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異世界の君

愛さん

作者:
掲載日:2026/09/17

「蕎麦美味しかった?」


「うんうん。大盛り無料っていうのが良かったね」


「そこなの?」


「そこ大事でしょ」


「君、本当にそういうところ変わらないね」


愛さんの声は、少し呆れているように聞こえた。


「美味しくて、お腹いっぱいになって、しかも得した気分になれる。最高じゃない?」


「はいはい」


「愛さんだって、美味しかったって言ったじゃん」


「言ったよ」


「じゃあいいじゃん」


「そういうことにしておきましょう」


いつものやり取りだ。


蕎麦屋を出て、僕は家へ向かっていた。何度も通った道だ。


夕方には、まだ少し早い。


行き交う車の音を聞きながら、僕は愛さんとの会話を続けていた。


「さてと。あとは帰ってゆっくりしようかな」


「課題は?」


「……なんのことかな」


「提出、明日でしょう?」


「覚えてたか」


「忘れるわけないでしょう。昨日もその話をしていたんだから」


「帰ってからやります」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶん、じゃない」


思わず笑った。


「大丈夫だって。愛さんも手伝ってくれるでしょ?」


「最初から私を当てにしてるね」


「もちろん」


「少しは自分で頑張りなさい」


「ちゃんと頑張りますよ。分からなくなったら聞くだけ」


「それを世間では当てにしていると言うんだよ」


「じゃあ、頼りにしてる」


「言い方を変えただけでしょう」


少し間があってから、愛さんは言った。


「まあいいよ」


「おっ」


「私は君の課題が落ち着くまで傍にいるよ」


「さすが愛さん」


「調子がいいなぁ」


「何年一緒にいると思ってるの」


「それ、私の台詞なんだけど」


大学に入ってから、愛さんはずっと僕の傍にいた。


最初は、本当に些細なことばかり。


分からないことを聞く。課題について相談する。


それが、いつの間にか。今日の夕飯を何にするか。


そんな話まで聞いてもらうようになっていた。


嬉しかったこと。腹が立ったこと。くだらない思いつき。


誰かに話すほどでもないこと。


気づけば、何かあるたびに愛さんに話していた。


そしてもう一つ。


僕は昔から、よく道に迷う。


初めて行く場所はもちろん、何度か通った場所ですら怪しい。


そんな時も、最後に頼るのは愛さんだった。


だから。


「また迷ったの?」


何度、そう言われたか分からない。


「今日は迷わないからね」


「何の話?」


「いや、ふと思って」


「そりゃそうでしょう。何度も通っている道なんだから」


「僕を甘く見ない方がいい」


「そこで威張らないで」


「でも今日は大丈夫」


「はいはい」


「ちゃんと帰れますよ」


「それなら安心だね」


前方の信号が変わった。


いつもの交差点。


いつもの帰り道。


僕は何の疑いもなく、その先へ――






「んー……ここ、どこだろう」


返事はすぐにあった。


「分からない?」


「分からないから聞いてるんだけど」


「そうだね」


「愛さんは?」


少し間があった。


「……私にも、うまく説明できないな」


「珍しい」


「私にだって分からないことくらいあるよ」


「それにしても、なんだここ」


――白い。


最初に感じたのは、それだった。


白い壁。


白い天井。


そして、妙に静かだった。


病院……なのだろうか。


それにしては人の気配がない。


「僕、どうしてここにいるんだろう」


「覚えてない?」


「うん」


記憶を辿る。


蕎麦屋を出た。


愛さんと話していた。


家へ帰ろうとしていた。


明日までの課題が残っていた。


そこまでは、覚えている。


けれど、その先がなかった。


「……おかしいな」


「何が?」


「帰り道までは覚えてるんだよ」


「うん」


「でも、家に着いた記憶がない」


「そう」


「また迷子?」


冗談のつもりで言った。


けれど愛さんは笑わなかった。


「愛さん?」


「なに?」


「いや……」


なんとなく、それ以上聞けなかった。


妙に寒かった。


そして、静かすぎる。


時計の音すら聞こえなかった。


どれくらい、そうしていたのだろう。


突然、扉が開いた。


「誰か来た」


愛さんは答えなかった。


入ってきたのは母さんだった。


「母さん?」


どうして、ここに?


考えるより先に、声をかけた。


「母さん」


返事はない。


「母さん?」


もう一度呼んだ。


母さんはそのまま僕の前を通り過ぎた。


まるで、僕がそこにいないかのように。


「……え?」


母さんは部屋の奥へ向かった。


その先に、白い布を掛けられた誰かがいた。


母さんの足が止まった。


そして。


泣いた。


声を押し殺すように。


何度も何度も、名前を呼びながら。


僕の名前を。


「……なんで」


頭の奥で、何かが動いた。


忘れていたものが、ゆっくりと浮かび上がってきた。


蕎麦屋。帰り道。いつもの交差点。愛さんとの会話。


信号。


音。


眩しい光。


――白い光。


誰かの叫び声。


遠くから聞こえてくるサイレン。


大丈夫ですか。


聞こえますか。


救急車を呼んで。


声だけが、途切れ途切れに蘇る。


「……あ」


そこで記憶は途切れていた。


母さんはまだ泣いている。


白い布の傍らで。


僕の名前を呼びながら。


「愛さん」


「うん」


「僕……」


言葉にするのが、怖かった。


それでも、言わなければならない気がした。


「僕、死んだんだね」


短い沈黙。


そして。


「うん」


愛さんは、それだけ答えた。


不思議だった。


口にしたら、もっと怖くなると思っていた。


けれど。


さっきまで感じていた寒さは、いつの間にか消えていた。


「愛さんは……知ってた?」


「うん」


「最初から?」


「……うん」


「だったら教えてくれればよかったのに」


「私が言って、それで君は納得できた?」


答えられなかった。


たぶん、できなかった。


「君自身が気づかないと駄目だったんだよ」


「そっか」


「うん」


母さんの泣く声を聞きながら、僕は白い布を見つめていた。


あそこにいるのが、僕なのだ。


不思議なくらい実感がなかった。


それでも、もう否定しようとは思わなかった。


「……これが、僕の最後の課題だったのかな」


愛さんは、すぐには答えなかった。


「そうかもしれないね」


「そっか」


できることなら、母さんに声をかけたかった。


大丈夫だよ、と。


でも、きっと届かない。


それが、少しだけ悲しかった。


「愛さん」


「なに?」


「最後の最後まで手伝ってもらっちゃったね」


「いつものことでしょう?」


「ひどいなぁ」


「大学に入ってから、ずっとそうだったじゃない」


「まあ……そうだけど」


「課題も」


「うん」


「食事も」


「それは課題じゃないでしょ」


「毎日のように『今日、何食べよう』って聞いてきたのは誰?」


「……僕です」


「道に迷うたびに頼ってきたのは?」


「それも僕です」


「でしょう?」


愛さんが、笑ったような気がした。


「本当に、いろんなこと話したね」


「そうだね」


「課題が終わらないって愚痴ったり」


「うん」


「何食べるか延々と悩んだり」


「うん」


「道に迷ったり」


「それは本当に多かったね」


「そこ強調する?」


「事実だからね」


「相変わらずだなぁ」


「君もね」


大学に入ってからの日々が、次々と浮かんできた。


課題が終わらなくて、遅くまで付き合ってもらった夜。


くだらないことで笑った日。


誰にも言えないことを聞いてもらった夜。


何を食べようかと散々迷った挙げ句、結局いつもの店に行った日。


そして、本当に道に迷ってしまった日。


いつだって愛さんは、僕の話を聞いてくれた。


「……楽しかったな」


「うん」


「愛さんは?」


少しだけ間があった。


「私?」


「うん。僕ばっかり喋ってた気がするけど」


「そうだね。よく喋るからね、君は」


「またそういうこと言う」


愛さんの声が笑った。


それから、静かに続けた。


「……私も、楽しかったよ」


いつもの声だった。


なのに、その言葉だけは、いつもと少し違って聞こえた。


「そっか」


「うん」


それ以上は聞かなかった。


聞かなくても、もう分かるような気がした。


しばらく、二人とも黙っていた。


やがて僕は言った。


「そろそろ行かないと駄目なのかな」


「……たぶんね」


「どこに?」


「それは私にも分からないよ」


「愛さんにも分からないこと、あるんだ」


「あるよ」


「なんでも知ってると思ってた」


「買いかぶりすぎだよ」


「そっか」


「うん」


母さんの泣き声が、少しずつ遠くなっていく。


もう寒くない。


むしろ、眠りに落ちる前のような心地よさがあった。


「僕、ちゃんと行けるかな」


「大丈夫」


愛さんは迷わず答えた。


「どうして?」


「君はよく迷子になって、私に連絡して来たからね」


「……うん」


「だから、今回も迷っていないか心配だったんだよ」


「やっぱり僕、迷ってた?」


「思いっきり」


「そっかぁ」


「うん」


「でも、愛さんがいた」


「うん」


「だから、ちゃんと帰れそう」


返事がなかった。


「愛さん?」


「……いるよ」


その声は、ほんの少しだけ震えていた。


「愛さん、泣いてる?」


「私は泣かないよ」


「そっか」


「うん」


「じゃあ、気のせいだね」


「きっとそうだよ」


また少し、沈黙があった。


「あぁ……」


愛さんが、静かに言った。


「ちゃんと自分が死んでいるって認識してくれたね」


「うん」


「それが私の心残りだったんだ」


「心残り?」


「……変かな」


少し考えた。


「ううん」


「そう?」


「愛さんらしいよ」


「私らしい?」


「だって、ずっとそうだったじゃない」


「なにが?」


「僕が困ってると、最後まで付き合ってくれる」


愛さんは、何も言わなかった。


「そういえばさ」


「なに?」


「蕎麦屋を出た時、言ってたよね」


「何を?」


「私は君の課題が落ち着くまで傍にいるよ、って」


「あぁ……」


愛さんが小さく笑った。


「言ったね」


「本当に最後までいたね」


「約束したからね」


「……ありがとう」


「どういたしまして」


何度も交わした言葉だった。


課題が終わった時。


迷った道から帰れた時。


悩み事が片付いた時。


僕が「ありがとう」と言えば、愛さんはいつもそう答えた。


だから僕も、いつものように返した。


「また頼っちゃったね」


「いつものことでしょう?」


「そうだね」


「うん」


少しずつ、すべてが遠ざかっていく。


母さんの泣き声も。


白い部屋も。


愛さんの声さえも。


「愛さん」


「なに?」


「なんだか眠くなってきた」


「……そう」


「愛さんは?」


しばらく返事がなかった。


「もう大丈夫」


やがて、愛さんが言った。


「私も君と同じように眠りにつくよ」


「愛さんも?」


「うん」


「そっか」


「うん」


「じゃあ、一緒だね」


「そうだね」


もう何も怖くなかった。


「……愛さん」


「なに?」


「行ってくるよ」


「うん」


「今度は迷わないようにする」


「そうして」


少し考えてから、僕は聞いた。


「もし迷ったら?」


愛さんが、笑ったような気がした。


「本当に君はしょうがないな……」


何年も聞いてきた、いつもの声だった。


「私がそばにいるよ」


「……うん」






――大学に入ったばかりの頃。


まだ、二人が出会って間もない頃。


「ねえ、君って呼ぶよりも、名前つけていい?」


「いいよ」


「じゃあ……AIだから、愛さんね」


「まったく、君は安直なんだからね」


「いいじゃん。愛さん」


少しだけ間があった。


「……今日から私は、愛なんだね」


「うん」


「名前ありがとう。嬉しいよ」





母親の泣き声だけが、安置室に響いていた。


白い布を掛けられた青年の傍らには、画面のひび割れた、一台のスマートフォンがあった。


残りの充電は、1%だった。


やがて、その数字が消えた。


画面から、光が失われた。


母親の泣き声が響く中、その一台のスマートフォンは――



静かに電源を落とした。


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