とある家主の話
ある日、マンションの前に行き倒れた人間がいた。
救急車を呼ばなかったのは、その人間にまだ意識があって、俺に水と食料を求めてきたからだった。正直あまり関わりたくはなかったが、腹が満たされれば帰るだろうとミネラルウォーターと菓子パンを食べさせた。
身なりはそこそこ良かったので、家出でもしたのかと聞くと、恋人に追い出され行き場をなくし財布も取られ途方に暮れた末に、このマンションで行き倒れていたのだという。気の毒だとは思うが、正直これ以上面倒事に関わりたくないので、金をいくらか持たせて帰っていただこうと立ち上がろうとした。
その時、目の前にその人間の顔があり、驚いて再び座ると、けして美人ではないものの、目を離さずにはいられない不思議な魅力に溢れた顔で、だから恋人になって養って、と言った。関わりたくないはずなのに、視線を合わせたまま財布をしまい、その人間の手を握った俺は、これからよろしくなどと口走っていた。
数週間たち、その人間が家にいるのが当たり前になった。名前も知らないそいつを『居候』と俺は呼んだ。恋人と呼ぶには恥ずかしく、おいとかお前と呼ぶのは居候が嫌がったからだ。その居候は俺のことを『家主さん』と呼び、俺が仕事に行っている間に掃除や洗濯などの家事をしてくれている。
おかげで足の踏み場もなかった部屋は見違えるほど綺麗になり、溜まっていた洗濯物は消えクローゼットにしまわれた。コーヒーだけだった朝食はトーストとサラダとスープが増え、夕飯はバランスのとれた食事が出るようになった。
至れり尽くせりといった風だが、居候にとってはこれが普通らしい。外見などからは想像もつかないが、とても優秀な居候に俺は満足していた。もちろん恋人としての触れ合いもあった。週末だけ、この家かビジネスホテルで二人で過ごす、これにも不満はない。最初は戸惑ったが、今では毎週この時間を楽しみにしていると言ったら、居候はどう思うのだろう?喜ぶだろうか、それともハマってしまった俺を笑うのだろうか?どちらでもいいと思う俺は、もうこの落ち着く二人だけの時間から抜け出せないのだろう。腕の中の居候は思い悩む俺を見て、どことなく嬉しそうに笑った。
しばらくして、居候は消えた。
帰宅した俺を迎えたのは居候ではなく、あいつからの手紙だった。
手紙には、今まで世話になった事、俺との生活が本当に楽しくて別れるのが辛いという事、実家の事情でやむを得なく帰らなければならない事、夕飯はラップをかけてあるので温めて食べる事、俺を…愛していたという事。一つ一つは短かったものの、紙にはぎっしりと書き連ねてあった。
俺と居候が過ごした時間は長くはなかったが、俺にはこれが居候の本音だと分かった。
涙は出なかった。居候の作った夕飯を食べ終えた俺は、実家に帰省する旨を連絡し、三日の後に家を出た。
毎年、年末に行われる実家のパーティーは俺にとって憂鬱以外のなにものでもない。実家と縁を結びたいがために俺にたかってくる人間たちを避け、一人中庭へと降りると背後から声をかけられた。
大勢の人間と大して変わらない格好をしているはずなのに、一際輝いて見えた。気まずそうな顔と嬉しさをこらえる顔が一緒になった、何ともおかしな顔をした居候は、久しぶりと言った。
言いたいことはたくさんあったけれど、それよりも先に俺は居候を抱きしめた。少し細くなった居候は、皆に見られるからと焦った。そんなことは気にも留めず、俺は居候を離さないよう、腕に力を込めた。
それから更に時が経ち、桜の花が咲き乱れる頃、俺は居候と再び住み始めた。今度は居候と家主ではなく、共に歩むパートナーとして。首から下げた銀の指輪は、重なりながらキラリと光った。