交わらぬ道
イルグレンが目を覚ましたとき、すでに一行は公都近くまで進んでいた。
運良く内臓が傷ついてはいなかったため、一週間も眠り続けていたので痛みはほぼ耐えられた。
医術の心得もあるソイエライアの処置のおかげで、傷も化膿することなく、順調に治っているようだった。
そうして、イルグレンがベッドから起き上がれるようになったのは、目を覚ましてからさらに一週間後のことだった。
その間、完全看護の名のもとに、彼はアウレシアに会うことはおろか、声を聞くことすらできなかったのだ。
いつものように休憩の時刻となり、馬車が止まったのを見計らい、まだ安静が必要だというウルファンナの制止を振り切り馬車の外へと出たイルグレンは、真っ先に彼女のもとへと足を運んだ。
アウレシアは木陰につないだ馬の横で座って休んでいた。
剣を支えに目を閉じている。
そんな姿をしばし見つめ、やはり彼女は美しいと、改めてイルグレンは思った。
以前であればそっけないと思った簡素な衣服も、彼女にはよく似合っていた。
無駄なものを何一つ持たず、剣のみを頼りとする潔い美しさを、素直にイルグレンは愛おしいと思う。
「レシア」
小さな声であったが、アウレシアはすぐに目を開けた。
視線が出合う。
「グレン!」
かけよってくるなり、アウレシアはイルグレンの上衣を左右に引いた。
「レ、レシア?」
「傷はどうなった? もう動いて平気なのかい?」
「もう大丈夫だ。傷も閉じた。無茶をしなければ大丈夫だ。心配をかけたな」
包帯を巻かれた腹部に血が滲んでいないのを確かめ、アウレシアは安堵の吐息をもらした。
「全くだよ。とんだ皇子様だ。もう公都に着くまで出歩くのは御法度だ。大人しくしてておくれ」
「お、グレン。出歩いても大丈夫そうだな」
ソイエライアが木陰から顔を出す。
「ああ。ソイエ。手当をありがとう。見事な腕前だとエギルが褒めていた」
「はは。刺したのがちょうどいい場所だったんでな。縫うだけですんでよかったよ。薬は飲むのも塗るのも忘れるなよ」
手をひらひらとふると、ソイエライアはまた木陰へとひっこんだ。
「剣の稽古ができなくて残念だ」
「あったり前だろ? 立ってないで座ろうよ。ほら」
腕を引かれて思わず掴み返す。
「グレン?」
「いや、お前に話があって来たのだ。出来れば二人だけで」
一瞬戸惑ったような顔をしたアウレシアだが、
「じゃあ、散歩しながら聞くよ。あそこの木の陰まで」
そうしてゆっくり歩き始めた。
久しぶりに並んで歩く感覚が、心地よかった。
まるでずっと以前からこうしてきたように、自然なことのように思えた。
「歩けるようになってホントによかった。死ぬかと思って泣くかと思った」
「なんだ、それは。結局泣いてはくれなかったのか」
「泣くもんかよ。自分から死のうとする奴のためになんか」
舌を出すアウレシアに、イルグレンは苦笑した。
「死んでもいいと思ったのだ、あの時は」
「グレン――」
「本当だ。あの時は、そのために生きてきたのではないのかとさえ思えた。彼女はまるで断罪の女神の化身のようだった。私の罪を、これで償えると思ったのだ」
「グレン、怒るぞ」
「だが、慌てて駆け寄ってきて手当てをしてくれたお前を見た時は、死にたくなかった。
生きていることは素晴らしい。生きていられて、本当によかった。
それも、確かなのだ」
にっこり笑って、イルグレンはアウレシアを見つめた。
邪気のないその笑顔に、一瞬見とれ、我に返って大きく息をつく。
「ほんっとに皇子様だなあ。こんな仕事は一生に一回ありゃ十分だな」
あきらめたように笑い返すアウレシアに、今度はイルグレンが我に返る。
大事な話をしに来たのだ。
「レシア、旅が終わったら、お前はどうするつもりなのだ」
「決まってる。次の仕事をするまでさ」
さらりと返ってくる答。
立ち止まり、覚悟を決めたようにイルグレンは言った。
「ともに来てほしいと、言ったら――?」
振り返り、アウレシアは笑った。
「何の冗談だよ、それ」
「私は本気だ」
真剣に彼女を見つめるイルグレンに対し、アウレシアは今度は声を立てずに微笑った。
「行かないよ」
あまりにも簡単な拒絶だった。
まるで散歩の誘いを断るかのように。
「レシア」
「行けるはずないだろ。あんたと一緒に行って、それでどうしろって言うのさ。
あたしにご立派な、生命の危険なんて起こりっこなさそうに平和なお城の中であんたを守ってろって言うのかい?」
「違う、私の言っているのはそんなことではない。お前を護衛として雇うと言っているのではない。私の――私の妻として来てほしいのだ」
「それこそ冗談じゃないよ。あんたはあたしに剣を捨てろって言ってるんだ。あたしは戦士だ。それがあたしの生きる意味の全てだ。それを捨てるって言うのは、あたしに死ねと言っているのと同じことなんだ。あんたはあたしを生殺しにする気かい?」
「レシア……」
「わかってたはずだろ? あんたは皇子様で、あたしは雇われの渡り戦士。あたしたちはお互い、本当なら交わらない道の上で、偶然会っただけなんだよ」
とても遠いと、イルグレンは感じた。
すぐ側にいるのに、アウレシアの言葉も、自分の言葉も、互いには届かないように。
「一緒にいすぎたね。だから、勘違いしたんだよ。公都も近い。本来のあんたに相応しい場所に戻れば、こんなことは気の迷いだったとすぐ気づくさ」
子どもを諭すようなアウレシアに耐えられず、イルグレンは彼女を引き寄せ抱きしめる。
「気の迷いではない。私は、お前を愛している――愛している。離れたくないのだ。頼む。私と来てくれ。傍にいてくれ。私はもう、お前を知らなかった頃には戻れない――!!」
だが、どんなにきつく抱きしめても、その腕が自分を抱きしめ返してくれることはなかった。
「――あんたが好きだよ、グレン。
でも、あたしはあんたのために全てを捨てることはできない。
そうするほどは、愛してない」
真実だった。
彼女は、いつも本当のことしか言わない。
だが、それが今は苦痛となってこの胸を刺すのだ。
「今あんたのために全てを捨てたとしても、いつかそれが苦痛になる。失ったものを悔やんで、あんたを憎むことになる。
あたしは誰かのために自分を捨てない。
あんたの後をついていける女じゃない。
あたしは自分の足で立って、自分の力で生きていく。
そして、並んで歩いていける男を選ぶ」
強い言葉だった。
そして、その強さは自分にはなかった。
それでも。
行かせたくない。
彼女を引き止める術を持たない、これは自分の感傷か。
「レシア!!」
強く強く、抱きしめた。
これが、最後の抱擁なのだ。
「――わかっていた。お前は私と一緒に行ける女ではないと」
滑稽だった。
女に縋って、引き留めようとして、無理だとわかっていたはずだったのに、夢を見た。
どこまでも一緒に行けるのではないかと。
もしかしたら、一緒に来てくれるのではないのかと。
「だが、私にはお前しか見えなかった」
アウレシアは微笑った。
それを、触れているだけで感じられるのはなぜなのだろう。
「さよなら、グレン」
「ああ――」
イルグレンは静かに彼女から手を放した。
すれ違うように去っていく彼女を、追うことはできなかった。
檻の中に閉じこめてしまえば、野性の獣は、誇り高く死を待つだけであったから。