問いの答え
「――」
衝撃は、一瞬だった。
苦痛は、永劫かとも思えた。
腹部に刺さる短刀を、イルグレンはじっと見据えていた。
作法では、刺した刃をさらに横に引かなければならなかったが、無理だった。
刺したその痛みだけで、もう耐えられなかった。
だから、せめて抜いた。
咄嗟に押さえた腹部から血が流れていく。
それと同時に、急激に体が冷えていくような気がした。
ああ、自分は今死ぬのだ、と悟った。
その前に、言わなければならないことがある。
「――すまなかった」
前のめりになりかける体を血まみれになった手でとっさに支えながら、イルグレンは頭を垂れた。
「何馬鹿なこと言ってんだ!?」
アウレシアの声がやけに遠くに聞こえる。
大きな声のはずなのに、それを感じられない。
痛みと腹部から末端へ広がっていく寒さに、意識が奪われていこうとしている。
「全ての罪が、グレンにあるって言うのかよ!? そんな馬鹿な話があってたまるか、いくら皇族ったって、そいつは貴族でもない平民の側室腹で、何の権力も持たない、見捨てられたも同然の皇子だったんだぞ」
「違うっ」
対するように、自分の声はやけに自分に響いた。
実際は、声は掠れていたのではないか。
それなのに、自分の鼓膜には、まるで大声でわめいているように感じられる。
これ以上、声を出したくなかった。
声の震えは今は何より体に痛みとして響く。
声を出すには、腹部に力を入れなければならなかったのだ。
そんなことにも、初めて気づいた。
痛みに苛まれる自分と、こんなときによけいな感慨を抱く自分と、心が二つに分かれていくような感覚。
だが、言わなければならないことがあるのだ。
それまで、どんなに苦しくとも死ぬことも許されない。
レシア、黙ってくれ。
話させてくれ。
この女神のように自分を断罪する人に、懺悔させてくれ。
でないと、この痛みに耐えられない。
「私の罪なんだ。
私に流れる血――これが、私の罪なんだ。
この十七年ずっと、私は罪を犯しながら生きてきたんだ。
私は盲いていた。
罪を罪とさえ思わなかった。
傲慢で、愚かな人間だったんだ」
腕が震えて、これ以上支えられない。
イルグレンは顔を上げた。
女の顔を、まっすぐに見据えた。
今は、青ざめた無表情の中にも驚きが感じられる。
先程までの女神のような無慈悲な顔ではない。
唯一の家族を奪われ、復讐だけを頼りにここまで来た、憐れな女の顔だった。
「すまなかった。
私はあなたの弟を殺した。
罪もない、たくさんの人間を殺して生きていたんだ。
愚かしい人間だったんだ。
すまなかった――」
肘が震えに耐えきれずに地についた。
「すまなかった――すまなかった。
あなたは私を、許さなくてもいい」
地面に額を擦りつけて、イルグレンは何度も何度も謝罪の言葉を繰り返した。
女は最初、この皇子が何を言っているのか理解できなかった。
なぜ、命乞いをしないのだ。
なぜ、自分に謝るのだ。
なぜ。
なぜ。
血まみれの短刀が皇子の傍らに転がっている。
なぜそれは、自分の持っている短刀ではないのだ。
自分の復讐だったのに。
皇子を殺して、ようやく楽になれると思っていたのに。
どんなかたちであれ、目の前で、皇子は死んでいこうとしているのに。
なぜ、この絶望から今も逃れることができないのだ。
「傲慢な皇族が、たかが平民に平伏して謝罪の言葉を吐くか。その言葉が偽りに聞こえるか、見極めろ。あんたは誇り高い女だ。正義を知っている女だ。
皇子を見ろ。皇子の中に、偽りが見えるか。彼は他の皇族とは違う。彼もまた、偽りを許さない。誇り高い、憐れみを知る男だ。自分の過ちを知り、悔い、償おうとしている男だ。
見極めろ。一時の復讐心に惑わされて人を殺めれば、あんたの大儀は地に堕ちるぞ。
真実は何処にある? 罪は何処に――誰にある!?
罪なき者を殺すのが、あんたの復讐か!?」
女戦士の叫びが、命乞いの卑しい響きを欠片も持たぬことはすでにわかっていた。
彼女は雇われた戦士だ。
しかも、金目当てだけで護衛を引き受けるごろつきとは違う。
そして、今己の血にまみれ、地べたに平伏し、不様に謝罪を繰り返すこの皇子でさえも、卑しさは欠片もなかった。
女は悟ってしまった。
この皇子を、殺すことはできない。
殺す言い訳が、すでにないのだと――
心からの謝罪が欲しかったのではない。
ひどい人間であってほしかった。
殺すことに何の躊躇いも抱かない、傲慢で、惨めで、薄汚い人間でいてもらいたかったのだ。
弟を死に追いやった皇族ならば、そのような人間でなくてはならないのだ。
何もできなかった自分を責めるのに疲れていた。
理由が欲しかった。
この痛みから逃れるために。
無力な自分を――たった一人の弟さえ救えずに、自分もまた餓えることなく暮らしていた愚かさをすり替えるための正統な証が。
愛していたのに。
苦しんでいる弟のことを忘れていた辛さ。
愛していたのに。
失ってからしか気づけないこの愚かさ。
どうして、あの子の傍を離れたのだろう。
どうして――たった二年なんて、思ったんだろう。
お金さえあれば幸せに暮らせるなんて、勘違いしたんだろう。
貧しくても、傍にいられれば、あんなに無残に死なせなかった。
自分に残された、たった一人の家族だった。
そんな弟さえ、守れなかった。
それなのに、どうして自分だけが今も生きているのだ。
今はもう、どうしようもない後悔だけが女を苛む。
故国を滅ぼし、更に多くの血を流した女。
歴史は後に彼女をこう語るだろうか。
だが、彼女がなぜ国を滅ぼしたか、どんな思いで多くの血を流したかを、後世の人間は知ることはないだろう。
人は常に、行為の結果だけを見る。
そこに到るまでの慟哭を、決して見ることはないのだから。
そして、すでに女には、皇子を憎み続けるだけの理由がなかった。
手に持っていた短刀が、静かにその手から落ちた。
「もういい……もういいわ……」
女は数歩、後ずさった。
そして、踵を返し、その場を去った。