第3話
そして、そんなある日、僕が駅でタバコを吸っていると、後ろから「すみません」と、誰かに声をかけられた。
僕が驚いて振り返ると、そこには彼女が立っていた。
「あっ」
あまりにも突然な事だったので、僕は「あっ」という言葉以外に何も言えず、とても間抜けなリアクションをしてしまった。
彼女は自分から話し掛けたものの、何か言葉を探しているようだった。
「何か?」
僕がそう言うと、彼女は思い切ったように、鍵の事を聞いてきた。
「あのぉ・・・ 鍵・・・」
「あ、そうだね」
僕もそれを思い出し、そして、コートの右のポケットに手を突っ込んだ。
あの日から、僕は、いつ彼女に会っても鍵を返せるようにコートは毎日同じものを着ていたし、鍵を取り出す事もしなかった。
けれども、そこには鍵がなかった。
「あ、あれ?」
僕は慌てて、左のポケットの方も探ってみた。
けれども、そこにも鍵はなかった。
僕は焦った。
やばいっ! 人のものを無くしてしまった。
しかも、鍵なんて大切なものを・・・
そんな焦りが、僕の心いっぱいに広がっていった。
彼女もそんな僕を見て、なんとも言えないような顔をしている。
僕は少しおどおどしながら、申し訳ないという気持ちいっぱいで、彼女に言った。
「すみません。無くしてしまったかもしれません」
彼女は、一瞬、「最悪!」というような顔をした。けれども、すぐに笑顔をつくり、僕に言った。
「別にいいです。気にしないで下さい。どうせ、もう使わない鍵だったから」
けれども、僕には、その笑顔はとても無理をしているように感じられた。
「それじゃ」
彼女はそう言うと、僕の前から去っていこうとした。
「あ、待って」
僕は、咄嗟に、彼女に声をかけていた。
「あのぉ、少しだけ、話、出来ませんか?」
そして、僕は、少し戸惑いながら、そんな風な言葉を口にしていた。
僕は、ずっと、心のどこかで、彼女と話をしたいと思っていた。
幸い、今日は彼女が僕を待っていてくれたので、時間に余裕がある。でも、もしこの機会を逃すと、僕はまた、ただ毎日見ているだけの人になってしまう・・・
その時の僕は、彼女とこうして話が出来た事を、ただ、それで終わりにしてしまいたくないと思ったのだった。
彼女に勇気を出して話しませんか?と告げてから、僕達は、徐々に、プライベートでも会うようになっていった。
一緒に映画を見に行ったり、ショッピングをしたり、時にはドライブへ行ったりと、僕には本当に楽しい日々だった。
やがて、僕は、彼女に完全に恋している自分に気づき、そして、冬の寒い海で、車の中で、彼女に自分の気持ちを伝えた。
「特別な人として、ちゃんと付き合いたい・・・」
彼女はゆっくりと頷き、そして、僕達の交際がスタートした。
「おいおい、またかよ」
いつもの朝。いつもの駅。いつもの時間。
僕は、独り言のように小声でそう言うと、2本目のタバコに火を点けた。
付き合おうと決めてから、僕達は、毎朝、少しでもいいから会う時間を持とうという事にした。
お互いが乗る電車やバスの時間よりも10分早く待ち合わせ、顔を合わせ、軽く話をしてから会社へ向かう。周りから見れば、きっと、呆れるような事かもしれない。けれども、僕にとっては、それは「今日も1日、頑張ろう!」という元気の素だった。
けれども、彼女はいつも寝坊するのか、1、2分あるかないかのギリギリに走ってきて、「じゃーね」とだけ言って、僕の前を走り抜けてゆくのだった。
付き合おうと決めた頃の「毎朝、話そうね」という約束など、ほんの数回あるかないかだった。
「まったく・・・」
僕は呆れながらも、彼女が走って来る姿を、密かに楽しみにしていたりもした。
けれども、その日、彼女は走って来なかった。
僕は2本目のタバコも吸い終わると、バス停へと向かい始めた。彼女には会わなかったけれども、僕は、それを、そんなに気にしなかった。今までにも何度かあった事だったし、たまたま早く会社に行ったのかもしれないと、軽く思っていた。
「キィーーーッ!!!」
僕がバス停へ並んだ時、僕の後ろ側で、耳を引き裂くような強烈な車のブレーキの音がした。
そして、それからあまり時間も経たないうちに、僕の目の前で車が渋滞し始めた。僕は振り返って、ブレーキの音がした方を見た。
車が密集し、そして、事故があったららしき場所には、周りにいる人達の視線が向けられていた。
僕が乗るはずのバスが、それよりもずっと向こうで、立ち往生している様子が見えた。
僕は、もともと、あまりそういう事に、おもしろおかしく興味をもてない性格だったので、周りがざわついている中でも、なるべく何事もなかったかのように、普通にするように努めた。
けれども、きっと、その事故が自分に関係のある人だったならば、そんな風にはしていられなかっただろう。
その時の僕は、まさか、その事故が自分と大きな関係があるなど思いもしていなかったのだ。
その事故の日から、僕は、朝、駅で彼女に会う事がなくなった。
いや、それどころか、彼女と連絡すらつかなくなってしまったのだった。
彼女の携帯に電話をしても、彼女が出る事はなく、「留守番電話サービスに接続します」という事務的な声が聞こえるだけだった。
僕は、基本的に、あまりメッセージを残す事がなかった。けれども、あまりにも彼女が電話に出ないため、僕は、だんだんと、彼女が居留守を使っているのではないだろか?と疑い始めるようになった。そして、3日目の夜、僕は思い切ってメッセージを残してみた。
「どうして電話に出てくれないの? 僕を嫌いになったのなら、きちんとそう言って欲しい。黙って居留守なんて使わないで欲しい。一度、きちんと話がしたいんだ」
けれども、彼女からの電話はなかった。