第5話
夜明け前、僕は携帯電話のコール音で目を覚ました。
辺りはまだまだ暗く、夜明けまで、だいぶん時間があるようだった。
何気なく取り、少し寝ぼけた声で、僕は「もしもし」と言った。
けれども、電話の向こうからの返事はない。
電話の主は黙り込んでいた。
その時間はとても長く、そして、その静かな沈黙の時間によって、僕の目は、徐々に覚まされていった。
「もしもし」
僕は、もう一度、語りかけてみた。
すると、電話の主は、ずずっと一回、鼻をすすると、ボソボソと言った。
「さっき・・・ 姉が・・・ 姉が・・・亡くなりました・・・」
それらの言葉は、ポツポツと、途切れ途切れに僕の耳に届いた。
そして、ずいぶんと長い時間が経ってから、僕の口から、短い言葉がこぼれていた。
「どうして・・・」
朝。 いつもの時間。 いつもの場所。 いつもの景色。
見た目には今までと何も変わることはないはずの朝。
けれども、その朝は、明らかに、いつもと違う朝だった。
明け方に眠っていた状態で電話を受けたためか、彼女の死は、僕の中では、まだ現実になりきっていなかった。
そのため、僕の目には、その日の朝の風景はいつもとなんら変りがなかった。
失恋したりして恋人を失った人は、よく、その後、目に映る景色は、何もかもが色あせて見えると言う。けれども、僕には、駅の景色はいつもと全く同じだったし、駅前に植えてある木も、いつもと同じ、いや、いつもよりも一段とあおく茂っているように見えた。道行く人達の顔の色も、きちんと肌色に見えたし、空はどこまでも青く、雲は濁りがないくらいに白く、とてもきれいだった。
「容態が急変して、本当に突然でした」
彼女の弟は、何度も何度も鼻をすすりながら、そう言った。
僕は、そんな彼女の弟の言葉をただ黙って、どこか遠くで見知らぬ人が話している自分とは全く関係ない出来事のように聞き、そして電話を切った後、ゆっくりとベッドから起き上がると、タバコを1本吸った。
まだ真っ暗い部屋の中で、タバコの先端についた火が、小さく赤く、じりじりと燃えてゆく。僕は、タバコを吸わずに、それをじっと見つめていた。そして、ゆっくりと灰皿に置くと、そのままそれを見つめていた。
火は大きな炎こそ出さないが、ゆっくりと赤く燃え上がり、かと思えば、また静かに燃え、また赤くなりを繰り返し、やがて、いつの間にか消えてなくなった。
それは、僕には、まるで彼女の命と同じように感じられた。
短く、はかない時間・・・
暗い部屋で、電気も点けないで、そうしていると、僕は、なぜか、とても幻想的な世界にいるように思えた。
僕は、その明け方の出来事をゆっくりと思い出しながら、いつもの朝と同じように、コートのポケットからタバコを取り出すと、火を点けて一口吸った。
タバコの煙が、僕の中にゆっくりと入ってゆく。
そして、僕を、遠く・・・そう遠く、彼女と出会ったあの日へと連れてゆく。
大丈夫。あれは夢だったんだ。彼女は元気だよ。きっと、僕は今日も彼女に会えるんだ。
向こうから、あの花屋の店の蔭から、今日も、彼女は、きっと走って来るはずだから・・・