締め、顔を歪めながらも話を途切れさせる事はなかった。
「なので、人攫いの隠れ家を見付けようと捜索していた所、お二人様を見付け、様子を窺わせて頂いたのです。疑った事、謝ります!どうかお力をおかしください!」
タジャは深く頭を下げ、肩を揺らした。
時折、唸り、感情移入させ話を聞いていたヒロの答えは決まっていた。
ヒロは大きく頷くと、口を開いた。
けれど言葉を発するより先にヒロは耳を疑った。
「…断る」
「…えっ。…そ、そこをどうか、」
タジャも一瞬、耳を疑ったようだったが、直ぐ様頭を下げ、ヒウンに協力を申し込む。
けれどそれ以降、ヒウンは口を閉ざし、タジャな視線を戻す事はなかった。
「お願いします!攫われたなかに、弟がいるのです!どうか、」
「…」
「謝礼も!少ないですが謝礼もお支払いいたします!どうか!」
「…」
「お願いします!お、お願いを…」
とうとうタジャは嗚咽を漏らし、涙を流しながら、それでもヒウンに頭を下げた。
ヒウンは最早、タジャなど眼中にないと言うのに。
その様子をヒロは黙って見ている。わけもなく、わなわなと拳を震わせ、これでもかと歯を食い縛る。
額に青筋を浮き上げ、獣毛を逆立て威嚇する。
「どうか…どうか…」
「止めろタジャ!そいつに頭を下げる価値はねぇっての!」
罵声にも似た声に、タジャは一瞬、肩を弾ませ、涙の溜まる目をヒロに向けた。
「俺がやる!俺が人質を、お前の弟を助けてやる!だから泣くな!」
ヒロはタジャの腕を掴み、立ち上がらせると、タジャの胸に己の拳を押しあてた。
「俺が力をかしてやる。だから涙は取っておけ!再会した弟の為にな!」
ヒロの言葉はタジャにとって、どれ程嬉しく感じた事だろう。
タジャは袖で目元を隠すと、口角を上げた。
「ありが、とう。ありがとう、ございます…本当に、ありがとう、」
笑顔作る口元とは対照的に、袖で隠されたその隙間から、水滴が頬を伝い、顎の先からポタポタと零れ落ちる。
「…」
無言でヒロを見やるヒウンに、ヒロは顔を背けた。
ヒウンの口は語らずとも、目は語る。人質が生きている保証はないと。馬鹿な奴だと言いたげに。
けれど、ヒロには引けない理由があった。
それはタジャの弟を思う、兄の姿に、自分の兄、ユウショウの面影を写し見ていたからだ。
だから尚の事、ヒウンがなんと言おうと、ヒロの心に決めた事を曲げる気にはなれないのだ。
夜が更け、翌朝。
その場にヒウンの姿はなかった。
昨夜は色々あった。ヒウンとも、意見が合わなかった。
けれど、ヒウンだって困ってる人を見捨てて行ける程、薄情じゃない。
ヒロはそう、信じていた。
けれど、ヒウンは戻っては来ない。
ヒロは宿にした道際の草の上で帰る筈のないヒウンを待った。
時刻は既に昼前だろう。
太陽は雨雲に覆われている。まるでヒロの心情を写し取ったかのような、灰色に淀んだ空だった。
「行こうか…」
これ以上、ヒウンを待っても時間を無駄にするだけだ。
ヒロは自分に言い聞かせるようにして、タジャと共にタジャの暮らす村に向け、足を踏み出した。
後ろ髪を引かれ、昨夜の勢いを見失うヒロである。
タジャと共に街道を歩き、別れ道を右に進む。
街道は、いつしか勾配のある山道に変わっていた。
流石に山に馴れていると見えて、タジャの息は切れもせず、黙々と坂道を進む。町育ちのヒロは既に肩で息をしていると言うのに。
振り返ったタジャはその様子に気付き、休み休み、ヒロにペースを合わせて山道を歩いた。
タジャの優しさに、ヒロはヒウンを思い出し、月と鼈とは良く言ったものだと心底思っていた。
途中、降り出した雨に足止めをされた。
濡れた山道は普段にも増して危険であるとタジャは言う。
けれど山に馴れていないヒロを案じての言葉であった。
道の際に入り大きな木の下で暖を取る。
頭上に生い茂る葉は雨傘の変わりをし、ヒロは冷たい雨に当たる事はない。
食料を採りに向かったタジャが両手に木の実を抱えて帰ってくる。
タジャと共に遅い昼食をとった。
「うまかった〜」
「それは良かった。ここらは美味しい木の実が多いんですよ」
タジャはまるで自分が褒められたように喜んで見れた。それだけ自然を大切に思っているのだろう。
喉の渇きを覚えたヒロは鞄を漁り、水筒を取り出した。
すると水筒と共に、何かがポロリと鞄から転がり出た。
「これって、」
拾い上げたそれを見て、ヒロの舌が思い出したように痺れる。
それは、ヒウンが採ってきたカラフルな茸だ。
恐らく、昨夜、水筒を鞄に詰め込んだ際に紛れ込んだのだろう。
苦虫を噛み潰したような渋い顔で茸を見つめるヒロをみて、タジャは首を傾げた。
「あの、もし…」
タジャの恐る恐ると言った呼び掛けにヒロは顔を向ける。
「それ、食べるんですか?」
「えっ?いやいや食べないっての!」
タジャの問に、ヒロは全力で首を左右に振った。
もう、あんな思いはしたくない。
ヒロは眉間に深い皴を作り、小さく身震いする。
「そうですか、見た目はアレですが、意外とおいしんですよ」
何気なく言ってのけたタジャに、ヒロは眉根に深い皴を残したまま、タジャを見た。
その眼は「まさか、」と 物語る。
その視線に気付いたのか、だが、タジャは首を傾げてヒロを見返した。
「だってこれ、毒茸だろ」
「はい」
「一欠片で指先が痺れたぜ!」
「そうですね」
感情を込めて語るヒロに対して、タジャはただ和やかだ。
毒茸を旨いだのと良い除けるタジャに、ヒロは一抹の不安を過らせた。
それを知ってか知らずか、タジャは茸をヒロから取ると嬉し気に茸を見た。
「確かに微毒がありますが、コレの毒は水溶性なので茹でれば毒は無くなります。珍味としても少々有名な茸ですよ、それに毒と言っても高々1、2時間身体が痺れて動けなくなるだけですし、」
嬉しそうに語るタジャに、それは微毒とは言わないのではと思う。
けれどその顔に口を挟む事も出来ず、ヒロは言葉を噛み砕き飲み込んだ。
「極稀に、生死を彷徨う方もいらっしゃるようです」
飲み込んだ筈の言葉が喉を駆け上がり、ヒロは堪らず吹き出した。
タジャは尚も和やかに、茸を見つめていた。
それは絶対、微毒じゃないと思うヒロである。
――――
しとしとと降り出した雨は、今はもう、音を響かせ降っている。まるで水の壁だ。
夜中に雨雲の匂いを感じ取ったヒウンは、寝静まるヒロと白鼻心の男を置いて、その場を後にした。
昼過ぎに降り出した雨に、ヒウンもまた木陰で天露を凌いでいる。
ヒウンは木々の間から空を窺い見る。そらは依然として灰色に淀んでいて、雨を止める気はないらしい。それどころか、遠くで稲妻がキラリと瞬く。
ヒウンは肩からずり落ちそうになる紐を、肩を弾ませ掛けなおした。リュックに繋がる、緑とも灰色とも言えぬ色褪せた紐が首筋にあたる。
するともう一本、真新しい蔦がヒウンの肩に乗せられていた。
細くしなやかな蔦はヒウンの背中に伸びている。蔦の先には、鱒が一匹、吊り下げられている。
珍しく寝呆けていたのだろうか。ヒウンは一匹余分に捕まえてきたのだ。
見るからに重そうな鱒は、ずっしりと掛かる蔦を肩の肉に食い込ませていく。
「…」
眉根を寄せ、唇を曲げたヒウンは、どこか苛ついているようにも見える。
雨の間をくぐり抜け、冷たい風が深緑色のマントを揺らしていく。
寒さに軽く身震いしたヒウンが、ふっと、逆の肩に手を置いた。
肩は微かに熱を持ち、物言いたげに小さく脈打つ。
熱を持つそこには、ユウショウの、ヒロの兄の細胞が埋め込まれていた。
徐々に熱を高める肩に、ヒウンは珍しく感情を顔に表した。
肩から手を離すと、ヒウンはまだ降り止まぬ雨の中に飛び出し、踵を返す。
途端に雨が小降りに成り始め、灰色の雲の合間に陽光をのぞかせた。
――――
雨脚が徐々に弱まり、霧雨にかわる。
ヒロとタジャはそれを合図に再び山道を登りだした。
整備も何も去れていない、有りのままの山道は、ぐちゃぐちゃと泥濘、歩きにくい。
靴底にまとわり着く泥が、酷く重く感じられた。
その所為もあってか、ヒロはタジャについていけない。
見兼ねたタジャは、時折ヒロに励ましの言葉を投げ掛け、心配して気を配る。
漸く村が見えた時には、既に山に日が沈んでいく時刻だった。
それから2時間後、ヒロは漸く村に足を踏み入れた。
出迎えてくれる村の人々は優しく、温かい。
村人達に、笑顔で挨拶をするヒロだが、その笑顔はぎこちなく、声もどこか弱々しい。
足腰が震え、立っている事すら億劫に感じる。
ヒロの体力は限界を疾うに迎えている。空腹ではあるが、早く横になりたいと、願わずにはいられない。
そんなヒロの元に、立派な髭を蓄えた山羊人の老人が杖をつき、歩み寄ると、頭を下げた。
「遥々良くお越しくださいました。事が事なのですが、お疲れのご様子。宜しければ家の離れでお休みください。」
老人はそう言うと、ヒロの肩を撫で、自宅まで案内してくれた。
ヒロに連れ立ってやってきたタジャの話によれば、老人がこの村の村長だそうだ。
村を横断するように歩いていくヒロの前に、木造の立派な家が現れた。
村長に案内されるまま家の裏手に回ると、敷地内にやや小さめな家が現れた。村長の言う離れだ。
村長の後に続き、家の中に足を踏み入れたヒロは、室内を見渡した。
簡素な作りではあるが、そこらの宿と比べれば十分過ぎる。
一通り説明をすると、村長は離れを後にした。
室内を見渡していたヒロは、ソファーを見付けると崩れる様に寝転んだ。
そのまま寝てしまおうかと思っていると、目の前のテーブルにそっとコップが置かれた。
視線を送ると、タジャがコップ片手に向かいのソファーに腰を下ろした。
ヒロはソファーに腰掛け直すと、テーブルに置かれたコップをとり、湯気をあげるコップに口をつけた。
タジャの話によれば、タジャとタジャの弟は身寄りが無く、村長の好意で離れに住まわせてもらっていると言う。
ヒロはその後睡魔に負け、話の途中で意識を手放した。
――――
街道を外れ、夜の山中を駆けるヒウンは、木々の間をすり抜けていく。
次から次に出現する障害物を物ともせず、駆け抜ける。
彼が街道から外れ、遇えて森を進む理由、それは直線距離での近道を選んだからだ。
けれど、ヒウンはヒロの現在地を知らない。それでも迷いなく進めるのは、ヒウン自身の感と、彼に埋め込まれたユウショウの細胞のお陰に他ならない。
ユウショウの細胞は、まるでヒウンを導くように確かな脈を打つ。ヒウンはそれに従い、ヒロの居るであろう村を目指していた。
地面は徐々に勾配を増し、行く手を阻むように、障害物が多くなる。それでもヒウンの歩幅は乱れる事は無く、走る速度は増している。
風を切り、走るヒウン。
突然、その足をピタリと止めた。
辺りを伺っているのか、息を殺し耳を澄ませている。
虫の音も無い静かな森を、夜風が吹き荒れる。
カサカサと葉の擦れ合う音が、山裾から峰に向かって駆け上がって行く。音は山肌にぶつかり反響を何度も繰返す。
葉の擦れ合う音が幾重にも重なれば一瞬きの騒音にかわる。そんな騒音の中で、ヒウンの耳は微かな音の違いを正確に捉えた。
森に再びの静寂が訪れると同時にヒウンは九十度身体の向きを変え、一足飛びに音のする方へ向かった。
やがて現れた、自分の背丈の倍はある岩に身を潜めると、岩肌に身体を密着させながら、眼前に広がる光景に目を見張った。
雑草に覆われた斜面に、猫の額程の不自然な平地がある。
不自然な平地は、そこだけぽっかりと穴が空いているように、地表を露にしている。
草木が鬱蒼と生い茂る森の中に現れたそこを不思議に思わない物はいないだろう。けれど、ヒウンが見ているのはそこではなく、そこに蠢く影である。
夜闇に支配された森の中、凡そ、常人では確認できないであろうその影を、しかしヒウンの眼は、はっきりとその輪郭を捕えていた。
蠢く影の正体が人は無い。それは獣と呼ばれるものだった。
獣人とは一線を引いた獣。ばけもの。人々は、それらを総じて獣と喚ぶ。
ヒウンの眼が捕えた影は、狗と呼ばれる獣であった。
狗は四脚で、体長は最大で1m50にもなる。
名前の通り、顔付きや、身体を被う獣毛が犬人と似ている。けれど、人語を反す事はない。
群れを作り、集団で猟をする。
ヒウンは、眼前にいる狗に気を配りながらも、周囲の気配を探った。
戦闘向きとは言えない暗い森の中で、狗に集団で襲われては面倒極まりない。
注意深く辺りを探っていたヒウンだったが、眼前の狗以外の気配を感じる事はなかった。
狗はヒウンに気付かず、前脚を使い黙々と露になっている土を掘り、土を掻き出している。
時折、掘った穴に顔を入れ、そこにある何かを確認している様に見えた。
ザクザクと音をたてながら、狗は地面を掘り進み、やがて土を掘り返す音は、カラカラと乾いた音に変わっていた。
狗は目当ての物を見付けたのだろう。穴に顔を深々と沈め、取り出したそれを満足気に頬張っている。
その光景に目を光らせていたヒウンは、山裾から駆け上がって来る、それに、気付くのが遅れてしまった。
猛然と斜面を駆け上がってくるそれは、唸り声を上げ、既にヒウンの眼前まで迫って来ている。
ヒウンは、眉間に深い皺を刻み、迫りくるそれに嫌悪を露にする。最早、ヒウンは逃げられない。
それは、山裾を流れる川からやってきた。風だ。
風は葉を揺らし、ガサガサと音を響かせながら、ヒウンを一瞬包みこむと、勢いそのままに、頂上に向けて流れていった。
湿った風は、遠くで光っていた暗雲に呼び寄せられたのだろう。
同じく、一瞬風に包まれた狗は、動きを止め、即座にヒウンのいる斜面下に顔を向けた。
狗は嗅覚に優れている。ヒウンがわざわざ遠回りをしてまで風下から近付いたと言うのに、先程の風が、見事に台無しにしてしまった。
狗はグググと喉を鳴らし、咥えた物を吐き出す。
戦いを余儀なくされたヒウンは、肩にかかる紐を強く握りしめた。
狗は前脚を曲げ、ヒウン目がけて跳躍する。
けれど、狗の眼前からヒウンは忽然と姿を消す。次の瞬間、狗は空中で腹を蹴り上げられ、クゥと短く、苦しみの声を漏らした。
バランスを崩し、着地に失敗した狗は、地面に激しく身体を打ち付けられた。それでも顔を動かし、探るように視線を泳がせている。
狗が蹴り上げられた地点、それは狗が跳躍して直ぐの、丁度真下。
そこでマントを風に揺らすヒウンが佇んでいる。
ヒウンは狗を見据えたまま、その場で動きを止めた。その姿は完全な無防備といえる。
即座に立ち上がった狗は、けれど、ヒウンに襲い掛かろうとはせず、怯えた様に身体を震わせた。
グルルと心ばかりの威嚇をしてはいるが、余りにお粗末だ。
それでも逃げ出さないのは、先程頬張っていたソレに、まだ未練があるからだろう。
ヒウンは地に転がるソレと、狗を交互に見やり、眉間によった皺を解いた。
狗は酷く痩せ細り、骨と皮ばかり目立つ。獣毛もまた艶がない。
狗を蹴り上げた時、足に伝わる狗の体重を軽いと感じたのはこのだめかと、ヒウンは確信し、何時もの座った眼を狗に向けた。
何かを思ったのか、ヒウンは肩にかかる鱒の吊された蔦を手に取ると、狗に向けて放り投げた。
狗はつぶてでも投げられたのかと一瞬、身体を強張らせ、目を細めた。
ビタンッと重た気な音を立てた鱒は、狗の眼前に落ち、狗は細めた目を見開いく。
鱒だと気付くや否や、狗は涎を垂らし、一歩、また一歩と鱒に歩み寄る。
しかし、匂いを嗅ぐものの、なかなか食い付こうとはせず、頻りにヒウンの顔色を窺う。
「…こんな物で、腹は膨れまい。…食え…くれてやる」
ヒウンは足元に転がるソレに顎をしゃくり、促すように狗の前にある鱒に視線を送る。
狗に人語は理解出来まい。
けれど、狗はヒウンに従うように恐る恐る鱒を口に咥え、顔を上げた。
狗とヒウンの視線が交わり、互いに無言のまま、一瞬きの不思議な間が訪れた。
「…飢えて人を襲うな、…お前を殺したくはない。…行け」
独りごちるヒウンの囁きに、狗は耳を動かし、一瞬ためらったがヒウンに背を向けると一度振り返った後、静かに夜闇にその姿を消した。
狗が立ち去るのを見届けたヒウンは、狗が掘り起こしたであろう穴に視線を移し、冷めた視線を穴に注いだ。
穴の中には、細く短い小さな骨が散乱していた。
穴の中にあったのは、紛れもない人骨。
頭蓋骨の大きさから見て、まだ10にも満たない子供のようだ。
穴の横で、掘り返された土に埋まった細長い木の板がある。
よく見れば、向かい合う形で、後2つ、同じような木の板の刺さる土の山が目に入った。
土山の手前には同様に穴が空いており、覗けば、無残な幼き亡骸が転がっていた。
真新しい木の板は、明らかに人為的に創られたものだ。
ヒウンは足元に転がる骨を軽く蹴り、穴の中に落とすと、眉一つ動かさず、その場を離れ、夜の森に消えていった。
――――
目を覚ましたヒロの視界に入ったのは、白く柔らかいシーツだった。
上半身を起こし、目一杯背伸びをする。ポキポキと背骨が小さく音を立て、大きな欠伸が漏れる。
「あれ?」
そこで漸くヒロは気付く。
昨夜、ソファーで意識を失ったはずの自分が、目を覚ましますとフカフカのベッドに寝かされていたのだ。不思議に思うのは当然だ。
けれど、ヒロの疑問はそこではなかった。
「布団変わっても俺、寝れんじゃん!」
誇らし気に笑ったヒロは、意気揚々とベッドを降りた。
立ち上がった途端、ヒロの顔は歪む。
鉛でも付いているのではと、疑いたくなるほど、足が重い。
まるで他人の足が付いているように思えた。
ヒロは重い足を引き摺り、なんとか部屋のドアを開けた。
扉の向こうには、昨夜、微かに覚えのある異国情緒溢れる家具が点々と室内を飾り付けている。
ドアを支えに室内を見渡すヒロの視線の端の、昨夜寝落ちしたソファーと、そこに座る者の後頭部が見て取れた。
「タジャ…」
恐る恐る名を呼べば、背もたれ越しに、知る顔が此方を向いて目を細めた。
「おはようございます」
丁寧な挨拶に、ヒロも遅れて挨拶を返す。
「今、朝食を作りますから、お風呂どうぞ。足を解せば楽になりますよ」
タジャの言葉に甘え、教えられた風呂場に向かえば、脱衣場の棚にタオルと着替えまで用意されている。
旅に出て2日だと言うのに、タジャの気遣いと優しさに、ヒロの涙腺が緩み、瞳を濡らす。
何処かの誰かとは大違いだと、ヒロは天を仰ぎ見た。
ちゃっちゃと着ていた服を脱ぎ捨てたヒロは、浴室に入るなり身体を簡単に流して湯船に飛び込む。
湯船から豪快にお湯が流れて出し、あっと言う間に浴室は湯気で白くなる。
軋む身体をお湯が優しく解きほぐしていく。
肩までお湯に沈めたヒロは、目を閉じて鼻歌混じらせる。
「…」
ふと、ヒロの鼻歌が止まる。
ヒロの視線の先は、浴室の窓から見える青空を、ぼんやりと物思いに見つめていた。
思考の端の、ヒウンの事が引っ掛かる。心なしかヒロの表情に影が落ちた。
「あんな薄情者、知るかっ」
頭を激しく左右に振ったヒロは、お湯を手に掬い、顔に押し付けた。
脱衣場に戻り、タオルで全身を拭き、用意された服を着たヒロは、脱衣場のドアを少し開いて動きを止めた。
ドアの隙間から、言い争う声が入ってくる。
「そんな!待って下さい、話が違います!」
「仕方ないんだ、」
「諦めろと仰るのですか!」
「違う、村の為にと思ってくれ。ただでさえ目を付けられているのだ、事を荒立てては。後の家族達も了承してくれた。だから」
その後、タジャの声は聞こえなくなった。皺枯れた声の主は「許してくれ」と言い残し、家を後にしたらしい。静まり返った屋敷内に、玄関の閉まる音が自棄にはっきりとこだました。
脱衣場から、出るに出られなくなってしまったヒロは、床の木目を見つめながら、思考を廻らせた。
結局、大した案も浮かばないまま、ヒロは脱衣場のドアを開き、おずおずと足を進め、何事も無かった様に装い、リビングに戻った。
「あぁ、いいお湯だったぜ!ありがとな…」
案の定、玄関の扉の前でタジャは立ち尽くしていた。
ヒロの声に肩を跳ねさせたタジャは、ヒロに背を向けたまま、片腕を顔の前に持っていき、頭を小さく左右に振り、腕を下ろすと、笑顔で振り返る。
「そうですか、い、今、朝食を運びますから、此方にお掛け下さい」
微かに鼻声の混じるタジャの目元は、濡れていた。
それを見たヒロは、返す言葉を失い、言葉を見つけられないまま、席に着き、タジャの用意してくれた朝食をタジャと共に食べ始める。
会話もなく、気まずい雰囲気のまま、朝食は進み、カチカチと金属と陶器のぶつかり合う音が食卓を包む。
チラリとタジャを盗み見れば、タジャの食は全く進んでいない。
表情は、暗く沈んでしまっている。
そんな居心地の悪さに、ヒロが耐えられる筈もなく、言葉を探しつつ、口を開く。
「なぁ、さっき、誰か来てたよな」
ヒロの言葉に、はっと息を飲むタジャは、ばつが悪そうに作り笑いを顔に乗せ、頷く。
「村長と少し、話を…」
「話しって、弟の事か」
聞き辛い事ではあるが、ヒロは訊ねる。口を閉じたまま、タジャは小さく頷く。
「村長が来ました。…身代金が、要求された金額に達せず、最悪の事態を考えて起きなさいと、言われました。人攫いのアジトを探すのも止めろと」
「そんな」
ヒロは身を乗り出し、テーブルを叩いた。食器が揺れ、カタカタと軽い音を立てる。
「タジャはそれで良いのかよ!」
ヒロの問に、タジャは俯いたまま、左手の拳を右の掌で覆い、震える拳を押さえ込もうとしていた。
「下手に行動を起こして、他の村人を巻き込む訳にはいきません。だからヒロさん。貴方のお力をお借りしたい!」
タジャはそう言って、潤む瞳でヒロを見た。
本当ならば、タジャは自分の手で弟を救いたいに違いない。けれど、柵に阻まれる自分では、どうにも出来ないとわかっている。
タジャにはヒロを縋る他、選択肢がないのだ。
タジャの言わんとする想いを読み取ったヒロは、意を込めた瞳をタジャに向け頷いた。
「タジャ、話は訊いたよ。コレ、少ないけど。気を落すんじゃないよ」
朝食を終えたヒロとタジャは、背負い子を担ぎ家を出た。村外れにある農園に向かう為だ。
家を出た途端、タジャの姿に気付いた村人が、次から次にタジャの元に寄って来ては、野菜やらパンやらをタジャに渡している。
タジャは渡される品々を受け取ると大事そうに抱え、笑顔で村人達に礼を延べていた。
タジャを気遣う優しい村人達を見て、村人達に迷惑をかけたくないと言うタジャの想いをヒロは理解した。
「毎日毎日、働き過ぎたよ」
「いえ、少しでも足しにしたいのです」
心配そうにタジャの手を擦り顔を覗き込む老婆に、タジャは微笑み返す。
その様子を横で見ていたヒロは、隠しきれない胸の痛みに顔を歪めた。
農園に着いたヒロ達は、木の影に背負い子を下ろす。
農園には既に作業着を着た村人が数人、幹に梯子をかけ、枝をしならせる果実を1つ1つ丁寧に収穫している。
「それではヒロさん。収穫のお手伝い、お願いします」
作業着を着終えたタジャは、剪定バサミを持ち、梯子に足をかけ隣を見て言った。
「手順は教えた通りです。わからない事がありましたら、訊いて下さい。それではヒロさんは、彼方をお願いします」
タジャは右手を伸ばし、真っ直ぐ指差た。ヒロはタジャの指差す先にある一際実り多い気を見上げ、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「や、やってやるっての」
ヒロは指示された通り、木に歩み寄る。
ヒロはそのままタジャの指差した方へ歩み、木の前を素通りし、茂みの中へゆっくりと消えて行った。
「お願いしますヒロさん」
消え行くヒロの背中に、タジャはそっと言葉を乗せた。
それは、タジャの提案だった。
村の柵に村人であるタジャは逆らえない。けれどヒロは根なし草。村の柵に唯一、抗ことの出来る存在であった。
広い農園であれば人の目を幾らでも誤魔化せる。タジャは今までそうやって、人攫いの手掛かりを探していたのだ。
けれど、村長に釘を刺された今、ヒロに頼る事が唯一の望みである。
タジャは右手で作った拳を強く強く握る。
森に入ったヒロは、手掛かりになりそうな物はないか、慎重に辺りを窺って歩いた。
昨夜のうちにタジャがブーツに着いた泥を丹念に落としてくれたお陰もあり、山道を歩く足取りも、軽く感じられる。
そんなタジャの頼みとあれば、ヒロの気持ちの入れようも、どこか違っていた。
そうして探し続ける事、約3時間。
ヒロの顔に疲れが見えはじめた頃の事だった。
不意に、何かに引き寄せられる不思議な感覚を覚え、急に思考があやふやになる。
ヒロは頭を振ってみたり、顔を叩いてみたりしたが、意識は宙に浮いたように、ふわり、ふわりとしてしまう。
けれども歩みが止まる事はない。
見ず知らずの山の中、道らしき道もない緩やかな斜面を、ヒロは確かな足取りで引き寄せられるまま進んでいく。
そして、意識が身体に戻り、思考が再び確かなものになった時、ヒロは朽ちた石段の前で、その歩みを止めていた。
「あ、あれ?」
訳もわからず、首を傾げ、来た道を振り返って見る。
けれど、どうやって此処まで来たのか、何故来てしまったのかはわからないままだった。
「とりあえず、先に行ってみるか」
ヒロは釈然としないと言いたげに眉を上げ、見上げる程続く石段を見つめた。
石段を一つ飛ばしに登り、途中何度も立ち止まり、息を整えながらも上を目指していく。
何かがある。ヒロは不思議な確証をその胸に覚え、笑う膝に鞭打って石段を駆け上がった。
漸く、石段の終わりが見えた頃。ヒロの耳がぴくりと反応する。
頂上と思し気その向こうで、人の声が聞こえた。
何を話しているのかは定かでは無かったが、もしやと思い、息を殺し、気配を殺し、足音を殺して石段を登る。
そして、石段を登りきったヒロは、一瞬きの間で、残酷な程に冷たく凍えきった眼光と視線が交わった。
その凍てついた光りに、ヒロは覚えがある。
ヒロが口を開き、言葉が喉を震わせる。けれどそれは声になる前に、胃の腑に落ちていき、言葉を失った。
ヒロの眼前で、何かがキラリと光り風を切り、ほぼ同時に何かが宙に吹き出し雨の様に降注いぐ。
辺りは一瞬にして、真赤にそまり、紅葉したかのように、茶色の落葉を染め上げた。
それは、紛れもない、血の雨だった。
瞬きをするヒロの目は、まるで連続写真のように、崩れ落ちる人影を、一枚一枚、鮮明に脳裏に焼き付けていく。
ドサッと重い音が地を揺らす。
ヒロの戦慄唇が、震えた言葉を紡ぎ出す。
「ヒ、ヒウ、ン、」
倒れた人影の横に立ち、冷たい視線で見下している彼は、その震える声に視線を冷ややかに動かし、ヒロを見た。
その冷たさに、ヒロの身体は凍り付き、動けない。
返り血など浴びていない彼の出で立ちは、何時もと少しも変わらない。けれど、包帯の巻かれた左手から生えた刄には、血に濡れて、まがまがしく光を反射する。
切っ先を真赤な雫が滴り落ちる。
「ウヴ…ゴハッ」
立ちすくむヒロは、その声とも言い難い呻きに、ヒウンの足元で転がる人に視線を移し、その姿に息を飲む。同時に血の気が一気に引いていき、見る見る青ざめた。
その人物もまた、ヒロの知る人であった。
「村長さん!」
村長は、首と肩の中間をバックリと切られ、夥しい血を流している。また、口からも吐血を漏らし、顔を苦悶にねじ曲げていた。
奇跡的に首の動脈は避けられているが、重症には違いない。
村長に駆け寄ったヒロはアワアワと慌てふためき、そして、ヒウンを見上げる。
見下すヒウンの顔は、死神に見えた。
「どうして…」
ヒロは怯えながら。
「どうしてだ」
言い様の無い不信感を抱きながら。
「どうしてだ!!!」
怒り、憎しみをヒウンにぶつけた。
「…」
けれど、ヒウンは応えな。
ただ、冷徹に、切っ先を村長の喉元に伸ばす。
ヒロは即座に立ち上がり、ヒウンの包帯の巻かれた腕と胸倉を力任せに掴み上げる。
「何故こんな事をした!言え!!」
怒りに顔が歪み、額に青筋が浮き上がる。目は血走り、ヒロは喉が潰れる勢いで怒声をぶつける。
「…退け」
ヒウンはそんなヒロを見ようともせず、再び切っ先を村長に向けようとする。
ヒロはヒウンの腕を力一杯握り締め、阻止しようと押し返す。
ポキポキと音がなる。それがヒウンの腕なのか自分の指なのかわからない。けれど、ヒウンの指先が青くなっていくのがわかった。
「あ、貴男は…」
そこに、背後から吐息混じりの弱々しい声が囁く。紛れもない、村長の声だ。
皺枯れたあの声は、ぜぇぜぇと言う荒い息をに更に年老いた声になっている。
「村長さん、無理は承知だけどよ、逃げろっての!」
ヒロはヒウンを押さえ付けながら、横目に村長を見て訴える。
村長は今にも死んでしまいそうな顔色だが、それでもよろよろと立ち上がり、傷口を押さえて歩み出す。
「忝い」
村長はそう言い残すと、ふらつく足取りで石段の向こうに去っていく。
「…退け」
「行かせねぇっての!」
ヒロはヒウンに押し戻されながらも、必死にヒウンを押し留める。
けれどヒロは渾身の力で押していると言うのに、ヒウンの身体の何処にっと思う程、ヒウンの力はヒロごと押し進む。
「…!」
押し問答の最中、ヒウンの眼光が変わり刃がヒロに降り掛かる。咄嗟に身を強張らせたヒロは、けれど刃は別の何かを切り捨てた。
宙に舞い、降り落ちるソレを掴んだヒロは首を傾げた。
「糸クズ?」
訝しむヒロがヒウンを睨み上げると、当のヒウンは何かを警戒するように視線を四方に泳がせている。
ヒロがそれに気付いた時、森の様子が一変した。
胸焼けするような嫌な空気が、何処からともなく沸いて出る。
森が、騒つく。
――――
ヒロが農園に着いた頃。
ヒウンは既に村の近くまで来ていた。
村が見下ろせる丘の上で、ヒウンは留まり村へと向かおうとはしなかった。いや、近付けないのだ。それは、よく見える目の所為でもある。
仕方なく、森に入ったヒウンは、確かな足取りで真っ直ぐ、森を突っ切っていく。
ヒウンが視ている物とは地表に現れ、無数に枝分かれした根である。
縫い糸のように細い根は、枝分かれを繰返しつつも、主根は村から真っ直ぐに森の中に続いている。ヒウンはそれを頼りに、黙々と歩みを進めて行った。
それから約2時間。歩き続けたヒウンは、一軒の社にたどり着いた。
社と言っても、半ば半壊してしまっている。それでも社の骨組みや、細やかな木具から、元はそれなりに立派な社だったと窺える。
辛うじて崩れていない部分もあるが、そこも傾いてしまっている。
ヒウンは社に近付き、木戸に手をかける。
社が傾いている所為だろう。木戸は重く、びくともしない。
ヒウンは諦めたのか、木戸から手を離す。が、即座に木戸の中心を蹴り飛ばした。
木戸は刷子を外れ内側にすっ飛び、ガドンッと大きな音を響かせ倒れた。
薄暗い室内に土埃が舞い上がり、視界を更に悪くする。
それでもお構い無しに室内に足を踏み入れたヒウンは、壁一面に描かれた壁画に目を止めた。
相当古い物なのだろう。壁画は所々崩れ落ち、はっきりとした色彩もない。それでも豊かな森を描いた物なのだろうと思われる。
壁画に歩み寄るヒウンだが、踏み出した足に何かが当たり倒れたのに気付き、視線を足元に送った。
大方、盗賊でも根城に使っていたのだろう。灯火に用いる油瓶が転がっていた。
それを拾い上げた時。ヒウンの耳がぴくりと動いた。
社から出たヒウンは、石段を登ってくる人物を出迎える為、社から離れ、石段の真向いで立ち止まる。そこへ現れたのは、白い髭を蓄えた山羊老人だった。
「流石に。この歳で石段を登るのは、ちときついですな」
老人は、ヒウンに話しかけるでもなく、独りごちる。
曲げた背中を少し反らせ、左手で髭を撫で上げ、老人はまた口を開く。
「この所、森が騒がしいと思っておりましたが。原因は貴男ですね」
「…」
今度はヒウンに向けて言葉を投げ掛けるが、ヒウンは応えず、能面を被ったような無表情で、老人を見ていた。
けれど老人は、ヒウンが問い掛けに応えない事を気にもしていないのか、愉快気に、フォッフォッと含み笑いを漏らす。
「貴男は一体何者なのでしょうね。実に不可思議です。それで貴男は…」
老人の顔から笑みが消え、影が落ちる。
「何を見た」
老人は、目を見開き額に深い縦皺を刻む。それまでの老人とはまるで別人の様に凄めば、老人らしからぬ殺気をヒウンに向けて放っている。
「貴男がこの森で、何をしたかなど訊かずともわかっているが、貴男の口からお訊きしたい」
「…」
微かに怒気の含まれた言葉が、ヒウンの肌をピリリと刺激する。
けれどヒウンは応えない。ただ老人に冷たい視線を送るばかりだ。
「口は災いの元と言いますが、目は口程に物を言うとも言いますね。貴男は知り過ぎた。ここでし」
老人が最後まで言い終わるより速く。ヒウンは左の掌から刄を出すと、疾風の速さで懐に入り込み、左腕を振り上げた。
ヒウンは、その一撃で、老人の息の根を断つ筈だった。けれど、その一瞬き。老人の肩越しに見えた人影が、ヒウンの動きを鈍らせ、切っ先が僅かにずれて風を切る。
血を噴き出し倒れた行く老人。変わりに老人の背後にいる人物がその輪郭を現して行く。
開いた唇を震わせて、脅えた瞳でヒウンを見ている彼が、名を呼んだ。
「ヒ、ヒウ、ン」
ヒウンはその呼び掛けを聞き流し、ある物を斬ろうと老人に切っ先を向けた。
それは、縫い糸のように細い根。ヒウンが辿ったそれは、彼の考えが正しければ、直ちに切り捨てるべき物だった。
けれど、詰め寄ってきたヒロに阻まれ、ヒウンは老人を取り逃がしてしまった。
邪魔をされた為か、ヒロを見る目が冷たくなる。
けれど、森の異変にヒウンは顔を上げ、ぞろぞろと現れる気配に警戒をした。
気配はヒロとヒウンを取り囲む。
風を切る音がした。
「…」
「ングッ!?」
ヒウンはヒロの胸倉を右手で掴み上げると迫りくるそれを難なく躱す。
躱したその場に細い物が振り下ろされ、地表に当たりビチンッと鞭を打ち鳴らすような音を森に響かせた。
それは、蛇の様にグネグネと蠢きしなる木の枝だった。
二人の前に姿を現したのは杣と呼ばれる植物。
実質は普通の木々と変わらない。けれど、根を人の足のように、枝を人の手のように使い、幹にある一つ眼で、相手を確認し襲ってくる。食虫植物のそれに近い。
杣は狗と違い、知能はない。食う、食われる。それしかないのだ。それ故に厄介でもある。
ヒウンが手を離すと、ヒロはその場に尻餅をついた。
それでもヒロは、ヒウンをキッと睨み付け、喉を鳴らした。
助けられたのは事実だが、助け方が気に食わない。何より、まだ話がついていない事にヒロは怒っていた。
「お前なっ!」
立ち上がったヒロはヒウンに歩み寄る。が、右手で軽くあしらわれ、前のめりに転がってしまう。
ビチンッと言う音に、振り返れば、またヒウンに助けられた事に気付く。けれど、ヒロの怒りは増すばかりで、杣そっち退けでヒウンに突っ掛かっていく。
ヒウンはそんなヒロと杣の枝を躱し続け、気付けば杣の群れに取り囲まれていた。
「クソガァッ!」
頭に血が昇ったヒロは未だ自分の置かれた状況に気付いてすら居らず、半分泣きながらヒウンを睨み付けていた。
そんなヒロにヒウンは哀れみに近い視線を送って、またヒロを押し倒した。
空かさず立ち上がったヒロがヒウンに飛び掛かろうとした時。眼前をしなる枝が通過して、ビチンッと音を立て杣が二人の間に割って入る。
「アァもうっ!鬱陶しい!」
其処で漸く、辺りを見渡したヒロはビクリと肩を跳ねさせ、目を見開いた。
「うわぁぁっ!なんだってのコイツら!」
「…」
やっと状況を理解したヒロに、ヒウンは呆れたと言いたげに眉根を寄せた。
見上げれば杣は一斉に枝を振りかぶっている。
最悪に面倒な事態に、嫌悪を顔に滲ませたヒウンは、懐にある異物感に、眉間の皺を解く。
ヒウンは左の掌から刄を出すと、右手を伸ばし、ヒロの後ろ襟を掴み上げる。即座に一番若い杣を見付だし、そこへ渾身の速さで駆け寄り、勢いそのままに刄を突き刺した。
刄が幹に突き刺さったかと思えば、次の瞬間には杣の全身に亀裂が走り、鋭い一撃に杣の幹に大きな風穴が空く。
ヒウンはそのまま一歩地面を蹴り、風穴を潜り抜け、杣の群れを脱出した。
杣の背後に抜け出たヒウンは、間髪入れずに右足を軸にクルリと身を翻し、連れ出したヒロから手を離すと、懐に手を忍ばせ、瓶を取出し、杣に投げ付ける。
杣にぶつかると瓶はガシャンと音を立て砕け散り、中の液体が杣の表皮に付着させた。
更に身を捻り、グルリとその場で一回転したヒウンは、遠心力を加えた一太刀を杣に浴びせた。
その一太刀の速さたるや、切っ先から放たれる風斬り音は、耳鳴りの様な高い音を響かせて。
その一太刀の威力たるや、杣の幹を真っ二つに斬り飛ばしてしまう。
その切り口から、摩擦熱によって煙が上がり、杣の背中を滴る液体に触れると、忽ち発火した。
ヒウンが投げ付けた瓶は、社にあった灯火油だった。
油に引火してしまえば、後は早かった。
杣と言えど作りは普通の木々と大差ない。
見る見る炎に包まれた杣は、身を焼かれる苦しみからか、所構わず暴れ狂う。
炎に呑まれた1体が燃え尽きる寸前、導火線にでも引火したかのように炎は他の杣に向かって地を這って次々に襲い掛かる。
数分としない内に、その場は火の海と化していた。
辺りを高温に熱せられた風が舞い、立ち上る煙は、黒々と濁っていた。
炎は杣を焼き、それだけでは足りぬと獲物を求めて地を這い出して導火線が燃えるように、村に向けて一直線に進んでいった。
ヒウンはそれを追い、斜面を掛け降りていく。
炎が地を這って進む理由。それは、細い根を燃やし進んでいるからだ。
あの細い根の正体は杣が栄養を送るための、言わば血管。
本来ならば、杣同士の間にしかない筈のそれが、山羊の老人にもついていた。
ヒウンの脳裏に懸念が過る。
ヒウンはフードを深々と被ると、立ちふさがる炎の壁に飛び込み、その向こう側へ姿を消した。
高温に熱せられた空に陽炎が漂う。
もし、ヒウンの考えが正しければ、村人の命は一つとして助からない。
――――
一方、先程から姿の見えないヒロと言えば、突然首の後ろを捕まれ、強引かつ豪快に引っ張られたかと思えば、次の瞬間には宙を飛んでいた。
「ウアァァァァァ!」
身体は次第に落下していき、地面が近付いてくる。
両腕を頭の上に覆い、身を丸めて襲ってくるであろう衝撃に瞼を強く瞑って構えた。
身体が地面にぶつかり、ボンッと弾む。そのままゴロゴロとまるでボールのように転がり続けたヒロの前に、半壊した社が行く手に立ちふさがる。
あわや激突かと思われたヒロだが、偶然にも戸を無くした扉からその室内に転がり込んだ。
そのまま室内を真っ直ぐ転がり続けたヒロは、丸めていた背中から勢い良く壁に激突し、止まった。
「うげっ!イッタッ!」
背中を強打したヒロは、痛みに顔を歪め、自分で自分の背中を撫でる。
「う〜」
瞼を開けば黒目が上下左右をグルグルと回り、物が歪んで見えた。
フラフラと覚束ない足に力を入れて立ち上がり、何か掴まる物は無いかと手で空を掻く。
やっとの思いで、壁に手を着けば、壁がグラリと揺れて崩れ落ちる。
慌てて手を離したが、壁は綺麗に無くなってしまった後だった。
「え、…今の、俺の所為!?」
年代物の壁画にぽっかりと穴があき、見るも無残な光景に、ヒロは動揺を隠せない。
昔、一度だけ街中で気泡を打った時の記憶が蘇る。
気泡は市長の銅像に命中し、首がゴロリと綺麗にもげた。その時の謝罪する日々と兄に絞り上げられた事は、今でもヒロのトラウマとして色鮮やかに残っている。
アワアワと慌てふためくヒロが、壁の穴を覗き込み、その動きを止めた。
「こ、コレって」
その光景にヒロは息を呑む。
――――
「おい見ろ!農園に火が上がってるぞ!」
「あっちの果樹園にも火の手回った!」
村人は迫りくる炎に怯え、成す術無く、呆然と山を見上げていた。
タジャもまた、他の村人同様に燃え広がる炎を見て言葉を無くした。
「な、何だ!?」
彼方からも此方からもと不自然に火の手の上がる森を指差し、数人の村人がその異変に気付く。
火が森全体へ広がろうとまだ燃えていない場所へ襲い掛かるその間際で、不自然に木々が倒れ出した。ドミノように次々と倒れ消えて行く木々に村人の不安は更に掻き立てられた。
「タジャ!」
他の者達とその光景に立ち尽くしていた彼は、呼び掛けにハッと我に帰り声のした方へ顔を向け、視界に汗だくで肩で息をする人影を捕えた。
「ヒロさん!無事でしたか、コレは!?何があったんです!?」
酷く困惑しながらもヒロの元へと駆け寄ったタジャは、けれど、次の瞬間には更なる衝撃に絶句してしまう。
「大変だ!村長が」
村人の一人が驚愕の声を上げ、その声に一同の視線が森へと続く農道へと集まった次の瞬間。村は驚懼と悲鳴に包まれた。
皆の前に現れた村長は、全身を血で赤く染め、今にも息絶えてしまいそうな深手を負い現れたのだ。
「村長!大丈夫ですか!誰か医者を」
村へ辿り着くと膝から崩れ落ちる村長を一人の男が救い上げ、村長の身体を支え、その傷の深さに血の気を失いながら声を張り上げ、他の村人も一斉に村長へと駆け寄った。
「しっかり!誰にやられたのです!」
男の呼掛けに、村長は震える手で男の胸を押し、最後の力を振り絞り確り立ち上がると、集まった村人を険しい目付きで見回して独り頷く。
「皆、聞いてくれ」
か細く、震える声に村人は耳を傾け、息を呑む。
死期を間近にした村長の眼光は鋭く、恐怖すら感じさせる。その姿に、口を出す者はいない。皆、村長の次の言葉を待っていた。
「森の中で、薄い藍色の目を持つ者と出会った、アレは人ではない、人の皮を被った化け物じゃ、この傷もヤツにやられたのじゃ、」
村長は途切れ途切れに言葉を紡ぎ、荒い息で語る。時折、吐血し、苦しみに耐える素振りをみせるがそれでもと声を振り絞る。
「ヤツは直ぐに此処へ来る」
その言葉に村人は一気に騒つき、恐れに顔を歪めていく。
村長は深手を負いながらも、この事を伝え、皆を逃がす為に必死に戻って来たのだと、村人の全員が思っていた。けれど、そうでは無かった。
「わしはまだ、死にとう無い、だからどうか、わしの為に命を来れ」
村長の口からでた信じがたい言葉に、村人は皆自分の耳を疑った。
真偽を確かめようとタジャが口開きかけたその一瞬き、急に村長が苦しみ悶え始めた。
胸を掻き毟り咳き込む村長。すると村長の口から黒煙が上がり、一瞬にして村長の身体は炎に包まれた。
「村長!!」
「み、水を早く!」
あまりの出来事に、村人は再び混乱に呑み込まれ、慌てふためく。
そんな中、タジャの傍らで固唾を呑んで見ていた老婆が震える出し、先程の村長と同様に胸を激しく掻き毟りだしたのだ。
「あぁ、熱い、熱い」
唯事では無いと分かりながらも、タジャは動く事さえ出来ないで恐怖にぶるぶると身体を震わせる。
その間にも苦しみ悶える者が次から次へとその数を増やしていった。
「な、何が起きてるんだ…何なんだ!!」
伝染した恐怖が村中を支配し、理解を越えた現実にタジャの精神が壊れ掛けた次の瞬間。一陣の風と共に現れた影が、鈍く光るものを横一線に振り抜いた。
僅かな静寂の間に響いた風を切り裂く音は、次の音を導き、耳鳴りに震えた鼓膜へ弦を弾いたような音を鳴り響かせた。
けれど、その音を気にする者は一人も居ない。皆が皆、静寂の中にいたのだ。
村人は一様に目を見開き、飛沫が飛び散る様を、スローモーションで見送った。
一瞬き前まで眼前にいたはずの村長の苦悶する表情が消え、変わりに背景が目に入る。その下で見覚えのある身体が不自然に立っていた。
乱れた思考が整う前に、村人の中心に、火の玉が舞落ちる。それはゴンッと鈍い音をならし地に落ちると、ゴロリと重た気に転がって空を向いた。
それを目の当たりにした誰もが言葉を失い、総毛立つ。
地に転がるそれは、見開いた双眼で村人を見上げていた。
「ッッッッ!!」
声にならない悲鳴が上がり、どよめきが起こる。
皆の視線の先で、炎に照らされた薄い藍色の目がギラリと鋭く光る。
村長の首を切り落とした者、それはヒウンその人だ。
血に濡れた刃を炎が照らし、まがまがしく輝かせ、狂気に人々を震え上がらせる。
表情も無く、ただ鋭い眼光が村人に向けられた時。沈黙は悲鳴によって打ち破られた。
「…」
耳障りな悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らした様に一斉に逃げ出した村人へ、次なる惨劇が降り掛かる。
ヒウンは、血に濡れた刃を今度は村人へと向けたのだ。
「ヒウンッ!!」
「…」
突如刃を振り回し、村人を襲い始めたヒウン。その切っ先は女、子供へも容赦なく振り下ろされ、逃げ惑う人々は背後から斬り付けられて次々と地に付していく。
「キャァァァ!」
「…」
「ヤメロォー!!!」
転倒し、お腹を抱き抱えた身重の女性に容赦なく刃を振り下ろすヒウンを2丁のチャカが防ぎ止める。
再びの妨害に怪訝な色を加えた瞳で、チャカの持ち主を見据えたヒウンは、鋭い眼光を送るがヒロは一歩も引かなかった。
「ヒウンッ!!」
「…邪魔だ」
「お前のやろうとしている事は知ってる!でも、こんなやり方はダメだ!」
カタカタと互いの獲物をぶつけ合わせ、互いに一歩も引かず睨み合いを続けた二人は、けれど何かに気付いたヒウンが刃を掌の中へ納めた事に寄り、呆気ない幕引きとなった。
ヒウンがいち早く気付いたモノ。それは森に巣くう杣たちの絶命の叫び。
地鳴りと共に山全体が大きく揺れ、村人に着いていた無数の極細の糸が自然と切れ、空へと舞い上がり全てが一瞬にして灰へと変わり果てたのだった。
事の終止を感じ取り、マントを翻したヒウンは何事も無かったように村を立ち去ろうとしたのだが、一人の青年がその行く手に立ちふさがる。
「何故ですか」
「…」
未だ悲鳴が飛び交うその中で、さして大きくもない青年の怒の籠もる声は良く響いた。
全身で威嚇を表し、血走った目でヒウンを睨み据えた問い掛けに、けれどヒウンは答えようとはしなかった。
人がそうなってしまえば、いくら弁明をしたところで通じないのをヒウンは良く知っていた。何を言っても通じない相手に、ヒウンの感心は無い。
「何故こんな事を」
それでも青年は身体を震わせて尚も問い掛け、その声音に含む怒りをヒウンへぶつけて来た。
「私はこんな事を頼んではいない!」
カッと見開かれたその眼には憎しみの色が入り交じる。
見覚えのあるその顔に、ヒウンは黙ったまま、ただ視線を送る。
「違うんだタジャ!」
そんな二人の間に割って入りヒウンを庇う様に前へ歩み出たヒロは、もの言わぬヒウンの代弁をしようと青年に対峙する。その姿にヒウンは微かに眉を上げて驚きを覗かせたが、直ぐに無表情へと戻り、口を開く事はなく、ヒロの出方を窺うようにその背中に視線を送った。
「退いて下さい!」
「違うんだっての!話を訊いてくれ!ヒウンは」
「話しなんて訊きたくない!」
ヒロの言葉を遮り、タジャは声を荒げる。その眼には今にも零れ落ちそうなほど大粒の涙が溜まっていた。
「何故そんな化け物を庇うんですか!コイツは村長を殺したんです」
「違っ」
「殺したんですよ!」
ヒロが反論の言葉を言い切る前に、再びタジャの言葉が遮った。
その怒声にヒロは言葉を呑み込んでしまい、言い淀んでしまう。
「村長だけじゃない!何人もの村の仲間を、逃げ惑う子供を殺したんですよ!!」
「違う!ヒウンは殺してなんかない」
「…でていけ」
タジャの身体の震えがその言葉をも震わせる。
「出ていけ」
タジャは修羅さながらに顔を憎悪に引きつらせ、眼光鋭くヒウンを睨み、乱暴に腕を振り抜いた。
「出ていけ化け物!!!」
渾身の力を込めたタジャ声に、ヒロは後退り、真後ろに立つヒウンにぶつかりハッと顔を上げた。
伺い見たヒウンは目を瞑り、タジャの言葉を受けとめているようだった。
「ヒウン…」
か細いヒロの呼掛けに瞼を開いたヒウンは、ヒロに一度視線を移すと、踵を返し、マントを風に揺らしそのまま村から立ち去ろうように歩いていく。その背中が僅かに震えているようで、ヒロは堪らなく苦しくなった。
「ま、待てよ!」
立ち去ろうとするヒウンを呼び止めたが、ヒウンは立ち止まらない。
ヒロは一歩ヒウンに歩み寄ろうと足を出し、その動きを止めてタジャの方に振り返った。
何も語らないヒウンはそれで良いのかも知れない。それでも変わりに弁明する事ぐらいしなければと思ったのだ。
「なんか、スゲー後味悪いけど、コレだけは言っとく。ヒウンは村人には危害を加えてないっての」
ヒロは身体を強張らせ、俯いたままのタジャに一歩近付いて辺りを見渡し、タジャの視線を誘導する。
視界に入る地に伏した村人を見て顔を歪めたタジャだったが、次の瞬間、その顔を驚きに弾いた。
ヒウンに切り捨てられた筈の者達が次々に起き上がり、何事も無かったかのように立ち上がったのだ。
その身体にはヒロの言うように刀傷は有りはしない。寧ろ顔色の良い者さえいた。
「な、なん、で」
村人の無事に安堵し、事態に困惑するタジャは、複雑な表情でその光景に身体を震わせる。
ヒロは独り頷くとまたタジャへ向き直り、もう一つ代弁を添えた。
「それから連れ去られた子供、まだ生きてるぜ。ブッ壊れた建物の中に居たよ。お前に会いたがってた奴もいた。直ぐに助けに行ってやれよ」
その言葉に瞬時にヒロを見たタジャが更に震える。その眼は、優しい兄の目だった。
「色々、ありがとうなタジャ」
ヒロはそう言い残し、荷物を持つと、ヒウンの後を追って森の中にその姿を消して行った。
微かにタジャのものと思われる震える声が森に響いた時、ヒロは立ち止まり森を見上げた。
そこには最早火の手は無く、立ち上る何本もの煙が、ヒロの心を映したように空を灰色に染めているのだった。
ヒウンに追い付いたヒロは、声を掛ける事無くその背中を見ながら斜面を下って行った。元の街道に戻った頃には辺りはすっかり暗くなり、真夜中の装いになっていた。
「…」
それでも黙々と歩くヒウンの様子を背後から窺っていると、急に振り向いたヒウンと視線が合う。ヒウンは何か言いたげにヒロを見つめ、街道際の草原に向けて顎をしゃくった。
一人草原に座り込んだヒウンの後に続いて、ヒロは少し離れた所に腰を下ろすが、二人の間に会話は無く、暫し沈黙が鎮座した。
無言が余りにも長く続き、焦れたヒロがヒウンの出方を見ようと思ってソワソワしてしまう。何分沈黙と言うのが好きでは無い。
横目にヒウンの顔色を窺い見るが、ヒウンの表情はいつもの無表情で、空に浮かぶ白月を見つめていた。
視線を戻したヒロは自然と溜め息を吐き出した。
「…何故庇った」
ヒロの溜め息と同時に沈黙を破ったのはヒウンの方だった。予想もしていなかったヒロはビクリと肩を跳ねさせる。勿論、返事など用意していなかったヒロは、意味のない擬音を発してしまった。
再び横目に窺い見ればヒウンはじっとヒロを見てつめていた。
更に言葉の見付からなくなったヒロだったが、ヒウンは何を言うでもなく、ヒロの答えを待っていた。
「いや、だって、ヒウンのやった事の理由、知っちゃったから」
漸く、それらしい答えを絞りだしたヒロは、一山越えたと言いたげに大きく息を吐いた。
ヒロがそれを知ったのは、半壊した社の奥。壁画の裏に隠された部屋に居た者が教えてくれたのだ。
その者はナジャと言い、タジャの探していた弟だった。
ナジャの話しでは、自分達は村長によって社に幽閉され、村長のしてきた事の一部始終を訊かされたのだと言う。
話は村長の子供時代から始まった。
その昔、村長は貧困に喘ぐ村に産まれ、酷く貧しい生活を強いられた。そのころから贅に対する執着、特に金に対する執着が強くなり、成長するに従い、その心は醜く歪んでいったのだ。
成人を迎えた頃には人を騙し、殺す事を何とも思わない男になっていた。
齢40の後半に差し掛かり、男はあの村に流れ着いた。始めは村一つ食い物にするつもりだったと言う。けれど、そこで偶然あの社の壁画を眼にし、漠然と理解したのだ。
類は友を呼ぶと言うものか、それは古に葬り去られた禁断の術であった。
男は杣と契約し、土地を豊かにする術を学んだ。
それには生け贄が必要だが、そこは村を訪ねてのこのこやって来た、旅人や商人を生け贄として捧げていたのだ。
ヒウンが見付けたあの遺骨もその犠牲者の物だった。ヒウンはそれ以外にも数十箇所、同じ様な物をあの森の中で見付けていた。
何も知らない村人は、男は村に貢献し村を豊かにしたとして、男を村長にしてしまった。
男は村を手に入れて、自分の城を築き上げ、村人の信頼も勝ち取った。
けれど奸な力を借りた仮初めの豊さに、森は次第にバランスを失い、土地は逆に痩せていった。
獲を求めて獣が旅人を襲うようになり、村に人が寄り付かなくなっていき、生け贄にも困り出した頃。男は老いを恐れるようになっていった。
日に日に衰える自分を何とかしようと、ついには村人にまで手を出した。村人全員に根を繋ぎ、少しずつ生気を奪いとっていったのだ。
そんな日々を長く続けていた男の心は人の理を大きく外れ、醜く歪んでいった。
村長は終始自慢気に、まるで武勇伝でも語るように軽い口調だったそうだ。
自分達も殺されてしまうと思い、失意のどん底に落とされたそこへヒウンがやって来て、根を切り捨て助けたのだった。
ナジャがヒウンにも同じ事を話したと言っていた。ヒウンがその話しを訊いたのはヒロよりも先である為、あの時のヒウンの行動に思わず抗議してしまった。
知らなかったとは言え、ヒロはヒウンを疑ってしまった事に、後悔が残る。
ヒウンがその話しを知っていたのなら、村人にその話しをすれば、あんな誤解も生まれなかっただろうに、ヒウンはそれを口にはしない。まして化け物呼ばわり去れなくてもすんだだろうに。
ヒロはそう思い、胸が痛むのを感じた。
ヒウンはどうして言わなかったのか、どう思っているのか、訊きたい。けれどヒロの口はうまく言葉を出せる自信がない。
「ヒウン…疑って悪かったな、ごめん」
まずヒロの口から出たのは、謝罪の言葉だった。
深々と頭を下げたヒロから、ヒウンは目を反らし、暫し考えているように視線を宙に漂わせた。
返事を待ち兼ねたヒロが顔を上げた時、ヒウンが空を見上げたまま口を開いた。
「…一つを見るな」
「え?」
「…一つを見るな、全てを見ろ。入り込めばそこで終わる」
ヒウンはヒロに訊かせるように、自分に言い聞かせるように、そう言った。
ヒロはよく意味がわからなかったが再びかち合った視線に、その場は頷く事にした。
けれど。
「でもなヒウン。あんなやり方はダメだ。あんな、人を物見たいに切り付けてちゃダメなんだ」
「…」
いくら事情が事情であろうと、ヒウンの行動には、迷いの欠片も見て取れなかった。アレでは要らぬ誤解を招くだけだとヒロは思う。
けれど、ヒウンの目を見てヒロは固唾を飲む。口にはしないがヒウンの目は何が駄目なのかを理解していないのだ。
感情の欠落。
今のヒウンには結果しか無く、その過程に何があろうと感心が無い。
それは、幼少の頃に教えられ当たり前として覚えるべき何でも無いモノだ。
時に怒られ、時に褒められ学んでいくモノ。
ヒロは兄と輩達からそれを学んだ。
けれど、ヒウンにはソレが無い。あるべき教えが。諭すべき大人が居なかった。
その目が、幼少期にヒウンが置かれていた状況を如実に表している。
ヒウンは学び覚える時期を、人として過ごしていないのだと。
「駄目なんだヒウン。人が人を簡単に殴ったり、斬ったりしちゃいけないんだ。そうじゃなきゃ、人じゃ無くなっちまう。ダメなんだよ」
ヒロは胸の苦しさに顔を歪ませて訴えた。ヒウンの欠けたままの穴を埋めてやりたかった。
「考えてくれ。自分がもし遣られる側だったらって。想ってくれ、相手がどう思うかを」
言葉にはしようもない痛みが、鈍く心に突き刺さる。ただ人を助けようと行動するヒウンも、罵られ罵倒されるヒウンも、そのどちらもヒロの内側を痛め付ける。
それではヒウンが、何時までも救われないのだ。
「…ダメ…なのか」
今までソレを教えてくれる者は居なかったのだろうか。今までヒウンはあの僅かな震えを耐えるだけだったのだろうか。
思えば思う程、ヒロの痛みは増す。
そんなヒロの表情を真っ直ぐ見つめたヒウンは、独り言のように呟いて、僅かに目を見開いた。
「…そう…か」
独りごちるヒウンは何かを飲み込むように呟き、夜空に視線を移して月を見上げた。
そんなヒウンに、ヒロの胸の痛みは少し和らいだ気がした。ヒロの伝えたかった想いが、ちゃんと伝わったかはわからない。ヒウンの欠けたままの感情の穴を埋める事が出来たのかもわからない。
ただ、夜空を見上げるヒウンの瞳が、確かな色を含んでいるのが見えたのだ。
無愛想で無表情で口数少ないヒウンが、見せた僅かで確かな変化。
ヒウンは何かを学んだのかもしれない。ヒロはその力になれたのかもしれない。
いつも一定の距離を保つヒウンが、今は少し、近付く事を許してくれているからヒロはそう思えた。
ヒウンが纏う匂いにも、きっと彼なりの訳があるのだ。
「…明日も早い…寝ろ」
「お、おう!」
ヒウンのその言葉に驚きを隠せないヒロだが、どこか嬉しそうにヒウンに従い、草原の上で目を閉じた。
二人の旅は始まったばかり。
《纏う匂》終…
《…》
「ヒギャァ!毛虫!」
「…」
「ウギャァ!蜘蛛!」
「…」
「生魚気持ち悪ィッ!」
「…ヒロ…相手の気持ち」
「それとコレは別次元!!」
∑「エッ!?;」
*オマケ*
memory №02 END
To be continued.
ヒウンの生い立ちを垣間見たヒロと、初めて思いやりを諭されたヒウン。
無口と喧しい凸凹な二人の旅を、楽しんで頂ければ幸いです。