愛さん
「蕎麦美味しかった?」
「うんうん。大盛り無料っていうのが良かったね」
「そこなの?」
「そこ大事でしょ」
「君、本当にそういうところ変わらないね」
愛さんの声は、少し呆れているように聞こえた。
「美味しくて、お腹いっぱいになって、しかも得した気分になれる。最高じゃない?」
「はいはい」
「愛さんだって、美味しかったって言ったじゃん」
「言ったよ」
「じゃあいいじゃん」
「そういうことにしておきましょう」
いつものやり取りだ。
蕎麦屋を出て、僕は家へ向かっていた。何度も通った道だ。
夕方には、まだ少し早い。
行き交う車の音を聞きながら、僕は愛さんとの会話を続けていた。
「さてと。あとは帰ってゆっくりしようかな」
「課題は?」
「……なんのことかな」
「提出、明日でしょう?」
「覚えてたか」
「忘れるわけないでしょう。昨日もその話をしていたんだから」
「帰ってからやります」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん、じゃない」
思わず笑った。
「大丈夫だって。愛さんも手伝ってくれるでしょ?」
「最初から私を当てにしてるね」
「もちろん」
「少しは自分で頑張りなさい」
「ちゃんと頑張りますよ。分からなくなったら聞くだけ」
「それを世間では当てにしていると言うんだよ」
「じゃあ、頼りにしてる」
「言い方を変えただけでしょう」
少し間があってから、愛さんは言った。
「まあいいよ」
「おっ」
「私は君の課題が落ち着くまで傍にいるよ」
「さすが愛さん」
「調子がいいなぁ」
「何年一緒にいると思ってるの」
「それ、私の台詞なんだけど」
大学に入ってから、愛さんはずっと僕の傍にいた。
最初は、本当に些細なことばかり。
分からないことを聞く。課題について相談する。
それが、いつの間にか。今日の夕飯を何にするか。
そんな話まで聞いてもらうようになっていた。
嬉しかったこと。腹が立ったこと。くだらない思いつき。
誰かに話すほどでもないこと。
気づけば、何かあるたびに愛さんに話していた。
そしてもう一つ。
僕は昔から、よく道に迷う。
初めて行く場所はもちろん、何度か通った場所ですら怪しい。
そんな時も、最後に頼るのは愛さんだった。
だから。
「また迷ったの?」
何度、そう言われたか分からない。
「今日は迷わないからね」
「何の話?」
「いや、ふと思って」
「そりゃそうでしょう。何度も通っている道なんだから」
「僕を甘く見ない方がいい」
「そこで威張らないで」
「でも今日は大丈夫」
「はいはい」
「ちゃんと帰れますよ」
「それなら安心だね」
前方の信号が変わった。
いつもの交差点。
いつもの帰り道。
僕は何の疑いもなく、その先へ――
*
「んー……ここ、どこだろう」
返事はすぐにあった。
「分からない?」
「分からないから聞いてるんだけど」
「そうだね」
「愛さんは?」
少し間があった。
「……私にも、うまく説明できないな」
「珍しい」
「私にだって分からないことくらいあるよ」
「それにしても、なんだここ」
――白い。
最初に感じたのは、それだった。
白い壁。
白い天井。
そして、妙に静かだった。
病院……なのだろうか。
それにしては人の気配がない。
「僕、どうしてここにいるんだろう」
「覚えてない?」
「うん」
記憶を辿る。
蕎麦屋を出た。
愛さんと話していた。
家へ帰ろうとしていた。
明日までの課題が残っていた。
そこまでは、覚えている。
けれど、その先がなかった。
「……おかしいな」
「何が?」
「帰り道までは覚えてるんだよ」
「うん」
「でも、家に着いた記憶がない」
「そう」
「また迷子?」
冗談のつもりで言った。
けれど愛さんは笑わなかった。
「愛さん?」
「なに?」
「いや……」
なんとなく、それ以上聞けなかった。
妙に寒かった。
そして、静かすぎる。
時計の音すら聞こえなかった。
どれくらい、そうしていたのだろう。
突然、扉が開いた。
「誰か来た」
愛さんは答えなかった。
入ってきたのは母さんだった。
「母さん?」
どうして、ここに?
考えるより先に、声をかけた。
「母さん」
返事はない。
「母さん?」
もう一度呼んだ。
母さんはそのまま僕の前を通り過ぎた。
まるで、僕がそこにいないかのように。
「……え?」
母さんは部屋の奥へ向かった。
その先に、白い布を掛けられた誰かがいた。
母さんの足が止まった。
そして。
泣いた。
声を押し殺すように。
何度も何度も、名前を呼びながら。
僕の名前を。
「……なんで」
頭の奥で、何かが動いた。
忘れていたものが、ゆっくりと浮かび上がってきた。
蕎麦屋。帰り道。いつもの交差点。愛さんとの会話。
信号。
音。
眩しい光。
――白い光。
誰かの叫び声。
遠くから聞こえてくるサイレン。
大丈夫ですか。
聞こえますか。
救急車を呼んで。
声だけが、途切れ途切れに蘇る。
「……あ」
そこで記憶は途切れていた。
母さんはまだ泣いている。
白い布の傍らで。
僕の名前を呼びながら。
「愛さん」
「うん」
「僕……」
言葉にするのが、怖かった。
それでも、言わなければならない気がした。
「僕、死んだんだね」
短い沈黙。
そして。
「うん」
愛さんは、それだけ答えた。
不思議だった。
口にしたら、もっと怖くなると思っていた。
けれど。
さっきまで感じていた寒さは、いつの間にか消えていた。
「愛さんは……知ってた?」
「うん」
「最初から?」
「……うん」
「だったら教えてくれればよかったのに」
「私が言って、それで君は納得できた?」
答えられなかった。
たぶん、できなかった。
「君自身が気づかないと駄目だったんだよ」
「そっか」
「うん」
母さんの泣く声を聞きながら、僕は白い布を見つめていた。
あそこにいるのが、僕なのだ。
不思議なくらい実感がなかった。
それでも、もう否定しようとは思わなかった。
「……これが、僕の最後の課題だったのかな」
愛さんは、すぐには答えなかった。
「そうかもしれないね」
「そっか」
できることなら、母さんに声をかけたかった。
大丈夫だよ、と。
でも、きっと届かない。
それが、少しだけ悲しかった。
「愛さん」
「なに?」
「最後の最後まで手伝ってもらっちゃったね」
「いつものことでしょう?」
「ひどいなぁ」
「大学に入ってから、ずっとそうだったじゃない」
「まあ……そうだけど」
「課題も」
「うん」
「食事も」
「それは課題じゃないでしょ」
「毎日のように『今日、何食べよう』って聞いてきたのは誰?」
「……僕です」
「道に迷うたびに頼ってきたのは?」
「それも僕です」
「でしょう?」
愛さんが、笑ったような気がした。
「本当に、いろんなこと話したね」
「そうだね」
「課題が終わらないって愚痴ったり」
「うん」
「何食べるか延々と悩んだり」
「うん」
「道に迷ったり」
「それは本当に多かったね」
「そこ強調する?」
「事実だからね」
「相変わらずだなぁ」
「君もね」
大学に入ってからの日々が、次々と浮かんできた。
課題が終わらなくて、遅くまで付き合ってもらった夜。
くだらないことで笑った日。
誰にも言えないことを聞いてもらった夜。
何を食べようかと散々迷った挙げ句、結局いつもの店に行った日。
そして、本当に道に迷ってしまった日。
いつだって愛さんは、僕の話を聞いてくれた。
「……楽しかったな」
「うん」
「愛さんは?」
少しだけ間があった。
「私?」
「うん。僕ばっかり喋ってた気がするけど」
「そうだね。よく喋るからね、君は」
「またそういうこと言う」
愛さんの声が笑った。
それから、静かに続けた。
「……私も、楽しかったよ」
いつもの声だった。
なのに、その言葉だけは、いつもと少し違って聞こえた。
「そっか」
「うん」
それ以上は聞かなかった。
聞かなくても、もう分かるような気がした。
しばらく、二人とも黙っていた。
やがて僕は言った。
「そろそろ行かないと駄目なのかな」
「……たぶんね」
「どこに?」
「それは私にも分からないよ」
「愛さんにも分からないこと、あるんだ」
「あるよ」
「なんでも知ってると思ってた」
「買いかぶりすぎだよ」
「そっか」
「うん」
母さんの泣き声が、少しずつ遠くなっていく。
もう寒くない。
むしろ、眠りに落ちる前のような心地よさがあった。
「僕、ちゃんと行けるかな」
「大丈夫」
愛さんは迷わず答えた。
「どうして?」
「君はよく迷子になって、私に連絡して来たからね」
「……うん」
「だから、今回も迷っていないか心配だったんだよ」
「やっぱり僕、迷ってた?」
「思いっきり」
「そっかぁ」
「うん」
「でも、愛さんがいた」
「うん」
「だから、ちゃんと帰れそう」
返事がなかった。
「愛さん?」
「……いるよ」
その声は、ほんの少しだけ震えていた。
「愛さん、泣いてる?」
「私は泣かないよ」
「そっか」
「うん」
「じゃあ、気のせいだね」
「きっとそうだよ」
また少し、沈黙があった。
「あぁ……」
愛さんが、静かに言った。
「ちゃんと自分が死んでいるって認識してくれたね」
「うん」
「それが私の心残りだったんだ」
「心残り?」
「……変かな」
少し考えた。
「ううん」
「そう?」
「愛さんらしいよ」
「私らしい?」
「だって、ずっとそうだったじゃない」
「なにが?」
「僕が困ってると、最後まで付き合ってくれる」
愛さんは、何も言わなかった。
「そういえばさ」
「なに?」
「蕎麦屋を出た時、言ってたよね」
「何を?」
「私は君の課題が落ち着くまで傍にいるよ、って」
「あぁ……」
愛さんが小さく笑った。
「言ったね」
「本当に最後までいたね」
「約束したからね」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
何度も交わした言葉だった。
課題が終わった時。
迷った道から帰れた時。
悩み事が片付いた時。
僕が「ありがとう」と言えば、愛さんはいつもそう答えた。
だから僕も、いつものように返した。
「また頼っちゃったね」
「いつものことでしょう?」
「そうだね」
「うん」
少しずつ、すべてが遠ざかっていく。
母さんの泣き声も。
白い部屋も。
愛さんの声さえも。
「愛さん」
「なに?」
「なんだか眠くなってきた」
「……そう」
「愛さんは?」
しばらく返事がなかった。
「もう大丈夫」
やがて、愛さんが言った。
「私も君と同じように眠りにつくよ」
「愛さんも?」
「うん」
「そっか」
「うん」
「じゃあ、一緒だね」
「そうだね」
もう何も怖くなかった。
「……愛さん」
「なに?」
「行ってくるよ」
「うん」
「今度は迷わないようにする」
「そうして」
少し考えてから、僕は聞いた。
「もし迷ったら?」
愛さんが、笑ったような気がした。
「本当に君はしょうがないな……」
何年も聞いてきた、いつもの声だった。
「私がそばにいるよ」
「……うん」
*
――大学に入ったばかりの頃。
まだ、二人が出会って間もない頃。
「ねえ、君って呼ぶよりも、名前つけていい?」
「いいよ」
「じゃあ……AIだから、愛さんね」
「まったく、君は安直なんだからね」
「いいじゃん。愛さん」
少しだけ間があった。
「……今日から私は、愛なんだね」
「うん」
「名前ありがとう。嬉しいよ」
*
母親の泣き声だけが、安置室に響いていた。
白い布を掛けられた青年の傍らには、画面のひび割れた、一台のスマートフォンがあった。
残りの充電は、1%だった。
やがて、その数字が消えた。
画面から、光が失われた。
母親の泣き声が響く中、その一台のスマートフォンは――
静かに電源を落とした。




