プロローグ
東京は慢性的な不眠症に苦しんでいた。
闇は頭上から街を覆い、東京を呑み込み、隷属させるのに都合のよい瞬間を、叶わぬ期待を抱きながら窺っているかのようだった。手のかかる子供のように、この巨大都市は毎夜、眠りの深淵へ沈みまいと抗っていた。光はきらめき、ネオンは明滅し、スクリーンは眩い光を放つ。疲弊しきった人々は、徒歩で、自転車で、車で、あるいは地下鉄で、絶え間なくその血管を巡り続ける。飲食店の排気口から漂う匂いは街の肌にまとわりつき、人々の食欲を刺激する。幹線道路を埋め尽くす騒音と途切れることのない活動が、街の鼓膜を飽和させていた。
耳を塞がれたように鈍く、それでいて脈打つように活気づく首都は、いつもの日常に身を委ねていた。
金曜日の午後七時。激務に追われた一週間の終わりを告げるこの時刻は、二十三区で働くサラリーマンの大半にとって、夜の放蕩の幕開けでもあった。避けようのない一連の儀式が、ここから始まる。満員の居酒屋に何十人もの背広姿が押し寄せ、酒宴に興じる。彼らの肩にのしかかっていた重荷は、ひと晩だけ軽くなる。終電までの者もいれば、夜明けまで飲み明かす者もいる。疲れ果てた身体は、唐揚げや刺身、焼き魚で腹を満たし、渇いた口はビール、焼酎、ウイスキー、日本酒を際限なく流し込む。彼らの魂は、日本社会の厳格な枠組みから束の間解き放たれ、普段は覆い隠している本性を露わにする。酒は欲望に火をつけ、舌を滑らかにし、その場の空気を熱くする。こうした享楽と退廃のひとときには、時間さえもいっそう貪欲に流れていく。
午後七時。
エレベーターは、東京スカイツリーの上部展望台、天望回廊へと向かって上昇を始めた。女性の声が、デジタル放送用の電波塔として2011年に完成したこのタワーについて、聞き慣れた案内を淡々と読み上げている。2011年。それは大地震に続き、津波、原子炉のメルトダウンという一連の災厄が列島を襲い、数万人もの命を奪って、日本人の記憶に消えない傷痕を刻みつけた年だった。
エレベーターの奥の壁にもたれ、腕を組み、顎をわずかに上げたノエミ・ルグランは、乗り合わせた人々を面白そうに眺めていた。漆黒の髪とすらりとした体つきは母親譲りだが、顔立ちにはヨーロッパ系の父親の面影が色濃く残っている。
乗客の大半は観光客だったが、日本人の姿も少なくなかった。開業から十一年が経った今も、この国を永遠に結びつけたあのトラウマの象徴をひと目見ようと、全国各地から人々が訪れていた。
やがて彼女の視線は、いつもここで見かける小さな一団へと移った。自分と同じような人々だ。
ノエミは、どんなことがあっても、自分が「灯台」と呼ぶこの場所へ足を運ぶ機会を逃さなかった。東京の壮麗な眺望を一望するために。
頂上に着くと、彼女は深く息を吸い込み、感覚のすべてを解き放つ。慈しむような眼差しで、自分の縄張りを眼下に見渡す。そして、胸のつかえが少しだけ軽くなったところで、両親と暮らす家へ帰り、娘のもとへ向かうのだった。
三十五歳の彼女は、娘の養育の一部を家族に頼らざるを得なかった。仕事が多すぎる。そして、子供の父親は不在だった。
それに、途方もない孤独感があった。東京の果てしない眺望をもってしても、それをわずかに和らげることしかできなかった。
エレベーターが停止した。扉が開く。訪問客の波はホールへと流れ出し、地上四百五十メートル、世界最高クラスの高さを誇る展望施設の二つのフロアへと分かれていった。
タワーの頂を飾るその空間は、冷たく、電気的な青い間接照明に包まれていた。眼下に広がる首都を彩る黄金色の光とは、鮮やかな対照をなしている。
ノエミは、湾曲した最初の回廊へと足を踏み入れた。西側には、新宿の巨大な高層ビル群が圧倒的な姿を見せている。
彼女の注意を引いたのは、東京都庁舎のツインタワーの右手に広がる一帯だった。
眼下十キロ。ビジネス街のただ中から、分厚い煙が空へと立ち上っていた。その煙の根元では、橙色の光が踊るように揺れている。
ノエミの胃が、ぎゅっと締めつけられた。
ベルベット・タワー。高さ二百メートル近く、ひときわ異彩を放つ深紅がかった紫色の外壁を持つその建物は、巨大な松明のように燃え盛っていた。
炎は、恐ろしいほどの身軽さで建物の構造を這い上がっていく。
百メートルほど離れた場所には、用心深い人々が集まり始めていた。急ごしらえの規制線の向こうに押しとどめられた群衆は、呆然としたまま、燃え盛る炎の猛威をなすすべもなく見つめている。何本もの腕が宙に伸び、スマートフォンを掲げ、目の前の惨劇をリアルタイムで記録していた。
SNSへの投稿は、コンクリートとガラスでできた獲物に襲いかかる炎の怪物と同じ速さで拡散していく。ハッシュタグ「#velveltoweronfire」は関連投稿数の記録を次々と塗り替え、世界中の報道機関が現場の映像を生中継していた。
ビルが内部にいた人々の一部を吐き出すように脱出させると、見物人たちの叫び声はさらに大きくなった。屠殺場から逃げ出す獣のように、彼らは喚きながら建物から駆け出してくる。
だが、ようやく燃え盛る塔から解放され、外へ逃れた者たちのなかにも、運命から逃げ切れない人々がいた。空から降ってきた人間爆弾が、容赦なく彼らを直撃したのだ。
人が降り注ぐ。身体が不気味な音を立てて地面に叩きつけられる。頭蓋骨が砕け散り、脊椎が折れ、関節が外れる。肉が裂け、アスファルトは血に染まっていく。
生きたまま焼かれるくらいなら、窓から身を投げることを選ぶ者もいた。窒息するくらいなら、飛び降りるほうがましだった。
地獄のただ中で、責め苦を受ける人々は、自分にとって最も恐ろしくないと思える最期を選んでいた。
やがて、警察車両と消防車、救急車のサイレンが遠くから聞こえてきた。現場へ近づくにつれ、その音は周囲の騒乱を呑み込んでいった。
十一階の片隅にいた男は、その音を耳にした。ビルの耳をつんざくような非常ベルも、燃え上がる建物の低層階から響く轟音も、同僚たちの絶叫も、彼の耳からそれを遠ざけることはできなかった。
周囲では、まだ助かる望みを捨てていない者たちが、上層階へ逃げ込もうと必死に走っていた。一方、すでに運命を受け入れた者たちは、家族や大切な人へ最後の電話をかけていた。
身体を震わせながら、彼らは電話口で泣き、配偶者や子供、両親に、永遠の愛を伝えようと言葉を詰まらせていた。
男は、その光景に吐き気を覚えた。
彼自身も、一瞬だけ窓から飛び降りることを考えた。だが、それではあまりにも簡単すぎると思った。卑怯だ、と。
よろめく足取りで、彼はオープンオフィスへと向かった。
熱気が全身を包み込む。煤が、わずか数秒で眼鏡を黒く汚した。彼はそれを外し、肩越しに放り投げた。
汗まみれになり、背中を丸め、片手で口を覆いながら、彼は手探りで灼熱の空間を進んだ。ところどころで、身体を丸めた社員たちの遺体につまずく。
濃い煙に視界を奪われながらも、机の上に置かれた写真立ての縁に指先が触れた瞬間、彼は自分のデスクの輪郭を認識した。
彼は腰を下ろした。
まるで、何事もない一日の仕事を始めるかのように。
椅子に触れた瞬間、焼けつくような熱が全身を襲り、筋肉が一斉に強張った。手には、家族の姿を永遠に閉じ込めた写真が握りしめられていた。
幸せだった日々。
今や、痛みは全身の隅々にまで行き渡っていた。
彼は目を閉じた。
ただ一つ、願うことがあった。
炎に焼き尽くされるその前に、窒息が自分の命を奪ってくれること。
※本作はフィクションです。本エピソードに登場する「ベルベット・タワー」は実在しません。




