温かな食事
夕暮れが近づいていた。
一行はすでに各々で野営の準備を進めていた。
先に向かった馬車の中には皇子の身代わりの護衛がいるのみで、いつも帰りを迎えるはずの侍女のウルファンナはいなかった。
今日に限ってと不思議に思ったが、とりあえず護衛に頼んでウルファンナに伝言を残し、アウレシアとイルグレンは野営場所へと向かった。
見張りを兼ねたしんがりを務める彼らは、馬車の後ろの、風の当たらぬ低木の影に天幕を張り、その近くでアルライカとソイエライアは食事の準備をしていた。
「ソイエ、ライカ。飯出来てる?」
「ちょうどいいところに来た。あとは、この香味野菜をいれて終わりだ。手伝え、レシア」
「あいよ。グレン、そこに座ってな。もうすぐ出来るから」
火の傍から少し離れたところに敷いた敷物をアウレシアは指したが、イルグレンは、
「いや、私も見ていたい。料理を作るところを見るのは初めてなのだ」
と、興味津々に玉杓子で鍋の中身を焦がさぬようかき回しているアルライカやパン生地を練っているソイエライアを見ていた。
「まあいいか。じゃ、好きに見てなよ」
アウレシアは小さな皮袋に入った液体を手に振りかけてこすり合わせると、手近な布巾で手を拭き、ライカの横にある仕上げ用の香味野菜を手際よくナイフで刻んでいく。
「――」
イルグレンは今度はその手際のよさに感心して、アウレシアの手許を食い入るように見つめていた。
「終わったよ、ライカ。入れるかい?」
「おう、いいぜ」
薄い石板にのった香味野菜を、アウレシアがナイフで煮だった鍋の中にすべり落とす。アルライカは玉杓子でそれをゆっくりかき回すと、片手に皮手袋をはめ、鍋の持ち手をつかんで火からおろす。
「ソイエ、いいぞ」
「ああ。こっちも焼くだけだ。先に用意してろ」
ソイエライアは先ほどの鍋がおいてあった石のかまどの上に油をひいた平たい鉄鍋を置いて、薄くのばしたパン生地を焼きはじめる。
平らな生地がふつふつと膨らんでくる。
香ばしい匂いが漂う。
ソイエライアが、器用に端をつかんでひっくり返していくと、狐色の焼き色が鮮やかに食欲をそそる。
「グレン、こっちにおいで。食事の用意ができたよ」
「――あ、ああ」
かまどの傍から少し離れたところにある先ほどの敷物に座るように促され、イルグレンは大人しく座る。
「レシアに勝ったんだって? おめでとうよ。ほら」
湯気の立つ熱々のスープの入った器を渡されて、イルグレンは戸惑ったようにアルライカとアウレシアを交互に見た。
「私が、一番最初に食べるのか?」
「そうさ、熱いから舌を火傷しないようにな。パンをつけて食べてもうまいぞ。もうすぐ焼きあがるから先に食えよ」
恐る恐る器のなかの木匙をとり、湯気の立つ具沢山の汁をすくってぎこちなく息を吹きかける。
そして、ゆっくりと口に入れた。
「どうだ、うまいだろ」
「…うまい」
まじまじと器のスープを見ているイルグレンに、満足したようにアルライカは頷いた。
「だろ。この鳥の出汁がいいんだよなあ。ソイエの焼くパンとまた合うんだ。ソイエの腕にゃ脱帽だな。俺が焼いてもこうはならん」
「お前のは練りが足りないからだ。スープの出汁をとるためなら丁寧に骨を砕くくせに、なぜ生地を練るときは丁寧にできないんだ」
呆れたように言いながら、ソイエライアは焼きたての平べったいパンを入れた籠をイルグレンに差し出す。
「食べな、グレン。こっちも焼き立てだからうまいぞ。最初は何もつけずに食べてみろ」
言われたとおり、熱々のパンをちぎり、口に入れる。ほのかな塩味が効いたパンの、外側のさっくりとした噛み応え、中のもっちりとした食感に、イルグレンは目を丸くした。
「こんなにうまいものを食べたことがない――」
「お世辞にしちゃ大げさだが、ありがとうよ。スープにもつけて食べてみな」
言われたとおり、恐る恐る試すイルグレンとともに、彼らも食事にありつく。
一日のうち、一番心休まるときだ。
思う存分うまい食事を堪能する。
「ソイエとライカが当番のときは、いっつも豪勢だよねぇ。まじ幸せ」
「レシアの焼肉だってうまいじゃねえか」
「肉焼くだけだから、あれ」
「いや、下味とソースが絶品だ。グレン、レシアが当番のときにまた来いよ。そんときゃうまい酒も準備しとくぜ。レシアの作る飯は酒と合うからな」
おしゃべりをしながら食事をする彼らを見ながら、イルグレンはスープを口に運んだ。
冷えた身体を温めてくれる和やかな食事に、イルグレンは我知らず微笑んでいた。
「温かい食べ物というのは、うまいものなのだな――」
ぽつりと呟いた言葉に、三人はそろって視線を向ける。
「何だよ、食べたことないみたいな言い草じゃん」
「食べたことがない」
「へ? 何で?」
「念入りに毒見が行われるので、私が食べるころには、全て冷めている」
「――」
これには、アウレシアだけでなく、アルライカもソイエライアも絶句した。
「みんなで同じものを食べるというのは、いいことだ。毒見の心配も要らないし、温かい食べ物がすぐに食べられる」
「なんで、そんな――毒見なんて必要なんだよ。あんた皇子様だろ」
「私は、側室の子だ。母は貴族ではない。身分の低い踊り子だった。それなのに長子では、皇后には目障りだったのだろう。皇位を継ぐわけでもないのに、一番最初に生まれてしまったのが運の尽きだった。皇族に刃を向けるのは不敬に当たるから、毒が一番簡単だったのだろう」
何気なく言われた生い立ちだが、とてつもなく重かった。
そうだ。イルグレンのイルとは、〈最初の子〉という意味なのだ。
二番目の子はアル、三番目の子はソルがつく。
本来ならば、皇太子になっているはずの皇子は、その母親の血筋ゆえに決してそうなることはなかったのだ。
なんという不安定な身分。
命を狙われ続けて育ち、そうして、追われるように国を出され、もう戻る故郷とてない。
アウレシア達は、何だかこの皇子がとてつもなく可哀想な気がしてきた。
「――これからは、飯時はあたしらと一緒にいな。同じものを食べれば、毒見なんて必要ないよ」
「いいのか?」
「駄目なら言うわけないだろ」
イルグレンは嬉しそうに笑った。
「では、私にも作らせてくれ。今日お前達が作るところを見ていたが、とても楽しそうだった。私もやってみたい」
アウレシアは眉根を寄せた。
「皇子様が飯作んのかよ……」
「いいじゃねえか、皇子様に飯作ってもらうなんて一生のうちにあるかないかだ」
スープを飲み干して、アルライカは千切ったパンで器の内側を拭い、口に入れる。
「俺らが何でもできる皇子様に育ててやるよ」
「面白がってるだろ、ライカ」
「当ったり前だろ」
にやにやしているアルライカを見ても、イルグレンは一向に気にした風もない。
「面白いなら何よりだ。私も面白い」
アウレシアはソイエライアに目で助けを求めるが、ソイエライアは肩を竦めただけで、反対しない。
「ほら、こう言ってんじゃんか。俺らも楽しい、グレンも楽しい。ならいいじゃねえか。
よぉし、明日から早速仕込んでやるぜ。覚悟しな」